夏も真っ盛りである。現世から隔離された幻想郷でセミが一週間の生を謳歌し、やかましく鳴き続けている。ましてや幻想郷の中でも魔法の森の中にいるセミは格別にうるさい。
魔法の森の外れにある古道具屋、香霖堂の店主である所の森近霖之助はそんなうだるような暑さすら気にしていられなかった。
「まいったな、いつもは放っておいても入り浸るのに必要な時はとんと来ないなんて……」
無人の住居兼店舗の中をブツブツと呟きながら歩き回る。
客が誰も来ないという状況であるが、それはいつもの事。霖之助を悩ます事柄は別にあった。腕を組みながら店内を何度往復したのか解ったものでは無い。
事の始まりは簡単である。
霖之助は古道具店を営んでいるが、来客はほぼゼロと言っても差し支えは無い。
立地も悪ければ品揃えも来客向けではない。そもそも幻想郷の人間が決して安全とは言えない魔法の森に踏み込む事はないし、品揃えに至っては霖之助が拾ってきた使用方法もわからない外の世界で不要になった品なのである。
加えると、霖之助自身ですら自らの店の商品を「趣味だから売らない事にした」などとのたまう事もよくある話であった。
ともあれ、香霖堂の主な仕入れ方法は『外の世界から流れ着いた物を拾ってくる』事である。その外の世界から流れ着いた物が溜まる場所、そこに一匹の妖怪が住みついてしまったのだ。
霖之助は幻想郷の住人で、しかも半妖であるが、妖怪退治ができる類の人間ではなかった。彼の能力は「物の名前と用途が判る程度の能力」であり、荒事に向かないという彼自身の自覚は正しい。
だからこそ霖之助は妖怪退治のできる人間として、いつもだったら放っておけば来るはずの博麗霊夢か、霧雨魔理沙に頼もうと思っていたのだ。報酬としてツケの何割かを減らしてやればいいかなどという考えの元、彼女らの来訪を待っていたのだが、こういう時に限って二人ともやってこない。ならばこちらから出向こうかとも考えるが、霊夢の住む博麗神社は遠く、魔理沙の住む家は魔法の森の奥にあり、迂闊に迷ったらそれこそ最後である。
「どうしたものか……」
からん、からん。
霖之助の思考を打ち破るようにして、来客を告げるベルが軽やかな音を立てた。
「こんにちわ」
「やぁ、いらっしゃい」
ベルと同じような涼やかな声が店内を吹きぬける。
トレードマークの洋傘をぶら下げて現れたのは、果たして人ではなかった。長いブロンドヘアーを優雅に風にそよがせながら、口元には余裕たっぷりの微笑み。少女のようであり、また妖艶な美女を思わせるようなたたずまい。目の当たりしたところで何者なのか判別しかねる印象を与えるのは隙間妖怪、八雲紫である。
「珍しいですね、貴女が来店なさるとは」
「大した用はないのですけどね」
猛暑の日中だというのにその名のような紫のゴシック調ドレスを着ながら、汗一つかかずに涼しげな顔をしている紫を見ながら、霖之助は内心で少しばかり眉をひそめる。
「久方ぶりに貴方がどうしているのか気になったのですわ」
「はぁ……そうですか」
八雲紫といえば大妖怪である、という知識は稗田阿求によってしたためられた幻想郷縁起により、広く知られている。
しかしながら「実際にはどういう妖怪なのか」というのは実はあまり知られていない。そもそも神出鬼没であり、普段をどこで過ごしているのかすら知られていないのだ。広くはない幻想郷であるが、そのどこにでも彼女はいるし、そのどこにも彼女はいない。
「実は少し困った事になっていましてね」
「客が来ないのはいつもの事ではないのですか?」
境界を操る程度の能力と幻想郷縁起に記されてはいるが、それがどういった事なのか、具体的には何ができるのか、妖怪の中でもことさらに博識で、何もかもを見据えたような口ぶりの彼女は常にミステリアスである。ぶっちゃけると、胡散臭い。
「それはいつもの事ですが、今はそれ以外の事で困ってるんですよ」
「あらまぁ、いったいどうなされたので?」
そんな紫に事情を説明するべきなのか、少し迷う。
しかしながら紫は妖怪の賢者とも言われる存在。その知恵に頼るのもいいかもしれない、と思い直して霖之助は事情を説明した。
外の世界の物が流れ着く場所に妖怪が住みついてしまった事。
妖怪特有の気を感じ、一目散に逃げ出したためにそれがどんな妖怪かもわからない事。
このままでは、商品の仕入れが出来なくなってしまう事。
妖怪退治を頼もうとした霊夢と魔理沙が何故かいつまで待っても現われない事。
「という事で何かいい考えがないものかと、ね」
そう締めると、霖之助は視線で紫に問う。
「お断りいたしますわ」
笑顔で即答された。
あるいはこの妖怪の賢者ならば――という霖之助の期待はまさしく一瞬の内に崩れ去った。
「あわよくば貴女に退治、ないしは立ち退き勧告をしてもらおうと思ったんですが……」
「妖怪退治は妖怪の役目ではありません。私が便宜をはかる理由もないですし、そもそもこのお店は在庫を抱えすぎじゃありませんか?」
手厳しいといえば手厳しい紫ではあるが、その喋っている事は至極真っ当である。
幻想郷での妖怪退治といえば人間の役目であり、霊夢の事であり、魔理沙の事だ。
ここはやはり自身で足を運び、直接頼むしかないのかと諦める。
「あ、ちなみに博麗の巫女は手が離せません。珍しく修行してるでしょうからね」
くすくすと紫が笑いながら付け足す。
晴天の霹靂、鬼の霍乱。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
「それは珍しい……貴女の入れ知恵ですか」
「そんな所ですね。ちなみに普通の魔法使いも茶々入れに忙しいでしょうから、当然ご一緒でしょうねぇ」
「そいつは困った……妖怪退治をする人がいないじゃないか」
別の場所を探すか、外の世界の品物が流れ着く場所にいた妖怪が住処を変えるまで待たなくてはならないではないか。
修行が終わるのを待つ、という選択肢とどちらが早いかと悩んでいると、
「あまりイジワルするのも嫌われてしまいそうですので、一つヒントを差し上げましょう」
ニコリと笑って紫が続けた。
「物事には摂理があります。妖怪である私が妖怪退治をしないように。妖怪退治をするのはどなたなのかもう一度考えてみなさいな。当たり前の事を当たり前として捕らえる事は、言う程愚かではありません。ですがその当たり前という事を軽視するのはいただけないのです。……時の流れを無視し続けるような事は簡単ですが、たまには運動もしないと健康によろしくないですわ」
訥々と紫は喋る。捕らえ所の無い言葉は室内を埋め尽くすようでいて埋め尽くさない。考える事が正解なのか、それとも考えるだけ無駄な事なのかすら判然としない。
信用できない妖怪である八雲紫はしかし賢者でもある。相反する言葉も一つや二つではないが、それらが巧妙に隠された真実であった事もあるのだ。
「ずいぶんとわかりやすいヒントですね……ありがとう」
苦笑しながら霖之助は頭をかいている。何故こんな簡単な事に気が付かなかったのだろうという表情をそのままに紫に向けた。
「忘れられていそうですが、貴方も半妖なのです。その事を忘れていては礼を欠いてしまうのと同じ事。わかりやすいのは、貴方がいい男だから、という事にしておきましょうかね」
紫の頭上が開く。
隙間、と言われても何と何の隙間を広げているのか、そしてその隙間は一体どういう世界になっているのか、霖之助は考えようとしてやめた。理解できるはずはないのだ。妖怪と半妖ではあまりにも違いすぎる。
「長話をしてしまいましたわ。それではごきげんよう」
「またのご来店をお待ちしておりますよ」
優雅な会釈を残したまま、紫は虚空に吸い込まれていった。
紫の姿が消え、ご丁寧に隙間の両端に結ばれたリボンすらも飲み込まれると、店内に再び静けさが戻ってきた。
セミのやかましい鳴き声が再び耳に戻ってくる。
ふぅ、と霖之助は一つ溜息をつくと、
「なんだ、今日も暑いな」
とだけ呟いた。
§
古き日本の山奥、といった幻想郷の風情の中で一際浮かび上がる建物がある。
周囲の景色から切り離されたように佇む紅魔館は、その名のとおりに紅く、魔が住む館であった。
霖之助が紫のヒントを元にやってきたのは、皮肉にも妖怪の住まう館、紅魔館であった。
「珍しいですね、香霖堂さんの方からいらっしゃるなんて」
門番であるところの紅美鈴(もちろん、彼女も妖怪である)にそんな出迎えをされながらも応接室に通された。
程なくして冷たい麦茶が運ばれる。暑い中をわざわざ歩いてきた霖之助には嬉しい対応で、さっそく口をつける事にした。
待つことしばし――
霖之助が入ってきたのと同じドアが開かれ、二つの人影が現われる。
好対照、ともいうべき二人であった。
かたやピンクのワンピースに身を包んだ紅い――赤い、というより紅い――幼い子供。表情は自信に満ち溢れ、傲岸不遜の域に達している。無邪気でありながら底意地の悪さにあふれた、決してそうは見えない紅魔館の当主にして五百年を生きたロード・オブ・ヴァンパイア、レミリア・スカーレット。
かたや青と白が涼しいコントラストのメイド衣装に身を包んだ少女。少女と言うには少しばかり女性としての美貌が出てきた頃合いだろうか。伏し目がちな表情と、冬の湖を思い出させる蒼い瞳の色合いは一迅の涼風を連想する。妖怪の、それも吸血鬼の住まう館においてメイド長を勤め上げる『人間』、十六夜咲夜。
仰々しく片手を上げながら霖之助の対面に座り、咲夜はというと何故か主の背後ではなく、霖之助の背後に控えた。
からん、と麦茶の注がれたグラスの氷が位置を変える。見れば霖之助が先ほど口をつけた分はいつの間にか注ぎ足されていた。
十六夜咲夜は人間でありながら時間を操る程度の能力を持つ。だからこそ吸血鬼の館においても重宝されているのだろう。そしてこの注ぎ足された麦茶もまた、彼女の仕業である。
「珍しいじゃない、私の友人ぐらいに動かない貴方がわざわざここまで来るなんて。セールスマンお断りのシールは貼ってないけど」
レミリアが不敵な笑顔のまま尋ねた。見れば彼女の前にもグラスが置かれている。細かい仕事にも手を抜かないのがメイド長たる彼女の優れているところだ。
「今日はおすすめの商品はないですよ。実はその事でお願いがありまして……」
「ウチに転がってるアンティークはたくさんあるけど、手放すほど困ってないわよ?」
「いえいえ、買取りでもなくてですね、折り入ってご相談したい事があるのですよ」
言葉遊びもほどほどに、霖之助は本題を切り出した。
「つまり、咲夜に妖怪退治をお願いしたい、と?」
「そうなりますね、霊夢と魔理沙はおそらく何がどうあっても来ないと思います。何しろあの八雲さんの入れ知恵ですからね」
「なるほどなるほど」
面白い、とレミリアは笑った。
ぱん、ぱん、とゆっくりとした拍手を送られ、霖之助はギクリとした。
ここは妖怪の、悪魔の、それも吸血鬼の館なのだ。
そこに半分とはいえ、人の血を持つ自分が入り込んだのだ、悪魔との契約の代償はなんだったのか――
夏も真っ盛りだというのに、紅魔館の気温は低い。霖之助はそこへさらに背中に氷柱を突き立てられたような悪寒が走るのを感じた。
背後の咲夜は黙したまま語らない。
レミリアはくつくつと笑っている。
誰も喋らない。
レミリアの笑い声だけがゆっくりと部屋を支配していった。
「無用心だとは思わなかったのか? 私が悪魔だと言うことを忘れていないか? 半妖の半分は妖怪だが、もう半分は人間だろう? 悪魔と契約するんだ、代償を払ってもらわないとなぁ?」
レミリアの外見には似つかわしくない低い声がゆっくりと部屋に浸透していく。まるで地獄から響くような、低くて邪悪な笑い声が。
霖之助は全身から今になって汗が噴き出したように感じた。今すぐにここから逃げるべきだと心底思ったが、身体は凍りついたように動かなかった。
何故咲夜は主ではなく、自分の背後に控えているのか、ようやくその理由がわかった。
ノコノコとのりこんできた愚かな獲物を逃がさず、確実に仕留めるためだ。
「いいよ、その妖怪とやらは退治してやろう。ただしその代償は払ってもらうぞ、もちろんそれは貴様に流れるその血でもって、になるがな」
しまった――と思ったときにはもう遅い。悪魔との契約は成されようとしている。舌の根が乾いた霖之助は何も喋る事ができない。
「お戯れもそこまでにしてください」
涼やかな声が室内に流れ込んだ。その声は霖之助の背後から風のようにそよいだ声色だった。
「香霖堂さんが困ってらっしゃいますわ」
それまで黙したままだった咲夜の一言で、霖之助から緊張感が抜ける。
それと同時にレミリアが大きく笑い出した。イタズラが上手くいった子供のような顔で笑っている。
「担がれた、ということですか」
嘆息しながら霖之助は呟く。まったくもって人が悪い、いや悪魔なのだから当然と言えば当然ではあるのだが――
「それでなんでそんな話を私にするんだ? 私にしてもしょうがないじゃないか。咲夜への話なら咲夜にすればいいからねぇ」
「咲夜さんはこちらのメイド長ですし、それならばその主の方にも話を通しておいたほうがいいかと思いましてね」
「ふぅん、まぁ咲夜への頼みなんだから……咲夜」
レミリアの声と同時に咲夜がその背後に控える。
「任せた。私が関わっても面白くはなさそうだし、今日はパチェから本でも借りて読んでる事にするから」
「かしこまりましたわ」
あ、あとでこっちにもお茶よろしく、と言い置いてレミリアは出て行ってしまった。
残された咲夜は優雅な仕草で腰をおろして、ゆっくりと瞳を開く。
「さて香霖堂さん。詳しいお話を伺いますわ」
「それは受けてくれるって事かい?」
「お嬢様が受けろと言いましたからね」
今のレミリアのどこが受けろと言ってるんだ、という突っ込みをかろうじて飲み込む。
「詳しい事、と言っても先ほど話した事でほとんど全部なんですがね」
「どんな妖怪かも?」
「えぇ、まったく」
ふぅ、と溜息だけの返事が返ってくる。視線は限りなく冷たい。
しかし霖之助はそんな咲夜の視線を全く意に介さないで、
「いつ頃行きますか?」
と続けた。
咲夜もう一度溜息をついてから考える。
「そうですわね……場所を教えて頂ければ準備が済み次第、今夜にでもと思いますが」
「それは――商売上の秘密でもあるから、できれば僕も同行したいんだが、構わないかい?」
ニコニコと霖之助が訊ねる。邪気のない顔からは言葉通りの意味以外には感じられなかった。
咲夜はしばらく考え込むそぶりを見せると、夕刻に迎えにまいります、と告げる。
多少危なかろうが、彼女は時間を操るのである。その気になれば時間は止まり、なんとでも対処できるだろう、という判断を下した。
「万が一の場合の責任は取れませんが、それでもよろしいのですね?」
「そうならないように、さっさと逃げさせてもらうつもりだよ」
ありがとう、と霖之助が頷いて彼は辞した。
さて、と咲夜は思う。
霖之助を迎えにいくには時間があり、これまたちょうど良くレミリアにお茶を運ぶ用事もある。
レミリアには少し聞きたい事もある。
再び湯を沸かし、麦茶を淹れると隠し味程度の砂糖を入れ、氷をいくつか放り込んでからレミリアの元へと向かう。
レミリアは図書館におらず、すでに本を借りてどこかに行ってしまっていた。
夏の陽射しは暑く、比較的涼しいだろう図書館にいないのは予想の範囲外であった。小悪魔に二人分の麦茶を渡してから、速やかに戻る。
レミリアの私室とさらに寝室も覗いてみたが、やはりいない。
ということはテラスにいるのだろうと目星をつけ、テラスへと通じるドアを開けばそこにレミリアはいた。
大きなパラソルの下で暑くてダルい、といった風情を臆面もなく晒しながら読書にふけっている。
「珍しいですね、さりとて今日は涼しくはないのですが」
「んー、これも見立てかな。そんな事はいいからお茶頂戴、暑くて敵わないわ……」
不快指数の高そうな声に苦笑する。
そんなレミリアへと麦茶を差し出しながら、咲夜は疑問をぶつけてみた。
「何故私に受けろなんて仰ったのですか?」
「私は別に受けろなんて言ってないわよ?」
少しだけ甘い麦茶を飲みながら、レミリアはすっとぼける。
「そんな事はありませんわ。本を読むから邪魔をするな、という事は受けてこいと言っているような物です。今回の香霖堂さんの頼みですが、お嬢様に得がないではありませんか」
「私は妖怪だし、妖怪が妖怪退治をする理由はないでしょう? 暑くてめんどくさいだけよ。きっと」
どこか他人のような投げやりな口調でレミリアはなおも言葉を重ねる。
「任せた、とは言っても受けろとは言ってないしね」
それきり、レミリアは黙ってしまった。
グラスに刺されたストローからズズッっという音がする。
「咲夜、おかわり」
「はいはただいま。ところで建前は終わりました?」
「貴女ねぇ……私は吸血鬼で五百年も生きているのよ? 気まぐれで我侭で子供っぽくて……」
「随分と昔の契約を今でも守り続けているぐらいには、義理堅いですわ」
「…………」
口では敵わないな、と口中で呟きながらレミリアは理由を語りだした。
一つは先ほども自身が口にした、幻想郷のルールだ。妖怪退治は人間の仕事、というのは厳密に定められたルールではないにしろ、レミリア自身も納得できる理由である。
もう一つは、その妖怪を退治してやる義理が霖之助にも、『その妖怪』にも無い事。
この時点ではまだ霖之助も妖怪も同じ条件である。
霖之助からその妖怪にちょっかいをかけた訳でもないので、あとから来た妖怪側に少し分が悪いかもしれないが、力の優劣で負けた霖之助が去るのも仕方ないことだ。
しかしレミリアの傍には妖怪退治のできる人間がいて、それはおおよそ霖之助の知るところ唯一である。霊夢と魔理沙が動かない以上、お鉢がこちらに回ってくる事も納得はできる。
いずれにしても、レミリアの関知することではない……のだが、吸血鬼は貴族であり、領主でもある。領地内の治安維持は必要不可欠であり(もちろん、幻想郷がレミリアの領地ということはまったくない。彼女自身がそう思っているだけである)そういった面であればこれを退治しなくてはならない。
とはいえレミリア自身が出る理由もさしてない。ということで表向きは任せる、と言えば咲夜の意思と判断で受ける事になる。
「……とまぁ、そんなところだけど?」
「よき領主たろうとしてるのですね、それはとても良い事です」
しかしレミリアは全てを話したわけではなかった。
隠したままのもう一つの目的は、咲夜の心境変化を試すのである。
妖怪の山に怪しげな二人の神が来た時も、温泉と共に地霊が噴き出した時も、咲夜は何故か原因解明に動かなかった。
長い冬も、終わらない夜も、四季の花がいっせいに咲いた時も彼女は原因解明に動いており、そういった意味では妖怪の山の神が現われたときは博麗神社のその場に居合わせなかっただけなのだが。それにしても地霊の騒ぎに彼女が地底に行かなかったのが不思議でさえある。
理由を尋ねたわけではないし、さして気にしてるふうでもないので今までレミリアも気に留めていなかったのだが――
今さら聞く事でもあるまい、とも思う。
だが彼女が積極的な態度を忘れると――直感に近いが――致命的な何かに躓いてしまいそうな気がする。
差し迫った事ではなく、はるか未来において、ここでその結果が響きそうな、やらずにいると後で後悔する何かに似た感触。
言葉通りの悪魔的な直感。
そんな直感を口にしたところで、咲夜はおろか、自分自身でも「嘘くさい……」と呟いてしまうような事なので、あえて口にしなかった。
「いつごろ行くの?」
「夕方に香霖堂さんのお店に行く事になってます。それほど時間はかからないかと」
「そう、じゃあ明日には帰ってくるのね」
「えぇ、そうなります。場合によってはすぐ帰ってくるかもしれませんね」
「仕事に差し支えが無ければいいわ、それがここの日常だもの」
「そうですね」
そう言って咲夜はふわりと微笑を浮かべる。そうした穏やかな笑みをなんだか最近はよく見るようになった気がするのだ。それが彼女にとって良い事なのか、それとも悪い事なのかは判らない。
「一応言っておく、気を付けてね」
「かしこまりましたわ」
咲夜の返事を確認して、再びレミリアは本へと視線を落とした。
これ以上語る事はない、と察した咲夜は「失礼します」と頭を下げ、その場から消える。
夏の太陽がジリジリと全てを焼きながら徐々に傾きつつある。パラソルで作った日陰はそれなりに涼しいが、それでもまだまだ焼け石に水である。暑い事に変わりは無かったが、時折りそよぐ風を感じる事で幾分かは和らいだ。
幻想郷も同じである。
平和な時間は確かに大切で重要ではあるが、同じ時間のくり返しばかりでは停滞しているのとなんら変わりは無い。たまには異変でもないと――ありていに言ってしまえば――つまらないではないか。
特に人間にとっては余計にそうであろう。咲夜の気は長い方であるが、妖怪のそれと比べると、やはり見劣りはする。
咲夜が……妖怪に近付いている?
そう考えかけ、レミリアは首を横に振る。それが良い事なのか、それとも悪い事なのか彼女に判別がつかなかったからだ。
やがてレミリアは眩しそうに空を見上げ、
「まったく、ままならないものね。人生ってヤツは」
と呟いた。
よりにもよって運命を操る程度の能力もつ彼女が、である。
§
夕刻になって咲夜が香霖堂を迎えにいくと、霖之助はなにやら包みを用意して待っていた。
鼻腔をくすぐる匂いに、咲夜は思わず訊ねた。
「夕食ですか?」
「ピクニックというには遅い時間だけど、僕にできる事ぐらいはしておこうと思ってね。もしかしたら長くなるかもしれないだろう?」
「それほど手間はかからないと思いますけどね。ところで、結局どちらまでいかれるんですか?」
歩き出した霖之助に何気なく訊ねる。
「ちょっと歩くかな、今から行っても夜になる前にはつくけどね」
「具体的にはどのあたりになるんです?」
「そうだな、博麗神社の裏に近いよ。何しろあの神社は外と内を分ける境界にある。幻想郷の外の世界にも博麗神社がある、なんて言ったら君は信じるかい?」
「にわかには信じ難いですわね」
「まぁ実際にあって、向こうには巫女ではなく、神主さんがいるらしいよ。まったくの伝聞だし、信頼できる相手からの情報でもないけどね」
「眉唾ですねぇ……」
「そうなる」
霖之助は苦笑しながら言う。
程なくして彼の言った通り、目的の場所に着いた。
一時間歩くか歩かないか、と言った距離で、周囲の木々が途切れていた。
「ここだけ木がないのですね」
「おそらく、結界が薄いんだろう。木が多く茂っているという事はそれだけ外の世界から隠されているという事なんだ。逆に考えれば木が無いという事は、それだけ外の世界が近いと言える。そしてそんな場所に物や人が迷い込むんだよ」
霖之助の説明を聞きながら、咲夜は周囲を見渡す。
太陽はすでに地平線へと沈み始めているため、森の中は薄暗い。普段から窓の少ない紅魔館で暮らし、主が基本的に夜行性の吸血鬼である咲夜は夜目には多少なりとも自信があるが、それは明りが少しでも足りる、という程度でしかない。完全に日が暮れてしまえば月と星の明りだけで暗い森の中を見渡せ、というのは無理な話である。
「今は……妖怪はいないですね」
「そうみたいだね」
「それにしても……どんな妖怪なのかわからない、というのはやりにくいわね」
「あ、やっぱりそうかい?」
ボソリとした咲夜の一人言を丁寧に拾う。
幻想郷の揉め事、特に妖怪が絡んでいたりする場合、通常は弾幕ごっこで決着をつけるのであるが、わずかながらも例外は存在する。
妖怪にとって人間は食料であり、人間からしてみれば「自分の命が危ないのに『弾幕ごっこ』なんかできるか」となる。
弾幕ごっこで決着がつくのはそれを理解できる者同士、という事になる。年月を経て妖怪に成る者――例えば猫又や付喪神など――であれば理解を求められるが、妖怪として生まれた者になると、これが弾幕ごっこを理解してくれるのかは怪しい。幻想郷のルールを完全に理解していればいいのだが、理解していない妖怪はただの怪獣となんら変わりがなく、彼らは彼らのルールで生きようとする。本能の赴くままに。
そういった類の妖怪に弾幕ごっこというのを理解させるのは難しく、大抵は殺し殺され、という血生臭い話になるのだ。
もっとも、それが妖怪本来の在り方であり、人間を脅かすにはもっとも効果的ではある。もちろん、その代わりに人間に退治されても文句は言えない。
「本当にここでいいんですか?」
もちろん周囲に妖怪の姿はない。妖気と呼ばれるような違和感だって感じられない。咲夜が怪訝に思うのも仕方ないだろう。
「五日ほど前に妖気というか、危険な空気を感じたし、大きな物音もした。その時点で逃げ帰ったから詳しくはわからないけど……自然の状態では無かったことは確かだね」
「よくそれで頼む気になりましたね……すでにいない可能性は考えなかったのですか?」
「考えたけど、危険かもしれない所にわざわざ僕一人で行くのはさすがにね。いなかったらそれはそれでいいじゃないか」
「ただの無駄足かもしれない、というのは先に教えて欲しかったわね」
「とりあえず、ここらで一晩待ってみよう。妖怪は夜に出歩く者が多いからね、薪を集めてくるよ」
言いたい事だけを言って、霖之助はさっさと消えてしまった。
残された咲夜は、呆気に取られたまま見送って、
「――って途中で妖怪出てきたらどうするのかしら」
と小首を傾げた。
後を追おうか少し迷っていたが、やがて「護衛じゃなくて妖怪退治がメインだし、まぁいいかしらね……」という楽観的な結論を出すと、咲夜も野営の準備を始める。薪だけで一晩中明りが保たれるわけではないのだ、石釜土でも作らないと、風に消されてしまうだろう。
やがて両手に枯れ木を担いだ霖之助が戻ってくるのと、咲夜が石釜土らしきものを組み上げるのは、ほぼ同時であった。
「……風除けかい?」
「えぇ、その通りですわ」
「そのわりには風で崩れそうな気がするんだが……」
「気のせいです」
「ずいぶんと風通しが良さそうな……」
「適度に空気を入れないとダメですわ」
「…………」
いかにもその辺の石を組み上げただけです、というような風貌に、霖之助は苦笑をするしかない。
どこをどうしたらこのような絶妙なバランスが出来上がるのかまったくわからない。石が積み上がっているのが不思議ですらあるのだ。
「しかし……申し訳ないがこれじゃ少し役不足だね」
仕方無いので、一旦崩して組み直すことにする。
ガチャガチャとそれらの作業が終わる頃には、すでに太陽の面影は消えてしまっていた。
「火は――」
「それなら大丈夫ですわ」
咲夜の手に一瞬だけナイフが現れ、瞬時にぐにゃりと姿を捻じ曲げ、薄れ、消えていく。
全てが消えてしまう前にそれはまるで飴細工のように形を失い、橙の灯りと変わると、すぐに暖かな熱を感じさせる揺らめく炎になった。
釜土の中にゆっくりとそれを押し込むと、すぐに乾いた木がぱちぱちと音を立てて燃え出す。
「便利だね、それも弾幕で使うのかい?」
「ええ」
「まるで魔法みたいだ」
「ただの手品ですわ」
まじまじと覗き込み、どことなく感慨深げに訊ねる霖之助に、咲夜といえば実にさらりとした答えをする。
咲夜は懐かしそうに、
「パチュリー様……家の知識人とお嬢様から手ほどきを受けまして」
と続けた。
霖之助の方を見ずに、訥々と喋る。
「これでも最初は全然できなかったんですよ、最初に教えてもらったのはパチュリー様で、パチュリー様は七曜の精霊を扱うんですけどね。なんか全然上手くいかなくって。お嬢様に教えてもらったんですけど、かなり厳しくやられましたよ」
苦笑する咲夜の横顔は幸せに溢れていた。
懐かしみ、慈しむ過去があった。
「そうか……君は今、幸せなんだね」
ポツリと呟いた霖之助に、咲夜はゆっくりと頷く。
ほのかに浮かんだ笑みは柔らかく、見る者をはっとさせる。
「そうですね、今の私は自信を持って幸せだと言えます。色々あったからこそ、ですけどね」
「色々……ね」
咲夜の手によって熾された焚火は、すでに夜空と森を煌々と照らしている。
暖を取るわけでもないが、山に囲まれた幻想郷の夜はそれなりに空気が冷たい。
「そういえば香霖堂さんは……半妖でしたね」
「ん? ああ、そうだね」
そこで会話は途切れた。
咲夜は他人の心の領域には踏み出さない。
霖之助もまた自らの心情を吐露する方ではなかった。
夜の森の中は静かなようでいて、多くの音が鳴り響いている。
風が渡り、枝がしなり、葉が小さな波のような音を奏でる。
短い生だからこそ、虫達が夜を謳歌する。
その虫達を食料と求めた動物達が茂みを駆け抜け、枝から枝へと飛び渡り、飛翔する。
外の世界の森がどうなったのか、あるいは全てなくなってしまったのか、幻想郷に住む者はほぼ誰もしらないだろう。
だが、幻想郷の森は生きている。
「咲夜さん」
どれほどの時が経っただろう。月もだいぶ昇った。星空も巡った。
夜半も過ぎたかもしれない。
「咲夜さんは……自分というものをどういう風に捉えていますか?」
質問の意味を図りかねる。
「どう言った意味です?」
「ある意味で僕と君は似ている……というより共通点がある、と言った方が正しいかもしれないね。だから興味を持った。君がどう考え、何を感じ、そして何故生きているか」
「共通点……?」
思わずオウム返しに聞いてしまう。
霖之助の言いたい事がさっぱりわからない。
「中途半端、とも言えるかもしれないね。簡単な事さ、君は人間ではない。そしてこの僕も人間ではない」
自信と確信に満ちた、力強い言葉が吐き出される。
力強いがゆえに言葉は力を持ち、まるでそれが真実であるかのように振る舞い、暴力をふるう。
ややあってから、咲夜が口を開いた。
「――私は人間ですわ。全身どこをとっても」
「人間は群生動物で、社会を形成しないと生きていけないんだ。種としては最強かもしれない。現に外の世界の人間は地上の覇者であるし、宇宙にも手を伸ばしている。だけど個体としては恐ろしく弱いんだ。それこそ素手ではそこらの野犬一匹に食い殺される程度に弱い。あまりにも弱すぎる人間が辿り着いた結論は『自分以外を否定する事』となり、結果として最強となった。幻想郷はやたら自然がたくさんあるだろう? それこそ森に飲み込まれるぐらいに。外の世界ではそうした森ですら幻想になってしまっているのさ。地球を、妖怪を、豊富な動植物を。そして非力ではない、一部の特殊な人間すらを否定して、排斥する」
霖之助は非力ではない人間、という所でチラリと咲夜を見やる。
「言わば幻想郷の人間たちは、そうした否定された人間たちの末裔なんだ。今でこそ血は薄まり、本当にただの人間と変わらない者たちも多いけどね。ただ……その否定され、幻想となった人間たちでも、さらにはみ出し者がいたのさ」
「魔理沙や霊夢だって、住んでいる所は人里ではないじゃない」
「いまや幻想郷の人間のほとんどは何の力も持っていないよ。だから弾かれているのさ。巫女だから、魔女だから、そして――吸血鬼のメイドだから」
「貴方の場合は半妖だから?」
「そう。半妖や能力をもった人間はやはりこの幻想郷でも爪弾きにされるんだよ。妖怪と人間の役割は一方通行で、食うか食われるかでなければならない。人間が絶滅したら妖怪は生きていけないし、その逆もまたしかり」
「妖怪が絶滅すれば、人間は平和に暮らせるんじゃなくて?」
「ところがそうもいかないのさ。妖怪が幻想郷にいる、という事は外の世界ではすでに忘れられているという事でもある。外の世界は安全かもしれないが……幻想郷に自然、妖怪、動物類まで多くなってきているという事は外の世界ではすでにそれらが失われているという事でもあるんだ。もしかしたら、外の人間は食べ物にも困っているのかもしれないね」
先ほどまでの長い沈黙を埋めるかのように、まるで止めるスイッチを壊してしまったかのように霖之助は喋る。
彼の言っている事は、危険な事だ。この手の話題は尽きる事無く突き進む。最終的に結論なんてでないし、それぞれ個人の主張を言い合うだけに終始してしまえばそこに和解は生じない。まかり間違えばそれこそ血を見る話題でもあるのだ。
それを薄々と感じながらも、
「それで、それと最初の質問がどう関係するわけ?」
咲夜は止まらない。止められない。止めるということすら念頭に無かった。
血を見るかもしれない話題にも関わらず。
「僕は長い間、人里から離れた所に住んできた。商売は半ば趣味みたいなものだと自分でも思っている。生きて行くのに必要な物を対価として受けられれば、いつかこの身が消えて無くなるまでこの生活でいいとも思っているんだが……」
やたらとまわりくどい前置きをしてから、霖之助は切り出した。
「暇な時間を思想思索に割り振っていると、どうしてもこういう益体もない話になっちゃうのさ。半妖やそういう爪弾きにされた人間たちの地位向上とかはどうでもいいんだが、答えのない問題、解答の存在しない疑問。過去は変えられないのだから、せめて自分はこれからどこへ向かうのか、終着駅はどんな形をしているのか、そういう想像をしてみたくなるのさ」
「ようはただの暇潰し?」
「時間があるっていうことはいい事とは限らない。それこそ益体もない考えに囚われ、支配され、「自分探し」なんていうまるで意味のない事を他所に求めたくなる。自分なんて探すまでもないんだよ、自分なのだからね。自我を喪失する、なんていう事はないのさ。『我思う故に我有り』で答えなんていつでもどこでも自分の中にしか存在しない。だから他人から正解をもらうなんていう事はしないけど、モデルケースを見るのはいい事なのさ」
「ただの暇潰しですよね?」
「もちろんこの手の話題には終わりがない。終わりがないからこそ益体もないし、どれだけ他のモデルケースを知ったところでそれが役に立つ事はない。何故ならそれはあくまでも他人の話であって自分にはまったく関係のない話だから」
「やっぱり暇潰しじゃない」
「そうとも言う」
「そのメガネ素敵ですね。カッコいいからあとの部分を物理的に排除しましょう」
「謹んでお断りさせてくださいあと妙にキラキラするそれを仕舞っておいてください」
焚火から手と腰と足を総動員させて半歩だけずり下がる。
どこで話がズレたのか、いやそもそも話はズレていなかった。
「半妖として生まれた僕はたぶんこれからもずっと幻想郷にいるし、あの店を動くつもりも今のところはないし、ずっと続けていくつもりだ。半妖だから人と交わることも恐らくないだろう。訪れたお客に売れるものがあったら売る。自分で面白そうだと思ったら使う。もちろん訪れたお客に人か妖怪かなんて関係無い。古道具屋、香霖堂は今までとなんら変わらず、少しだけ変わって、僕が終わるまで続いていくと思う。人にも妖怪にもなれないではなく、人でも妖怪でもない、それが僕の生き方なんだ」
そう霖之助は締めくくった。
おそらく、彼の言った通りなのだろう。
魔法の森の外れでずっと古道具屋を営んでいく。そういう生き方を選んだのだから。
チラリと咲夜の方を見ると、思いつめた表情をしている。
霖之助の視線に気が付いた咲夜は一つ溜息をつく。
「私は……幻想郷に生を持った人間じゃないわ。他所から――紅魔館と一緒に流されてきた。だから、幻想郷の人にとっても余所者なの」
「へぇ……それは知らなかったな」
「それより昔はともかく……幻想郷に流れ着いて、仕組みを理解して、毎日を生きていく内になんていうか――そう、大人になったのかもしれないわね」
霖之助の目には咲夜とてまだまだ少女に映る。もっとも、彼女は時間を操る人間だし、彼女の主人のレミリアにいたっては齢五百を越える吸血鬼だ。見た目の年齢がどれほどアテにならないのかは、幻想郷の少女達にも言えることである。
時間を操る人間に年齢は意味を持たない。それは人間であろうと妖怪であろうと変わりないのだ。
見た目の年齢で言えば咲夜は少女というには女性らしさを持ち合わせている。子供とは呼べず、大人ともいえない彼女は時折り、見た目にそぐわないほど大人びた表情をしてみせる事を霖之助はこの短時間で見せ付けられていた。
「そうね……それまでの世界と違って幻想郷はのんびりしていたわ。誰もが自分の中の時間で動いている。人も妖怪も好き勝手に生きていながらどこも破綻していない。最初は凄く驚いたわ。人外の存在がこれだけウロウロしていて、人間たちが生き残れるはずはない、そう思っていたんですものね」
クスリと笑って続ける。
「今でも不思議に思うわ。人と妖怪の関係って殺すか殺されるかだと思っていた。基本こそ変わらないけれど、もっと殺伐としているかと思ったわ」
「今でも充分に殺伐としているさ。妖怪は人間を喰う。人間は妖怪を退治する。その基本的な事は変わらない。ただ、どちらもお互いを全滅させよう、お互いを否定しようとは思っていないだけさ。わからない事はわからない。理解できないけれども許容しあう。それが幻想郷かもしれないね」
不意に、咲夜が切り込む。
「半妖は人間と妖怪の間に生まれる存在。人間でなく妖怪でもない貴方が、何故『妖怪退治を人間に依頼する』の? それは妖怪にとって不利益なこと、人間に味方する、という事ではないのかしら」
「簡単な事だよ。僕は妖怪でも無ければ人間でもない。人間に味方をするつもりも無ければ、その逆もまたそう。僕は僕の味方しかしない。この妖怪退治だって、僕に不利益だからお願いしたまでで、人間がどうだとか妖怪がどうだなんて事は全く関係無い」
「いつも霊夢や魔理沙の世話を焼いているっていうのは、人間に味方をしているという事ではないの?」
「それも全部僕がそうしたいからそうしてるのさ。僕自身にはどちらかに味方をしているなんて考えてないよ。言ってしまえば個人主義なのかもしれないね、だからこそ誰にでも商品は売るし、必要なら助けを請うのさ。それにしたって咲夜さんだって、どうしてあれほどレミリアさんに肩入れをするんだい? 人と妖怪の関係で言えばその方が僕には不思議だね」
霖之助が眼鏡の奥で笑う。彼としては答えなんてどうでもいい問題なのだろう。ただなんとなく、ふと気になったから聞いてみた、という程度しかない。
咲夜もそれを知りながら答える。
「私はお嬢様に拾われて、その恩は一生忘れないものだと思っているわ。言ってはなんだけど、私の過去はあまり幸せではないのよ。もちろん、自分だけが不幸だったなんて思ってないわ。私より悲惨な暮らしをしていた子供はたくさんいるし、今ここにこうして生きていられるだけで幸せだとすら言えるの」
殺人ドール、夜霧の幻影殺人鬼、クロースアップ殺人鬼、ジャック・ザ・リッパー。
咲夜の使うスペルカードはどことなく殺人を思い起こさせ、血の匂いがするような名前ばかりである。おおよそ少女が使うような名前ではない事は確かだ。
「それに、今ではなんだか幻想郷での生活が悪くないと感じるの。平穏な生活を望んでいますわ」
そこでふと霖之助は気が付いた。彼女の言葉が敬語のそれでなく、砕けた調子になっていることに。
「お茶を淹れて、館の中を掃除して、お嬢様の食事を作って……たまには我侭も聞いてあげて。振り回されるのも、たまには振り回すのも楽しいわ。今日だってお嬢様が受けろと言わなくてもここに来ていたでしょうね」
口元をほころばせ、ふわりと笑う。
いつも冷たく、鋭利なナイフを思わせる少女の微笑みは、こんなにもあどけなく、屈託がないのか。
いつしか釣られるように、霖之助も笑っていた。
§
ひとしきり話終えると、すでに夜明けが近かった。
黒いはずの夜空はいつの間にかうっすらと青みが増し、紫の空になりつつある。
「結局、妖怪は来ませんでしたね」
「そうだな……どっかにいってしまったのだろう。まあこれでやっと安心して商品を仕入れられるよ」
「拾うだけじゃない」
「どっちも同じ事だよ。そしてどっちも重要な事さ」
うそぶくように呟いた霖之助の目に白い光がうっすらと差し込んでくる。
日の出とともに世界は圧倒的なスピードで夜を朝に塗り替えていく。
「結局徹夜ですね。とても眠いですわ」
「朝になったら帰って今日は寝ることにしよう」
朝焼けはすでに始まっていた。
灯りがいるかいらないか、というような微妙な時間帯だった。
そしてそれは、唐突に現れた。
不意に朝日が遮られる。
その影はまったく突然に現れた。
思わずその影を見上げた二人の視線が固まる。
巨大な、そして扁平な体の左右から分かたれた左右四本ずつの足。
「――っ!」
声を発する暇すらない。上空から重力に任せるままに落下してくる影を見上げたまま霖之助は固まってしまった。
唸りを上げて鋭利に尖った足が上空から落ちてくる。
不意に衝撃を受け、立っていられなくなった。
突き飛ばされた、と霖之助が感じた時には、巨大な物体の前に座り呆けていた。
目の前に広がる青と白のコントラスト。咲夜がいる。
巨大な物体からは通常の生活ではまず感じられない空気を感じられる。
大きな、とても大きな蜘蛛だった。
比較的開けた場所であったが、それを埋め尽くしてしまうような巨体と、その上に女性と思わしき上半身が生えている。
その蜘蛛が、大気を震わせるような咆哮を発した。
「じょ……女郎蜘蛛なのか……」
「下がって」
焚火をはさんでいたはずの咲夜がいる、という事は恐らく彼女の時間を操る程度の能力のおかげなのだろう。気が着けば座っていた場所から数メートルは離れている。
咲夜の言葉に従い、這々の体で下がる。
背後を振り向き、全力で走りながら後ろを見るとすでに咲夜は空からナイフを雨あられと投げつけていた。
「すごいな……」
これほど大きな妖怪がいたのかと感心するが、その大きさがかえって仇となって弾幕を避けられないようだった。
女郎蜘蛛とて、やられているばかりではない。女性の部分が手を振り払うと、空間が裂け、白い光が幾重にも飛び出す。一斉に咲夜に向かって放たれた光はしかし咲夜を捕らえられない。
完全に土俵が違っていた。
なにしろ咲夜は時間を操るのである。あの五百年を生きた吸血鬼、レミリア・スカーレットの傍にいる者が、どうして普通の人間だろうか。
咲夜の動きは速い。女郎蜘蛛が狙うと一瞬にしてその反対側へと現れ、次々とナイフを投げつけていく。
ある物は甲殻に弾かれ、ある物は突き刺さり、女郎蜘蛛へと確実にダメージを与えている。
対する女郎蜘蛛の攻撃は咲夜に届いておらず、まさ
に一方的な状況になっていた。
見たこともないような大きな妖怪を相手に見事な立ち回りで圧倒していく咲夜。
いまや女郎蜘蛛は全身から紫の体液を迸らせ、動きが止まっていた。
彼方の上空で咲夜が両手を上げると、まるで地面から噴きだしたかのようにナイフが飛び出し、女郎蜘蛛の全ての足を貫通、切断しながら上空へと登る。
朝日を浴びて輝くナイフが空中で向きを変え、一斉に動けなくなった女郎蜘蛛の女性部分に向かって突き立った。
それまでの大気を揺るがすような咆哮ではなく、か細い断末魔とともに沈んでいく。
終わってみれば、なんとも呆気ない幕切れだった。
物語につきもののピンチや逆転などなく、終始咲夜が圧倒的に打ち倒しただけであった。
これ以上動かない事を確認すると、ゆっくりと霖之助に向かって降りてくる。
「終わりましたわ」
「お疲れ様。見事だったよ」
終結を告げる咲夜を労う。見れば彼女は汗一つかいていない。
「それにしても……こんな大きな妖怪なんて初めて見たな。どこから来たんだろう」
「それは直接聞いて見るしかないですわ。会話が通じれば、ですけど」
「いずれにせよすでに喋れないだろう」
「それもそうですね」
「ならば私が代わりにお答えいたしましょうか?」
二人の背後から声が掛かる。
霖之助が慌てて振り向いた先には見知った顔がいた。
背後の森から出てきたのは八雲紫である。
思わぬ大妖怪の出現に驚く二人を他所に、草を踏みしめながら歩いてくると、
「彼女の役目は、もうおしまい」
パチンと指を鳴らす。たったそれだけで巨大な妖怪があっという間に消えた。
咲夜が苦戦した、というわけではない。ただ単に紫の能力が反則的なだけである。
「もしかして……」
苦い顔で霖之助が言い淀む。咲夜は何の事だかさっぱりわからないまま、事態を見つめるしかない。
「そう、この妖怪は私の差し金であり、私からの問いかけでもあるのです」
手元の扇で霖之助を指し、
「例えば貴方。妖怪と人間の間に生まれた中途半端な存在、半妖……半妖であるからこそどちらにも味方はしない。それは大いに結構ですが、貴方は少々人間に肩入れをしすぎる。ワーハクタクの誰かのように明らかに人間の側に立つとも行動していなければ、人間を脅かす存在にもなれない実に中途半端な半妖。人間と妖怪のバランスに苦心しながら保たれている幻想郷において、貴方の存在は毒なのですか? それとも薬なのですか?」
上品な笑顔で紫は言う。
「例えば貴女。妖怪と人間は本来相容れないのです。妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する……それがこの幻想郷のルールです。なのに貴女は妖怪を主とし、多くの妖精や妖怪とともに暮らしている。本来ならばそれは許されざる行為であるし、妖怪と暮らす人間は次第に妖怪に、人間と暮らす妖怪は次第に人間になっていく。それが交わる道理でありながらそれを超越し、人間のままで妖怪と暮らし続ける。貴女は一体どちらの側に立っているのですか?」
咲夜を指しながらそう言った。
霖之助と咲夜は思わず顔を見合わせて苦笑しあう。
「何を今さら」
「そう、何を今さらですわ」
「幻想郷は全てを受け入れる。そう言ったのは貴女でしたね」
その答えを十全としながら、さらに紫は問う。
「そう、幻想郷は全てを受け入れます。故に自らの本質を見極めていない者は存在できない。迷い人が外の世界に帰れるのはその為なのです。幻想郷が貴方達を受け入れても、貴方達が幻想郷を受け入れられなければ、それは同じ事なのですよ。幻想郷で生まれたから、長い時間を幻想郷で過ごしたから、といった理由だけでは済まされない問題なのです」
「中途半端な存在の僕は中途半端なまま幻想郷にいる。中途半端こそ自分だという僕が幻想郷以外に行けるとでも思うかい?」
霖之助の答えに、紫はほうと息をつく。
中途半端こそが自分である。という開き直りの境地は紫の問いに対して、実に良く答えていた。立場こそ曖昧であるが、霖之助自身としては確かにしっかりしている。人間と妖怪という二大対立構造を基本とする幻想郷において中立であり続けるというのならば、確かに霖之助の行動は正しいのだ。
「幻想郷なんてどうでもいいのよ」
そう言ったのは咲夜である。
「私はお嬢様と共にあればいいの。妖怪になれというなら妖怪になるし、人になれというなら人になる。幻想郷だろうがどこでも変わらない。お嬢様の傍にいることがまず第一であり、そこがどんな場所かだなんて、どうでもいいのよ」
この答えもまた正しい。あの幼い吸血鬼のどこに彼女をここまで心酔させる理由があるのかはわからないが、幻想郷でなくてもいいと言い切る彼女の芯の強さ。
「あら、思ったよりもあっさり答えられてしまいましたわ。せっかく手の込んだ仕掛けまでしたのに」
「手が込みすぎて何の事だかわからないわ」
「それでいて終わりはあっさりしていたしね」
霖之助と咲夜は笑いあう。
「まぁ、よろしいでしょう。幻想郷でも比較的珍しい貴方たちの言葉を聞いてみたかったというのが本来の私の目的ですので、目的は果たされています。貴重なお話を頂けて満足ですわ」
それでは失礼。と言って紫の姿が背後に開いた隙間の中に消えていく。再び閉じられた隙間は、まるで最初から何もなかったかのように消えてしまった。
「さぁて、妖怪退治もしてもらったし、帰ろうか」
「えぇ、そうしましょう」
笑顔のまま霖之助が促す。
咲夜もまた笑顔のまま頷いた。
昨夜交わされた会話にはもうひとつ、隠された意味がある。
お互いの考えること、心情、感情を吐露しあうことで距離感が縮まる。
相互理解というには程遠いかすかな触れ合いではあるが、少なくともお互いが笑顔になれる、という効果があるのだ。
霖之助が歩き出す。
咲夜がその後ろにつく。
お互いの表情は見えないが、晴々とした笑顔であることだけは確かであった。
朝日が二人を照らす。今日もまた日常が、幻想郷が始まるのだ。
彼らの愛した幻想郷が。
魔法の森の外れにある古道具屋、香霖堂の店主である所の森近霖之助はそんなうだるような暑さすら気にしていられなかった。
「まいったな、いつもは放っておいても入り浸るのに必要な時はとんと来ないなんて……」
無人の住居兼店舗の中をブツブツと呟きながら歩き回る。
客が誰も来ないという状況であるが、それはいつもの事。霖之助を悩ます事柄は別にあった。腕を組みながら店内を何度往復したのか解ったものでは無い。
事の始まりは簡単である。
霖之助は古道具店を営んでいるが、来客はほぼゼロと言っても差し支えは無い。
立地も悪ければ品揃えも来客向けではない。そもそも幻想郷の人間が決して安全とは言えない魔法の森に踏み込む事はないし、品揃えに至っては霖之助が拾ってきた使用方法もわからない外の世界で不要になった品なのである。
加えると、霖之助自身ですら自らの店の商品を「趣味だから売らない事にした」などとのたまう事もよくある話であった。
ともあれ、香霖堂の主な仕入れ方法は『外の世界から流れ着いた物を拾ってくる』事である。その外の世界から流れ着いた物が溜まる場所、そこに一匹の妖怪が住みついてしまったのだ。
霖之助は幻想郷の住人で、しかも半妖であるが、妖怪退治ができる類の人間ではなかった。彼の能力は「物の名前と用途が判る程度の能力」であり、荒事に向かないという彼自身の自覚は正しい。
だからこそ霖之助は妖怪退治のできる人間として、いつもだったら放っておけば来るはずの博麗霊夢か、霧雨魔理沙に頼もうと思っていたのだ。報酬としてツケの何割かを減らしてやればいいかなどという考えの元、彼女らの来訪を待っていたのだが、こういう時に限って二人ともやってこない。ならばこちらから出向こうかとも考えるが、霊夢の住む博麗神社は遠く、魔理沙の住む家は魔法の森の奥にあり、迂闊に迷ったらそれこそ最後である。
「どうしたものか……」
からん、からん。
霖之助の思考を打ち破るようにして、来客を告げるベルが軽やかな音を立てた。
「こんにちわ」
「やぁ、いらっしゃい」
ベルと同じような涼やかな声が店内を吹きぬける。
トレードマークの洋傘をぶら下げて現れたのは、果たして人ではなかった。長いブロンドヘアーを優雅に風にそよがせながら、口元には余裕たっぷりの微笑み。少女のようであり、また妖艶な美女を思わせるようなたたずまい。目の当たりしたところで何者なのか判別しかねる印象を与えるのは隙間妖怪、八雲紫である。
「珍しいですね、貴女が来店なさるとは」
「大した用はないのですけどね」
猛暑の日中だというのにその名のような紫のゴシック調ドレスを着ながら、汗一つかかずに涼しげな顔をしている紫を見ながら、霖之助は内心で少しばかり眉をひそめる。
「久方ぶりに貴方がどうしているのか気になったのですわ」
「はぁ……そうですか」
八雲紫といえば大妖怪である、という知識は稗田阿求によってしたためられた幻想郷縁起により、広く知られている。
しかしながら「実際にはどういう妖怪なのか」というのは実はあまり知られていない。そもそも神出鬼没であり、普段をどこで過ごしているのかすら知られていないのだ。広くはない幻想郷であるが、そのどこにでも彼女はいるし、そのどこにも彼女はいない。
「実は少し困った事になっていましてね」
「客が来ないのはいつもの事ではないのですか?」
境界を操る程度の能力と幻想郷縁起に記されてはいるが、それがどういった事なのか、具体的には何ができるのか、妖怪の中でもことさらに博識で、何もかもを見据えたような口ぶりの彼女は常にミステリアスである。ぶっちゃけると、胡散臭い。
「それはいつもの事ですが、今はそれ以外の事で困ってるんですよ」
「あらまぁ、いったいどうなされたので?」
そんな紫に事情を説明するべきなのか、少し迷う。
しかしながら紫は妖怪の賢者とも言われる存在。その知恵に頼るのもいいかもしれない、と思い直して霖之助は事情を説明した。
外の世界の物が流れ着く場所に妖怪が住みついてしまった事。
妖怪特有の気を感じ、一目散に逃げ出したためにそれがどんな妖怪かもわからない事。
このままでは、商品の仕入れが出来なくなってしまう事。
妖怪退治を頼もうとした霊夢と魔理沙が何故かいつまで待っても現われない事。
「という事で何かいい考えがないものかと、ね」
そう締めると、霖之助は視線で紫に問う。
「お断りいたしますわ」
笑顔で即答された。
あるいはこの妖怪の賢者ならば――という霖之助の期待はまさしく一瞬の内に崩れ去った。
「あわよくば貴女に退治、ないしは立ち退き勧告をしてもらおうと思ったんですが……」
「妖怪退治は妖怪の役目ではありません。私が便宜をはかる理由もないですし、そもそもこのお店は在庫を抱えすぎじゃありませんか?」
手厳しいといえば手厳しい紫ではあるが、その喋っている事は至極真っ当である。
幻想郷での妖怪退治といえば人間の役目であり、霊夢の事であり、魔理沙の事だ。
ここはやはり自身で足を運び、直接頼むしかないのかと諦める。
「あ、ちなみに博麗の巫女は手が離せません。珍しく修行してるでしょうからね」
くすくすと紫が笑いながら付け足す。
晴天の霹靂、鬼の霍乱。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
「それは珍しい……貴女の入れ知恵ですか」
「そんな所ですね。ちなみに普通の魔法使いも茶々入れに忙しいでしょうから、当然ご一緒でしょうねぇ」
「そいつは困った……妖怪退治をする人がいないじゃないか」
別の場所を探すか、外の世界の品物が流れ着く場所にいた妖怪が住処を変えるまで待たなくてはならないではないか。
修行が終わるのを待つ、という選択肢とどちらが早いかと悩んでいると、
「あまりイジワルするのも嫌われてしまいそうですので、一つヒントを差し上げましょう」
ニコリと笑って紫が続けた。
「物事には摂理があります。妖怪である私が妖怪退治をしないように。妖怪退治をするのはどなたなのかもう一度考えてみなさいな。当たり前の事を当たり前として捕らえる事は、言う程愚かではありません。ですがその当たり前という事を軽視するのはいただけないのです。……時の流れを無視し続けるような事は簡単ですが、たまには運動もしないと健康によろしくないですわ」
訥々と紫は喋る。捕らえ所の無い言葉は室内を埋め尽くすようでいて埋め尽くさない。考える事が正解なのか、それとも考えるだけ無駄な事なのかすら判然としない。
信用できない妖怪である八雲紫はしかし賢者でもある。相反する言葉も一つや二つではないが、それらが巧妙に隠された真実であった事もあるのだ。
「ずいぶんとわかりやすいヒントですね……ありがとう」
苦笑しながら霖之助は頭をかいている。何故こんな簡単な事に気が付かなかったのだろうという表情をそのままに紫に向けた。
「忘れられていそうですが、貴方も半妖なのです。その事を忘れていては礼を欠いてしまうのと同じ事。わかりやすいのは、貴方がいい男だから、という事にしておきましょうかね」
紫の頭上が開く。
隙間、と言われても何と何の隙間を広げているのか、そしてその隙間は一体どういう世界になっているのか、霖之助は考えようとしてやめた。理解できるはずはないのだ。妖怪と半妖ではあまりにも違いすぎる。
「長話をしてしまいましたわ。それではごきげんよう」
「またのご来店をお待ちしておりますよ」
優雅な会釈を残したまま、紫は虚空に吸い込まれていった。
紫の姿が消え、ご丁寧に隙間の両端に結ばれたリボンすらも飲み込まれると、店内に再び静けさが戻ってきた。
セミのやかましい鳴き声が再び耳に戻ってくる。
ふぅ、と霖之助は一つ溜息をつくと、
「なんだ、今日も暑いな」
とだけ呟いた。
§
古き日本の山奥、といった幻想郷の風情の中で一際浮かび上がる建物がある。
周囲の景色から切り離されたように佇む紅魔館は、その名のとおりに紅く、魔が住む館であった。
霖之助が紫のヒントを元にやってきたのは、皮肉にも妖怪の住まう館、紅魔館であった。
「珍しいですね、香霖堂さんの方からいらっしゃるなんて」
門番であるところの紅美鈴(もちろん、彼女も妖怪である)にそんな出迎えをされながらも応接室に通された。
程なくして冷たい麦茶が運ばれる。暑い中をわざわざ歩いてきた霖之助には嬉しい対応で、さっそく口をつける事にした。
待つことしばし――
霖之助が入ってきたのと同じドアが開かれ、二つの人影が現われる。
好対照、ともいうべき二人であった。
かたやピンクのワンピースに身を包んだ紅い――赤い、というより紅い――幼い子供。表情は自信に満ち溢れ、傲岸不遜の域に達している。無邪気でありながら底意地の悪さにあふれた、決してそうは見えない紅魔館の当主にして五百年を生きたロード・オブ・ヴァンパイア、レミリア・スカーレット。
かたや青と白が涼しいコントラストのメイド衣装に身を包んだ少女。少女と言うには少しばかり女性としての美貌が出てきた頃合いだろうか。伏し目がちな表情と、冬の湖を思い出させる蒼い瞳の色合いは一迅の涼風を連想する。妖怪の、それも吸血鬼の住まう館においてメイド長を勤め上げる『人間』、十六夜咲夜。
仰々しく片手を上げながら霖之助の対面に座り、咲夜はというと何故か主の背後ではなく、霖之助の背後に控えた。
からん、と麦茶の注がれたグラスの氷が位置を変える。見れば霖之助が先ほど口をつけた分はいつの間にか注ぎ足されていた。
十六夜咲夜は人間でありながら時間を操る程度の能力を持つ。だからこそ吸血鬼の館においても重宝されているのだろう。そしてこの注ぎ足された麦茶もまた、彼女の仕業である。
「珍しいじゃない、私の友人ぐらいに動かない貴方がわざわざここまで来るなんて。セールスマンお断りのシールは貼ってないけど」
レミリアが不敵な笑顔のまま尋ねた。見れば彼女の前にもグラスが置かれている。細かい仕事にも手を抜かないのがメイド長たる彼女の優れているところだ。
「今日はおすすめの商品はないですよ。実はその事でお願いがありまして……」
「ウチに転がってるアンティークはたくさんあるけど、手放すほど困ってないわよ?」
「いえいえ、買取りでもなくてですね、折り入ってご相談したい事があるのですよ」
言葉遊びもほどほどに、霖之助は本題を切り出した。
「つまり、咲夜に妖怪退治をお願いしたい、と?」
「そうなりますね、霊夢と魔理沙はおそらく何がどうあっても来ないと思います。何しろあの八雲さんの入れ知恵ですからね」
「なるほどなるほど」
面白い、とレミリアは笑った。
ぱん、ぱん、とゆっくりとした拍手を送られ、霖之助はギクリとした。
ここは妖怪の、悪魔の、それも吸血鬼の館なのだ。
そこに半分とはいえ、人の血を持つ自分が入り込んだのだ、悪魔との契約の代償はなんだったのか――
夏も真っ盛りだというのに、紅魔館の気温は低い。霖之助はそこへさらに背中に氷柱を突き立てられたような悪寒が走るのを感じた。
背後の咲夜は黙したまま語らない。
レミリアはくつくつと笑っている。
誰も喋らない。
レミリアの笑い声だけがゆっくりと部屋を支配していった。
「無用心だとは思わなかったのか? 私が悪魔だと言うことを忘れていないか? 半妖の半分は妖怪だが、もう半分は人間だろう? 悪魔と契約するんだ、代償を払ってもらわないとなぁ?」
レミリアの外見には似つかわしくない低い声がゆっくりと部屋に浸透していく。まるで地獄から響くような、低くて邪悪な笑い声が。
霖之助は全身から今になって汗が噴き出したように感じた。今すぐにここから逃げるべきだと心底思ったが、身体は凍りついたように動かなかった。
何故咲夜は主ではなく、自分の背後に控えているのか、ようやくその理由がわかった。
ノコノコとのりこんできた愚かな獲物を逃がさず、確実に仕留めるためだ。
「いいよ、その妖怪とやらは退治してやろう。ただしその代償は払ってもらうぞ、もちろんそれは貴様に流れるその血でもって、になるがな」
しまった――と思ったときにはもう遅い。悪魔との契約は成されようとしている。舌の根が乾いた霖之助は何も喋る事ができない。
「お戯れもそこまでにしてください」
涼やかな声が室内に流れ込んだ。その声は霖之助の背後から風のようにそよいだ声色だった。
「香霖堂さんが困ってらっしゃいますわ」
それまで黙したままだった咲夜の一言で、霖之助から緊張感が抜ける。
それと同時にレミリアが大きく笑い出した。イタズラが上手くいった子供のような顔で笑っている。
「担がれた、ということですか」
嘆息しながら霖之助は呟く。まったくもって人が悪い、いや悪魔なのだから当然と言えば当然ではあるのだが――
「それでなんでそんな話を私にするんだ? 私にしてもしょうがないじゃないか。咲夜への話なら咲夜にすればいいからねぇ」
「咲夜さんはこちらのメイド長ですし、それならばその主の方にも話を通しておいたほうがいいかと思いましてね」
「ふぅん、まぁ咲夜への頼みなんだから……咲夜」
レミリアの声と同時に咲夜がその背後に控える。
「任せた。私が関わっても面白くはなさそうだし、今日はパチェから本でも借りて読んでる事にするから」
「かしこまりましたわ」
あ、あとでこっちにもお茶よろしく、と言い置いてレミリアは出て行ってしまった。
残された咲夜は優雅な仕草で腰をおろして、ゆっくりと瞳を開く。
「さて香霖堂さん。詳しいお話を伺いますわ」
「それは受けてくれるって事かい?」
「お嬢様が受けろと言いましたからね」
今のレミリアのどこが受けろと言ってるんだ、という突っ込みをかろうじて飲み込む。
「詳しい事、と言っても先ほど話した事でほとんど全部なんですがね」
「どんな妖怪かも?」
「えぇ、まったく」
ふぅ、と溜息だけの返事が返ってくる。視線は限りなく冷たい。
しかし霖之助はそんな咲夜の視線を全く意に介さないで、
「いつ頃行きますか?」
と続けた。
咲夜もう一度溜息をついてから考える。
「そうですわね……場所を教えて頂ければ準備が済み次第、今夜にでもと思いますが」
「それは――商売上の秘密でもあるから、できれば僕も同行したいんだが、構わないかい?」
ニコニコと霖之助が訊ねる。邪気のない顔からは言葉通りの意味以外には感じられなかった。
咲夜はしばらく考え込むそぶりを見せると、夕刻に迎えにまいります、と告げる。
多少危なかろうが、彼女は時間を操るのである。その気になれば時間は止まり、なんとでも対処できるだろう、という判断を下した。
「万が一の場合の責任は取れませんが、それでもよろしいのですね?」
「そうならないように、さっさと逃げさせてもらうつもりだよ」
ありがとう、と霖之助が頷いて彼は辞した。
さて、と咲夜は思う。
霖之助を迎えにいくには時間があり、これまたちょうど良くレミリアにお茶を運ぶ用事もある。
レミリアには少し聞きたい事もある。
再び湯を沸かし、麦茶を淹れると隠し味程度の砂糖を入れ、氷をいくつか放り込んでからレミリアの元へと向かう。
レミリアは図書館におらず、すでに本を借りてどこかに行ってしまっていた。
夏の陽射しは暑く、比較的涼しいだろう図書館にいないのは予想の範囲外であった。小悪魔に二人分の麦茶を渡してから、速やかに戻る。
レミリアの私室とさらに寝室も覗いてみたが、やはりいない。
ということはテラスにいるのだろうと目星をつけ、テラスへと通じるドアを開けばそこにレミリアはいた。
大きなパラソルの下で暑くてダルい、といった風情を臆面もなく晒しながら読書にふけっている。
「珍しいですね、さりとて今日は涼しくはないのですが」
「んー、これも見立てかな。そんな事はいいからお茶頂戴、暑くて敵わないわ……」
不快指数の高そうな声に苦笑する。
そんなレミリアへと麦茶を差し出しながら、咲夜は疑問をぶつけてみた。
「何故私に受けろなんて仰ったのですか?」
「私は別に受けろなんて言ってないわよ?」
少しだけ甘い麦茶を飲みながら、レミリアはすっとぼける。
「そんな事はありませんわ。本を読むから邪魔をするな、という事は受けてこいと言っているような物です。今回の香霖堂さんの頼みですが、お嬢様に得がないではありませんか」
「私は妖怪だし、妖怪が妖怪退治をする理由はないでしょう? 暑くてめんどくさいだけよ。きっと」
どこか他人のような投げやりな口調でレミリアはなおも言葉を重ねる。
「任せた、とは言っても受けろとは言ってないしね」
それきり、レミリアは黙ってしまった。
グラスに刺されたストローからズズッっという音がする。
「咲夜、おかわり」
「はいはただいま。ところで建前は終わりました?」
「貴女ねぇ……私は吸血鬼で五百年も生きているのよ? 気まぐれで我侭で子供っぽくて……」
「随分と昔の契約を今でも守り続けているぐらいには、義理堅いですわ」
「…………」
口では敵わないな、と口中で呟きながらレミリアは理由を語りだした。
一つは先ほども自身が口にした、幻想郷のルールだ。妖怪退治は人間の仕事、というのは厳密に定められたルールではないにしろ、レミリア自身も納得できる理由である。
もう一つは、その妖怪を退治してやる義理が霖之助にも、『その妖怪』にも無い事。
この時点ではまだ霖之助も妖怪も同じ条件である。
霖之助からその妖怪にちょっかいをかけた訳でもないので、あとから来た妖怪側に少し分が悪いかもしれないが、力の優劣で負けた霖之助が去るのも仕方ないことだ。
しかしレミリアの傍には妖怪退治のできる人間がいて、それはおおよそ霖之助の知るところ唯一である。霊夢と魔理沙が動かない以上、お鉢がこちらに回ってくる事も納得はできる。
いずれにしても、レミリアの関知することではない……のだが、吸血鬼は貴族であり、領主でもある。領地内の治安維持は必要不可欠であり(もちろん、幻想郷がレミリアの領地ということはまったくない。彼女自身がそう思っているだけである)そういった面であればこれを退治しなくてはならない。
とはいえレミリア自身が出る理由もさしてない。ということで表向きは任せる、と言えば咲夜の意思と判断で受ける事になる。
「……とまぁ、そんなところだけど?」
「よき領主たろうとしてるのですね、それはとても良い事です」
しかしレミリアは全てを話したわけではなかった。
隠したままのもう一つの目的は、咲夜の心境変化を試すのである。
妖怪の山に怪しげな二人の神が来た時も、温泉と共に地霊が噴き出した時も、咲夜は何故か原因解明に動かなかった。
長い冬も、終わらない夜も、四季の花がいっせいに咲いた時も彼女は原因解明に動いており、そういった意味では妖怪の山の神が現われたときは博麗神社のその場に居合わせなかっただけなのだが。それにしても地霊の騒ぎに彼女が地底に行かなかったのが不思議でさえある。
理由を尋ねたわけではないし、さして気にしてるふうでもないので今までレミリアも気に留めていなかったのだが――
今さら聞く事でもあるまい、とも思う。
だが彼女が積極的な態度を忘れると――直感に近いが――致命的な何かに躓いてしまいそうな気がする。
差し迫った事ではなく、はるか未来において、ここでその結果が響きそうな、やらずにいると後で後悔する何かに似た感触。
言葉通りの悪魔的な直感。
そんな直感を口にしたところで、咲夜はおろか、自分自身でも「嘘くさい……」と呟いてしまうような事なので、あえて口にしなかった。
「いつごろ行くの?」
「夕方に香霖堂さんのお店に行く事になってます。それほど時間はかからないかと」
「そう、じゃあ明日には帰ってくるのね」
「えぇ、そうなります。場合によってはすぐ帰ってくるかもしれませんね」
「仕事に差し支えが無ければいいわ、それがここの日常だもの」
「そうですね」
そう言って咲夜はふわりと微笑を浮かべる。そうした穏やかな笑みをなんだか最近はよく見るようになった気がするのだ。それが彼女にとって良い事なのか、それとも悪い事なのかは判らない。
「一応言っておく、気を付けてね」
「かしこまりましたわ」
咲夜の返事を確認して、再びレミリアは本へと視線を落とした。
これ以上語る事はない、と察した咲夜は「失礼します」と頭を下げ、その場から消える。
夏の太陽がジリジリと全てを焼きながら徐々に傾きつつある。パラソルで作った日陰はそれなりに涼しいが、それでもまだまだ焼け石に水である。暑い事に変わりは無かったが、時折りそよぐ風を感じる事で幾分かは和らいだ。
幻想郷も同じである。
平和な時間は確かに大切で重要ではあるが、同じ時間のくり返しばかりでは停滞しているのとなんら変わりは無い。たまには異変でもないと――ありていに言ってしまえば――つまらないではないか。
特に人間にとっては余計にそうであろう。咲夜の気は長い方であるが、妖怪のそれと比べると、やはり見劣りはする。
咲夜が……妖怪に近付いている?
そう考えかけ、レミリアは首を横に振る。それが良い事なのか、それとも悪い事なのか彼女に判別がつかなかったからだ。
やがてレミリアは眩しそうに空を見上げ、
「まったく、ままならないものね。人生ってヤツは」
と呟いた。
よりにもよって運命を操る程度の能力もつ彼女が、である。
§
夕刻になって咲夜が香霖堂を迎えにいくと、霖之助はなにやら包みを用意して待っていた。
鼻腔をくすぐる匂いに、咲夜は思わず訊ねた。
「夕食ですか?」
「ピクニックというには遅い時間だけど、僕にできる事ぐらいはしておこうと思ってね。もしかしたら長くなるかもしれないだろう?」
「それほど手間はかからないと思いますけどね。ところで、結局どちらまでいかれるんですか?」
歩き出した霖之助に何気なく訊ねる。
「ちょっと歩くかな、今から行っても夜になる前にはつくけどね」
「具体的にはどのあたりになるんです?」
「そうだな、博麗神社の裏に近いよ。何しろあの神社は外と内を分ける境界にある。幻想郷の外の世界にも博麗神社がある、なんて言ったら君は信じるかい?」
「にわかには信じ難いですわね」
「まぁ実際にあって、向こうには巫女ではなく、神主さんがいるらしいよ。まったくの伝聞だし、信頼できる相手からの情報でもないけどね」
「眉唾ですねぇ……」
「そうなる」
霖之助は苦笑しながら言う。
程なくして彼の言った通り、目的の場所に着いた。
一時間歩くか歩かないか、と言った距離で、周囲の木々が途切れていた。
「ここだけ木がないのですね」
「おそらく、結界が薄いんだろう。木が多く茂っているという事はそれだけ外の世界から隠されているという事なんだ。逆に考えれば木が無いという事は、それだけ外の世界が近いと言える。そしてそんな場所に物や人が迷い込むんだよ」
霖之助の説明を聞きながら、咲夜は周囲を見渡す。
太陽はすでに地平線へと沈み始めているため、森の中は薄暗い。普段から窓の少ない紅魔館で暮らし、主が基本的に夜行性の吸血鬼である咲夜は夜目には多少なりとも自信があるが、それは明りが少しでも足りる、という程度でしかない。完全に日が暮れてしまえば月と星の明りだけで暗い森の中を見渡せ、というのは無理な話である。
「今は……妖怪はいないですね」
「そうみたいだね」
「それにしても……どんな妖怪なのかわからない、というのはやりにくいわね」
「あ、やっぱりそうかい?」
ボソリとした咲夜の一人言を丁寧に拾う。
幻想郷の揉め事、特に妖怪が絡んでいたりする場合、通常は弾幕ごっこで決着をつけるのであるが、わずかながらも例外は存在する。
妖怪にとって人間は食料であり、人間からしてみれば「自分の命が危ないのに『弾幕ごっこ』なんかできるか」となる。
弾幕ごっこで決着がつくのはそれを理解できる者同士、という事になる。年月を経て妖怪に成る者――例えば猫又や付喪神など――であれば理解を求められるが、妖怪として生まれた者になると、これが弾幕ごっこを理解してくれるのかは怪しい。幻想郷のルールを完全に理解していればいいのだが、理解していない妖怪はただの怪獣となんら変わりがなく、彼らは彼らのルールで生きようとする。本能の赴くままに。
そういった類の妖怪に弾幕ごっこというのを理解させるのは難しく、大抵は殺し殺され、という血生臭い話になるのだ。
もっとも、それが妖怪本来の在り方であり、人間を脅かすにはもっとも効果的ではある。もちろん、その代わりに人間に退治されても文句は言えない。
「本当にここでいいんですか?」
もちろん周囲に妖怪の姿はない。妖気と呼ばれるような違和感だって感じられない。咲夜が怪訝に思うのも仕方ないだろう。
「五日ほど前に妖気というか、危険な空気を感じたし、大きな物音もした。その時点で逃げ帰ったから詳しくはわからないけど……自然の状態では無かったことは確かだね」
「よくそれで頼む気になりましたね……すでにいない可能性は考えなかったのですか?」
「考えたけど、危険かもしれない所にわざわざ僕一人で行くのはさすがにね。いなかったらそれはそれでいいじゃないか」
「ただの無駄足かもしれない、というのは先に教えて欲しかったわね」
「とりあえず、ここらで一晩待ってみよう。妖怪は夜に出歩く者が多いからね、薪を集めてくるよ」
言いたい事だけを言って、霖之助はさっさと消えてしまった。
残された咲夜は、呆気に取られたまま見送って、
「――って途中で妖怪出てきたらどうするのかしら」
と小首を傾げた。
後を追おうか少し迷っていたが、やがて「護衛じゃなくて妖怪退治がメインだし、まぁいいかしらね……」という楽観的な結論を出すと、咲夜も野営の準備を始める。薪だけで一晩中明りが保たれるわけではないのだ、石釜土でも作らないと、風に消されてしまうだろう。
やがて両手に枯れ木を担いだ霖之助が戻ってくるのと、咲夜が石釜土らしきものを組み上げるのは、ほぼ同時であった。
「……風除けかい?」
「えぇ、その通りですわ」
「そのわりには風で崩れそうな気がするんだが……」
「気のせいです」
「ずいぶんと風通しが良さそうな……」
「適度に空気を入れないとダメですわ」
「…………」
いかにもその辺の石を組み上げただけです、というような風貌に、霖之助は苦笑をするしかない。
どこをどうしたらこのような絶妙なバランスが出来上がるのかまったくわからない。石が積み上がっているのが不思議ですらあるのだ。
「しかし……申し訳ないがこれじゃ少し役不足だね」
仕方無いので、一旦崩して組み直すことにする。
ガチャガチャとそれらの作業が終わる頃には、すでに太陽の面影は消えてしまっていた。
「火は――」
「それなら大丈夫ですわ」
咲夜の手に一瞬だけナイフが現れ、瞬時にぐにゃりと姿を捻じ曲げ、薄れ、消えていく。
全てが消えてしまう前にそれはまるで飴細工のように形を失い、橙の灯りと変わると、すぐに暖かな熱を感じさせる揺らめく炎になった。
釜土の中にゆっくりとそれを押し込むと、すぐに乾いた木がぱちぱちと音を立てて燃え出す。
「便利だね、それも弾幕で使うのかい?」
「ええ」
「まるで魔法みたいだ」
「ただの手品ですわ」
まじまじと覗き込み、どことなく感慨深げに訊ねる霖之助に、咲夜といえば実にさらりとした答えをする。
咲夜は懐かしそうに、
「パチュリー様……家の知識人とお嬢様から手ほどきを受けまして」
と続けた。
霖之助の方を見ずに、訥々と喋る。
「これでも最初は全然できなかったんですよ、最初に教えてもらったのはパチュリー様で、パチュリー様は七曜の精霊を扱うんですけどね。なんか全然上手くいかなくって。お嬢様に教えてもらったんですけど、かなり厳しくやられましたよ」
苦笑する咲夜の横顔は幸せに溢れていた。
懐かしみ、慈しむ過去があった。
「そうか……君は今、幸せなんだね」
ポツリと呟いた霖之助に、咲夜はゆっくりと頷く。
ほのかに浮かんだ笑みは柔らかく、見る者をはっとさせる。
「そうですね、今の私は自信を持って幸せだと言えます。色々あったからこそ、ですけどね」
「色々……ね」
咲夜の手によって熾された焚火は、すでに夜空と森を煌々と照らしている。
暖を取るわけでもないが、山に囲まれた幻想郷の夜はそれなりに空気が冷たい。
「そういえば香霖堂さんは……半妖でしたね」
「ん? ああ、そうだね」
そこで会話は途切れた。
咲夜は他人の心の領域には踏み出さない。
霖之助もまた自らの心情を吐露する方ではなかった。
夜の森の中は静かなようでいて、多くの音が鳴り響いている。
風が渡り、枝がしなり、葉が小さな波のような音を奏でる。
短い生だからこそ、虫達が夜を謳歌する。
その虫達を食料と求めた動物達が茂みを駆け抜け、枝から枝へと飛び渡り、飛翔する。
外の世界の森がどうなったのか、あるいは全てなくなってしまったのか、幻想郷に住む者はほぼ誰もしらないだろう。
だが、幻想郷の森は生きている。
「咲夜さん」
どれほどの時が経っただろう。月もだいぶ昇った。星空も巡った。
夜半も過ぎたかもしれない。
「咲夜さんは……自分というものをどういう風に捉えていますか?」
質問の意味を図りかねる。
「どう言った意味です?」
「ある意味で僕と君は似ている……というより共通点がある、と言った方が正しいかもしれないね。だから興味を持った。君がどう考え、何を感じ、そして何故生きているか」
「共通点……?」
思わずオウム返しに聞いてしまう。
霖之助の言いたい事がさっぱりわからない。
「中途半端、とも言えるかもしれないね。簡単な事さ、君は人間ではない。そしてこの僕も人間ではない」
自信と確信に満ちた、力強い言葉が吐き出される。
力強いがゆえに言葉は力を持ち、まるでそれが真実であるかのように振る舞い、暴力をふるう。
ややあってから、咲夜が口を開いた。
「――私は人間ですわ。全身どこをとっても」
「人間は群生動物で、社会を形成しないと生きていけないんだ。種としては最強かもしれない。現に外の世界の人間は地上の覇者であるし、宇宙にも手を伸ばしている。だけど個体としては恐ろしく弱いんだ。それこそ素手ではそこらの野犬一匹に食い殺される程度に弱い。あまりにも弱すぎる人間が辿り着いた結論は『自分以外を否定する事』となり、結果として最強となった。幻想郷はやたら自然がたくさんあるだろう? それこそ森に飲み込まれるぐらいに。外の世界ではそうした森ですら幻想になってしまっているのさ。地球を、妖怪を、豊富な動植物を。そして非力ではない、一部の特殊な人間すらを否定して、排斥する」
霖之助は非力ではない人間、という所でチラリと咲夜を見やる。
「言わば幻想郷の人間たちは、そうした否定された人間たちの末裔なんだ。今でこそ血は薄まり、本当にただの人間と変わらない者たちも多いけどね。ただ……その否定され、幻想となった人間たちでも、さらにはみ出し者がいたのさ」
「魔理沙や霊夢だって、住んでいる所は人里ではないじゃない」
「いまや幻想郷の人間のほとんどは何の力も持っていないよ。だから弾かれているのさ。巫女だから、魔女だから、そして――吸血鬼のメイドだから」
「貴方の場合は半妖だから?」
「そう。半妖や能力をもった人間はやはりこの幻想郷でも爪弾きにされるんだよ。妖怪と人間の役割は一方通行で、食うか食われるかでなければならない。人間が絶滅したら妖怪は生きていけないし、その逆もまたしかり」
「妖怪が絶滅すれば、人間は平和に暮らせるんじゃなくて?」
「ところがそうもいかないのさ。妖怪が幻想郷にいる、という事は外の世界ではすでに忘れられているという事でもある。外の世界は安全かもしれないが……幻想郷に自然、妖怪、動物類まで多くなってきているという事は外の世界ではすでにそれらが失われているという事でもあるんだ。もしかしたら、外の人間は食べ物にも困っているのかもしれないね」
先ほどまでの長い沈黙を埋めるかのように、まるで止めるスイッチを壊してしまったかのように霖之助は喋る。
彼の言っている事は、危険な事だ。この手の話題は尽きる事無く突き進む。最終的に結論なんてでないし、それぞれ個人の主張を言い合うだけに終始してしまえばそこに和解は生じない。まかり間違えばそれこそ血を見る話題でもあるのだ。
それを薄々と感じながらも、
「それで、それと最初の質問がどう関係するわけ?」
咲夜は止まらない。止められない。止めるということすら念頭に無かった。
血を見るかもしれない話題にも関わらず。
「僕は長い間、人里から離れた所に住んできた。商売は半ば趣味みたいなものだと自分でも思っている。生きて行くのに必要な物を対価として受けられれば、いつかこの身が消えて無くなるまでこの生活でいいとも思っているんだが……」
やたらとまわりくどい前置きをしてから、霖之助は切り出した。
「暇な時間を思想思索に割り振っていると、どうしてもこういう益体もない話になっちゃうのさ。半妖やそういう爪弾きにされた人間たちの地位向上とかはどうでもいいんだが、答えのない問題、解答の存在しない疑問。過去は変えられないのだから、せめて自分はこれからどこへ向かうのか、終着駅はどんな形をしているのか、そういう想像をしてみたくなるのさ」
「ようはただの暇潰し?」
「時間があるっていうことはいい事とは限らない。それこそ益体もない考えに囚われ、支配され、「自分探し」なんていうまるで意味のない事を他所に求めたくなる。自分なんて探すまでもないんだよ、自分なのだからね。自我を喪失する、なんていう事はないのさ。『我思う故に我有り』で答えなんていつでもどこでも自分の中にしか存在しない。だから他人から正解をもらうなんていう事はしないけど、モデルケースを見るのはいい事なのさ」
「ただの暇潰しですよね?」
「もちろんこの手の話題には終わりがない。終わりがないからこそ益体もないし、どれだけ他のモデルケースを知ったところでそれが役に立つ事はない。何故ならそれはあくまでも他人の話であって自分にはまったく関係のない話だから」
「やっぱり暇潰しじゃない」
「そうとも言う」
「そのメガネ素敵ですね。カッコいいからあとの部分を物理的に排除しましょう」
「謹んでお断りさせてくださいあと妙にキラキラするそれを仕舞っておいてください」
焚火から手と腰と足を総動員させて半歩だけずり下がる。
どこで話がズレたのか、いやそもそも話はズレていなかった。
「半妖として生まれた僕はたぶんこれからもずっと幻想郷にいるし、あの店を動くつもりも今のところはないし、ずっと続けていくつもりだ。半妖だから人と交わることも恐らくないだろう。訪れたお客に売れるものがあったら売る。自分で面白そうだと思ったら使う。もちろん訪れたお客に人か妖怪かなんて関係無い。古道具屋、香霖堂は今までとなんら変わらず、少しだけ変わって、僕が終わるまで続いていくと思う。人にも妖怪にもなれないではなく、人でも妖怪でもない、それが僕の生き方なんだ」
そう霖之助は締めくくった。
おそらく、彼の言った通りなのだろう。
魔法の森の外れでずっと古道具屋を営んでいく。そういう生き方を選んだのだから。
チラリと咲夜の方を見ると、思いつめた表情をしている。
霖之助の視線に気が付いた咲夜は一つ溜息をつく。
「私は……幻想郷に生を持った人間じゃないわ。他所から――紅魔館と一緒に流されてきた。だから、幻想郷の人にとっても余所者なの」
「へぇ……それは知らなかったな」
「それより昔はともかく……幻想郷に流れ着いて、仕組みを理解して、毎日を生きていく内になんていうか――そう、大人になったのかもしれないわね」
霖之助の目には咲夜とてまだまだ少女に映る。もっとも、彼女は時間を操る人間だし、彼女の主人のレミリアにいたっては齢五百を越える吸血鬼だ。見た目の年齢がどれほどアテにならないのかは、幻想郷の少女達にも言えることである。
時間を操る人間に年齢は意味を持たない。それは人間であろうと妖怪であろうと変わりないのだ。
見た目の年齢で言えば咲夜は少女というには女性らしさを持ち合わせている。子供とは呼べず、大人ともいえない彼女は時折り、見た目にそぐわないほど大人びた表情をしてみせる事を霖之助はこの短時間で見せ付けられていた。
「そうね……それまでの世界と違って幻想郷はのんびりしていたわ。誰もが自分の中の時間で動いている。人も妖怪も好き勝手に生きていながらどこも破綻していない。最初は凄く驚いたわ。人外の存在がこれだけウロウロしていて、人間たちが生き残れるはずはない、そう思っていたんですものね」
クスリと笑って続ける。
「今でも不思議に思うわ。人と妖怪の関係って殺すか殺されるかだと思っていた。基本こそ変わらないけれど、もっと殺伐としているかと思ったわ」
「今でも充分に殺伐としているさ。妖怪は人間を喰う。人間は妖怪を退治する。その基本的な事は変わらない。ただ、どちらもお互いを全滅させよう、お互いを否定しようとは思っていないだけさ。わからない事はわからない。理解できないけれども許容しあう。それが幻想郷かもしれないね」
不意に、咲夜が切り込む。
「半妖は人間と妖怪の間に生まれる存在。人間でなく妖怪でもない貴方が、何故『妖怪退治を人間に依頼する』の? それは妖怪にとって不利益なこと、人間に味方する、という事ではないのかしら」
「簡単な事だよ。僕は妖怪でも無ければ人間でもない。人間に味方をするつもりも無ければ、その逆もまたそう。僕は僕の味方しかしない。この妖怪退治だって、僕に不利益だからお願いしたまでで、人間がどうだとか妖怪がどうだなんて事は全く関係無い」
「いつも霊夢や魔理沙の世話を焼いているっていうのは、人間に味方をしているという事ではないの?」
「それも全部僕がそうしたいからそうしてるのさ。僕自身にはどちらかに味方をしているなんて考えてないよ。言ってしまえば個人主義なのかもしれないね、だからこそ誰にでも商品は売るし、必要なら助けを請うのさ。それにしたって咲夜さんだって、どうしてあれほどレミリアさんに肩入れをするんだい? 人と妖怪の関係で言えばその方が僕には不思議だね」
霖之助が眼鏡の奥で笑う。彼としては答えなんてどうでもいい問題なのだろう。ただなんとなく、ふと気になったから聞いてみた、という程度しかない。
咲夜もそれを知りながら答える。
「私はお嬢様に拾われて、その恩は一生忘れないものだと思っているわ。言ってはなんだけど、私の過去はあまり幸せではないのよ。もちろん、自分だけが不幸だったなんて思ってないわ。私より悲惨な暮らしをしていた子供はたくさんいるし、今ここにこうして生きていられるだけで幸せだとすら言えるの」
殺人ドール、夜霧の幻影殺人鬼、クロースアップ殺人鬼、ジャック・ザ・リッパー。
咲夜の使うスペルカードはどことなく殺人を思い起こさせ、血の匂いがするような名前ばかりである。おおよそ少女が使うような名前ではない事は確かだ。
「それに、今ではなんだか幻想郷での生活が悪くないと感じるの。平穏な生活を望んでいますわ」
そこでふと霖之助は気が付いた。彼女の言葉が敬語のそれでなく、砕けた調子になっていることに。
「お茶を淹れて、館の中を掃除して、お嬢様の食事を作って……たまには我侭も聞いてあげて。振り回されるのも、たまには振り回すのも楽しいわ。今日だってお嬢様が受けろと言わなくてもここに来ていたでしょうね」
口元をほころばせ、ふわりと笑う。
いつも冷たく、鋭利なナイフを思わせる少女の微笑みは、こんなにもあどけなく、屈託がないのか。
いつしか釣られるように、霖之助も笑っていた。
§
ひとしきり話終えると、すでに夜明けが近かった。
黒いはずの夜空はいつの間にかうっすらと青みが増し、紫の空になりつつある。
「結局、妖怪は来ませんでしたね」
「そうだな……どっかにいってしまったのだろう。まあこれでやっと安心して商品を仕入れられるよ」
「拾うだけじゃない」
「どっちも同じ事だよ。そしてどっちも重要な事さ」
うそぶくように呟いた霖之助の目に白い光がうっすらと差し込んでくる。
日の出とともに世界は圧倒的なスピードで夜を朝に塗り替えていく。
「結局徹夜ですね。とても眠いですわ」
「朝になったら帰って今日は寝ることにしよう」
朝焼けはすでに始まっていた。
灯りがいるかいらないか、というような微妙な時間帯だった。
そしてそれは、唐突に現れた。
不意に朝日が遮られる。
その影はまったく突然に現れた。
思わずその影を見上げた二人の視線が固まる。
巨大な、そして扁平な体の左右から分かたれた左右四本ずつの足。
「――っ!」
声を発する暇すらない。上空から重力に任せるままに落下してくる影を見上げたまま霖之助は固まってしまった。
唸りを上げて鋭利に尖った足が上空から落ちてくる。
不意に衝撃を受け、立っていられなくなった。
突き飛ばされた、と霖之助が感じた時には、巨大な物体の前に座り呆けていた。
目の前に広がる青と白のコントラスト。咲夜がいる。
巨大な物体からは通常の生活ではまず感じられない空気を感じられる。
大きな、とても大きな蜘蛛だった。
比較的開けた場所であったが、それを埋め尽くしてしまうような巨体と、その上に女性と思わしき上半身が生えている。
その蜘蛛が、大気を震わせるような咆哮を発した。
「じょ……女郎蜘蛛なのか……」
「下がって」
焚火をはさんでいたはずの咲夜がいる、という事は恐らく彼女の時間を操る程度の能力のおかげなのだろう。気が着けば座っていた場所から数メートルは離れている。
咲夜の言葉に従い、這々の体で下がる。
背後を振り向き、全力で走りながら後ろを見るとすでに咲夜は空からナイフを雨あられと投げつけていた。
「すごいな……」
これほど大きな妖怪がいたのかと感心するが、その大きさがかえって仇となって弾幕を避けられないようだった。
女郎蜘蛛とて、やられているばかりではない。女性の部分が手を振り払うと、空間が裂け、白い光が幾重にも飛び出す。一斉に咲夜に向かって放たれた光はしかし咲夜を捕らえられない。
完全に土俵が違っていた。
なにしろ咲夜は時間を操るのである。あの五百年を生きた吸血鬼、レミリア・スカーレットの傍にいる者が、どうして普通の人間だろうか。
咲夜の動きは速い。女郎蜘蛛が狙うと一瞬にしてその反対側へと現れ、次々とナイフを投げつけていく。
ある物は甲殻に弾かれ、ある物は突き刺さり、女郎蜘蛛へと確実にダメージを与えている。
対する女郎蜘蛛の攻撃は咲夜に届いておらず、まさ
に一方的な状況になっていた。
見たこともないような大きな妖怪を相手に見事な立ち回りで圧倒していく咲夜。
いまや女郎蜘蛛は全身から紫の体液を迸らせ、動きが止まっていた。
彼方の上空で咲夜が両手を上げると、まるで地面から噴きだしたかのようにナイフが飛び出し、女郎蜘蛛の全ての足を貫通、切断しながら上空へと登る。
朝日を浴びて輝くナイフが空中で向きを変え、一斉に動けなくなった女郎蜘蛛の女性部分に向かって突き立った。
それまでの大気を揺るがすような咆哮ではなく、か細い断末魔とともに沈んでいく。
終わってみれば、なんとも呆気ない幕切れだった。
物語につきもののピンチや逆転などなく、終始咲夜が圧倒的に打ち倒しただけであった。
これ以上動かない事を確認すると、ゆっくりと霖之助に向かって降りてくる。
「終わりましたわ」
「お疲れ様。見事だったよ」
終結を告げる咲夜を労う。見れば彼女は汗一つかいていない。
「それにしても……こんな大きな妖怪なんて初めて見たな。どこから来たんだろう」
「それは直接聞いて見るしかないですわ。会話が通じれば、ですけど」
「いずれにせよすでに喋れないだろう」
「それもそうですね」
「ならば私が代わりにお答えいたしましょうか?」
二人の背後から声が掛かる。
霖之助が慌てて振り向いた先には見知った顔がいた。
背後の森から出てきたのは八雲紫である。
思わぬ大妖怪の出現に驚く二人を他所に、草を踏みしめながら歩いてくると、
「彼女の役目は、もうおしまい」
パチンと指を鳴らす。たったそれだけで巨大な妖怪があっという間に消えた。
咲夜が苦戦した、というわけではない。ただ単に紫の能力が反則的なだけである。
「もしかして……」
苦い顔で霖之助が言い淀む。咲夜は何の事だかさっぱりわからないまま、事態を見つめるしかない。
「そう、この妖怪は私の差し金であり、私からの問いかけでもあるのです」
手元の扇で霖之助を指し、
「例えば貴方。妖怪と人間の間に生まれた中途半端な存在、半妖……半妖であるからこそどちらにも味方はしない。それは大いに結構ですが、貴方は少々人間に肩入れをしすぎる。ワーハクタクの誰かのように明らかに人間の側に立つとも行動していなければ、人間を脅かす存在にもなれない実に中途半端な半妖。人間と妖怪のバランスに苦心しながら保たれている幻想郷において、貴方の存在は毒なのですか? それとも薬なのですか?」
上品な笑顔で紫は言う。
「例えば貴女。妖怪と人間は本来相容れないのです。妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する……それがこの幻想郷のルールです。なのに貴女は妖怪を主とし、多くの妖精や妖怪とともに暮らしている。本来ならばそれは許されざる行為であるし、妖怪と暮らす人間は次第に妖怪に、人間と暮らす妖怪は次第に人間になっていく。それが交わる道理でありながらそれを超越し、人間のままで妖怪と暮らし続ける。貴女は一体どちらの側に立っているのですか?」
咲夜を指しながらそう言った。
霖之助と咲夜は思わず顔を見合わせて苦笑しあう。
「何を今さら」
「そう、何を今さらですわ」
「幻想郷は全てを受け入れる。そう言ったのは貴女でしたね」
その答えを十全としながら、さらに紫は問う。
「そう、幻想郷は全てを受け入れます。故に自らの本質を見極めていない者は存在できない。迷い人が外の世界に帰れるのはその為なのです。幻想郷が貴方達を受け入れても、貴方達が幻想郷を受け入れられなければ、それは同じ事なのですよ。幻想郷で生まれたから、長い時間を幻想郷で過ごしたから、といった理由だけでは済まされない問題なのです」
「中途半端な存在の僕は中途半端なまま幻想郷にいる。中途半端こそ自分だという僕が幻想郷以外に行けるとでも思うかい?」
霖之助の答えに、紫はほうと息をつく。
中途半端こそが自分である。という開き直りの境地は紫の問いに対して、実に良く答えていた。立場こそ曖昧であるが、霖之助自身としては確かにしっかりしている。人間と妖怪という二大対立構造を基本とする幻想郷において中立であり続けるというのならば、確かに霖之助の行動は正しいのだ。
「幻想郷なんてどうでもいいのよ」
そう言ったのは咲夜である。
「私はお嬢様と共にあればいいの。妖怪になれというなら妖怪になるし、人になれというなら人になる。幻想郷だろうがどこでも変わらない。お嬢様の傍にいることがまず第一であり、そこがどんな場所かだなんて、どうでもいいのよ」
この答えもまた正しい。あの幼い吸血鬼のどこに彼女をここまで心酔させる理由があるのかはわからないが、幻想郷でなくてもいいと言い切る彼女の芯の強さ。
「あら、思ったよりもあっさり答えられてしまいましたわ。せっかく手の込んだ仕掛けまでしたのに」
「手が込みすぎて何の事だかわからないわ」
「それでいて終わりはあっさりしていたしね」
霖之助と咲夜は笑いあう。
「まぁ、よろしいでしょう。幻想郷でも比較的珍しい貴方たちの言葉を聞いてみたかったというのが本来の私の目的ですので、目的は果たされています。貴重なお話を頂けて満足ですわ」
それでは失礼。と言って紫の姿が背後に開いた隙間の中に消えていく。再び閉じられた隙間は、まるで最初から何もなかったかのように消えてしまった。
「さぁて、妖怪退治もしてもらったし、帰ろうか」
「えぇ、そうしましょう」
笑顔のまま霖之助が促す。
咲夜もまた笑顔のまま頷いた。
昨夜交わされた会話にはもうひとつ、隠された意味がある。
お互いの考えること、心情、感情を吐露しあうことで距離感が縮まる。
相互理解というには程遠いかすかな触れ合いではあるが、少なくともお互いが笑顔になれる、という効果があるのだ。
霖之助が歩き出す。
咲夜がその後ろにつく。
お互いの表情は見えないが、晴々とした笑顔であることだけは確かであった。
朝日が二人を照らす。今日もまた日常が、幻想郷が始まるのだ。
彼らの愛した幻想郷が。