―――鬼さんこちら、手の鳴る方へ……
秋の美しい森の中、その妙なる景色に目もくれずに走る三つの妖がある。
最後尾を走る氷精チルノは、背後に聞こえる草を踏む音に即応した。
「そこ!」
身を捻って向けた指先から、無数の雹弾が撃ち出される。
「やった!?」
足は止めず、それでも振り向きながら叫んだのは、現在真ん中を走る橙である。チルノがその声に応えようとした時、雹弾の返礼は雨のような矢にて返された。
『っとぉ』
二人は同時に声を上げ、先頭を走る宵闇妖怪、ルーミアに覆いかぶさるように身を伏せた。
「まだ日も高いうちから大胆だね? 私の周りは暗いけど」
「ぼけてる場合か!」
どこかずれた返答を返すルーミアにチルノは鋭く突っ込んだ。世間ではバカの代名詞と化しつつあるが、このメンバーにおいては数少ない突っ込み役を担う少女である。
「まぁまぁチルノちゃん。怒ってばっかいると早く老けるよ?」
「黙ってな!」
危機感のない橙の発言に頭を抱えるチルノ。
ルーミアは天然だが、橙は育ての親の非常識な愛と力のせいで、多少ずれた子になっている。その二人の間でひたすら翻弄される、仲良しトリオのリーダー格がこの氷精だった。
「ちょっと、あんたら状況分かってるの? さっきからずぅっと追われてて、しかも相手は姿すら見せてないってのに!」
氷精の名に反して熱いチルノの力説が続く。矢は今のところ収まっているので、この隙に逃げればよさそうなものだが。
「森の中で距離取られてるんだから仕方ないって。
大平原のど真ん中ならこうは行かないよきっと」
「あたしらが望んだら此処が行き成りそうなるのかよバカ猫!」
「いやー……藍さまなら多分……」
「あたしらには無理だろ? 意味無いんだよそれじゃあさぁ……」
肩を落とすチルノに橙が何か言おうとした時、再び三人を襲う矢の嵐。咄嗟に散った三人だが、一矢はルーミアをかすめ、その金髪が数本舞った。
「大丈夫!?」
「ん。へーき」
無邪気な笑顔でサムズアップするルーミア。それに負けない笑顔で、チルノと橙も親指を返す。
再び走り出した三人組は、走りながら隊列を整える。
先頭はチルノ。足の遅いルーミアを真ん中に置き、一番早い橙が最後尾についた。三人が一緒に逃げ切るための配置である。
「さぁ、逃げるよ!」
ルーミアの手を取り走るチルノは、この鬼ごっこの発端を思い返して密かにため息をついた。
* * *
「お腹空いた……」
それは何の変哲もない、いつものルーミアの台詞だった。
「またかよ……」
呆れるチルノ。この返答もいつものことといえばそれまでである。
チルノは元々食事を必要としない妖精なので、空腹というものが理解し辛かった。ルーミアの居住地が博麗神社に近く、食事が自由にならないという事情を知ってはいても、肩を竦めずにはいられない。
「まただよ。チルノと違って燃費悪い体してるんだから」
「っは、ご愁傷様で」
「その分まだ希望があるんだけどねー」
ルーミアは挑発的な笑みを浮かべ、平らな胸を反らしてみせる。その様子に、チルノは鼻で笑って応えた。
「妖精だって姿は変わるんだよ。将来は美人になるっていうお墨付きもあるんだから」
「誰の?」
「大妖精」
『……』
自信満々の氷精の顔を凝視し、其処に疑念やら冗談やらの成分を発見できなかった猫又と宵闇妖怪。二人は盛大なため息をついて憐れんだ視線をチルノに向ける。
「な!? 何よその目は!!」
「……いや、優しさは時に刃物になるって藍さまも言ってたし」
「身内の欲目だよねー」
「あ、言ったねこいたね抜かしたね!? 大妖精はあたしに嘘ついたことないんだから!」
「藍さまだって嘘はつかないよ。隠し事はたくさんするけど」
「きっと、チルノは大妖精に初めての嘘をつかせちゃったんだね」
「っぬぅ……そもそも橙だって大して変わるとこないじゃん」
「私はすっごい美人になるに決まってるの。なんと紫さまのお墨付き」
実際の美人にそう言われたのだから間違いない、と誇らしげに語る橙。それを聞いたチルノはルーミアと顔を見合わせた。
其処にあったのは共通の認識。即ち、不信。
「ちょっと橙? 藍は嘘付かないかも知れないけどさぁ……」
「なによ」
「あのスキマ妖怪は絶対嘘つきだよね?」
「!?」
突きつけられた現実に眩暈を覚える橙。信じたくはない、しかし否定できない事実に膝を折る。
「そんな……確かに藍さまはそんなこと言ってくれなかったし……だけど、でも……」
本格的に沈みかける橙だが、それを察したチルノは、寸前でフォローに入る。
「あ、でもほら、今はそれ所じゃないって! 何か食べ行こう?」
「賛成」
「異議なし」
チルノの提案に、一も二も無く頷く二人。特にルーミアの方はかなり切羽詰ってきたようで、深刻なため息を吐いている。
「じゃ、早く人里行こうよ。近いし」
「は!?」
脈絡も無く言い放つ橙に、チルノは目を丸くする。式と妖怪と妖精。この三人で人里に向うなど正気の沙汰とは思えなかった。
「それにも異議なし!」
「待てこら!」
欠片の疑問も持たずに賛同するルーミアを張り飛ばし、頭を抱えるチルノ。彼女にとっては、いらぬ苦労を背負おうとしているとしか思えなかった。此処は秋の山の中であり、食べるものならいくらでも手に入るのに。
「あんたら本気? こんな面子で行ったら問答無用で襲われるって」
「でも今は越冬用に色んな食べ物蓄えてるんだよ? 第一落ちてるものを食べちゃいけませんって藍さまも言ってたし」
「危ないことをするなとは言ってなかったのかよバカ猫!」
「危険を楽しめる奴が大物になれるから適度に楽しんで来いって藍さまが……」
「あいつの適度と私達のそれの落差に気づいてよ お願いだから!」
しばらく口論を続ける式と氷精。微妙に意思の疎通がとれていなかったような気もするが、当事者の、少なくとも片方は真剣だった。
「ところでさ、チルノちゃん」
「なによ?」
「ルーミアちゃん……居ないね?」
「え!?」
橙の指摘に気づいて、周囲を見回すチルノ。確かに先ほどから声を聞いておらず、会話をした覚えが無い。
「何処へ……ってまさか……」
「行っちゃったのかな? 里」
「っんのバカがぁ……っ!」
怒りで血圧を高めつつも、地面を蹴飛ばすチルノ。怒りの大半は心配の裏返しであったのだが、それを素直に言えるほど大人ではない。
すぐさま舞い上がり空を駆けるチルノに、橙もしっかりついてくる。
「チルノちゃん良い奴だよねぇ」
「うっさい黙れ!」
「でもね?」
「あん?」
「里ってそっちじゃないんだなぁ」
「早く言え!」
怒れる氷精の飛び蹴りが、とぼけた猫又を撃ち落した。
……結局のところ、二人は里に入る直前でルーミアを捕捉することに成功した。だが食料の現地調達(略奪)を主張する橙とルーミアの意見は、チルノ一人で止めることなど出来る筈もなく、三人は里に潜入することとなった。
そして当然、越冬用の食料庫と言えば村の生命線なわけで……
そんな所に見張り役が居ない筈が無い訳で……
案の定発見された三人は、村の屈強な男達に追われることとなったのだった。
* * *
「待てやこの餓鬼共!」
「誰が待つか!」
命がけの鬼ごっこも、既に開始からそれなりに長く続いている。先ほどから矢は殆ど飛んでこなくなり、代わりに幾人かの男の姿と、背後から掛けられる怒声に取って代わっていた。
その様子を敏感に感じ取ったチルノは、忌々しげに舌打ちする。
「距離が詰まってきたか……」
「どうするチルノちゃん。飛んで逃げる?」
「ダメ。今、遮蔽物が無い所に行ったら狙撃されるよ」
「もう殺っちゃって良くない?」
「それは最後の手段だよ」
ルーミアの手を引きながら、チルノは一瞬振り向いた。視認できる人間は五人から六人であり、明らかに先ほどよりも減っている。コレは脱落したのか、それとも――
「囲むつもりかなぁ?」
「誘導されてるよね、これ」
「殺るなら今だよ?」
物騒な発言を繰り返すルーミアに、沈黙で応えるチルノ。確かに戦うのであれば、相手が数を割いた今が好機ではある。
しかし、チルノと橙は躊躇った。チルノは喧嘩の常識から、橙は主人との座学から、囲いの際の追い込み役は、逆撃に対応できる強者がやるものと知っていた。負けるとは思わないが、短時間で勝つ自信も全くない。そして長引けば必ず、相手方には援軍が到着する。
「飛べる私達に地形は関係ないから、追い立てるとしたら森の外かな?」
「かも知れない。ルーミア、アンタ広範囲スペルのストックある?」
「あるよ」
「橙は加速系どんなもん?」
「とりあえず、きっついのが一個ある」
その答えを聞いたチルノは一瞬考えこんだが、すぐに作戦を決定した。
「おし、とりあえず囲まれる。そいでもって、あたしとルーミアで一発ずつぶちかましたら、橙のスペルで一点突破」
「あのさーチルノぉ……」
「なによ!?」
「何人かお持ち帰りしたいんだけどな?」
「真昼間っからやったら面倒だよルーミアちゃん。主に巫女とか」
「そうそう。狩りは今度にしとこうよ」
「じゃ、次は夜に行こうね」
ルーミアの発言を聞かなかったことにして、方針を定めた三人は背後の怒声に追い立てられる様に走った。
最後方を走る橙は、まめに背後を振り向いて相手との距離を測る。時たま散発的に飛んでくる矢は、全てチルノが氷結させて散らしていた。
「ちょっと詰り過ぎてるか……ルーミア?」
「なぁに?」
速度は落とさないままに、チルノは振り向いてルーミアを見る。その顔には幾分汗が浮いているものの、特に苦しい様子はない。
「テンポ上げるよ。ついてこれるね?」
「おっけー」
チルノは一つ頷くと、ルーミアの手をさらに寄せた。
「よし、それじゃ……」
「チルノちゃん前!」
唐突に橙の声が森に響く。ルーミアとの会話に集中していたチルノが橙の警告に反応したのは、既に結果が出た後だった。
「ふぇ……っぶ!」
「ぐぺ!」
橙は前を走る親友二人が、眼前の大木に真正面から突貫する一部始終を見届けた。帽子を取って顔を扇ぐ。
「赤鬼さん、青鬼さん」
主に付けてもらった式で背後の追っ手を牽制しつつ、ジト目半眼で呟く橙。
「あーあ」
「うう……痛いよ……」
「酷いよチルノー……」
ルーミアの非難に返す言葉の無いチルノ。ルーミアは回避不能の寸前で木の存在には気づいていたが、手を引かれていたために避けることが出来なかった。結果、チルノの後頭部に顔面から突っ込んだルーミアも顔を抑えて呻いている。
挟まれたチルノも相当に痛そうではあるのだが。
「こんなときに二人の世界作るからいけないの。今度から、ちゃんと私も入れてよね?」
「なにバカなこと言ってんのよ……」
「なに? 私の言ってること何か違ってる?」
「いや……仰せの通りですスイマセン」
色々言いたいことはあっても、全力疾走中に前方から意識を反らしたほうが悪い。
その点にのみ納得したチルノは、素直に頭を下げてみせる。衝突に本来関係ないルーミアまで巻き込んだ以上、これは仕方ないと割り切った。
「さ、森が切れるよ! 走れる? 二人とも」
『応よ!』
橙の呼び声に、ルーミアとチルノは揃って鬨の声を上げた。その背後からまた、男達の怒声が聞こえる。どうやら橙の牽制を抜けてきたらしい。
慌てて走り出す三人は、森の帳が薄くなっているのが目に付いた。同時に、背後から火球だの霊弾だのが撃ち込まれてくる。
「やっぱりこっちに誘ってたか!」
「分かり易さは美徳だって藍さまも言ってたよ」
「飽きも早いけどね」
「二人とも物知りだね」
自分達を追い越していく弾幕は無視しつつ、左右に開けていく木々を超えるたびに、周囲は明るくなっていく。
そして、眼前には明らかな森の切れ目。
木々に遮られることなく降り注ぐ日の光が見えたとき、三人は迷わずその中に飛び込んだ。
* * *
「何処……ここ?」
橙が呆然と呟くのも、無理からぬことだった。背後には壁のようにそびえる森が、完全に途切れている。変わって、三人の目の前に広がっているのは花畑。無数の向日葵が空に向って伸びており、その背丈は優に子供のそれを超えていた。
「向日葵かぁ……種が美味しいんだよね。お腹には溜まんないけど」
「お、ルーミアちゃん通だねー」
走りながら話しているのは、橙とルーミアである。二人は会話に夢中で、チルノの表情に影が差している事に気がつかない。
「此処って……確か……」
チルノは呟きながらも足は止めない。追っ手がかかっている以上それは当然である。しかしいつの間にか、先頭を走っていたチルノは最後方まで遅れていた。
「どうしたのチルノちゃん?」
橙が声を掛けても、チルノは気づいた様子も無く何かを呟いていた。
「あれ……けど、でも……」
ついに完全に足の止まったチルノに、ルーミアと橙が駆け寄った。しかし二人の気遣いは、それをはるかに凌ぐ音量によってかき消される。
「もう逃がさんぞ、妖怪共!!」
此処を待ち伏せの場所にしていたらしい追っ手達が、チルノ達を取り囲む。姿は子供でも、相手は妖怪。先ほどの橙の牽制もあり、不用意には仕掛けずに、距離を取りつつ隙を伺う。
チルノはざっと相手を見回すと、そのリーダー格らしい男に話しかける。
「なぁ、あんたさ」
「……なんだ?」
「此処って、何時から花畑になってたの?」
「知らんのか? ここはもう、俺が生まれたときから花畑だったんだ」
「……はは、そう……なんだ」
「何言って……!?」
男の返答は、しかしチルノの奇行に遮られる。チルノは突然青い顔をして座り込み、自分の身体をかき抱いて震えだした。
その様子に、ルーミアと橙は眉を顰める。二人の知る限りチルノは本来勝気であり、いざと言うときの難局ほど、鼻で笑って切り抜けるのがこの氷精だったはずだが。
「……生まれたときから? ありえないって気づけよこんな不自然あるもんかよ……そもそも秋に向日葵咲くか? ああ、もう!!」
震えながら呟く氷精。全ての生き物の視線が彼女に注がれる。
―――それは動物だけに留まらず
いつの間にか彼らを囲う向日葵全てが、 チルノに向かって咲いていた。
明確な意思を持った好奇の視線。
そのことにまだ誰も気づいておらず、気づいたのは顔を伏せているチルノのみ。彼女は天敵に見つかった小動物の心持ちで、恐慌に狂う精神を必死に手繰り寄せていた。
「っは、そんなに怖いかよ?」
その様子に勘違いした男の一人が、三人に声を掛ける。どっと笑い声が起こる中、唐突に顔を上げ、立ち上がったチルノが叫んだ。
「逃げよう!」
「おい、今更逃がすか!」
「あんた達も逃げたほうがいいって、ここやばいよマジ死ぬから」
「何言ってやがるこの餓鬼は」
チルノたちを取り囲む男達に、残酷な笑みが浮ぶ。自分達の絶対的な有利を確信しているその表情。圧倒的な強者として、弱者を思うままに踏み躙る時の、人が持つ確かな残虐性。
「此処には俺らの仲間も張ってるんだ。お前らにコレが何とか出来るのか?」
「―――そのお仲間さんって言うのは……」
男達に応えたのは、微笑を交えた女性のソプラノ。人妖問わず振り向いたその先には、無数の花に祀られた人型の妖。
「この子達のことかしら?」
萌黄色の髪にチェックのスカート。無造作に携えた薄桃色の日傘。穏やかな、しかし一片の慈悲すら感じられぬ笑みを浮かべた花妖怪。
その背後には巨大な向日葵が一輪、天に向かって伸びていた。絡みついた触手には不自然な団子状の塊が五つ。まるで蓑虫のように吊るされた肉塊は、掠れた人語で呻いていた。
「久しぶりね、太陽娘」
「幽香!」
先程と違い、親しげな微笑で語り掛ける幽香と対称的に、敵愾心をむき出しにしてチルノが叫ぶ。
チルノの行動が全て彼女に起因していると悟った橙とルーミアは、幽香に対して身構えル。
その一方で男達は、仲間を捕らえた異形の向日葵に目を奪われていた。
「嗚呼、なんと良き日なのかしら? 友人との再会に冬越しの食料、一度に済ませられるなんて」
「友達じゃない」
「親友だものね?」
「何言って……!?」
「――だけど、少し待っていて」
友達宣言に憤慨するチルノを、片手で遮る幽香。
穏やかな物腰からは信じがたい圧力が、その場の人妖を縫い付ける。
幽香は一堂の緊張など何処吹く風と、スカートの端を摘んで会釈した。
「初めまして、私は風見幽香です。人間の皆様とは短い付き合いになるかとは思いますが、こうしてめぐり会えた縁に感謝しておりますわ」
俯いた幽香の表情は、前髪に隠れて見ることが出来ない。しかしその声に含まれるのは明らかな愉悦。今が、そしてこれからが楽しくて仕方ない童女の声音。
応えるものがいないことに気を悪くした風もなく、幽香の顔に浮ぶのは微笑。
「それでは、下ごしらえから済ませましょ?」
主の声に答え、向日葵畑が豹変した。数十本の向日葵が、根から別たれ宙に浮ぶ。その茎は鋭く斜め切りにされており、不気味な迫力に凍りついた世界で、幽香は一つ指を鳴らした。
「血抜きしないと美味しくないわ」
根を失った向日葵は、水を吸い上げることが出来ない。しかし生を望み滅びを拒否する本能は、幽香の力を借りて、もっとも手近な水へと迸る。
「っぎゃ!?」
数十本の向日葵は、宙吊りにされた肉塊に突き刺さった。
生きたまま刺し花の土台にされた男達は、絶命するその瞬間まで鮮血を撒き散らし、見るもの全てを朱に染める。
即死出来たものは、まだ幸せだったろう。不幸なのは急所を外され、助からない傷を負いながら数分間の地獄の中で、血の雨の水源となり続けた者だった。
降り注ぐ返り血で赤く染まった向日葵を、秋風が優しく薙いでいく。緩く揺れ、カサカサと音を立てる向日葵はまるで嗤っているようで……
永遠にも感じる、長い刹那の金縛り。そこから一同を解き放ったのは、誰かの発した声だった。
「ねぇ、花のお姉さん」
その声がルーミアのものだと気づくのに、橙とチルノは若干の時間が必要だった。普段能天気な親友はいつもと変わらぬ陽気さで、未だ降り止まぬ雨の中を幽香に向って歩み寄る。なんとなく、二人には分かっていた。今のルーミアは、とても良い顔で笑っているに違いないと……
「その肉一つくださいな?」
「だーめ。これは私がお持ち帰りしちゃうから」
「えー……一人くらい譲ってよ」
「御免なさいね。家には養う家族が大勢いるの」
髪を濡らす血を鬱陶しげに払いながら、幽香と交渉するルーミア。幽香は頬をかきながら、曖昧に笑っている。
「だけどそうね。これは元々貴女達の玩具ですもの。持って帰るには当然対価が必要だわ」
「対価?」
その言葉に首を傾げたのは橙。目の前の妖怪が、物事に対価を払う性格には見えない。
一方少々困ったような幽香は、一つ手を打つとこれは名案とばかりに宣言した。
「よし決めた、貴女達の玩具をいただく代わりに、私が遊んであげるから」
「あ、ほんとに?」
「おい!」
幽香の宣言に難色を示す事も無く、あっさり喜ぶルーミア。チルノは苛立たしげにルーミアに駆け寄り、抱え込むように幽香から引き離す。
「鬼ごっこしてたのね? なら、続きは私が鬼かしら……」
呟いて、一つ手拍子を打つ幽香。すると突然、地中から何かの根が飛び出して、今だ呆然と佇む男の一人を串刺しにする。新たな衝撃に、色を失う男達。
幽香は彼らを無感動に一瞥すると、生きたままオブジェと化した男に歩み寄る。傘を閉じると、母親を呼びながら必死に助けを請う男の口内に、その先端を突き込んだ。
「確か……十人殺してから追いかけるのよね? 鬼ごっこって」
傘を振り、血と肉片を払い落としながら、幽香はルーミアに笑いかける。ルーミアがその声に応える暇もなく、チルノの声が響き渡り、
「逃げるよ!」
チルノは橙と共にルーミアを引きずって、森の中へと消えて行った。
その様子を満足そうに眺めた幽香は、既に声を出すことも出来ず震える男達に声を掛ける。
「あの子たちは逃げたわよ? 貴方達も、少しは生きようと足掻いたら?」
その声を聞く者はいなかった。正確には、聞こえていても理解は出来ていなかった。彼らは妖怪の襲撃から、幾度も村を守ってきた戦士であり、当然その中で死んでいった仲間も見てきた。
しかし目の前の現実と、幽香の纏う圧倒的な妖気……
其処から導かれる避け得ない絶対の死は、屈強な彼らをして震え上がらせていた。
「ああ、やはり貴方達も唯の人間。絶望に震えて蹲り、死を避ける為に戦えない。その手は、足は、一体何のためにあるのかしら?」
幽香の問いに応える者はやはりおらず、彼女は肩を竦めて息をつく。
「戦う手も逃げる足も無い花だって、死の瞬間まで咲こうとするのにね? もう良いわ……話しながらメニューも決めたし、そろそろお別れと行きましょう?」
「ヒッ!」
幽香の言葉に反応したのは、一番若い男。彼は死にたくないという、唯その一心で踵を返して逃げ出した。
その様子に、幽香は笑みを深くする。
「まぁ!? お仲間をおいて、逃げちゃうの? あんな子供、まして人外の化け物だって、お友達を伴っていたというのに」
嘲笑う妖怪の声も、しかし若者には届いていなかった。
先ほどまで、風にそよいで揺れていた向日葵の群れ。それがまるで鋼鉄で出来た檻の様に、若者の力を持ってしても微動だにしない。
「メニューは決めたと言ったでしょう? もう私からは逃げられない。さぁ……」
幽香は再び傘を開き、その身を緩く肩に乗せる。そして、満面の笑みを持って宣言した。
「遊びましょ?」
幽香の世界に、哄笑と悲鳴が響き渡る。
それは誰にも届かない、無数の命の断末魔―――
貴方の未来はカットステーキ。
……っが……ぁ
貴方の未来はボロネーズ。
ッゴヒュ?
貴方の未来はモツ煮込み。
っだ……だず……っげ……
貴方の未来は香草焼き。
ョじケゅびふぇ?
貴方の未来はハンバーグ
アヒ……ィヒひひヒィひヒグジュ?
―――ほんの数十秒。
命を対価に末期の唄を奏でた奏者は、一人残らず地に伏せる。幽香の導く旋律は血の雨となって降り注ぎ、花と妖を染め上げた。夢見るような眼差しで、傘も差さずにその身を委ねる花妖怪。
幽香の上気した頬が朱く染まり、紅のオペラは赤い悲鳴を引き連れて絶頂を迎える。
血の香りが満ちた花畑……その中にあって、主役と脚本を兼ねた女優は返り血を拭うと、優美なカーテンコールにて彼女の舞台に幕を降ろした。
「ふふ、あの子達は遠くへ逃げられたかな?」
幽香は足元に転がる生首を拾い上げると、もう一つの遊び道具が逃げた方向へ投げつけた。
* * *
惨劇の花畑から逃げ出したチルノと橙は、左右からルーミアの腕を抱えてひたすらに走っていた。
結果一人だけ後ろ向きで運ばれているルーミアは、いつもと変わらぬ気楽さで声を掛ける。
「ねぇ二人とも、重くない?」
「重いよ! でも仕方ないじゃない」
「ルーミアちゃん……アレはヤバイよ」
今ではチルノだけでなく、橙も青い顔をして声を上げる。
橙は微妙に足を速め、チルノを誘導するように走り出した。
「何処に向ってんの!?」
「家だよ! とりあえずマヨヒガに逃げ込めば藍さまを呼べる!」
「そーなのかー」
することが決まれば、迷いも消える。橙の提案を聞いたチルノは、その誘導に任せるように進路を修正していった。子供特有の身軽さを駆使して、木々の間をすり抜け、茂みの中を駆け抜ける。
「……何か来る」
最初に気づいたのは、後ろを向かされていたルーミアだった。その声で意識を背後に向けたチルノと橙は、凄まじい速さで飛来するナニかに気がついた。
『っうあ!?』
ルーミアの腕を抱えたまま、咄嗟に身を伏せるチルノたち。頭上を通過したナニかは、手近な木に激突して四散した。
鮮血と脳漿が、三つの妖を等しく濡らす。
石榴の様にひしゃげて潰れ、木にへばり付いた生首。それが開幕宣言であることは、疑う余地なく明らかだった。
「来るよ!」
「ええ!」
今度は怯まず声を上げるチルノ。応えた橙は、その様子がいつも通りなことに安堵した。
「橙、案内して! ルーミアは離れないようについてきて!」
「分かった!」
橙を先頭にし、その後ろからチルノとルーミアがついていく。駆け出し、速度に乗ったところで空に向って舞い上がる三人。
しかし木々の茂みを越えようとしたところで、頭上から降り注ぐ無数の毬栗。辺りには栗の木は無いがのだが、幽香はそんなことに頓着しない。
「痛!?」
「っぐぅ……」
再び地面に倒れたチルノたちは、空には逃がしてくれない事を悟らざるを得なかった。
「走るよ!」
いち早く立ち上がった橙は、チルノとルーミアを引き起こす。
「ねぇ、橙?」
「なにルーミアちゃん?」
「ひょっとして、すっごく走ったりする?」
橙は、その問いに答える暇をもらえなかった。森の中を一陣の風が吹きぬけ、風は無数の花びらを運んでくる。花びらは幽香の妖気を纏い、踊り狂う無数の刃物と化して三人に吹き付けた。
回避を許さぬ数と層。初見なら確実に避けえぬそれに、即応したのは小さな氷精。彼女はこの春、花の異常開花事件の折、この弾幕で襲われたのだ。
走りながら振り向いて、背後に迫る花びらを視認したチルノは、一瞬で妖気を練って解き放つ。
「Perfect Freeze!!」
チルノが放った凍氣は視認した花びら全てを氷結させた。凍った花びらは既にチルノの支配下にある。彼女はそのまま花びらのベクトルを散らし、その結果幽香の弾幕を無力化した。
第一波を凌いだチルノは、再びルーミアと共に走り出す。
「ほんと、後どのくらい!?」
「飛んで十分……走ったら十五分くらいだよ」
「うう……空きっ腹に応えるよぉ」
「言ってる場合か!」
「家ついたら食べれば良いよ。今は、急いで!」
振り向かずに走る橙の背中を、チルノとルーミアが追いかける。
この期に及んでも、この三人に一人で逃げるという発想は無い。橙が振り返らないのは、先導者の役割を弁えてのことである。橙が倒れたら、誰もマヨヒガに辿り着けない。案内役はひたすらその任に徹し、追撃を防ぐのは後の二人の役目。
暗黙のうちに役割を分配した三人は、秋の森を走る。
今や涼しげな雰囲気など微塵もなく、背後から迫る瘴気は急速に辺りを満たし、刻一刻と深みを増していた。そんな中、木々のざわめきに混じって幽香の声が響き渡る。
『随分遠くまで逃げるのね? 私、走るのは得意じゃないのに』
その声に応えるものはいない。余計なことを話す間に、目的地への距離を一歩でも縮めなければならないのだ。
『次、行くわよ? 私が行くまで待っててね』
幽香の声が響くと同時に、森一帯を地震が襲う。
咄嗟にバランスを崩してよろける三人。しかしすぐに大地が揺れているのではなく、その中を通る木の根が脈動しているのだと気がついた。
やがて大地の鳴動が収まると。三人の視界に飛び込んできたのは様変わりした森の様子。
歪に突き出した無数の根が絡み合い、幹の隙間を埋め尽くす。空に飛べば撃ち落され、周囲は網目のように這う木の根が覆っている。
天然の檻に閉じ込められた三人。有らん限りの妖弾をぶつけるも、その檻は傷一つ入らない。それどころか、壁に当たった妖弾は一瞬その場に静止すると、放った時に倍する速さで三人に向かって降り注いだ。
「うわぁ!?」
元々破壊力を重視し弾速が遅かった事もあり、三人は辛くもそれぞれの反射攻撃を避けきった。
「これ……ほんとに根っこ?」
「お姉さんの力で変化した樹だからね。何があってもおかしくないよ」
驚くチルノに達観した様子で応えたのはルーミアである。彼女は幽香に対しある種の共感を持ったため、その人格や能力を割りとあっさり受け入れることが出来ていた。
一方チルノは、歪な植物の牢屋を睨んで唇を噛み締める。
チルノは元々低威力で広範囲をカバーすることを得意としており、一点を高威力で破壊するのは不得手だった。しかも反射攻撃などをされると、なまじ範囲が広い分、今度は自分達の回避が難しい。其処へ来て、態々そんな小細工をかけてきたのは、幽香自身これまでチルノと対峙した経験から、そのことを読み取ったからだろう。
「二人とも! 合わせて!」
橙の音頭で、三人は一点に向けて同時攻撃を仕掛ける。しかしそれすら、幽香の力を受けた植物は傷一つ入らずに反射した。
「……あらー」
「どうしよう、チルノちゃん?」
「どうするたって……」
橙に対して言い淀むチルノ。しかしその考えがまとまる前に、突然辺りが暗くなった。
驚き、周りを見回す橙とチルノが見たものは、俯いて何かを呟くルーミアの姿。その右手には拳大の闇が揺らめき、ソレは周囲の光を貪って見る間に大きさを増していく。
「花のお姉さんには悪いけど……お腹空いてるんだよね私……」
左手でお腹を擦りつつ、どこか虚ろに呟くルーミア。右手を頭上に掲げると、球状だった闇は形を崩し、燃え盛る炎のように猛り狂う。やがて温度の無い闇の炎は、巨大な怪鳥へと姿を変える。
それを見た二人はルーミアが手加減などまるで考えていないことを悟り、咄嗟に大地に飛び込んで、頭を抱えて身を伏せた。二人の避難を待っていたわけでもあるまいが、同時にルーミアは右手を振るい、闇で象った怪鳥を解き放つ。
「行っといで……鵺(Night-bird)」
迫る巨大な壁に挑むは黒き巨鳥。両者の激突は凄まじい衝撃波と暴風を巻き起こし、術者であるルーミアごと、地に伏せたチルノと橙を、反対側の壁に叩き付けた。
「みぎゃ!?」
「グゲ!」
潰れた蛙の様な声と共に、壁にもたれてへたり込む猫と氷精。しかし二人は即座に起き上がると、いまだ倒れて動かないルーミアに駆け寄った。
「あんた一体ナニすんのよ! いや、それより平気!? どっか打った?」
倒れたままピクリとも動かぬルーミアに、チルノは必死で呼びかける。
「お腹……空いた……」
「っつ……こいつはぁ!」
反射的に踏みそうになったチルノは、理性を総動員して上げかけた右足を下ろす。今はそれ所ではないし、ともかくルーミアの一撃により、都合よく道も開いている。
「チルノちゃん、行こう?」
「あいよ」
倒れたルーミアはチルノが背負い、再び駆け出す妖二人。ルーミアがぶち抜いた大穴から檻の外へと抜け出すと、橙はチルノに声を掛けた。
「ねぇ、チルノちゃん?」
「なに?」
「ルーミアちゃんがお腹いっぱいになったら、あいつにだって勝てるんじゃない?」
「そうかしら? どっちかって言ったら、飢えてる時の方が強そうだけど」
「ああそうか。お腹いっぱいになったら、きっと喧嘩しないよねルーミアちゃん」
「言えてる」
危機的状況下にあって、ようやく二人に笑みが戻る。笑いあう二人の共通の友は、チルノの背中で幸せそうに寝入っていた。
* * *
未だ花畑に佇む幽香は、森の一角に闇が猛るのを見た。
「抜けたか……アレをねぇ」
思案顔で首をかしげ、思い通りにならないゲームを振り返る。
幽香は以前からチルノとは面識があった。なかなかに面白い娘であり、その在り方は氷精で在りながらまさに太陽。能力はさほど高くなかったはずだが、それを補う仲間がいたらしい。
「偶にいるのよね。人毎に、足し算じゃなくて掛け算で強くなるパーティが」
そのようなパーティには必ずと言って良いほど、メンバー全員から慕われる太陽がある。
「気を抜いたら喰われるかしら……だけどぉ」
幽香は手にした日傘を、向日葵の首の高さで一閃した。花だけになった無数の向日葵は、主の声に従い、中空で旋回を開始する。
「負けるのも、趣味じゃないし」
凄まじい速度で回転する向日葵の群れ。それは緩やかに大きさを増して行き、ついには大きいもので四尺、小さなものでも二尺を超えた。
巨大な向日葵は回転と同時に風を生み、幽香ははためくスカートを押さえて呟いた。
「そろそろ私も行こうかな」
巨大向日葵は、一斉に森への進軍を開始する。
「ねぇチルノちゃん、何か聞こえない?」
「え?」
その音を最初に聞きつけたのは橙だった。言われたチルノが耳を澄ますと、程なくして橙が気づいた音を捉えた。
まだかなりの距離がある。しかしチルノはその正体を看破して顔色を変えた。まるで人の子供が使う竹とんぼ……アレをもっと大きくしたような音。大きくて平たい何かが、高速で回転するときに発する異音。
以前幽香と対峙したチルノには、この音に聞き覚えがあった。
「ヤバ……急いで!」
「急ぐったって……」
困り顔で振り向くのは、前を走る橙。
彼女は相変わらず先行しており、むしろルーミアを背負ってペースダウンしたチルノを待っているのである。
チルノも当然解っているのだが、ついついそんな事を言ってしまう。焦りから思考が短絡になっていたらしい。チルノは一発、自らの頬を叩いて気を切り替える。
「飛ぶしかないか?」
「低空飛行? 森の中じゃあ厳しいよ」
この二人に限って言えば、走るよりも飛ぶほうがかなり早い。飛行しないのは単に、幽香に上空を押さえられているからである。だからといって、障害物の多い森を低空飛行するのは難しい。地に足を付けない移動は、方向転換や急停止がとても大雑把になる。かの天狗であればいざ知らず、この二人に其処までの空中制御は望めなかった。
仕方なく、現状では全力疾走を選択した二人。その眼前に、突然何かが躍り出る。
「え?」
どちらが上げた声だったのか、咄嗟には分からなかった。分かったのは、飛び出した何かが拳大の大きさで丸かったこと。それが空中で一瞬静止し、突如硬い外皮を撒き散らして爆発したことだけだった。
「痛っ!」
殺傷能力など無きに等しいが、当たるととにかく、ひたすら痛い。
倒れた二人はすぐに身を起こし、背中を合わせて死角を潰す。するとすぐにそれぞれの視界に、地面から飛び出してきた何かの種。
『!?』
反応は咄嗟で、迅速だった。チルノは種を氷結させ、橙は上空へ蹴り上げる。間髪入れず、蹴られた種は先ほどの様に爆散した。
「爆弾? あんな威力で……?」
橙の呟きに、チルノは応えることができない。橙自身も自分で言い終わる前に、既に気がついていた。
これが唯の時間稼ぎだったことと……
既に羽虫の大群のような異音が、間近まで迫ってきていることを。
「向日葵が……」
「もう来たか!」
その目にはっきりと写った異常事態は、柔軟な子供の頭をして唖然とさせる。
巨大向日葵の大行進。しかも無数の向日葵は森の木々を避けながら、黄色の刃として襲い掛かる。
再び走り出す二人だが、既にその呼吸が荒い。何も無い長距離走ならともかく、幽香のちょっかいを掻い潜っての逃避行である。緊張は疲労を早め、橙の予想よりかなり速くそのペースが落ちてきた。
「後……どのくらいだっけ?」
呟くチルノを、向日葵群の先頭が追い抜いていく。幽香はろくに狙いも定めず、数に頼って乱射したため、殆どが当たらずに行き過ぎる。しかし枝を掠めた向日葵は、僅かな遅滞も許さずに通り抜け、怒涛の進軍を続けているのだ。
「後……!?」
応えかけた橙の目の前に、再び種が飛び出した。おそらく地中に埋まっていたらしいそれは、幽香の意思によって相手の顔辺りまで跳躍し、硬い外皮を撒き散らすバウンディ・ボム。
巨大向日葵と機雷種の複合攻勢に、二人の足は完全に止められる。
最早向日葵に背を向けるのは不可能だった。
木々の合間を縫って迫るそれは、避けるだけなら決して難しくない弾速である。しかし既に全方位に向日葵が配置され、行き過ぎたそれも騒音によって距離感を撹乱していた。同時に視界に飛び込んで弾ける機雷源。この二つを逃げながら捌くのは、正直荷が勝ちすぎた。
不味い……と、二人はそう思う。特にルーミアを背負ったチルノは、思い通りの動きが出来ず、次第に苛立ちを募らせる。
「アイツが来る前に、何とか抜けないと……っ」
殆ど意識の外で呟くチルノ。しかしその呟きに応えた、ソプラノヴォイス……
―――それは無理なんじゃないかしら?
瞬間、世界が停止した。
向日葵の羽音も、機雷種の炸裂音も、その声を阻むことは敵わない。
機雷種はその鳴りを潜め、向日葵も進軍を停止する。その中で、四季のフラワーマスター、風見幽香は変わらぬ笑みを浮かべたままに、木々の茂みから二人の背後に降り立った。
おそらく飛んできたのだろう。いつでも追いつけるからこそ、幽香はすぐには追わなかったのだ。
「もう、来てしまいましたもの」
「……」
無形の恐怖が、二人の足を大地に縫った。
それまで逃げてこられたのは、単に幽香自身に追われなかったからである。その眼差しに捉えられ、尚逃げ遂せると信じられるほど、二人は自身を美化していない。
「っは、随分遅かったじゃないのさ」
「これでも急いで来てみたのよ? 貴女達は早いから疲れちゃった」
精一杯強がるチルノを、幽香は笑って受け流す。
ニコニコと笑う花妖怪。その姿からは敵意の欠片も見出せないが、酸化して黒ずんだ返り血が全ての笑みを裏切っている。
「あいつら如何したの?」
「死んだわよ? 花遊びも知らない手では、平和な世界は作れない。妖怪の餌くらいしか、利用価値はないでしょう?」
幽香の口から紡がれた平和という単語に、チルノと橙は顔を見合わせる。おおよそ幽香には似合わぬその言葉に、しかし奇妙な現実味があった。
「子供たち皆が花遊びを知って大人になれば、世界はきっと平和になるわ。一日も早く、そうなって欲しいわね?」
幽香が両腕を広げると、中空に静止していた向日葵達が、再び旋回を開始する。
「花遊びを知らないって……?」
「知っていれば、あの花畑には騙されない。そういう暗示を、かけたから……」
花を愛し、花に愛された妖怪は、脅える子供をあやす為にその歩みを開始した。その背後には、凶悪極まる刃と化した向日葵の群れを引き連れて。
「貴女達にも少しだけ、花遊びを教えてあげる」
やがて幽香の掌がチルノと橙に差し出され……
「―――Demarcation」
「え?」
それは幽香をして、全く意識していなかった第三者の声。マーブリングのように絡み合った光と闇の混合球は、幽香を飲み込んで吹き飛ばした。
「ルーミア!?」
「やっほー」
背中に問うチルノは、ルーミアの返答を聞いて安堵する。
だが、喜びを語る時は無かった。
自らを統べる女王を倒された向日葵は、猛る怒りをその加害者たちに向けて襲い掛かる。それまでを遥かに凌ぐ風切り音と共に、巨大向日葵が三人を殺到した。
「てめぇ降りろよ!?」
「やー」
起きたにも関わらず、ルーミアはチルノの背中から離れない。振り落とそうとするチルノに、彼女は本気でしがみつく。
そのような状況下でも、機雷種はチルノが氷結させ、向日葵はルーミアが消し飛ばす。息のあった連携は鉄壁の様相を呈し、死神の鎌を遠ざける。
「橙も何とか……っ?」
何気なく橙に視線を送ったチルノは、その光景に震え上がった。橙は巨大向日葵の襲撃を回避する訳でもなく、俯きなにやら呟いている。
「……護法」
「橙避けて!」
自身の回避も手一杯で、声を掛けるのが精一杯。何も聞かず何も見ず、佇み続ける橙にルーミアも呆然と視線を送る。
しかし次の橙の行動は、二人の最悪の予想を超えた。橙は顔を挙げ様に、足蹴りで巨大向日葵を打ち上げる。
「―――天童乱舞!」
叫びは言霊を伴って、橙の身体を燐光が包み込む。そのまま橙は低空を駆け抜け、チルノとルーミアの元に辿り着く。
「掴まって!」
そう言いながらも返答は待たず、チルノの襟首を引っつかんだ橙は、凄まじい速さで低空を飛ぶ。行く手を遮る木々は、まるで地を翔けるときのような方向修正で巧みに避ける。
「すごーい」
「取っておきだから……それよか飛ばすよ!」
橙は二人を抱えているとは思えぬ速度で、森の中を飛行する。既に前行く向日葵を追い抜き、地中から飛び出す機雷種を、その瞬間に置き去りに。
ルーミアは手を叩いて喜んでいる。しかしチルノは不安げな表情で呟いた。
「これ……最後まで持つの?」
「持たすんだよ!」
他に逃げ切る手段が無い。真正面に幽香がいて、しかも高空、低空、地上を全て抑えられているのだ。チルノは今更ながら、互いの実力差にうんざりする。
「死ぬ気で飛ばせー」
「是(ヤー)!」
ルーミアの気勢に応え、さらに速度を上げる橙。自身の妖気が凄まじい速さで抜けていく感覚に内心で身震いするも、目的地との距離を一気に縮めていく。
ルーミアは背後を振り向き、一瞬ごとに小さくなっていく向日葵群を確認した。そして緩やかに身を起こす風見幽香の姿も。遠目ではあるものの、踏み出した足が揺らぎ、頭を振っているのが見えた。もともと、ルーミアの得意分野は単体への高威力。その中でもかなり強い術を使い、しかも油断しているところをまともに入ったのだ。
逃げ切れる――
そう判断したルーミアは、一つ息を吐いて視線を前方へ戻し……戦慄した。
橙の後頭部を照らす、一条の細い光の線。危険信号が冷や汗の姿を借りて、ルーミアの背中を濡らす。咄嗟に橙に抱きつくと、その身体ごと巻き込んで捻りこむ。
『っっああああアあアアあああああ!!!』
森の高い木々の茂み付近から、地上までの約五メートルを墜落するチルノ達。
「アンタ一体何……」
チルノの文句は最終章まで続けることは出来ない。その声を遮って、先ほどまで自分達がいた座標を、遥か後方から放たれた極光が貫いていく。
「マスタースパーク!?」
悲鳴じみた橙の声。三人とも、あの光には見覚えがあった。傍迷惑この上ない、パンダ魔法使いの得意技。
チラリと背後を見やったチルノは、掌を翳した幽香が、うっすらと微笑んでいるのを見た……気がした。
「あれ?」
チルノの脳裏になにかが引っかかる。
紅霧が覆った寒い夏。紅の館へ向かう途中だった魔法使い……
偶々出会ったチルノは、ついでとばかりに相手をさせられて吹っ飛ばされたことがある。あの後、怪我の手当てをしてくれた大妖精は……
「もう一回飛ぶよ!」
声を受けてチルノは橙に、ルーミアはチルノの首筋にしがみ付く。そのとき、三人の足元めがけて一筋の光が差し込んだ。
「っぐ?」
橙の身体を、再び燐光が包み込む。急上昇したのと、細い光線に沿って極大のレーザーが到達したのは、殆ど同時のことだった。
「行くよ!」
橙は足元を抉った光を見ないように、もう一度森を飛行する。しかし幾ら早く飛んだところで、レーザーを直線で逃げられるはずが無い。此処までは回避に成功したが、これ以上を避ける自信はなかった。
「あ!」
唐突に上がる叫びの主は小さき氷精。チルノはかつて大妖精に言われたことを思い出した。
「確か……でもあれ?」
あの時の会話が鮮明になればなるほど、チルノの頭に疑問詞が浮ぶ。
―――もし、今度あの光線を撃たれたら……
「如何したのチルノ?」
「ああ……いや、如何したんだろ?」
チルノの様子を不審に思い、ルーミアが声を掛けてくる。要領を得ない会話だが、発端のチルノ自身が混乱しているのだから無理も無い。
この時、チルノは橙に声を掛けようとして躊躇した。実戦で試したことも無い、その場の思いつきに近いアイディアで言えることではない。
凶悪極まる破壊跡を見せ付ける、あの光を避けるな、なんて……
『うわぁ!?』
三度。背後から放たれた巨大レーザー。幽香がこれを放つたび、森の中の光源が変化して木々が明滅を繰り返す。
幹を蹴りつけ、直角の方向転換を駆使して、橙はそれすら避けてみせる。
「……っふぁ……っぐ……」
しかし今や、彼女の消耗は明らかに二人の耳に届いていた。燐光の中の橙は青い顔をしている。
「平気なの!?」
既に息つく余裕も無いのか、完全にトランス状態なのか、橙は応えずひたすら前へ。
既に限界なのは誰の目にも明らかだった。直線だけならまだしも、幽香の気ままな破壊光線に曝されながらの低空飛行である。ストレスは疲労を早め、橙の口数を奪っていく。
やがて遂に避けようの無いタイミングで、巨大レーザーの前兆たる光が三人を包んで煌いた。
橙はそれに気づくだけの余裕は無い。ルーミアも、今の橙を無理やり引きずって方向転換など出来ない。そしてチルノは……
「―――Diamond……」
―――避けずにコレで切り返せば……
かつて一番の親友が、良い笑顔で信じられないことを言った。チルノは全く相手にしなかったし、だからこそ今まで忘れていた。しかし今は信じるしか方法が無いし、チルノはコレが分のある賭けだと知っていた。
なにしろ彼女は今まで、自分に嘘を吐いたことが無い!
「 ……Blizzard!!」
レーザーが森を駆け抜ける。
同時に、チルノ達の後方に立ち込める氷霧。極光は霧を貫通出来ず、霧と微細な氷の中で乱反射した。
『しまっ!?』
森の木々に反射して、幽香の声が響き渡る。
チルノは唯、ひたすら広範囲に氷霧を生んだだけ。これ自体には攻撃力など皆無であり、本来チルノは逃走用としてこの術を使用する。
しかし、今は違う。
幽香自身が放った破壊光線は霧の中を跳ね回り、凶悪無比の破壊力が氷霧の中に充満して拡大する。森を、そして風見幽香すら巻き込んで。
―――今度は必ず勝てるから
幽香のレーザーとチルノの氷霧。二つのスペルによって生まれた破壊空間は、ものの五秒と持たずに消失した。その跡地は荒野と化し、巨大な森の中にぽっかりと、其処だけ木が在ることを忘れたようで……
「大ちゃんってば、あーんな危ないこと薦めてやがったのか……」
「本当の必殺だね」
背後に広がる荒野を眺め、チルノとルーミアは呆れたように呟いた。
そこに橙の声が届く。
「着いたよ!」
三人が視線を向けた先には、森の中の小さな広場が開けていた。其処にはスキマが展開され、中から無数の目が周囲を見回し、時に瞬きしている。
橙の主の主の得意技にして、現世とマヨヒガの通り道。
見えたと同時に、橙の身体から燐光が消え、推進力を失った三人が落下する。
「よっ」
「っと」
橙もチルノも、それぞれに身軽さを生かして着地する。チルノは未だにルーミアを背負ったままであるため、衝撃に少々顔が歪んだが。
「アンタそろそろ降り……!?」
チルノの上げかけた文句は、真正面から放たれた光の渦に掻き消えた。
「え?」
訳が分らなかったのは、橙にしても同じこと。しかし彼女は見えた。広場に先客がいたことを。萌黄色の髪にチェックのスカートを纏った花妖怪が、初めて出会った時と変わらぬ笑みで手を振っていた……
* * *
……深夜のこと。橙は主に見送られてマヨヒガを出る。スキマを潜り周りを見れば、森の中の広場だった。辺りからは虫の声が響き、静謐というには賑やかで、空を見上げれば蒼い受け月。涼しい秋の夜風を受けて、橙は一つ身震いする。
「……」
あの後―――前方の幽香が放った極光で気絶した三人は、傷一つなく生き延びた。幽香はゴール直前で被弾した三人が目を覚ますまで、何もせず律儀に待っていたらしい。
『鬼ごっこしてたんでしょ? 私達』
幽香は三人の疑問には全て答えてくれた。
最後の先回りは株分けを利用した実体分身であること。
元々マスタースパークは幽香が考案したスペルだったこと。
そして最初から最後まで、風見幽香は正に『遊んで』いたこと……
目を覚ました三人に、幽香は健闘を讃えて手ずから編んだ花冠をくれたのだ。
「……にゃろう」
橙は知らぬうちに拳を握る自分に気づく。完璧に舐められた。
「凄い顔してるねー」
上空からかけられた声に振り仰ぐ橙。視線の先には一人の天使。対なる翼は光を放ち、頭上に浮ぶ漆黒の光輪。オプションにこそ見覚えは無いが、それらを持った本体のほうには見覚えがある。
「イメチェン?」
「チルノには見せたことあるんだけどねー。橙は初めてだったかな?」
トレードマークのリボンは花冠に変わっているが、この光翼天使は間違いなくルーミアだった。
天使はヒラヒラと手を振って、猫又に声を掛けてくる。
「物騒な式憑けてるねぇ。こんな夜更けに何処行くの」
「遊びに行くんだよ。花のお姉さん言ってたじゃん? 遊んで欲しけりゃいつでも来いって」
橙はニッコリ笑うと、愛用の帽子を取ってみせる。其処には幽香のくれた冠があり、編まれた茎と無数の花がその存在を主張する。
「藍さまにおニューの式付けてもらったし『負けるなよ』って命令も貰った。今度は良い勝負出来るよきっと!」
両手を腰に当て、どうだとばかりに胸を反らす橙。その様子に、ルーミアは笑みを浮かべて翼を打った。瞬く間に、橙の横に並んだルーミアは、頬に掛かる金髪をかき上げる。
「じゃ、其処に私も入ったら勝てるね、きっと」
「ルーミアちゃんは如何したの? その格好」
「リボン壊して貰ったから封印が解けた。紅いお屋敷の地下に、腕の良い壊し屋さんがいるんだよ。危うく頭ごと消されるとこだったけど」
あっけらかんと笑うルーミアになんとなく同意する橙。その危険度がどれほどのものだったのか、おそらく二人とも理解していないだろう。
「行く?」
「おういえ」
二人は顔を見合って頷いた。歩き出そうとした二人だが、その前に馴染みある声が掛けられる。
「なに深夜に密会かまして見詰め合ってんの?」
虫の声を遮って届いた声に、二人は思わず身震
いした。それは秘密を暴かれたゆえではなく、純粋に周囲の気温が低下したためである。
「さてはあんたら、愛し合ってるな?」
「そうだよー」
「仲良しだもんねー」
二人は肩を組んで声の主……湖の氷精を迎えた。
チルノは肩を竦めただけで、それ以上は追求しない。変わりに聞いたのは別のことである。
「で、こんな時間になにやってるの?」
「当然リベンジだよ?」
事も無げに言い放つ橙に、チルノは眉を顰めた。
「アイツの実力わかんないの? 今度は気まぐれ起こしてくれる保証はないよ」
「だったらどうしてチルノちゃんは来たの?」
「あたし?」
チルノはきょとんとした表情の後に首を傾げる。
「あたし幽香の所行くなんて言ってないけど?」
恍けるチルノに、ルーミアと橙は視線を合わせた。無言のうちに分担を決めた二人の内、ルーミアがチルノを羽交い絞めにする。
「おい!?」
「まーた照れちゃって……橙?」
「はーい」
橙は両手をわきわきと動かしながら、音も無くチルノに迫る。力いっぱい暴れる妖精を、力半分で押さえつける天使。その隙に妖怪の手が翻り、妖精のスカートが捲くれ上がった。
「きゃー!」
氷精は右足を垂直まで振り上げ、背後の天使の顔面に爪先を打ち込み、そのまま足を下ろし様、猫又の後頭部に踵を落す。
「んぶ?」
「っげ!」
息を荒げ、自分自身を抱きしめて座り込むチルノ。しかし時既に遅く、二人は腿に巻かれた花輪を暴くことに成功した。おそらく冠を解いて編み直したらしいそれは、元のそれと遜色ない完成度を誇っている。
「……素直じゃないんだからぁ」
「……鼻血拭けよバカ」
ややくぐもった声で笑うルーミアに、微妙に視線を外して呟くチルノ。橙もやや足をふらつかせるが、笑みを浮かべてチルノを小突く。
チルノは観念したように、一つため息を吐いた。
「一応確認しとくけどさ……」
『?』
「連中の敵討ちなんて考えてる、正直者はいないよね?」
「まさか?」
「それ何の冗談?」
チルノの問いを、橙もルーミアもそれぞれの表情で否定した。
「私だったら良いけどさ、八雲の式神ごと舐められるのは赦せないよ」
「あのお姉さんとは仲良くなれそうだから」
目当ては違えどやることは同じ。それぞれの目的のために、勝手に集まってきた三人組。チルノは心底呆れて肩を竦める。バカな連中だと、つくづく思う。
「生きて帰れるか分んないよ? あいつ絶対本気じゃ無かったよ?」
「死ぬのが怖くて生きていけるか!」
「チルノだって、お姉さんの前でガクプルしてたくせに」
「あんたらなぁ……」
戦力差は不利を通り越して絶望的である。三人ともそれが分った上で尚、引こうとしない。
「そういうチルノは、なんで来たのさ?」
「あたし? あたしは……」
先程橙にも聞かれた事。既に来た意味がばれているチルノは、今度こそ隠さずに明かしてみせた。
肉食獣のような笑みを浮べて拳を握り、天に向かって親指を立てる。そのまま拳をくるりと返し、大地を指した親指を勢い良く落として見せた。
「……あたしより威張った奴をぶっ潰す!」
「おー」
「ヒューヒュー!」
二人は手拍子を打ってチルノを讃える。この三人は常に共通の意識を持っていた。すなわち、自分以外は全員がバカであると……
その代表格であるチルノは、頭上に浮ぶ月を見上げる。位置からして、夜明けまで後二刻ほど。内心の昂ぶりは、しかし氷精故に冷気として表に現れる。
「……熱い夜になりそうね」
「いや、寒いから」
「迷惑だよねー」
「うっさい! 水指すな!」
チルノは一つ咳払いをすると、いつの間にか自分に集まった視線の意味を理解する。このチームのリーダーは、やはり力弱くともこの氷精なのだ。
「……っさ、行こうか!」
『応!』
歩き出したチルノが、橙とルーミアの間を抜ける。すれ違い様、右手でルーミアと、左手で橙と、それぞれ同時にハイタッチなど決めてみる。それきり振り向かずに歩む氷精に、猫又と天使が続いて行った。
§
森の中を秋風が凪ぐ。それは三人を包み込み、さらに行く先には時ならぬ向日葵畑があった。
妖の花畑を治める女王は、月明かりの中を唯踊る。緩く優しい足取りは、愛した花への鎮魂歌。ステップ一つごとに向日葵から燐光が立ち上り、辺りを淡く染め上げる。
「……っふ……うふふ……」
風見幽香は、森の中に現れた三つの気配を知っていた。こちらに向かってくるそれぞれが、自分の贈った花を身に付けている。幽香がその気になりさえすれば、この瞬間にもその花を用いて三人を絶息せしめるだろう。それすら分らぬ連中だとは、幽香自身思っていない。これは明らかな意思表示。
―――自分達は、風見幽香を恐れない
昂ぶる気持ちとは裏腹に、踊りはあくまで緩やかに。
「……うふふ……アハッ……」
狂喜の笑みを浮かべる幽香。彼女は子供が好きだった。無邪気で傲慢で、それゆえに凄まじい可能性を秘めている。
幽香は自分が負けるとは微塵も思っていなかった。しかし自分が何時か敗れるとしたら、それはこのような『可能性』の中にあるとも思っている。
もしかしたら、自分は今、その何時かを迎えようとしているのかもしれない……
「明りはこんなもので良いかしら?」
舞は唐突に途切れ、辺りを見渡した幽香はそれなりの光源を生み出したことに満足した。一つ頷くと、幽香は寂しげな微笑を向日葵に送り、指を鳴らす。
「お疲れ様」
本来秋に向日葵は咲けない。だから幽香の力が無くなれば、その存在を維持する事は出来なかった。向日葵の群れは正常の輪廻の中に帰っていく。後に残ったのは花を統べる大妖、風見幽香唯一人。
やがてその背後から、草を踏む複数の足音が聞こえてくる。
幽香は日傘を開いて肩に乗せた。
「今度は貴女達が鬼かしらね?」
―――鬼さんこちら、手の鳴る方へ……
幽香は極々僅か、苦笑した。そして振り向いた時には、既に普段と変わらぬ貌で三人を出迎える。
「いらっしゃい。可愛い可愛い、子供達……」
空には淡い月明かりと、地上には脆い命の残滓。一種幻想的な光景の中で、妖達が巡り合う。それぞれが主演する物語を、最も好みに彩る為に――
秋の美しい森の中、その妙なる景色に目もくれずに走る三つの妖がある。
最後尾を走る氷精チルノは、背後に聞こえる草を踏む音に即応した。
「そこ!」
身を捻って向けた指先から、無数の雹弾が撃ち出される。
「やった!?」
足は止めず、それでも振り向きながら叫んだのは、現在真ん中を走る橙である。チルノがその声に応えようとした時、雹弾の返礼は雨のような矢にて返された。
『っとぉ』
二人は同時に声を上げ、先頭を走る宵闇妖怪、ルーミアに覆いかぶさるように身を伏せた。
「まだ日も高いうちから大胆だね? 私の周りは暗いけど」
「ぼけてる場合か!」
どこかずれた返答を返すルーミアにチルノは鋭く突っ込んだ。世間ではバカの代名詞と化しつつあるが、このメンバーにおいては数少ない突っ込み役を担う少女である。
「まぁまぁチルノちゃん。怒ってばっかいると早く老けるよ?」
「黙ってな!」
危機感のない橙の発言に頭を抱えるチルノ。
ルーミアは天然だが、橙は育ての親の非常識な愛と力のせいで、多少ずれた子になっている。その二人の間でひたすら翻弄される、仲良しトリオのリーダー格がこの氷精だった。
「ちょっと、あんたら状況分かってるの? さっきからずぅっと追われてて、しかも相手は姿すら見せてないってのに!」
氷精の名に反して熱いチルノの力説が続く。矢は今のところ収まっているので、この隙に逃げればよさそうなものだが。
「森の中で距離取られてるんだから仕方ないって。
大平原のど真ん中ならこうは行かないよきっと」
「あたしらが望んだら此処が行き成りそうなるのかよバカ猫!」
「いやー……藍さまなら多分……」
「あたしらには無理だろ? 意味無いんだよそれじゃあさぁ……」
肩を落とすチルノに橙が何か言おうとした時、再び三人を襲う矢の嵐。咄嗟に散った三人だが、一矢はルーミアをかすめ、その金髪が数本舞った。
「大丈夫!?」
「ん。へーき」
無邪気な笑顔でサムズアップするルーミア。それに負けない笑顔で、チルノと橙も親指を返す。
再び走り出した三人組は、走りながら隊列を整える。
先頭はチルノ。足の遅いルーミアを真ん中に置き、一番早い橙が最後尾についた。三人が一緒に逃げ切るための配置である。
「さぁ、逃げるよ!」
ルーミアの手を取り走るチルノは、この鬼ごっこの発端を思い返して密かにため息をついた。
* * *
「お腹空いた……」
それは何の変哲もない、いつものルーミアの台詞だった。
「またかよ……」
呆れるチルノ。この返答もいつものことといえばそれまでである。
チルノは元々食事を必要としない妖精なので、空腹というものが理解し辛かった。ルーミアの居住地が博麗神社に近く、食事が自由にならないという事情を知ってはいても、肩を竦めずにはいられない。
「まただよ。チルノと違って燃費悪い体してるんだから」
「っは、ご愁傷様で」
「その分まだ希望があるんだけどねー」
ルーミアは挑発的な笑みを浮かべ、平らな胸を反らしてみせる。その様子に、チルノは鼻で笑って応えた。
「妖精だって姿は変わるんだよ。将来は美人になるっていうお墨付きもあるんだから」
「誰の?」
「大妖精」
『……』
自信満々の氷精の顔を凝視し、其処に疑念やら冗談やらの成分を発見できなかった猫又と宵闇妖怪。二人は盛大なため息をついて憐れんだ視線をチルノに向ける。
「な!? 何よその目は!!」
「……いや、優しさは時に刃物になるって藍さまも言ってたし」
「身内の欲目だよねー」
「あ、言ったねこいたね抜かしたね!? 大妖精はあたしに嘘ついたことないんだから!」
「藍さまだって嘘はつかないよ。隠し事はたくさんするけど」
「きっと、チルノは大妖精に初めての嘘をつかせちゃったんだね」
「っぬぅ……そもそも橙だって大して変わるとこないじゃん」
「私はすっごい美人になるに決まってるの。なんと紫さまのお墨付き」
実際の美人にそう言われたのだから間違いない、と誇らしげに語る橙。それを聞いたチルノはルーミアと顔を見合わせた。
其処にあったのは共通の認識。即ち、不信。
「ちょっと橙? 藍は嘘付かないかも知れないけどさぁ……」
「なによ」
「あのスキマ妖怪は絶対嘘つきだよね?」
「!?」
突きつけられた現実に眩暈を覚える橙。信じたくはない、しかし否定できない事実に膝を折る。
「そんな……確かに藍さまはそんなこと言ってくれなかったし……だけど、でも……」
本格的に沈みかける橙だが、それを察したチルノは、寸前でフォローに入る。
「あ、でもほら、今はそれ所じゃないって! 何か食べ行こう?」
「賛成」
「異議なし」
チルノの提案に、一も二も無く頷く二人。特にルーミアの方はかなり切羽詰ってきたようで、深刻なため息を吐いている。
「じゃ、早く人里行こうよ。近いし」
「は!?」
脈絡も無く言い放つ橙に、チルノは目を丸くする。式と妖怪と妖精。この三人で人里に向うなど正気の沙汰とは思えなかった。
「それにも異議なし!」
「待てこら!」
欠片の疑問も持たずに賛同するルーミアを張り飛ばし、頭を抱えるチルノ。彼女にとっては、いらぬ苦労を背負おうとしているとしか思えなかった。此処は秋の山の中であり、食べるものならいくらでも手に入るのに。
「あんたら本気? こんな面子で行ったら問答無用で襲われるって」
「でも今は越冬用に色んな食べ物蓄えてるんだよ? 第一落ちてるものを食べちゃいけませんって藍さまも言ってたし」
「危ないことをするなとは言ってなかったのかよバカ猫!」
「危険を楽しめる奴が大物になれるから適度に楽しんで来いって藍さまが……」
「あいつの適度と私達のそれの落差に気づいてよ お願いだから!」
しばらく口論を続ける式と氷精。微妙に意思の疎通がとれていなかったような気もするが、当事者の、少なくとも片方は真剣だった。
「ところでさ、チルノちゃん」
「なによ?」
「ルーミアちゃん……居ないね?」
「え!?」
橙の指摘に気づいて、周囲を見回すチルノ。確かに先ほどから声を聞いておらず、会話をした覚えが無い。
「何処へ……ってまさか……」
「行っちゃったのかな? 里」
「っんのバカがぁ……っ!」
怒りで血圧を高めつつも、地面を蹴飛ばすチルノ。怒りの大半は心配の裏返しであったのだが、それを素直に言えるほど大人ではない。
すぐさま舞い上がり空を駆けるチルノに、橙もしっかりついてくる。
「チルノちゃん良い奴だよねぇ」
「うっさい黙れ!」
「でもね?」
「あん?」
「里ってそっちじゃないんだなぁ」
「早く言え!」
怒れる氷精の飛び蹴りが、とぼけた猫又を撃ち落した。
……結局のところ、二人は里に入る直前でルーミアを捕捉することに成功した。だが食料の現地調達(略奪)を主張する橙とルーミアの意見は、チルノ一人で止めることなど出来る筈もなく、三人は里に潜入することとなった。
そして当然、越冬用の食料庫と言えば村の生命線なわけで……
そんな所に見張り役が居ない筈が無い訳で……
案の定発見された三人は、村の屈強な男達に追われることとなったのだった。
* * *
「待てやこの餓鬼共!」
「誰が待つか!」
命がけの鬼ごっこも、既に開始からそれなりに長く続いている。先ほどから矢は殆ど飛んでこなくなり、代わりに幾人かの男の姿と、背後から掛けられる怒声に取って代わっていた。
その様子を敏感に感じ取ったチルノは、忌々しげに舌打ちする。
「距離が詰まってきたか……」
「どうするチルノちゃん。飛んで逃げる?」
「ダメ。今、遮蔽物が無い所に行ったら狙撃されるよ」
「もう殺っちゃって良くない?」
「それは最後の手段だよ」
ルーミアの手を引きながら、チルノは一瞬振り向いた。視認できる人間は五人から六人であり、明らかに先ほどよりも減っている。コレは脱落したのか、それとも――
「囲むつもりかなぁ?」
「誘導されてるよね、これ」
「殺るなら今だよ?」
物騒な発言を繰り返すルーミアに、沈黙で応えるチルノ。確かに戦うのであれば、相手が数を割いた今が好機ではある。
しかし、チルノと橙は躊躇った。チルノは喧嘩の常識から、橙は主人との座学から、囲いの際の追い込み役は、逆撃に対応できる強者がやるものと知っていた。負けるとは思わないが、短時間で勝つ自信も全くない。そして長引けば必ず、相手方には援軍が到着する。
「飛べる私達に地形は関係ないから、追い立てるとしたら森の外かな?」
「かも知れない。ルーミア、アンタ広範囲スペルのストックある?」
「あるよ」
「橙は加速系どんなもん?」
「とりあえず、きっついのが一個ある」
その答えを聞いたチルノは一瞬考えこんだが、すぐに作戦を決定した。
「おし、とりあえず囲まれる。そいでもって、あたしとルーミアで一発ずつぶちかましたら、橙のスペルで一点突破」
「あのさーチルノぉ……」
「なによ!?」
「何人かお持ち帰りしたいんだけどな?」
「真昼間っからやったら面倒だよルーミアちゃん。主に巫女とか」
「そうそう。狩りは今度にしとこうよ」
「じゃ、次は夜に行こうね」
ルーミアの発言を聞かなかったことにして、方針を定めた三人は背後の怒声に追い立てられる様に走った。
最後方を走る橙は、まめに背後を振り向いて相手との距離を測る。時たま散発的に飛んでくる矢は、全てチルノが氷結させて散らしていた。
「ちょっと詰り過ぎてるか……ルーミア?」
「なぁに?」
速度は落とさないままに、チルノは振り向いてルーミアを見る。その顔には幾分汗が浮いているものの、特に苦しい様子はない。
「テンポ上げるよ。ついてこれるね?」
「おっけー」
チルノは一つ頷くと、ルーミアの手をさらに寄せた。
「よし、それじゃ……」
「チルノちゃん前!」
唐突に橙の声が森に響く。ルーミアとの会話に集中していたチルノが橙の警告に反応したのは、既に結果が出た後だった。
「ふぇ……っぶ!」
「ぐぺ!」
橙は前を走る親友二人が、眼前の大木に真正面から突貫する一部始終を見届けた。帽子を取って顔を扇ぐ。
「赤鬼さん、青鬼さん」
主に付けてもらった式で背後の追っ手を牽制しつつ、ジト目半眼で呟く橙。
「あーあ」
「うう……痛いよ……」
「酷いよチルノー……」
ルーミアの非難に返す言葉の無いチルノ。ルーミアは回避不能の寸前で木の存在には気づいていたが、手を引かれていたために避けることが出来なかった。結果、チルノの後頭部に顔面から突っ込んだルーミアも顔を抑えて呻いている。
挟まれたチルノも相当に痛そうではあるのだが。
「こんなときに二人の世界作るからいけないの。今度から、ちゃんと私も入れてよね?」
「なにバカなこと言ってんのよ……」
「なに? 私の言ってること何か違ってる?」
「いや……仰せの通りですスイマセン」
色々言いたいことはあっても、全力疾走中に前方から意識を反らしたほうが悪い。
その点にのみ納得したチルノは、素直に頭を下げてみせる。衝突に本来関係ないルーミアまで巻き込んだ以上、これは仕方ないと割り切った。
「さ、森が切れるよ! 走れる? 二人とも」
『応よ!』
橙の呼び声に、ルーミアとチルノは揃って鬨の声を上げた。その背後からまた、男達の怒声が聞こえる。どうやら橙の牽制を抜けてきたらしい。
慌てて走り出す三人は、森の帳が薄くなっているのが目に付いた。同時に、背後から火球だの霊弾だのが撃ち込まれてくる。
「やっぱりこっちに誘ってたか!」
「分かり易さは美徳だって藍さまも言ってたよ」
「飽きも早いけどね」
「二人とも物知りだね」
自分達を追い越していく弾幕は無視しつつ、左右に開けていく木々を超えるたびに、周囲は明るくなっていく。
そして、眼前には明らかな森の切れ目。
木々に遮られることなく降り注ぐ日の光が見えたとき、三人は迷わずその中に飛び込んだ。
* * *
「何処……ここ?」
橙が呆然と呟くのも、無理からぬことだった。背後には壁のようにそびえる森が、完全に途切れている。変わって、三人の目の前に広がっているのは花畑。無数の向日葵が空に向って伸びており、その背丈は優に子供のそれを超えていた。
「向日葵かぁ……種が美味しいんだよね。お腹には溜まんないけど」
「お、ルーミアちゃん通だねー」
走りながら話しているのは、橙とルーミアである。二人は会話に夢中で、チルノの表情に影が差している事に気がつかない。
「此処って……確か……」
チルノは呟きながらも足は止めない。追っ手がかかっている以上それは当然である。しかしいつの間にか、先頭を走っていたチルノは最後方まで遅れていた。
「どうしたのチルノちゃん?」
橙が声を掛けても、チルノは気づいた様子も無く何かを呟いていた。
「あれ……けど、でも……」
ついに完全に足の止まったチルノに、ルーミアと橙が駆け寄った。しかし二人の気遣いは、それをはるかに凌ぐ音量によってかき消される。
「もう逃がさんぞ、妖怪共!!」
此処を待ち伏せの場所にしていたらしい追っ手達が、チルノ達を取り囲む。姿は子供でも、相手は妖怪。先ほどの橙の牽制もあり、不用意には仕掛けずに、距離を取りつつ隙を伺う。
チルノはざっと相手を見回すと、そのリーダー格らしい男に話しかける。
「なぁ、あんたさ」
「……なんだ?」
「此処って、何時から花畑になってたの?」
「知らんのか? ここはもう、俺が生まれたときから花畑だったんだ」
「……はは、そう……なんだ」
「何言って……!?」
男の返答は、しかしチルノの奇行に遮られる。チルノは突然青い顔をして座り込み、自分の身体をかき抱いて震えだした。
その様子に、ルーミアと橙は眉を顰める。二人の知る限りチルノは本来勝気であり、いざと言うときの難局ほど、鼻で笑って切り抜けるのがこの氷精だったはずだが。
「……生まれたときから? ありえないって気づけよこんな不自然あるもんかよ……そもそも秋に向日葵咲くか? ああ、もう!!」
震えながら呟く氷精。全ての生き物の視線が彼女に注がれる。
―――それは動物だけに留まらず
いつの間にか彼らを囲う向日葵全てが、 チルノに向かって咲いていた。
明確な意思を持った好奇の視線。
そのことにまだ誰も気づいておらず、気づいたのは顔を伏せているチルノのみ。彼女は天敵に見つかった小動物の心持ちで、恐慌に狂う精神を必死に手繰り寄せていた。
「っは、そんなに怖いかよ?」
その様子に勘違いした男の一人が、三人に声を掛ける。どっと笑い声が起こる中、唐突に顔を上げ、立ち上がったチルノが叫んだ。
「逃げよう!」
「おい、今更逃がすか!」
「あんた達も逃げたほうがいいって、ここやばいよマジ死ぬから」
「何言ってやがるこの餓鬼は」
チルノたちを取り囲む男達に、残酷な笑みが浮ぶ。自分達の絶対的な有利を確信しているその表情。圧倒的な強者として、弱者を思うままに踏み躙る時の、人が持つ確かな残虐性。
「此処には俺らの仲間も張ってるんだ。お前らにコレが何とか出来るのか?」
「―――そのお仲間さんって言うのは……」
男達に応えたのは、微笑を交えた女性のソプラノ。人妖問わず振り向いたその先には、無数の花に祀られた人型の妖。
「この子達のことかしら?」
萌黄色の髪にチェックのスカート。無造作に携えた薄桃色の日傘。穏やかな、しかし一片の慈悲すら感じられぬ笑みを浮かべた花妖怪。
その背後には巨大な向日葵が一輪、天に向かって伸びていた。絡みついた触手には不自然な団子状の塊が五つ。まるで蓑虫のように吊るされた肉塊は、掠れた人語で呻いていた。
「久しぶりね、太陽娘」
「幽香!」
先程と違い、親しげな微笑で語り掛ける幽香と対称的に、敵愾心をむき出しにしてチルノが叫ぶ。
チルノの行動が全て彼女に起因していると悟った橙とルーミアは、幽香に対して身構えル。
その一方で男達は、仲間を捕らえた異形の向日葵に目を奪われていた。
「嗚呼、なんと良き日なのかしら? 友人との再会に冬越しの食料、一度に済ませられるなんて」
「友達じゃない」
「親友だものね?」
「何言って……!?」
「――だけど、少し待っていて」
友達宣言に憤慨するチルノを、片手で遮る幽香。
穏やかな物腰からは信じがたい圧力が、その場の人妖を縫い付ける。
幽香は一堂の緊張など何処吹く風と、スカートの端を摘んで会釈した。
「初めまして、私は風見幽香です。人間の皆様とは短い付き合いになるかとは思いますが、こうしてめぐり会えた縁に感謝しておりますわ」
俯いた幽香の表情は、前髪に隠れて見ることが出来ない。しかしその声に含まれるのは明らかな愉悦。今が、そしてこれからが楽しくて仕方ない童女の声音。
応えるものがいないことに気を悪くした風もなく、幽香の顔に浮ぶのは微笑。
「それでは、下ごしらえから済ませましょ?」
主の声に答え、向日葵畑が豹変した。数十本の向日葵が、根から別たれ宙に浮ぶ。その茎は鋭く斜め切りにされており、不気味な迫力に凍りついた世界で、幽香は一つ指を鳴らした。
「血抜きしないと美味しくないわ」
根を失った向日葵は、水を吸い上げることが出来ない。しかし生を望み滅びを拒否する本能は、幽香の力を借りて、もっとも手近な水へと迸る。
「っぎゃ!?」
数十本の向日葵は、宙吊りにされた肉塊に突き刺さった。
生きたまま刺し花の土台にされた男達は、絶命するその瞬間まで鮮血を撒き散らし、見るもの全てを朱に染める。
即死出来たものは、まだ幸せだったろう。不幸なのは急所を外され、助からない傷を負いながら数分間の地獄の中で、血の雨の水源となり続けた者だった。
降り注ぐ返り血で赤く染まった向日葵を、秋風が優しく薙いでいく。緩く揺れ、カサカサと音を立てる向日葵はまるで嗤っているようで……
永遠にも感じる、長い刹那の金縛り。そこから一同を解き放ったのは、誰かの発した声だった。
「ねぇ、花のお姉さん」
その声がルーミアのものだと気づくのに、橙とチルノは若干の時間が必要だった。普段能天気な親友はいつもと変わらぬ陽気さで、未だ降り止まぬ雨の中を幽香に向って歩み寄る。なんとなく、二人には分かっていた。今のルーミアは、とても良い顔で笑っているに違いないと……
「その肉一つくださいな?」
「だーめ。これは私がお持ち帰りしちゃうから」
「えー……一人くらい譲ってよ」
「御免なさいね。家には養う家族が大勢いるの」
髪を濡らす血を鬱陶しげに払いながら、幽香と交渉するルーミア。幽香は頬をかきながら、曖昧に笑っている。
「だけどそうね。これは元々貴女達の玩具ですもの。持って帰るには当然対価が必要だわ」
「対価?」
その言葉に首を傾げたのは橙。目の前の妖怪が、物事に対価を払う性格には見えない。
一方少々困ったような幽香は、一つ手を打つとこれは名案とばかりに宣言した。
「よし決めた、貴女達の玩具をいただく代わりに、私が遊んであげるから」
「あ、ほんとに?」
「おい!」
幽香の宣言に難色を示す事も無く、あっさり喜ぶルーミア。チルノは苛立たしげにルーミアに駆け寄り、抱え込むように幽香から引き離す。
「鬼ごっこしてたのね? なら、続きは私が鬼かしら……」
呟いて、一つ手拍子を打つ幽香。すると突然、地中から何かの根が飛び出して、今だ呆然と佇む男の一人を串刺しにする。新たな衝撃に、色を失う男達。
幽香は彼らを無感動に一瞥すると、生きたままオブジェと化した男に歩み寄る。傘を閉じると、母親を呼びながら必死に助けを請う男の口内に、その先端を突き込んだ。
「確か……十人殺してから追いかけるのよね? 鬼ごっこって」
傘を振り、血と肉片を払い落としながら、幽香はルーミアに笑いかける。ルーミアがその声に応える暇もなく、チルノの声が響き渡り、
「逃げるよ!」
チルノは橙と共にルーミアを引きずって、森の中へと消えて行った。
その様子を満足そうに眺めた幽香は、既に声を出すことも出来ず震える男達に声を掛ける。
「あの子たちは逃げたわよ? 貴方達も、少しは生きようと足掻いたら?」
その声を聞く者はいなかった。正確には、聞こえていても理解は出来ていなかった。彼らは妖怪の襲撃から、幾度も村を守ってきた戦士であり、当然その中で死んでいった仲間も見てきた。
しかし目の前の現実と、幽香の纏う圧倒的な妖気……
其処から導かれる避け得ない絶対の死は、屈強な彼らをして震え上がらせていた。
「ああ、やはり貴方達も唯の人間。絶望に震えて蹲り、死を避ける為に戦えない。その手は、足は、一体何のためにあるのかしら?」
幽香の問いに応える者はやはりおらず、彼女は肩を竦めて息をつく。
「戦う手も逃げる足も無い花だって、死の瞬間まで咲こうとするのにね? もう良いわ……話しながらメニューも決めたし、そろそろお別れと行きましょう?」
「ヒッ!」
幽香の言葉に反応したのは、一番若い男。彼は死にたくないという、唯その一心で踵を返して逃げ出した。
その様子に、幽香は笑みを深くする。
「まぁ!? お仲間をおいて、逃げちゃうの? あんな子供、まして人外の化け物だって、お友達を伴っていたというのに」
嘲笑う妖怪の声も、しかし若者には届いていなかった。
先ほどまで、風にそよいで揺れていた向日葵の群れ。それがまるで鋼鉄で出来た檻の様に、若者の力を持ってしても微動だにしない。
「メニューは決めたと言ったでしょう? もう私からは逃げられない。さぁ……」
幽香は再び傘を開き、その身を緩く肩に乗せる。そして、満面の笑みを持って宣言した。
「遊びましょ?」
幽香の世界に、哄笑と悲鳴が響き渡る。
それは誰にも届かない、無数の命の断末魔―――
貴方の未来はカットステーキ。
……っが……ぁ
貴方の未来はボロネーズ。
ッゴヒュ?
貴方の未来はモツ煮込み。
っだ……だず……っげ……
貴方の未来は香草焼き。
ョじケゅびふぇ?
貴方の未来はハンバーグ
アヒ……ィヒひひヒィひヒグジュ?
―――ほんの数十秒。
命を対価に末期の唄を奏でた奏者は、一人残らず地に伏せる。幽香の導く旋律は血の雨となって降り注ぎ、花と妖を染め上げた。夢見るような眼差しで、傘も差さずにその身を委ねる花妖怪。
幽香の上気した頬が朱く染まり、紅のオペラは赤い悲鳴を引き連れて絶頂を迎える。
血の香りが満ちた花畑……その中にあって、主役と脚本を兼ねた女優は返り血を拭うと、優美なカーテンコールにて彼女の舞台に幕を降ろした。
「ふふ、あの子達は遠くへ逃げられたかな?」
幽香は足元に転がる生首を拾い上げると、もう一つの遊び道具が逃げた方向へ投げつけた。
* * *
惨劇の花畑から逃げ出したチルノと橙は、左右からルーミアの腕を抱えてひたすらに走っていた。
結果一人だけ後ろ向きで運ばれているルーミアは、いつもと変わらぬ気楽さで声を掛ける。
「ねぇ二人とも、重くない?」
「重いよ! でも仕方ないじゃない」
「ルーミアちゃん……アレはヤバイよ」
今ではチルノだけでなく、橙も青い顔をして声を上げる。
橙は微妙に足を速め、チルノを誘導するように走り出した。
「何処に向ってんの!?」
「家だよ! とりあえずマヨヒガに逃げ込めば藍さまを呼べる!」
「そーなのかー」
することが決まれば、迷いも消える。橙の提案を聞いたチルノは、その誘導に任せるように進路を修正していった。子供特有の身軽さを駆使して、木々の間をすり抜け、茂みの中を駆け抜ける。
「……何か来る」
最初に気づいたのは、後ろを向かされていたルーミアだった。その声で意識を背後に向けたチルノと橙は、凄まじい速さで飛来するナニかに気がついた。
『っうあ!?』
ルーミアの腕を抱えたまま、咄嗟に身を伏せるチルノたち。頭上を通過したナニかは、手近な木に激突して四散した。
鮮血と脳漿が、三つの妖を等しく濡らす。
石榴の様にひしゃげて潰れ、木にへばり付いた生首。それが開幕宣言であることは、疑う余地なく明らかだった。
「来るよ!」
「ええ!」
今度は怯まず声を上げるチルノ。応えた橙は、その様子がいつも通りなことに安堵した。
「橙、案内して! ルーミアは離れないようについてきて!」
「分かった!」
橙を先頭にし、その後ろからチルノとルーミアがついていく。駆け出し、速度に乗ったところで空に向って舞い上がる三人。
しかし木々の茂みを越えようとしたところで、頭上から降り注ぐ無数の毬栗。辺りには栗の木は無いがのだが、幽香はそんなことに頓着しない。
「痛!?」
「っぐぅ……」
再び地面に倒れたチルノたちは、空には逃がしてくれない事を悟らざるを得なかった。
「走るよ!」
いち早く立ち上がった橙は、チルノとルーミアを引き起こす。
「ねぇ、橙?」
「なにルーミアちゃん?」
「ひょっとして、すっごく走ったりする?」
橙は、その問いに答える暇をもらえなかった。森の中を一陣の風が吹きぬけ、風は無数の花びらを運んでくる。花びらは幽香の妖気を纏い、踊り狂う無数の刃物と化して三人に吹き付けた。
回避を許さぬ数と層。初見なら確実に避けえぬそれに、即応したのは小さな氷精。彼女はこの春、花の異常開花事件の折、この弾幕で襲われたのだ。
走りながら振り向いて、背後に迫る花びらを視認したチルノは、一瞬で妖気を練って解き放つ。
「Perfect Freeze!!」
チルノが放った凍氣は視認した花びら全てを氷結させた。凍った花びらは既にチルノの支配下にある。彼女はそのまま花びらのベクトルを散らし、その結果幽香の弾幕を無力化した。
第一波を凌いだチルノは、再びルーミアと共に走り出す。
「ほんと、後どのくらい!?」
「飛んで十分……走ったら十五分くらいだよ」
「うう……空きっ腹に応えるよぉ」
「言ってる場合か!」
「家ついたら食べれば良いよ。今は、急いで!」
振り向かずに走る橙の背中を、チルノとルーミアが追いかける。
この期に及んでも、この三人に一人で逃げるという発想は無い。橙が振り返らないのは、先導者の役割を弁えてのことである。橙が倒れたら、誰もマヨヒガに辿り着けない。案内役はひたすらその任に徹し、追撃を防ぐのは後の二人の役目。
暗黙のうちに役割を分配した三人は、秋の森を走る。
今や涼しげな雰囲気など微塵もなく、背後から迫る瘴気は急速に辺りを満たし、刻一刻と深みを増していた。そんな中、木々のざわめきに混じって幽香の声が響き渡る。
『随分遠くまで逃げるのね? 私、走るのは得意じゃないのに』
その声に応えるものはいない。余計なことを話す間に、目的地への距離を一歩でも縮めなければならないのだ。
『次、行くわよ? 私が行くまで待っててね』
幽香の声が響くと同時に、森一帯を地震が襲う。
咄嗟にバランスを崩してよろける三人。しかしすぐに大地が揺れているのではなく、その中を通る木の根が脈動しているのだと気がついた。
やがて大地の鳴動が収まると。三人の視界に飛び込んできたのは様変わりした森の様子。
歪に突き出した無数の根が絡み合い、幹の隙間を埋め尽くす。空に飛べば撃ち落され、周囲は網目のように這う木の根が覆っている。
天然の檻に閉じ込められた三人。有らん限りの妖弾をぶつけるも、その檻は傷一つ入らない。それどころか、壁に当たった妖弾は一瞬その場に静止すると、放った時に倍する速さで三人に向かって降り注いだ。
「うわぁ!?」
元々破壊力を重視し弾速が遅かった事もあり、三人は辛くもそれぞれの反射攻撃を避けきった。
「これ……ほんとに根っこ?」
「お姉さんの力で変化した樹だからね。何があってもおかしくないよ」
驚くチルノに達観した様子で応えたのはルーミアである。彼女は幽香に対しある種の共感を持ったため、その人格や能力を割りとあっさり受け入れることが出来ていた。
一方チルノは、歪な植物の牢屋を睨んで唇を噛み締める。
チルノは元々低威力で広範囲をカバーすることを得意としており、一点を高威力で破壊するのは不得手だった。しかも反射攻撃などをされると、なまじ範囲が広い分、今度は自分達の回避が難しい。其処へ来て、態々そんな小細工をかけてきたのは、幽香自身これまでチルノと対峙した経験から、そのことを読み取ったからだろう。
「二人とも! 合わせて!」
橙の音頭で、三人は一点に向けて同時攻撃を仕掛ける。しかしそれすら、幽香の力を受けた植物は傷一つ入らずに反射した。
「……あらー」
「どうしよう、チルノちゃん?」
「どうするたって……」
橙に対して言い淀むチルノ。しかしその考えがまとまる前に、突然辺りが暗くなった。
驚き、周りを見回す橙とチルノが見たものは、俯いて何かを呟くルーミアの姿。その右手には拳大の闇が揺らめき、ソレは周囲の光を貪って見る間に大きさを増していく。
「花のお姉さんには悪いけど……お腹空いてるんだよね私……」
左手でお腹を擦りつつ、どこか虚ろに呟くルーミア。右手を頭上に掲げると、球状だった闇は形を崩し、燃え盛る炎のように猛り狂う。やがて温度の無い闇の炎は、巨大な怪鳥へと姿を変える。
それを見た二人はルーミアが手加減などまるで考えていないことを悟り、咄嗟に大地に飛び込んで、頭を抱えて身を伏せた。二人の避難を待っていたわけでもあるまいが、同時にルーミアは右手を振るい、闇で象った怪鳥を解き放つ。
「行っといで……鵺(Night-bird)」
迫る巨大な壁に挑むは黒き巨鳥。両者の激突は凄まじい衝撃波と暴風を巻き起こし、術者であるルーミアごと、地に伏せたチルノと橙を、反対側の壁に叩き付けた。
「みぎゃ!?」
「グゲ!」
潰れた蛙の様な声と共に、壁にもたれてへたり込む猫と氷精。しかし二人は即座に起き上がると、いまだ倒れて動かないルーミアに駆け寄った。
「あんた一体ナニすんのよ! いや、それより平気!? どっか打った?」
倒れたままピクリとも動かぬルーミアに、チルノは必死で呼びかける。
「お腹……空いた……」
「っつ……こいつはぁ!」
反射的に踏みそうになったチルノは、理性を総動員して上げかけた右足を下ろす。今はそれ所ではないし、ともかくルーミアの一撃により、都合よく道も開いている。
「チルノちゃん、行こう?」
「あいよ」
倒れたルーミアはチルノが背負い、再び駆け出す妖二人。ルーミアがぶち抜いた大穴から檻の外へと抜け出すと、橙はチルノに声を掛けた。
「ねぇ、チルノちゃん?」
「なに?」
「ルーミアちゃんがお腹いっぱいになったら、あいつにだって勝てるんじゃない?」
「そうかしら? どっちかって言ったら、飢えてる時の方が強そうだけど」
「ああそうか。お腹いっぱいになったら、きっと喧嘩しないよねルーミアちゃん」
「言えてる」
危機的状況下にあって、ようやく二人に笑みが戻る。笑いあう二人の共通の友は、チルノの背中で幸せそうに寝入っていた。
* * *
未だ花畑に佇む幽香は、森の一角に闇が猛るのを見た。
「抜けたか……アレをねぇ」
思案顔で首をかしげ、思い通りにならないゲームを振り返る。
幽香は以前からチルノとは面識があった。なかなかに面白い娘であり、その在り方は氷精で在りながらまさに太陽。能力はさほど高くなかったはずだが、それを補う仲間がいたらしい。
「偶にいるのよね。人毎に、足し算じゃなくて掛け算で強くなるパーティが」
そのようなパーティには必ずと言って良いほど、メンバー全員から慕われる太陽がある。
「気を抜いたら喰われるかしら……だけどぉ」
幽香は手にした日傘を、向日葵の首の高さで一閃した。花だけになった無数の向日葵は、主の声に従い、中空で旋回を開始する。
「負けるのも、趣味じゃないし」
凄まじい速度で回転する向日葵の群れ。それは緩やかに大きさを増して行き、ついには大きいもので四尺、小さなものでも二尺を超えた。
巨大な向日葵は回転と同時に風を生み、幽香ははためくスカートを押さえて呟いた。
「そろそろ私も行こうかな」
巨大向日葵は、一斉に森への進軍を開始する。
「ねぇチルノちゃん、何か聞こえない?」
「え?」
その音を最初に聞きつけたのは橙だった。言われたチルノが耳を澄ますと、程なくして橙が気づいた音を捉えた。
まだかなりの距離がある。しかしチルノはその正体を看破して顔色を変えた。まるで人の子供が使う竹とんぼ……アレをもっと大きくしたような音。大きくて平たい何かが、高速で回転するときに発する異音。
以前幽香と対峙したチルノには、この音に聞き覚えがあった。
「ヤバ……急いで!」
「急ぐったって……」
困り顔で振り向くのは、前を走る橙。
彼女は相変わらず先行しており、むしろルーミアを背負ってペースダウンしたチルノを待っているのである。
チルノも当然解っているのだが、ついついそんな事を言ってしまう。焦りから思考が短絡になっていたらしい。チルノは一発、自らの頬を叩いて気を切り替える。
「飛ぶしかないか?」
「低空飛行? 森の中じゃあ厳しいよ」
この二人に限って言えば、走るよりも飛ぶほうがかなり早い。飛行しないのは単に、幽香に上空を押さえられているからである。だからといって、障害物の多い森を低空飛行するのは難しい。地に足を付けない移動は、方向転換や急停止がとても大雑把になる。かの天狗であればいざ知らず、この二人に其処までの空中制御は望めなかった。
仕方なく、現状では全力疾走を選択した二人。その眼前に、突然何かが躍り出る。
「え?」
どちらが上げた声だったのか、咄嗟には分からなかった。分かったのは、飛び出した何かが拳大の大きさで丸かったこと。それが空中で一瞬静止し、突如硬い外皮を撒き散らして爆発したことだけだった。
「痛っ!」
殺傷能力など無きに等しいが、当たるととにかく、ひたすら痛い。
倒れた二人はすぐに身を起こし、背中を合わせて死角を潰す。するとすぐにそれぞれの視界に、地面から飛び出してきた何かの種。
『!?』
反応は咄嗟で、迅速だった。チルノは種を氷結させ、橙は上空へ蹴り上げる。間髪入れず、蹴られた種は先ほどの様に爆散した。
「爆弾? あんな威力で……?」
橙の呟きに、チルノは応えることができない。橙自身も自分で言い終わる前に、既に気がついていた。
これが唯の時間稼ぎだったことと……
既に羽虫の大群のような異音が、間近まで迫ってきていることを。
「向日葵が……」
「もう来たか!」
その目にはっきりと写った異常事態は、柔軟な子供の頭をして唖然とさせる。
巨大向日葵の大行進。しかも無数の向日葵は森の木々を避けながら、黄色の刃として襲い掛かる。
再び走り出す二人だが、既にその呼吸が荒い。何も無い長距離走ならともかく、幽香のちょっかいを掻い潜っての逃避行である。緊張は疲労を早め、橙の予想よりかなり速くそのペースが落ちてきた。
「後……どのくらいだっけ?」
呟くチルノを、向日葵群の先頭が追い抜いていく。幽香はろくに狙いも定めず、数に頼って乱射したため、殆どが当たらずに行き過ぎる。しかし枝を掠めた向日葵は、僅かな遅滞も許さずに通り抜け、怒涛の進軍を続けているのだ。
「後……!?」
応えかけた橙の目の前に、再び種が飛び出した。おそらく地中に埋まっていたらしいそれは、幽香の意思によって相手の顔辺りまで跳躍し、硬い外皮を撒き散らすバウンディ・ボム。
巨大向日葵と機雷種の複合攻勢に、二人の足は完全に止められる。
最早向日葵に背を向けるのは不可能だった。
木々の合間を縫って迫るそれは、避けるだけなら決して難しくない弾速である。しかし既に全方位に向日葵が配置され、行き過ぎたそれも騒音によって距離感を撹乱していた。同時に視界に飛び込んで弾ける機雷源。この二つを逃げながら捌くのは、正直荷が勝ちすぎた。
不味い……と、二人はそう思う。特にルーミアを背負ったチルノは、思い通りの動きが出来ず、次第に苛立ちを募らせる。
「アイツが来る前に、何とか抜けないと……っ」
殆ど意識の外で呟くチルノ。しかしその呟きに応えた、ソプラノヴォイス……
―――それは無理なんじゃないかしら?
瞬間、世界が停止した。
向日葵の羽音も、機雷種の炸裂音も、その声を阻むことは敵わない。
機雷種はその鳴りを潜め、向日葵も進軍を停止する。その中で、四季のフラワーマスター、風見幽香は変わらぬ笑みを浮かべたままに、木々の茂みから二人の背後に降り立った。
おそらく飛んできたのだろう。いつでも追いつけるからこそ、幽香はすぐには追わなかったのだ。
「もう、来てしまいましたもの」
「……」
無形の恐怖が、二人の足を大地に縫った。
それまで逃げてこられたのは、単に幽香自身に追われなかったからである。その眼差しに捉えられ、尚逃げ遂せると信じられるほど、二人は自身を美化していない。
「っは、随分遅かったじゃないのさ」
「これでも急いで来てみたのよ? 貴女達は早いから疲れちゃった」
精一杯強がるチルノを、幽香は笑って受け流す。
ニコニコと笑う花妖怪。その姿からは敵意の欠片も見出せないが、酸化して黒ずんだ返り血が全ての笑みを裏切っている。
「あいつら如何したの?」
「死んだわよ? 花遊びも知らない手では、平和な世界は作れない。妖怪の餌くらいしか、利用価値はないでしょう?」
幽香の口から紡がれた平和という単語に、チルノと橙は顔を見合わせる。おおよそ幽香には似合わぬその言葉に、しかし奇妙な現実味があった。
「子供たち皆が花遊びを知って大人になれば、世界はきっと平和になるわ。一日も早く、そうなって欲しいわね?」
幽香が両腕を広げると、中空に静止していた向日葵達が、再び旋回を開始する。
「花遊びを知らないって……?」
「知っていれば、あの花畑には騙されない。そういう暗示を、かけたから……」
花を愛し、花に愛された妖怪は、脅える子供をあやす為にその歩みを開始した。その背後には、凶悪極まる刃と化した向日葵の群れを引き連れて。
「貴女達にも少しだけ、花遊びを教えてあげる」
やがて幽香の掌がチルノと橙に差し出され……
「―――Demarcation」
「え?」
それは幽香をして、全く意識していなかった第三者の声。マーブリングのように絡み合った光と闇の混合球は、幽香を飲み込んで吹き飛ばした。
「ルーミア!?」
「やっほー」
背中に問うチルノは、ルーミアの返答を聞いて安堵する。
だが、喜びを語る時は無かった。
自らを統べる女王を倒された向日葵は、猛る怒りをその加害者たちに向けて襲い掛かる。それまでを遥かに凌ぐ風切り音と共に、巨大向日葵が三人を殺到した。
「てめぇ降りろよ!?」
「やー」
起きたにも関わらず、ルーミアはチルノの背中から離れない。振り落とそうとするチルノに、彼女は本気でしがみつく。
そのような状況下でも、機雷種はチルノが氷結させ、向日葵はルーミアが消し飛ばす。息のあった連携は鉄壁の様相を呈し、死神の鎌を遠ざける。
「橙も何とか……っ?」
何気なく橙に視線を送ったチルノは、その光景に震え上がった。橙は巨大向日葵の襲撃を回避する訳でもなく、俯きなにやら呟いている。
「……護法」
「橙避けて!」
自身の回避も手一杯で、声を掛けるのが精一杯。何も聞かず何も見ず、佇み続ける橙にルーミアも呆然と視線を送る。
しかし次の橙の行動は、二人の最悪の予想を超えた。橙は顔を挙げ様に、足蹴りで巨大向日葵を打ち上げる。
「―――天童乱舞!」
叫びは言霊を伴って、橙の身体を燐光が包み込む。そのまま橙は低空を駆け抜け、チルノとルーミアの元に辿り着く。
「掴まって!」
そう言いながらも返答は待たず、チルノの襟首を引っつかんだ橙は、凄まじい速さで低空を飛ぶ。行く手を遮る木々は、まるで地を翔けるときのような方向修正で巧みに避ける。
「すごーい」
「取っておきだから……それよか飛ばすよ!」
橙は二人を抱えているとは思えぬ速度で、森の中を飛行する。既に前行く向日葵を追い抜き、地中から飛び出す機雷種を、その瞬間に置き去りに。
ルーミアは手を叩いて喜んでいる。しかしチルノは不安げな表情で呟いた。
「これ……最後まで持つの?」
「持たすんだよ!」
他に逃げ切る手段が無い。真正面に幽香がいて、しかも高空、低空、地上を全て抑えられているのだ。チルノは今更ながら、互いの実力差にうんざりする。
「死ぬ気で飛ばせー」
「是(ヤー)!」
ルーミアの気勢に応え、さらに速度を上げる橙。自身の妖気が凄まじい速さで抜けていく感覚に内心で身震いするも、目的地との距離を一気に縮めていく。
ルーミアは背後を振り向き、一瞬ごとに小さくなっていく向日葵群を確認した。そして緩やかに身を起こす風見幽香の姿も。遠目ではあるものの、踏み出した足が揺らぎ、頭を振っているのが見えた。もともと、ルーミアの得意分野は単体への高威力。その中でもかなり強い術を使い、しかも油断しているところをまともに入ったのだ。
逃げ切れる――
そう判断したルーミアは、一つ息を吐いて視線を前方へ戻し……戦慄した。
橙の後頭部を照らす、一条の細い光の線。危険信号が冷や汗の姿を借りて、ルーミアの背中を濡らす。咄嗟に橙に抱きつくと、その身体ごと巻き込んで捻りこむ。
『っっああああアあアアあああああ!!!』
森の高い木々の茂み付近から、地上までの約五メートルを墜落するチルノ達。
「アンタ一体何……」
チルノの文句は最終章まで続けることは出来ない。その声を遮って、先ほどまで自分達がいた座標を、遥か後方から放たれた極光が貫いていく。
「マスタースパーク!?」
悲鳴じみた橙の声。三人とも、あの光には見覚えがあった。傍迷惑この上ない、パンダ魔法使いの得意技。
チラリと背後を見やったチルノは、掌を翳した幽香が、うっすらと微笑んでいるのを見た……気がした。
「あれ?」
チルノの脳裏になにかが引っかかる。
紅霧が覆った寒い夏。紅の館へ向かう途中だった魔法使い……
偶々出会ったチルノは、ついでとばかりに相手をさせられて吹っ飛ばされたことがある。あの後、怪我の手当てをしてくれた大妖精は……
「もう一回飛ぶよ!」
声を受けてチルノは橙に、ルーミアはチルノの首筋にしがみ付く。そのとき、三人の足元めがけて一筋の光が差し込んだ。
「っぐ?」
橙の身体を、再び燐光が包み込む。急上昇したのと、細い光線に沿って極大のレーザーが到達したのは、殆ど同時のことだった。
「行くよ!」
橙は足元を抉った光を見ないように、もう一度森を飛行する。しかし幾ら早く飛んだところで、レーザーを直線で逃げられるはずが無い。此処までは回避に成功したが、これ以上を避ける自信はなかった。
「あ!」
唐突に上がる叫びの主は小さき氷精。チルノはかつて大妖精に言われたことを思い出した。
「確か……でもあれ?」
あの時の会話が鮮明になればなるほど、チルノの頭に疑問詞が浮ぶ。
―――もし、今度あの光線を撃たれたら……
「如何したのチルノ?」
「ああ……いや、如何したんだろ?」
チルノの様子を不審に思い、ルーミアが声を掛けてくる。要領を得ない会話だが、発端のチルノ自身が混乱しているのだから無理も無い。
この時、チルノは橙に声を掛けようとして躊躇した。実戦で試したことも無い、その場の思いつきに近いアイディアで言えることではない。
凶悪極まる破壊跡を見せ付ける、あの光を避けるな、なんて……
『うわぁ!?』
三度。背後から放たれた巨大レーザー。幽香がこれを放つたび、森の中の光源が変化して木々が明滅を繰り返す。
幹を蹴りつけ、直角の方向転換を駆使して、橙はそれすら避けてみせる。
「……っふぁ……っぐ……」
しかし今や、彼女の消耗は明らかに二人の耳に届いていた。燐光の中の橙は青い顔をしている。
「平気なの!?」
既に息つく余裕も無いのか、完全にトランス状態なのか、橙は応えずひたすら前へ。
既に限界なのは誰の目にも明らかだった。直線だけならまだしも、幽香の気ままな破壊光線に曝されながらの低空飛行である。ストレスは疲労を早め、橙の口数を奪っていく。
やがて遂に避けようの無いタイミングで、巨大レーザーの前兆たる光が三人を包んで煌いた。
橙はそれに気づくだけの余裕は無い。ルーミアも、今の橙を無理やり引きずって方向転換など出来ない。そしてチルノは……
「―――Diamond……」
―――避けずにコレで切り返せば……
かつて一番の親友が、良い笑顔で信じられないことを言った。チルノは全く相手にしなかったし、だからこそ今まで忘れていた。しかし今は信じるしか方法が無いし、チルノはコレが分のある賭けだと知っていた。
なにしろ彼女は今まで、自分に嘘を吐いたことが無い!
「 ……Blizzard!!」
レーザーが森を駆け抜ける。
同時に、チルノ達の後方に立ち込める氷霧。極光は霧を貫通出来ず、霧と微細な氷の中で乱反射した。
『しまっ!?』
森の木々に反射して、幽香の声が響き渡る。
チルノは唯、ひたすら広範囲に氷霧を生んだだけ。これ自体には攻撃力など皆無であり、本来チルノは逃走用としてこの術を使用する。
しかし、今は違う。
幽香自身が放った破壊光線は霧の中を跳ね回り、凶悪無比の破壊力が氷霧の中に充満して拡大する。森を、そして風見幽香すら巻き込んで。
―――今度は必ず勝てるから
幽香のレーザーとチルノの氷霧。二つのスペルによって生まれた破壊空間は、ものの五秒と持たずに消失した。その跡地は荒野と化し、巨大な森の中にぽっかりと、其処だけ木が在ることを忘れたようで……
「大ちゃんってば、あーんな危ないこと薦めてやがったのか……」
「本当の必殺だね」
背後に広がる荒野を眺め、チルノとルーミアは呆れたように呟いた。
そこに橙の声が届く。
「着いたよ!」
三人が視線を向けた先には、森の中の小さな広場が開けていた。其処にはスキマが展開され、中から無数の目が周囲を見回し、時に瞬きしている。
橙の主の主の得意技にして、現世とマヨヒガの通り道。
見えたと同時に、橙の身体から燐光が消え、推進力を失った三人が落下する。
「よっ」
「っと」
橙もチルノも、それぞれに身軽さを生かして着地する。チルノは未だにルーミアを背負ったままであるため、衝撃に少々顔が歪んだが。
「アンタそろそろ降り……!?」
チルノの上げかけた文句は、真正面から放たれた光の渦に掻き消えた。
「え?」
訳が分らなかったのは、橙にしても同じこと。しかし彼女は見えた。広場に先客がいたことを。萌黄色の髪にチェックのスカートを纏った花妖怪が、初めて出会った時と変わらぬ笑みで手を振っていた……
* * *
……深夜のこと。橙は主に見送られてマヨヒガを出る。スキマを潜り周りを見れば、森の中の広場だった。辺りからは虫の声が響き、静謐というには賑やかで、空を見上げれば蒼い受け月。涼しい秋の夜風を受けて、橙は一つ身震いする。
「……」
あの後―――前方の幽香が放った極光で気絶した三人は、傷一つなく生き延びた。幽香はゴール直前で被弾した三人が目を覚ますまで、何もせず律儀に待っていたらしい。
『鬼ごっこしてたんでしょ? 私達』
幽香は三人の疑問には全て答えてくれた。
最後の先回りは株分けを利用した実体分身であること。
元々マスタースパークは幽香が考案したスペルだったこと。
そして最初から最後まで、風見幽香は正に『遊んで』いたこと……
目を覚ました三人に、幽香は健闘を讃えて手ずから編んだ花冠をくれたのだ。
「……にゃろう」
橙は知らぬうちに拳を握る自分に気づく。完璧に舐められた。
「凄い顔してるねー」
上空からかけられた声に振り仰ぐ橙。視線の先には一人の天使。対なる翼は光を放ち、頭上に浮ぶ漆黒の光輪。オプションにこそ見覚えは無いが、それらを持った本体のほうには見覚えがある。
「イメチェン?」
「チルノには見せたことあるんだけどねー。橙は初めてだったかな?」
トレードマークのリボンは花冠に変わっているが、この光翼天使は間違いなくルーミアだった。
天使はヒラヒラと手を振って、猫又に声を掛けてくる。
「物騒な式憑けてるねぇ。こんな夜更けに何処行くの」
「遊びに行くんだよ。花のお姉さん言ってたじゃん? 遊んで欲しけりゃいつでも来いって」
橙はニッコリ笑うと、愛用の帽子を取ってみせる。其処には幽香のくれた冠があり、編まれた茎と無数の花がその存在を主張する。
「藍さまにおニューの式付けてもらったし『負けるなよ』って命令も貰った。今度は良い勝負出来るよきっと!」
両手を腰に当て、どうだとばかりに胸を反らす橙。その様子に、ルーミアは笑みを浮かべて翼を打った。瞬く間に、橙の横に並んだルーミアは、頬に掛かる金髪をかき上げる。
「じゃ、其処に私も入ったら勝てるね、きっと」
「ルーミアちゃんは如何したの? その格好」
「リボン壊して貰ったから封印が解けた。紅いお屋敷の地下に、腕の良い壊し屋さんがいるんだよ。危うく頭ごと消されるとこだったけど」
あっけらかんと笑うルーミアになんとなく同意する橙。その危険度がどれほどのものだったのか、おそらく二人とも理解していないだろう。
「行く?」
「おういえ」
二人は顔を見合って頷いた。歩き出そうとした二人だが、その前に馴染みある声が掛けられる。
「なに深夜に密会かまして見詰め合ってんの?」
虫の声を遮って届いた声に、二人は思わず身震
いした。それは秘密を暴かれたゆえではなく、純粋に周囲の気温が低下したためである。
「さてはあんたら、愛し合ってるな?」
「そうだよー」
「仲良しだもんねー」
二人は肩を組んで声の主……湖の氷精を迎えた。
チルノは肩を竦めただけで、それ以上は追求しない。変わりに聞いたのは別のことである。
「で、こんな時間になにやってるの?」
「当然リベンジだよ?」
事も無げに言い放つ橙に、チルノは眉を顰めた。
「アイツの実力わかんないの? 今度は気まぐれ起こしてくれる保証はないよ」
「だったらどうしてチルノちゃんは来たの?」
「あたし?」
チルノはきょとんとした表情の後に首を傾げる。
「あたし幽香の所行くなんて言ってないけど?」
恍けるチルノに、ルーミアと橙は視線を合わせた。無言のうちに分担を決めた二人の内、ルーミアがチルノを羽交い絞めにする。
「おい!?」
「まーた照れちゃって……橙?」
「はーい」
橙は両手をわきわきと動かしながら、音も無くチルノに迫る。力いっぱい暴れる妖精を、力半分で押さえつける天使。その隙に妖怪の手が翻り、妖精のスカートが捲くれ上がった。
「きゃー!」
氷精は右足を垂直まで振り上げ、背後の天使の顔面に爪先を打ち込み、そのまま足を下ろし様、猫又の後頭部に踵を落す。
「んぶ?」
「っげ!」
息を荒げ、自分自身を抱きしめて座り込むチルノ。しかし時既に遅く、二人は腿に巻かれた花輪を暴くことに成功した。おそらく冠を解いて編み直したらしいそれは、元のそれと遜色ない完成度を誇っている。
「……素直じゃないんだからぁ」
「……鼻血拭けよバカ」
ややくぐもった声で笑うルーミアに、微妙に視線を外して呟くチルノ。橙もやや足をふらつかせるが、笑みを浮かべてチルノを小突く。
チルノは観念したように、一つため息を吐いた。
「一応確認しとくけどさ……」
『?』
「連中の敵討ちなんて考えてる、正直者はいないよね?」
「まさか?」
「それ何の冗談?」
チルノの問いを、橙もルーミアもそれぞれの表情で否定した。
「私だったら良いけどさ、八雲の式神ごと舐められるのは赦せないよ」
「あのお姉さんとは仲良くなれそうだから」
目当ては違えどやることは同じ。それぞれの目的のために、勝手に集まってきた三人組。チルノは心底呆れて肩を竦める。バカな連中だと、つくづく思う。
「生きて帰れるか分んないよ? あいつ絶対本気じゃ無かったよ?」
「死ぬのが怖くて生きていけるか!」
「チルノだって、お姉さんの前でガクプルしてたくせに」
「あんたらなぁ……」
戦力差は不利を通り越して絶望的である。三人ともそれが分った上で尚、引こうとしない。
「そういうチルノは、なんで来たのさ?」
「あたし? あたしは……」
先程橙にも聞かれた事。既に来た意味がばれているチルノは、今度こそ隠さずに明かしてみせた。
肉食獣のような笑みを浮べて拳を握り、天に向かって親指を立てる。そのまま拳をくるりと返し、大地を指した親指を勢い良く落として見せた。
「……あたしより威張った奴をぶっ潰す!」
「おー」
「ヒューヒュー!」
二人は手拍子を打ってチルノを讃える。この三人は常に共通の意識を持っていた。すなわち、自分以外は全員がバカであると……
その代表格であるチルノは、頭上に浮ぶ月を見上げる。位置からして、夜明けまで後二刻ほど。内心の昂ぶりは、しかし氷精故に冷気として表に現れる。
「……熱い夜になりそうね」
「いや、寒いから」
「迷惑だよねー」
「うっさい! 水指すな!」
チルノは一つ咳払いをすると、いつの間にか自分に集まった視線の意味を理解する。このチームのリーダーは、やはり力弱くともこの氷精なのだ。
「……っさ、行こうか!」
『応!』
歩き出したチルノが、橙とルーミアの間を抜ける。すれ違い様、右手でルーミアと、左手で橙と、それぞれ同時にハイタッチなど決めてみる。それきり振り向かずに歩む氷精に、猫又と天使が続いて行った。
§
森の中を秋風が凪ぐ。それは三人を包み込み、さらに行く先には時ならぬ向日葵畑があった。
妖の花畑を治める女王は、月明かりの中を唯踊る。緩く優しい足取りは、愛した花への鎮魂歌。ステップ一つごとに向日葵から燐光が立ち上り、辺りを淡く染め上げる。
「……っふ……うふふ……」
風見幽香は、森の中に現れた三つの気配を知っていた。こちらに向かってくるそれぞれが、自分の贈った花を身に付けている。幽香がその気になりさえすれば、この瞬間にもその花を用いて三人を絶息せしめるだろう。それすら分らぬ連中だとは、幽香自身思っていない。これは明らかな意思表示。
―――自分達は、風見幽香を恐れない
昂ぶる気持ちとは裏腹に、踊りはあくまで緩やかに。
「……うふふ……アハッ……」
狂喜の笑みを浮かべる幽香。彼女は子供が好きだった。無邪気で傲慢で、それゆえに凄まじい可能性を秘めている。
幽香は自分が負けるとは微塵も思っていなかった。しかし自分が何時か敗れるとしたら、それはこのような『可能性』の中にあるとも思っている。
もしかしたら、自分は今、その何時かを迎えようとしているのかもしれない……
「明りはこんなもので良いかしら?」
舞は唐突に途切れ、辺りを見渡した幽香はそれなりの光源を生み出したことに満足した。一つ頷くと、幽香は寂しげな微笑を向日葵に送り、指を鳴らす。
「お疲れ様」
本来秋に向日葵は咲けない。だから幽香の力が無くなれば、その存在を維持する事は出来なかった。向日葵の群れは正常の輪廻の中に帰っていく。後に残ったのは花を統べる大妖、風見幽香唯一人。
やがてその背後から、草を踏む複数の足音が聞こえてくる。
幽香は日傘を開いて肩に乗せた。
「今度は貴女達が鬼かしらね?」
―――鬼さんこちら、手の鳴る方へ……
幽香は極々僅か、苦笑した。そして振り向いた時には、既に普段と変わらぬ貌で三人を出迎える。
「いらっしゃい。可愛い可愛い、子供達……」
空には淡い月明かりと、地上には脆い命の残滓。一種幻想的な光景の中で、妖達が巡り合う。それぞれが主演する物語を、最も好みに彩る為に――