穂積名堂 Web Novel -既刊公開用-

投げっぱなしのファンタジーゾーン

2008/09/08 17:13:21
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投げっぱなしのファンタジーゾーン

穂積名堂


「やってしまった……」
 自分の目の前で起こった事を理解した時、藍の口から漏れ出た第一声がそれだった。
 顔は酷く青ざめて、いつもはピンと立っている九本の尾も力無く垂れ下がっている。全身から力が抜けてがくりと落とした膝さえも震えだし、どうにかせねばと思いつつも、考えれば考える程に頭の中は真っ白になっていく。
「ぁぅぁぅぁぅぁぅ」
 ついには口から出る声も言葉としての意味を失って。そうなれば後はもうただ広がりゆく絶望の中に身を投じるしかない訳で。
 一体何がいけなかったのか。何処で間違えてしまったのか。
 だがしかし、八雲藍はこの程度でどうにかなる程柔い精神の持ち主ではない。
 真っ白に染まった頭の中に辛うじて残っていた割とまともな部分で早速脳内会議が行われる。
 総勢四十八人の藍が円卓を囲み、これからの展開を議論していくその様は、野党もビックリの強行採決だ。
 そうして得られた結論は「なかった事に」

 割とまともな部分は、同じくらいの割合で割とダメだった。


    ∽


 さて、話は藍がダメな子になってしまった頃よりいくらか遡る。
 梅雨に入ってからというもの、来る日も来る日も天気は雨。
 油断すれば手入れを怠った水場に黴が蔓延るこの時期にあり、藍は多忙を極めていた。
 何が多忙なのかって、それを語り出せばそれだけで三日は潰れてしまう。それくらい多忙なのだ。
 そんな中で、天の気まぐれか誰かの謀略か、不意に晴れ間が覗いたとある朝。
「たまには休みなさい、たまには」
 これまた天使のいたずらか、はたまた悪魔の気まぐれか、そんな事を言い出した紫に家を追い出された藍は、あてもなく幻想郷を歩き回っていた。
 連日の雨で地面はぬかるんでいて、お世辞にも気晴らしや気分転換に歩ける道とは言い難い。
 それでも歩く事に意味があるのだと、そう思っていた。
 朝方まで降っていたのだろう、道端の草に残る雫は朝日の光に輝き、その上を久方ぶりに出てこられた蝶がひらりと舞い飛んでいる。
 いつもより土の匂いが濃い空気は冷えていて、吸い込めばそれだけで頭の中も冴え渡って。
 それらは空を飛んでいては感じられないもの。
「人はその足を地に着けてこそ、か」
 時折紫が言うそんな事も、今ならば解るような気もする。
 否、人よりも尚自然に近い妖怪なればこそ、こういったものにもっと目を向けるべきなのか。
「あれ、珍しいですね、こんな所で」
 不意にかけられた声にそちらを向いてみれば、そこには妖夢の姿があった。
 腰に一刀、背中に一刀差したその姿は、少女剣士というよりも子供のチャンバラごっこといった方が適当だろうか。
 もっとも、面と向かってそんな事を言えばどうなるか、それは想像に難しくない事ではあるのだが。
「ふむ」
「? どうかしましたか?」
「いや、そういえばお前も半分は人だったなぁと思っていたのさ」
「はぁ……?」
 藍の答えに、妖夢は困惑を隠せないでいた。
 それはそうだろう。会っていきなりそんな事を言われては、どこかの巫女だって怪訝な顔をするに違いない。
 もっとも、どこかの巫女は誰かが訪ねてきた際には理由云々に関わらず怪訝な顔をしている気もするが。
「しかし珍しいのはお互い様だな。どうしたんだ? こんな場所まで」
「え? あぁ、いえ、それが――」
 妖夢が言うにはこうだ。
 朝起きたら、幽々子に開口一番「たまには休みなさい、たまには」と言われて家を追い出されたのだという。
 なるほどそういう事か。
「つまりは仲間という訳だ」
 言うと、妖夢は成る程、と素直に頷いた。これは若さ故の美徳だろう。橙も似たようなものだし。
「お仲間というと、やはり急に?」
「急に」
 頷き返せば、妖夢は小さく微笑んだ。
「ではこれから特に用が無ければ、一緒に……まぁ、適当にぶらつきませんか? その、一人だと休みにならなくなってしまいそうだし」
「休みにならなく?」
 一瞬妖夢の言葉が図りかねたが、
「ああ、そうか」
 すぐに藍は気が付いた。何せ彼女の事だ、暇ともなれば身体を動かしてしまうのだろう。それこそ主の意図が霧消する程に。
「ええ、そうなんです」
 苦笑する妖夢。
 彼女とて馬鹿ではないから、持て余す暇をどうにかする為にマヨヒガ近郊まで来ているのだろう。確かに家事を手伝ってもらえるというのなら(それが許されればだが)、藍とて大助かりなのだ。
 しかし今は二人とも暇である。
 そして、妖夢の提案。仲が悪い訳でも他に何かある訳でもなし。
「それじゃあ、一緒にぶらつこう。たまにはそういうのも悪くない」
 答えは考えるまでも無かったと言える。
「ですよね」
 少なからずほっとしたような顔で、妖夢は笑顔を見せた。


    ∽


 連れ立つ二人。片や九尾の妖狐、片や半人半霊と、色々と豊富な幻想郷でも藍と妖夢の他には無い組み合わせである。
「どこに行きましょうか」
 湿った土を踏みながら、妖夢。
「どこだって構わないさ」
 清々しい青空を見ながら、藍。
「……そういうものですか?」
「休みなのだからどこへでも行けばいいし、このまま足の向くまま行けばどこかには着くだろう」
「……あ、成る程」
 藍の言葉に、妖夢は素直に頷いた。
 そうやって一匹と半分半分は道なりに歩いていく。
 途中、野の花に目を止める事もあれば、気持ちのいい風に目を細めたりもした。
 そうこうする内にやって来たのが――
「……なんでここに着いてしまうかな」
「いやまったく」
 紅魔館だった。
 やって来たというか、行き着いた先というか。ともかく、一匹と半分半分の前には赤い威容が聳えていた。
 もちろん、その威容の門前でシェスタを取る門番の姿も。
 藍と妖夢は横目で視線を交し合う。
 導かれる答えは一つ。
「よし、ちょっと戻って道を変えよう」
「そうですね」
 それでいて早かった。
 踵を返し、一匹と半分半分は心持ち足早に紅魔館から遠ざかろうとする。
 その直後。
「わ」
 半分半分の内の人間側がいきなり消えた。
「妖夢!?」
 驚いた藍がさっきまで人間側が居た方へ身体を向ければ、地面に穴が開いているのが目に入る。
「……落とし穴?」
 どう見てもそうだろう。ただ、問題なのは底が見えないという事か。
 空いた穴の上で無意味に妖夢の幽霊側がぐるぐると周回しているが、本当に無意味だった。
 藍の視力でも見通せない深さ。紅魔館であれば、むしろ紅魔館だからこそ、深い深い地下の先にさて何が待ち構えているのか。
 想像し、それから、藍は寒気を覚えた。
 尤も、心配はしていなかったが。何せ飛べるのだから、落とし穴に落ちたくらいでどうこうなる訳がない。
 その内出てくるだろう。
 誰もがそう判断する事を、藍も判断した。
 そうして、穴を覗き込んだままでいた藍であったが――
「え」
 気がついたら真っ逆さまに暗闇の中を落ちていた。
 見る見る内に小さくなる光を仰ぎ、藍は何故か飛べなくなっている事に気付く。
 そして、それもそうかと思った。何せ紅魔館の罠だ。飛べる輩に意味の無い罠など仕掛けてある訳がない。どうせ飛行を阻害する結界なり障壁なりが張り巡らされているんだろう。
 弱ったな、と思いつつ、藍は光の先に紅い長髪が風に靡いているのを見た。
 ……妖夢が落とし穴に落ちた事で目を覚ましたんだろうか。
 もはや点と化した光を見つつ、藍はそんな事を考える。
 シェスタの邪魔をされたのが余程不満だったのか、単純に寝起きの機嫌が最悪だったのか、何にせよ落とし穴作動後に落とし穴を覗き込んでいた藍を無造作に蹴落としたのは、美鈴で間違い無いようだった。
 恐らく、そう間を置かずして妖夢の幽霊側も叩き落される事だろう。
 ある意味仕事熱心だといえた。
 藍からすれば、侵入した訳でもないのだからせめて一言欲しかったが。


    ∽


「――う」
「おい、そろそろ起きろ」
 脇腹を突付かれる感触に妖夢が目を開けると、そこはやっぱり真っ暗だった。
「……あれ? 私まだ寝てる?」
「寝惚けてるのか? ほれ」
 聞きなれた藍の声と共に、小さな炎が灯った。
 藍の右手に生まれた狐火が橙色の光を放っている。
 妖夢が周囲を見渡すと、そこは巨大な空間が広がっていた。
「ここは……?」
「洞窟のようだな。音を探ってみたが果ても知れん。天然物のようだ」
「あれ? 私達なんでここに?」
「憶えていないのか? お前は落とし穴に落ちて、私は蹴り落とされたのさ。ったく、あの赤髪――」
 炎に照らされた藍の顔は苦々しげに歪んでいる。白皙の顔が、蒼炎の瞳が、声も掛けられない程に。
 妖夢は小さく唾を飲み、思わず柄へと手を伸ばしてしまった。
「ま、いいさ。この借りは後で倍返しにするとして……妖夢、お前飛べるか?」
「え?」
 きょとんとした顔で妖夢が問い掛けるが、藍は顔を歪ませたまま何も答えない。
 とりあえず立ち上がり、いつものように空へと浮かぼうとして――
「――え?」
 浮かばなかった。
 いつもなら意識するだけで、いや意識するまでもなく羽毛のように浮かぶ筈の身体が、紙一枚分も浮かばない。
 改めて印を切り、飛行呪を唱えても、術は発動する気配すら見せない。
「これは――」
「力が制限されてる訳じゃない。火も普通に燃えてるしな。だけど――飛べない」
「な、何で!?」
「飛行呪、浮遊術の類だけが制限されている。やっかいな結界だよ……しかも西洋の呪だから、私じゃ術式すら視えやしない」
「そんな……」
「あの穴を『落ちる』って時点で気付くべきだったよ。さて、どうしたもんかな?」
 藍は深く溜息を吐いた。
 大した休日だ、と皮肉げに唇を歪めて。
「ここは何処なんでしょうね?」
「紅魔館の地下……それは間違いないんだがな。こんな洞窟があったなんて知らなかったよ」
「紅魔館の……地下?」
 何だろう? それは知っているような気がする。いつか、どこかで聞いたような――
 妖夢はそう考えて、顎に手を当てる。不吉な予感、不穏な噂。それが重く肩に圧し掛かる。
「ま、考えても仕方がないさ。とりあえず出口を探そう」
「え、あ、はい」
 藍が不貞腐れたような顔で歩き出し、妖夢もそれに続く。
 軽く呪を唱えると、藍の右手に浮かぶ炎がその形を変えた。
 十字架の炎。その先端に炎が輝き、縦軸を中心にくるくると回る。
「それは?」
「ま、念の為にね。こいつは妖力を感じるとその方向を向いている炎が激しく燃えて、それを教えてくれるのさ。妖気探知機ってとこかな」
「へぇ」
 その炎を松明に、二人は歩く。
 先程までは日の光の下を歩いていたというのに、今は暗い地の底を歩いている。
 全く人生とは侭ならないものだ。
 暗い洞窟。天井は見えないほどに遠く、幅も果てしない。洞窟というよりもこれは――
「大空洞だな」
 ぽつりと藍が漏らす。
 それこそ紅魔館くらいであれば、すっぽりと収まりそうな大空洞。湖の下にも続いているのかもしれない。
「何なんでしょうね? ここ」
「さてな。元は湖の一部だったのかもしれん。地殻変動で隔絶され、中の水が蒸発したのかもな」
 炎は変わらず、視界も変わらず、二人はいつしか無言のまま歩き続け――突然、炎が激しく燃え上がった。
「妖夢!」
「はいっ!」
 妖夢は藍の前に滑るように移動し背中の楼観剣に手を伸ばす。
 藍は左手から呪符を取り出し、九尾を僅かに奮わせる。
 二人はまるで一個の生物のように構え、阿吽の呼吸のもとに敵を屠らんと身を沈め、闇の奥を見据えた。
 炎は、なおも、激しく――
「うふふ」
 闇の奥から声がする。
 それは場違いなほどに涼やかな、鈴の鳴るような少女の声。
「誰かな? 誰だろう? 誰かしら?」
 姿は見えず、声だけが響く。
 洞窟の全方位から、包囲するように。
「あなたは良い人? それとも悪い人? 悪い人ならおしおきだけど、良い人なら遊びましょう?」
 少しずつ、
 少しずつ、
 その声は近づいて――
「妖夢」
 藍の声に妖夢は行動で応えた。
 二百由旬を一足で踏破する脚力で、地面を抉りながら。
 楼観剣に手を掛けて、踏み込みと同時に抜き放ちながら。
 そして藍も符を放つ。
 解放された符は進むごとに分裂し、蒼い符は瀑布のように、赤い符は燎原の炎のように。
 風を斬り、空間を斬り、声の方へ迷いもせず。
 だが、それは、それらの攻撃は――
「無礼者」
 その一言で、地に叩き付けられた。 
「「なっ!?」」
 妖夢は速度を破壊され地に転がり、藍の符も存在を殺され霧散した。
 藍の炎、妖気を示す炎は、限界を超え暴走しそうなほどに猛り狂っている。それほどの妖気、それほどの存在はこの幻想郷において、八雲の長か、冥界の王か、永遠の体現者か、紅い悪魔くらいしか――
 その時にはもう、妖夢は思い出していた。
 魔法使いが語った英雄譚。悪魔を倒した武勇伝。
 曰く、紅魔館の地下には悪魔が棲むという。
 全てを壊し、全てを狂わせ、それが故に全てから見放されかけた因果追放者が存在すると――

「まずは名乗りなさい。それが礼儀でしょう?」

 フランドール・スカーレットが虹の翼をはためかせ、優雅に微笑んでいた。


   ∽


 その優雅な微笑みに藍と妖夢は背筋が凍りつくような恐怖を覚える。
 紅魔館の地下に監禁された全てを破壊する少女の噂は既に広く、二人の知る所であった。
「……藍、八雲藍という」
 自らの唾液を嚥下しならが、うめくように藍は喉を振り絞った。
「……………………」
 妖夢は声が出ない。恐怖の余りに舌の根が張り付いてしまったのだろう。
 バン! と大きく妖夢の背中を叩いて、
「ほら、喋らないと……死ぬぞ」
 妖夢にだけ聞こえる声を漏らす。ただひたすらに怯える彼女は、しかし持ち前の胆力を発揮。腹にぐっと力を込めると、大きく深呼吸をしてから切り出した。
「魂魄妖夢と言います。して、そちらの名はなんと言いますのか、よもやこちらだけを名乗らせる失礼を働く方にはお見受けしませんが?」
 下策、と藍は己の中で舌打ちを漏らす。この口上ではあの破壊し破壊され破壊しきった狂気を持つかの令嬢には挑発ととられてもしょうがない。
 そんな藍の苦々しい思いを、涼やかな、鈴の鳴るような声音が打ち砕いた。
「これはこれは……私はフランドール=スカーレット。悪魔にして吸血鬼。以後、お見知りおきをよろしくお願いしますわ」
 嫣然と微笑み、そのスカートを摘みあげて優雅に返事を返すフランドール。
 てっきり悪魔のような微笑みを浮かべ、こちらの話など聞かないような印象を持っていた藍を思惑を、まずは打ち砕いた。
「あの吸血鬼の妹君……お噂はかねがね窺がっています」
 恭しく礼をする藍にならい、妖夢も慌てて頭を下げた。
 そこで、再び妖夢に囁く。
「何があっても戦闘行為は避けろ。ごっこ遊びのつもりでうっかりで殺されても文句は言えんぞ」
「…………はいっ」
 小声で交わされる自らの生死を賭けた会話を、妖夢は己の胸に刻み込んだ。
「アイツの妹な事は妹だけど、そう言われるのはあまり好きじゃないわね。たかが五年程度なのに」
 フランドールが不満気に吐き捨てる。自らの姉をアイツ呼ばわりするとは、やはり噂通りにここの姉妹は仲が険悪らしい。
「それで? 貴女達は何しにここへ来たのかしら?」
 つまらなさそうな顔をして、フランドールが訪ねる。
 それが……と切り出して、藍は今までの経緯を説明した。それぞれが主に一日の暇を出された事、妖夢とは途中で出会った事。何気なく歩いていたら紅魔館に辿り着いてしまった事。そして門番に穴に蹴り落とされた事。
 終始つまらなそうに聞いていたフランドールだが、話は最後までしっかりと聞いていた。
「ふぅーん……やっぱり外に通じてるんだ、その穴」
「外には出ないのですか?」
 終始ここまで黙っていた妖夢が、そう訪ねた。
「外って言ってもねぇ。結局夜しか満足に動けないし、そんなに面白そうじゃないし。私はインドア派」
 あくまでもつまらなさそうな表情は変わらない。
 妖夢はその事実を突きつけられ、どうしたら良いものかと考え込む。
 いささか喋り疲れたのか、藍も口を閉じた。
「それに……ここだと飛べないしね」
 そう言って初めてフランドールの表情が動いた。自嘲である。
「ちょーっとイタズラでアイツのお気に入りの椅子をぶっ壊したぐらいでこんな所閉じ込めてさ、まるで籠の鳥だわ。歌を唄っても、誰にも届かない」
 しゃらん、と虹の翼が悲しげに震えた。
 籠の鳥? そんな生易しい物か、と藍は思う。
 これはただの監禁だ。ここは牢獄だ。外に出ることは叶わず、これほど美しい羽を持ちながら飛べず、歌も聴く者はいない。
 たった独りぼっちの少女が、これほど可憐な声で、翼で、しかしそれは同時に酷く壊れていて。
 ただ壊れているだけで、外に出ない。出られない。そしてその事実を当たり前のように受け止めている目の前の小鳥が不憫で。
 されど、同情は無用だ。これがここの当たり前であり、この少女を野に放つ事は紅魔館どころか幻想郷を巻き込むような惨事の引き金を引く事である。まったくもって館主のレミリア・スカーレットは聡明だ。聡明すぎて頭が下がる。同時に唾を吐きかけたくなるような衝動にもかられるが。
「む……」
 妖夢がうめいた。恐らくは彼女も同じ思いを抱いたのだろう。それぐらいは察する子でもあるのだから。
 ややあって、口を開いた妖夢はとんでもない事を言い出した。
「こうなればレミリアさんに下克上です! それしかありません! 紅魔館を乗っ取って、フランドールさんが館主になれば――」
「やめい!」
 藍が慌てて静止する。いきなり何を言い出すのだ、これだから最近のキレやすい子供は困る。まぁ彼女とてその幼い外見よりかは遥かに長い年月を生きてはいるのだが……
「そうねぇ……それも面白そうだわ。アイツは私より弱いはずなのに、私より偉いだなんて理屈が通るのはおかしいしね!」
 まるで幼い子供の笑顔そのままに語るフランドールに藍は休日の終わりを観念した。この娘に付き合ったら間違いなく紅魔館のお家騒動に巻き込まれる。そしてへとへとになった所で帰れば、明日にはまたいつもの生活が待っているのだ。せめて今日ぐらいはゆっくりさせて欲しい。
 そう思っていた時だった。開かない監獄のドアがノックされたのは。
「フランドール様、そのような事をしますとおやつが無くなりますわよ?」
 天の助けとばかりに現れたのは、メイド長の十六夜咲夜だ。その銀髪を緩やかになびかせながら室内に入ってくると、たちまちの内にティーセットを三人分用意する。
「さぁ、いかが致します?」
 にっこりと微笑む咲夜に、フランドールは唸り声を上げるだけになってしまった。
(おやつと下克上で悩むのか!?)
 内心で思いっきりツッコミを入れたくなるが、それをして彼女の機嫌を損ねるのはもっと御免こうむる。
「じゃあ、やめとくわ……」
(おやつが勝った!?)
 ションボリとうなだれるフランドールに驚愕したが、やはりツッコミは自重する。
 それにしても恐れるべきは十六夜咲夜か。たかがドーナツ程度であの破壊魔を手懐けるとは……
「そこの来客二人……これは貸しにしておくわよ」
 さらりと恩を押し付けてくる咲夜だが、今の状況では頷かざるを得ない。
 妖夢の様子を見れば、はて、と首を傾げている。この娘は解かってないのか、それとも知らぬ存ぜぬで通すつもりなのか……恐らく前者である辺り、この娘は本当に察しが悪い。
「それではフランドール様、今日はお二人がお茶とお喋りをしてくれるそうですわ。ご存分に楽しんで、すっきりしたら部屋から出られるようにお願いしておきますね」
 さりげなく二人を巻き込んで、咲夜自身はさっさと部屋から出ていこうとする。
 その眼光は「これぐらいはしなさいよ、疫病神。さっさと茶ぁしばいて帰らんと頭からぶぶ漬けぶっかけるぞコラ」と言わんばかりであった。
 ……これはこれで怖い。
 さすがは紅魔館の顔役、鬼のメイド長にしてアームストロング。そのラリアットはハルク・ホーガンも真っ青である。雄叫びはもちろん「ウイィィィィィ!!」以外に考えられない。
「そこの狐、玄関の敷物にされたいの?」
「ありがとうございました! サー! イエッサー!」
 思わず敬礼を返してしまう己の従者気質に涙する藍である。
 それを言うのであれば、咲夜も藍と同じく立場上は主従の従に当たるのだが、そうであったとしても部下が黒猫一匹と大勢のメイドでは勝てるはずもなく。
 藍が主従の従でしかないのと違い、咲夜は主従の従であり主でもあるのだから。
 かくして二人は早々に紅魔館を追い出されてしまった。もちろん、帰りがけに正門でやはり爆睡モードに切り替わった門番を睨みつけることは忘れない。……もっとも、ガン無視して寝続ける門番には後でメイド長じきじきのラリアットか、地獄突き(もちろん凶器はフォークではなく、銀のナイフ)が見舞われる予定である。そうなるように咲夜にチクってきたのだから。

 何はともあれ、地獄の紅魔館から抜け出せた事は間違いない。いつから地獄になったのだ。いや、悪魔が住んでいるから元からなのかもしれないが。
 青空が広がるのに背筋が寒い、という貴重な体験をしながら二人は無言で歩く。その歩みは早く、どちらも終始無言であった。
 おそらく、周囲の景色すら理解してないに決まっている。
 だって目の前にはいつの間にか竹林の奥にあるはずの永遠亭があるのだから。
「なんでここにいるんですかね……」
「私に聞くな、私に」
 はぁ、と同時に踏み出した一歩が無い。
「「え?」」
 またしても穴である。そしてまたしても飛べない。
「ぉ。今日の実験体……じゃない、夕食……でもない、まぁいいや、何かが掛かったね?」
 こういうのを既視感と言うのだろうか。
 どんどん小さくなる光の中に見えた黒髪を眺めながら、今日は厄日だと思う二人であった。


    ∽


「のおおぉぉぉぉぉぉぉ――……」
 そんな叫び声を上げながら落ちてはみたものの、そこは我らが八雲藍。例え暗闇の中であろうと平衡感覚を失う事もなく、満点がずらりと並ぶ見事な着地を決めて見せた。
 のだが。
「うわぁっ」
「のわぁっ」
 その上から見事に無防備な状態のまま降ってきた妖夢とその半霊が落ちてきて、結局は地面に伏せてしまう。
「こ、この八雲藍がこれしきの事で地に伏せるとは……」
 悔しさの余り、目尻に涙さえも浮かべてしまう。だって女の子だもん。
 最後に、落ちる途中で脱げてしまった藍の帽子がふわりふわりと半霊の上に落ちてきて、再びその場に静寂が戻った。
「おい」
「……」
「いい加減にどいてくれないか?」
「……あ」
 あ、じゃないよ。
「いや、尻尾が気持ちよくて、つい――」
「左様か」
 名残惜しそうな目を向ける妖夢を余所に、服を軽く叩いて埃を落とす。
 軽く周りを見てみれば、そこはやはりというかなんというか洞窟で、藍の頭には早くも「またか」という思いがぐるりと犇めいていた。
「しかし……」
 藍が露わになった耳を小刻みに動かしてみるも、これまたやはりというかなんというか、風の音一つ聞こえてこない。
 先の紅魔館の地下といい、恐らくは永遠亭の地下なのであろうこの場所といい、幻想郷の地下というものは一体どうなっているのだろうか。
「一度紫様に言って調査をするべきか」
 ふむとそんな事を考えている横で、妖夢はといえば感心するかのように洞窟の中を見回していた。
「ここは少し明るいんですねぇ」
「出口が近いのかもしれないな。長居は無用だ、すぐに出よう」
 妖夢の言うとおり、先の洞窟とは違って今回は藍が狐火を出すまでもなく、お互いの顔が認識出来る程度には明りがあった。
 音が聞こえない事に些か違和感はあるものの、藍もまたそういう場所なのだろうと割り切っていたのだが、その期待はすぐに裏切られる事となる。
「これって……」
「言うな、妖夢」
 二人が歩き出して最初の角を曲がった所に、それはあった。
 それほど高くない天井で煌々と輝く物体。その場所にあっては、二人の顔どころか服についた汚れだって見えてしまう。
 つまりは、ここは先のような天然の洞窟ではなく、完全に人の手が入った場所だという事だ。
 改めて藍が耳をぴくりと動かしてみるものの、聞こえてくるのは頭上で洋燈の火が燃える音くらいなもの。
「進むしかない、か」
「出られるんでしょうか?」
「まぁ問題はないだろう。人の手が入っていると言う事は、それを目安に進めばいいだけだからな」
「なるほど」
「それに私も人の形態を取っているとはいえ、本質は狐。例え明りが途絶えたとしても、この耳と鼻をもってすれば周りの状況など手に取るように解」
 だが藍のその台詞は最後まで続けられる事はなかった。
 実際に目を瞑って見せた藍は、どぐしゃ、というなんとも形容しがたい音を立てて突き出した岩壁に真正面から激突していたのだから。
「大丈夫ですか? 藍」
「……問題ない」
 他に誰もいなくてよかったと、心底そう思う。
 もしこんな場面をどこかの鴉天狗にでも目撃されていようものなら、明日と言わず数刻後には幻想郷から社会的に抹殺されてしまう。
 いや、それだけならまだマシだ。
 問題はあのぐうたらスキマ妖怪だ。
 彼女の耳に入ったが最後、一日どころか一週間はひたすらに笑われ続け、更にその後も事ある毎にこのネタで脅され続けるのだろう。
「いかん、寒気が」
 膨らんでいった妄想にぶるりと背筋を震わせて、それを打ち払うかのように咳払いを一つ。
「ところで」
「ん、どうかしたのか?」
 不意に訪ねてきた妖夢の方を見てみれば、いつもはきりりと引き締められている眉尻が今は不安げに垂れている。
「いえ、先程からどうにも誰かが後をついてきているような気がして……」
「ほう?」
 もしかしたら、誰かが洋燈の火を灯すために周っているのかもしれない。
 藍は己の耳と鼻に神経を集中させて今まで自分達が歩いてきた方向へと向けてみる。が。
「……気のせいじゃないのか? 私には何も感じられないが」
「いえ、でも……」
 弱々しい声で反論の声を上げると、妖夢はおもむろに自分の足で三度地面を鳴らせてみせた。
 するとどうだろうか。どこか遠くから同じように足音が三度、響いて来るではないか。
「……ほら」
「妖夢……」
 片や一片の曇りもない澄み切った瞳を。
 片や哀れさと悲しみと同情と侮蔑の入り交じった複雑な瞳を。
 どこか世間とずれている所があるとは思っていたが、よもやこれほどだったとは。
 そんな事を思いながらも、藍は妖夢の純真な瞳を正視できなくて、そっと顔を背けた。
「気のせいだ。気のせいだったら気のせいだ。というかそれはお前の足音が洞窟の中で響いてるだけだ。ほら行くぞ」
「あ、はい……」
 そうして二人は再び歩き始める。
 藍は呆れて言葉も出ず、妖夢はそんな場の雰囲気に圧されてどうにも喋り出す事も出来ず。無言のまま、ただ二人の足音だけが洞窟の中に響いていく。
(やっぱり誰かがついてくるみたいだ……)
 はたと足を止めて、妖夢が後ろを振り返る。
 しかしそこにはただ薄ぼんやりと、中途半端に照らし出された岩々の影が揺れているだけで、他には何もない。
(気のせい? いや、そんなはずは)
 また暫く歩いて、不意に後ろを振り返る。
 だが目に映るのは、先程と同じように洋燈の明りに揺れる岩々の影――
(……今、そこの影に何かいなかったか?)
 一度芽生えた不安は、何もなくてもすくすくと育ってしまうやっかいなもの。
 それでも、自分に絡みついてくる不安という名の蔦を振り払って、妖夢は再び前を向いて歩く。
 が、また振り返ってしまう。
「やぁ」
「!?」
 瞬間、妖夢が声にならない叫びを上げて脱兎の如く走り出していった!
 永遠亭の地下だから脱兎。これは上手い。
「妖夢!?」
 残された藍と藍の帽子を被ったままの半霊が呆気にとられたのも刹那の事。すわ何事かと一人と半半分が駆け出していく。
「止まれ! 妖夢!」
「いや! でも! あの! あれ!」
「止まれと言っているのが聞こえないのか!」
「と、止ま、止まっ、らっ、ないいぃぃぃぃ!」
 どこまで走っただろうか、坂を下り、坂を上り、それでも尚妖夢は止まらない。
「っ! 妖夢!」
 と、その行く先に待ちかまえているものに気づいて藍が必死に手を伸ばしたが、妖夢がそれに気付けるはずもなく――

「――あ、止まりました」
「あぁ、止まったな。ところで妖夢、下を見てくれ。こいつをどう思う?」
「へ?」
 言われた妖夢が自分の足下へと視線を下げる。するとそこには、
「すごく……真っ暗です……」
「あぁ、そうだろう?」
 本来足を付けるべき地面の代わりに、深淵の闇が広がっていた。
「いぃぃぃぃぃぃやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――……」
「もうどうにでもしてくれ……」


    ∽


「だから、私達の後を誰かがついてくるんですよ」
「とは言ってもなぁ……」
 念のためにと藍が耳と鼻を向けてはみるものの、やはりそこには何の気配も感じられない。
「やっぱり誰もついてきてないぞ?」
「さっきだって、岩陰から『やぁ』って! それについさっきも足音が聞こえたんですよ!?」
 叫ぶようにそう言って、妖夢がまたしても三度地面を足で叩いて鳴らせてみせる。
 さすれば、先程と同じようにどこか遠くから聞こえてくる三つの足音。
「ね?」
「……」
「あいたぁっ!?」
 妖夢が首を傾げると同時に、藍が無言のままにグーパンチ。こうかはばつぐんだ!
「ほら、いつまでも巫山戯てないで行くぞ」
「あぁっ、待ってくださいよぉ……」
 穴の中から更に落ちたその場所には人の手も届いていないのか、先程までとは違って完全な暗闇が辺りを支配していた。
 紅魔館の時と同じように藍が灯す炎を頼りに進んではいくものの、これといって当てがある事もなく。
 幾多の角を曲がり、幾多の分かれ道で悩み、通り抜けるのが難しいような細道を進み抜けても、見えるものは岩壁ばかり。
 いい加減に二人とも疲れてきたのか、少なかった会話は更に減り、今ではほとんど無言になっていた。


(藍はああ言ったけど、本当はやっぱり誰かがついてきているかもしれない――)
 無言になった事で再び膨らみ始めた不安という名の手に後ろ髪を引かれて、またしても妖夢が後ろを振り向く。
 が、そこにはただ暗闇がぽっかりと口を開けてはいるものの、誰の姿も見受けられなかった。
(そうだ、しまっちゃう妖怪だ……)
 不意に、そんな事が頭を過ぎった。
(本当はしまっちゃう妖怪が私の後ろにたくさん居るのかもしれない)
 しまっちゃう妖怪は自分の後ろにぴったりとくっついていて、振り向けばまた後ろに、向き直せばまた後ろに。
 だからいつまで経ってもその姿が見えないのだ。
 自分が足音を鳴らせば、しまっちゃう妖怪達も揃えて足音を鳴らす。
 自分が声を上げれば、しまっちゃう妖怪も皆でそれを復唱するんだ!
(そうしてしまっちゃう妖怪は私が疲れるのを待って、どこまでも、いつまでもついてくるんだ――)
「それにしても、流石に歩き疲れたな。少し休憩するか」
(そうだ、この藍も私の半霊も、知らない間にしまっちゃう妖怪と入れ替わっているのかもしれない……)
 妖夢の妄想は、もう破裂寸前まで空気を吹き込まれた風船のように張り詰めていた。
 それは少しでも触れれば割れてしまいそうな脆さも同時に併せ持っていて、それでも空気を入れずにはいられない。
(そして本物の藍と私の半霊は、もうどこかにしまわれているんだ――)
「……ん?」
 その時、岩壁にもたれて座っていた藍がぴくりとその耳を動かした。ちなみに妖夢は自分の妄想に怖じ気づいて泣いている。
「風……か?」
 それは本当に小さな音で、藍でなければ気づく事も出来なかったであろうほど。
 だが藍はそこに何かを見出したのかすっくと立ち上がり、半霊もまたそれについて行く。
「……あれ?」
 そして残された妖夢はと言えば、
「藍?」
 見事にはぐれていた。
「半霊も? そんなまさか、二人ともしまっちゃう妖怪にしまわれちゃったの?」
 こうなっては自分がしまわれてしまうのも時間の問題か。
 そう思った時、不意に暗闇の先から光が差している事に気づいた。
「あれは――出口!?」
 不安は一転希望となり、妖夢が全速で光に向かって駆けていく。
 もう少し。
 もう少し――
「やっと出られる――」


    ∽


「――は」
 光に到達し、さようなら真っ暗闇こんにちは外の世界、と言いたい所だったのだが。
「で、出口じゃない……のか」
 妖夢を待っていたのは、狭くも無いが広くも無い地面と、彼方へ伸びる土の絶壁である。見上げればその絶壁の先から、燦々と外の光が降り注いでいた。
 飛べるのであれば小躍りしたくもなる状況だが、飛べやしない以上とてもおもしろくない。手に届かない所にああも分かりやすい出口を配置されても、その、なんだ。困る。
「はぁ〜」
 俯き、溜息を思い切り零し、さてこれからどうしよう登ろうかなあこの絶壁、と妖夢は考えた。
 その時だ。
 彼方から降り注ぐのとはまた別の光が、妖夢の視覚を刺激した。
「ん?」
 顔を上げる。
 視界に広がる土色、そして……右手を腰に、左手を軽く掲げ、左へと澄まし顔を向けるポーズを決めるピンク色の奇怪な――しまっちゃう妖怪の姿。
 一瞬、妖夢は目を疑っていたり現実認識をつい拒否してしまっていたりで、リアクションが遅れてしまう。
 それは妖夢最大の失策といえた。

「しまっちゃうよー」

 直後、朗々と響くダンディヴォイス。
 その声が響く最中、もう一匹別のしまっちゃう妖怪が、左手を溜めにしている以外はそっくり同じポーズで壁から生えてきた。
 生えきるなりその左手を軽く掲げ、

「しまっちゃうよー」

 と先のしまっちゃう妖怪の声の余韻に乗せる形で、少し高めの声で朗々と謳う。
 ふと妖夢が周囲へと視線をはしらせれば、既に絶壁のそこかしこで同じような現象が起こっており、しまっちゃう妖怪も一匹ずつではなく二匹や三匹と一気に複数壁から生え始めていた。

『しまっちゃうよ〜』

 瞬く間に壁を埋め尽くさんばかりとなったしまっちゃう妖怪の声が、うるさいくらいに響き渡り、

『でゅ〜わぁー』

 締めとなる一声へと繋がっていく。
 ここまで呆然としてしまっていた妖夢だが、これ以上しまっちゃう妖怪の専横を許してしまうとしまってしまわれるのは自明の理である。
 何せ新聞に書いてあった記事を幽々子が楽しそうに見せてくれたから、妖夢はよく覚えているのだ。
 故に。
 気迫、気迫、必中、魂な要領で妖夢は意を決した。
「人! 符!」
 しまっちゃう妖怪達のアンサンブルを押し返す、お腹から頭上へと突き抜けるように放たれた妖夢の声。
 同時に鞘ごと抜いて腰に構えた楼観剣の柄に手をやって、ぐ、と銃身を落とす。
 刹那。
「現」
 中空にふわりと現れた札に対し楼観剣を一閃。
「世」
 割れた札から溢れる光に導かれるようにして妖夢は駆ける。
 凄まじい速度のままに絶壁をも脚で蹴り進む。
「斬!」
 そして言い終えた頃には、複数のしまっちゃう妖怪を一纏めに両断していた。
「あれっ?」
 と想っていたのだが。楼観剣を振り抜いた姿勢から絶壁を蹴って地へと落下する妖夢は、疑問符を漏らしていた。
 手応えがまるで無かったのだ。沢山の妖怪を両断したにも関わらず、素振りをしたかのように剣は軽かったのである。
 落下中の視界の中では、斬られたしまっちゃう妖怪が真っ二つになっている様が映っているというのに。
(……あわわわわわわわ)
 ただ実際はそんな事よりも、静かになった他のしまっちゃう妖怪達からの熱い視線の方が妖夢にとってはよほど気がかりというか気になって仕方が無いというか身が縮むと言うか。
 例えば一斉に襲い掛かってこられたりとか地面から待ち構えるように沢山生えてきたりとか――
 しかし予想に反し、妖夢が地面に着地してもしまっちゃう妖怪達は何も行動を起こさなかった。いぶかしむ彼女の傍に、両断されたしまっちゃう妖怪がいくつか落ちてきて、それに飛び退いたりはしたが。
「え……っと」
 凶器を手に、少女は戸惑う。
 しまっちゃう妖怪達の声は止んだ。動きも止んだ。だがそこからが続かないのだ。
 微妙な、しかし嫌な沈黙。
 先程までが騒がしくすらあったおかげで、この静寂は精神的に重く大きなプレッシャーとなって妖夢に圧し掛かっていた。
「ぁ…………ぇ、ぅ……」
 声は小さく、態度も萎縮。楼観剣を握る手は頼りなくて、その一刀を振るった時の勇ましさは欠片も無い。
 一歩、二歩と後退った彼女は、居辛さと居続ける事の危険性から、踵を返すなり逃げるように駆け出していった。

 遠ざかる足音。
 しまっちゃう妖怪達はその音を聞きつつ、ぱっと霧散。
 そして一つに萃まった。
「やーれやれ」
 ピンクの奇怪な姿から漏れたその声は、ダンディとは程遠い少女のもの。
「心理実験だかどうとかまではどうでもいいけど、普通あそこで斬りかかるもんかねぇ」
 二言目と共に、ピンクの奇怪な姿は縦から真っ二つに割れると、中から童鬼が姿を現した。
 割れた着ぐるみから一歩踏み出した萃香は、残念そうに頭を掻く。
「まったく、まだ途中だったってのに……」
 実際、あの後更にしまっちゃう妖怪は大増殖を遂げ、アンサンブルはらんらんらんらんらんらんらんらんであーあーあーらんあーらんあーらんあーらんの上、更にあらーあらーあらーあらーあらーばんばんばんあらーときて、さぁ〜捕まえた、で締める予定であったのだ。
 それをあの半分半分はものの見事に途中でぶった斬ってくれた。バイトとはいえ、落とし穴に落ちた相手に半ば楽しみもあってやっていた事なので、萃香はちょっと不機嫌である。
 因みにダンディヴォイスは裏声で再現。
「……ま、いいか。たまに来る奴をからかうだけで美味しいお酒が貰えるんなら、たまーに両断されても」
 妖夢が駆け去って行った方向を見つめ、萃香は大欠伸を一つ。
 後はこの結果を上に伝えるだけだ。


    ∽


 一方その頃――

「ん? 妖夢?」
 遠くで声が聞こえたような気がして藍が振り返ると、そこには妖夢の姿はなかった。
 妖夢のおまけである半霊が、ふよふよと浮いているだけである。ちゃっかり藍の帽子を被っており、どことなく可愛らしい。
「……妖夢?」
 周囲の気配を探るが、おかしな気配はない。
 なまじ半霊が付いてきているだけに、妖夢本体の気配が消えたのに気付かなかった。
 半霊はなにも考えてなさそうな顔でふよっている。その呑気さが気に障ったので、とりあえず指でつねってみた。

 ぶにぶにぶに――

 なんだか獲れたての魚のように尻尾を振っているが、喜んでいるようにしか見えない。いや、実際は痛がっているんだろうけど。つか幽霊って痛がるのか?
 藍の中のなにかが、ぴくりと鎌首をもたげる。
 真理を求める研究者のような、解を求める数学者のような、そんな真剣な眼差しで。

「ふむぅ――」

 とりあえず撫でてみた。 ――はんれいは よろこんでいる
 次にさすってみた。   ――はんれいは まごまごしている
 そして舐めてみた。   ――はんれいは ぐにぐにしている

 最後に――齧ってみた。

 はんれいは おたけびをあげて はねまわった

「驚いた……幽霊も叫ぶんだ……」

 千年以上生きていても、まだこの世は謎に満ちている。
 ああ、生きてるって素晴らしい。

「それはともかく――うーん、どうしたもんかな?」
 半霊に刺激を与えれば妖夢の行方も解るかと思ったが、どうやらそうもいかないらしい。
 おまけに洞窟の中は音が反響し、気配もようよう掴めない。風に乗って何かの匂いを嗅いだ気もしたが、今ではそれすらも曖昧だ。
「どこかで嗅いだ匂いなんだがなぁ……」
 記憶を探るが、どうにも思い出せない。
 歯にものが詰まっているようで、どうにも苛々する。
「お前は役に立ちそうにないしなぁ」
 半霊をつついてみるが、ぐねぐねと身もだえするだけである。
 とりあえず妖夢を探そうと、来た道を戻る事にした。
 振り返り、足を向けた途端――声が聞こえる。
「む?」
 それは向かおうとしていた道の先。地上へと続いているのか急な坂道となっていたところ。
 藍はもう一度振り返り、坂の先を見据える。声は徐々に大きくなり、その人ならぬ獣のような叫びに藍は腰を落として身構える。
 牛乳を拭いてそのまま三日放置した雑巾を寝ている紫に被せた時に、あんな声を出していたなぁとかそんな呑気なことを頭の片隅で思い出しながら袖から出したクナイを構えていると、草饅頭のようなものがごろごろ転がり落ちてくる。坂道をものすごい勢いで、鍾乳石の柱を弾き飛ばしながら。
「なっ!?」
 迫り来る草饅頭を飛んでかわそうと地面を蹴る。しかし慌てていたせいで天井にしこたま頭をぶつけ、へろへろと落ちたところに草饅頭が激突する。

 体重×速度×重力=破壊力。

 草饅頭と藍は互いに吹き飛ばされ動かなくなった。
 残ったのはおろおろと浮かんでいるだけの半霊だけ。
 半霊はぴこぴこと尻尾を振り、ぐるぐると回り、イルカのようにジャンプして――そのうち何をしているか自分でも解らなくなったらしい。
 わん○くフリッパーのようにくけけけけと奇声を上げ、バックしながら両手をぺちぺちと打ち合わせている。
 半霊が声を上げるか? 手なんかあったか?
 できるんじゃね? おたまじゃくしだって大きくなったら手足生えるんだし。
 半霊が、そんな生命進化の根源から覆すような真似をしていると、
「う、いたたた……」
 藍がやっとこ目を覚ました。
 頭にでっかいたんこぶを作り、首を振りながら身を起こす。
「な、何なんだ……一体……はっ、そういえばあの草饅頭!」
 慌てて跳ね起き、身構える。
 半霊もきりりと目を細めて、藍の隣で構える。
「って、お前は何してるんだ?」
 横目で半霊を睨むと、半霊は「お前一人にやらせはしないぜ!」とばかりにぐっとサムズアップ。
 見なかった事にしようと、草饅頭の方へ目を向けると、
「って、妖夢じゃないか」
 そう、その草饅頭は妖夢だった。
 緑の服でごろごろ転がっていたので草饅頭にしか見えなかったが、頭にたんこぶをこしらえ、大の字で寝転ぶ姿は妖夢そのものである。
「……何で妖夢があっちから転がってくるんだ? まぁいい、おい、起きろ!」
「ん……あ……」
「起きろ起きろ起きろ!」
 藍が妖夢の襟首を掴んで、ニ三発しばくと妖夢がうっすらと目を開けた。
「あ……しまっちゃう妖怪が……」
「何寝惚けてるんだ。いい加減目を覚ませ」
「え、あれ? ここは……」
「まだ洞窟の中だよ。ったく、急にいなくなるから心配したぞ?」
 半霊もうんうんと頷いている。
 お前さっき本体に向けてファイティングポーズ取ってただろうがと、突っ込みを入れる余裕など誰にもない。
「あ、良かった……夢だったんですね……」
「どんな夢見てたかは聞かないよ。それより早くここを脱出しよう。いい加減洞窟は飽きた」
「そうですね。出口解ります?」
「風の流れが読めれば、何とかなるんだがな……それよりお前は何であっちから来たんだ?」
「あ、いえ、しまっちゃう妖怪から逃げようと無我夢中で……どこをどう走ったもんかさっぱり……」
「ふむ、仕方ない。とりあえず適当に歩くしかないか……」
「そーだねー。道は必ずどっかに続いてるんだよー」
「そうですね。とりあえずは適当に」
「しかし油断は禁物だぞ? 風におかしな匂いが混じっている……思い出せないが、これはおそらく妖怪のものだ」
「そーなのかー」
「そうですか……私には解りませんが、確かに気を抜くわけにはいきませんね」
「だな」
「了解」
「ですね」

「「って、何でお前がここにいるーーーーーー!!」」

 藍と妖夢がダブル突っ込みを入れた先、
 宵闇妖怪が何も考えてなさそうな顔で、にこにこと笑っていた。


   ∽    
 
「いやまぁ、その……」
 そういってはにかむ少女は宵闇の妖怪、ルーミア。
 暗闇でも目を引く黄金の髪の毛に結ばれた赤いリボンと、見た目相応のあどけない笑顔。白いシャツと黒いスカートに身を包んだ少女である。
 思わず突っ込みを入れてしまったが、落ち着いて考えてみるとやはりここにルーミアがいる理由がわからないので、やはりそれは徒労であった。
「気がついたらここにいたの」
 てへっ☆ と朗らかな笑顔を浮かべるルーミアに藍と妖夢は疲労感タップリの溜息を吐いた。
 せっかくあの地獄の紅魔館を脱出したのに気がつけば永遠亭にいて、またもや落とし穴だ。妖夢にいたってはわけのわからないしまっちゃうよ妖怪に追いまわされている。一体全体これのどこが休日というのだ。知っている者がいたら是非ともご教授賜りたい。
 チラリと藍の脳裏に嫌な予感がする。しかしその正体は雲を掴むかのように霧散してしまった。
 何か、重大な事を忘れている気がする。
 それが何なのか思い出そうとして、唸りながら腕を組んでみるが、サッパリ答えは出てこない。
「ねね、貴女達はどうしてここにいるの?」
「聞かないで下さい……」
 無邪気なルーミアの問いかけに妖夢が疲れた声で拒否する。
 何かを忘れている。しかしそれが何であるか思い出せないのは気持ちが悪い。
「とにかく……先へ進もう。ここでこうしていても埒が開かん」
 藍はそう宣言して、先に立って歩き始める。
 一時間が経過した。
 二時間が経過した。
 三時間が経過した。
 外では既にお昼時も過ぎ去り、そろそろ午後の休憩でも取ろうかという時間になっているだろう。
 そういえば気がつけば今日は紅茶とドーナツだけで、他には何も食べていない。
 ドーナツの糖分が無ければとっくに空腹になっているはずだ。
 藍は喋らず、黙々と先頭を歩いている。
 後ろに二人で並んだルーミアと妖夢は時折り何か会話しているようだが、藍の耳には入らない。
 藍にとって今もっとも重要なのはこの洞窟がどこまで続いているかであり、ついで先ほど脳裏をよぎった疑問の正体である。
 幻想郷は決して広くない。そして博麗大結界がある以上、空中地中を問わず幻想郷の外に出ることもない。
 きゅるるるる……
「あっ」
 妙な音に振り返ってみれば、妖夢が顔を真っ赤にして俯いている。何事かと問えば、彼女はか細い声で「今日は先ほどのおやつしか食べてないもので……」と答えた。
 なるほど、彼女も同じ境遇か。
「私は昨日から何も食べてないよー」
 さらりととんでも無い事をいうルーミアには後で食事でも作ってやろうと心に決めた。
 あいにく、藍の手持ちにも食料と呼べるようなものは何もない。
「ここを出たら食事にしよう」
 おかしい。何かがおかしい。そう思いながら歩を進めることしばし、ようやくこの穴にも終わりが来た。
 行き止まりである。大きな岩が洞窟一杯に詰まっており、これ以上先に進む事はできなかった。
「むぅ……どうしたものか」
「進めないねー……」
「迂闊な事をしたら崩落の危険もありますし……」
「とにかく、あたりを調べてみよう。何かあるかもしれん」
 藍の号令の元、周囲を手探りで探していく。
 丹念に、何かないかと、何かあるはずだとそう信じて探す。
 きゅるるるる……
「さすがに私も腹が減ったな……」
 自らの腹を撫でさすりながら藍は咳払いをした。
 その視界の隅に引っかかる、小さな青いボタン。手の平に明りを生み出してよく見てみれば「おつかれさまでした。りせっとぼたんをおしながらでんげんをきってください」などと書いてある。
「ふむ……」
 ここまでの道は一本道だった。状況は手詰まりである。何があろうとこれはボタンを押さざるを得ない。
 藍は恐る恐る指を伸ばしてみる。
「おー? こんな所に赤いボタンあるよー。ポチっとにゃー」
 藍の反対側からルーミアの声が聞こえる。恐らくはどちらが「りせっとぼたん」とやらで、どちらかが「でんげんぼたん」とやらなのだろう。
 しかし時はすでに遅い。ルーミアは折角だからと赤いボタンを押してしまったのだ。
 突如、洞窟内に不気味な音が鳴り響く。
 でろでろでろでーろん。
「おきのどくですが、ぼうけんのしょ1 はきえてしまいました……ウサ」
 どこかで聞き覚えのある声にはっとするが、すでに事態は進展している。消えた冒険の書は戻らず、何人の小学生が涙を流したのかは定かではない。
 ゴゴゴゴ……と地鳴りが起きる。何事かと慌てて周囲を警戒するが、すぐにその根拠は発見できた。
 目の前の大岩がゆっくりと傾き、転がり始める。
「死ぬ気で逃げろーーーーー!!」
 叫ぶや否や、クルっと振り向いて藍は全力ダッシュ。慌てて後を追う妖夢とルーミアの背後では鍾乳石をバキボキと折りながら大岩が迫ってくる。
 走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う走る逃げる追う。
 茶色のテンガロンハットを被った冒険家兼考古学者を何度呪ったのか解らない。
 ついでにこんな暇でない暇を出した主人も呪っておく。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
 大声で叫ぶ藍。どうしても気になっていた目の端に写るゴミが取れたようだ。
 疑問が氷解する。
 思い出せなかった事。悪い予感の内容を。
「紫様のばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
 全力ダッシュで全力涙しながら藍は己の主人を呪った。
 これら全ては紫のしたことに違いない。あげくにここに妖夢がいるとなれば、幽々子も共犯の可能性が大きい。いや、絶対に共犯だ。あの亡霊嬢め。
 暇を出されたのは、それぞれ主が暇だったからであり、その暇を潰す為に自分たちは暇を出されたのだ。
(全ゴロシ安定だぞ、あのクソ隙間めぇぇぇぇぇぇぇぇ)
 絶対絶命の状況で藍はここから生きて出たら主をシメようと固く誓った。

 大岩はまだ転がっている。立ち止まればぺしゃんこだ。


    ∽


「へくちっ」
「あら、風邪?」
 むーん、と眉を八の字に顰めた紫がずずと鼻をすすった。
 幽々子から手渡されたちり紙で勢いよく鼻をかむその姿は何故だか全力で幼かったりするのだが、それは些細な事に過ぎない。
 そんな紫の様子を隣で眺める幽々子の頭からひょっこりと飛び出している狐色の耳が、ぴょこぴょこと忙しなく動いているのも些細な事なのだ。
 同じく黄金色の毛並みが美しい尻尾がぱたぱたと縁側の床を叩いているが、それももう見慣れたもの。
 いつの事だったか、暇さの余りうっかり三日ほど縁側で耄けていたら狐に憑かれたらしいのだが、自分の容姿を確認した幽々子は「かぁーわぁーいーいー」の一言で全てを片付けてしまったとか。
 西行寺幽々子と言えば、その美貌は幽冥顕界問わず広く知れ渡っており、彼女に対抗しうるのはかの月の姫君くらいだとまで言われたほど。
 さすれば狐の一匹や二匹や三匹や四匹がふらふらと惹かれていくのも道理であり、仕方のない事だったのかもしれない。
 紫としてもそれに異論はないのだが、こと彼女の式にとってみればそれは正に死刑宣告にも似たものだっただろう。
 自分のアイデンティティを失うかもしれないという状況に陥った彼女が幽々子に向かって言い放った「お前なんて私の一割一分一厘でしかないんだ!」という言葉は、正しく負け惜しみだった事は言うまでもない。
 さて、そんな幽々子と紫が揃って何をしているのかといえば、紫の家の縁側に並んで座って茶をすすっていると言う以外にその状況を表す言葉は無いだろう。
 だが、ただ二人で耄けているかといえばそうでもないようで。
 二人が座る縁側より開かれた障子戸の向こうへと目を向けてみれば、普段食卓として使われているその部屋は、今は色彩豊かな装飾が施されていた。
 卓袱台の上には空の皿が並べられているが、そこに料理が盛りつけられればそこはもう立派なパーティ会場になるだろう。
「滑稽ね。まるで人間みたい」
「だからいいんじゃない」
 小皿に乗った羊羹を黒文字で切り分けながら楽しげに笑みを零す幽々子を見て、紫がむぅ、と小さく唸る。
 しかし、幽々子がそう言うのも無理はない。なにせ当の本人ですら自分の行動に驚いているのだ。さすれば、例え近しい者であったとしても、他者がこの状況を見て驚かないという事自体考えられない。
 それでも、だからこそ、柄にもなく心の隅に不安の二文字が見え隠れするのだ。
「七百年、か」
 誰にでもなく呟いて、紫は両手を後ろについて空を仰ぎ見た。
「もうそんなになるのねぇ」
「随分と変わったわ」
「何も変わってないわね」
「丸くなった」
「臆病なままよ」
「幽々子……」
「なぁに?」
 紫が呆れ顔を向けてみれば、幽々子は羊羹を口に運んで満面の笑みを浮かべてみせる。
 確かに、変わっていようがいまいが、そんな事はどうでもいいのかもしれない。
 結局のところ、それは第三者からの視点に過ぎず、ならばこそ受け取り方も千差万別なのだろう。
 それでも、
「臆病なまま、か」
 もう一度見上げた空は、どこまでも高く。
 つまりはこの空と同じなのだ。
 空という本質はずっと変わる事なく、けれどそこに見えるものは一瞬たりとも同じである事はない。
 出会ってからこれまで、確かに彼女は変わり続けてきた。
 だが、それは同時に彼女がずっと変わらずにいるという事。
 過ぎ去っていく年月も、森羅万象の――
「さて、と」
 まるで間を見計らったかのような幽々子の一声が、見上げた空へと飛んでいた紫の意識を引き戻す。
 振り返ってみれば、小皿はいつの間にか盆の上に戻されていて、立ち上がった幽々子は体をほぐすように伸びをしていた。
「次は料理の方かしらね」
「え、あ……あぁ、そうね」
「そういえば、紫って料理とか出来るの?」
「貴女よりは上手いわよ」
「それはそれは」
 立ち上がった紫が、盆を持って幽々子に続いていく。
 楽しそうな話し声もやがては廊下の角へと消えていって。
 誰もいなくなった縁側に降り注ぐ午後の陽光の中、残り香にでも誘われたのだろうか、揚羽蝶が一羽、ひらりと舞っていた。

 この先、この場所で何が起こるのかも知らないままに――


    ∽


「一つ気になる事がーっ!?」
 背後に迫る轟音。それに負けない大声で妖夢は叫んだ。
 返事をする者は居ない。というか叫ぶ事に酸素と肺活量を使う余裕があったら、黙って前へ走った方が余程有意義である。
「いつまでこのまま走り続けたら良いのかなーっ! なーんちゃってーっ!」
 もっともな疑問だった。
 藍だってルーミアだって、いくら妖怪といえども体力とかそういうのは有限なのだ。
「はひ〜はひー」
 実際、ルーミアの息は上がりかけている。
 次に息が上がるのは妖夢だろう。重くはないだろうが自身の半分を抱えてい為走行姿勢が取れず、ああも叫んでしまったのだから。
 ああ、どうしたもんかなぁ、と藍は黙って考える。かくいう彼女が真っ先に叫んだり主に対し悪罵を吐いた訳だが、そこはやはり長生きしてるだけの事はあるのだろう。
 大岩を破壊してやろうかとも考えたが、相手は硬くてスピードに乗った質量の化け物である。迂闊に事を成そうとすれば挽かれるのは間違い無い。
 それでもまだ彼我の距離があれば打てる手もあるのだが。
 ……こう、近くちゃな。
 肩越しに後ろの大きいのを確認し、それだけで押し潰されそうな圧迫感に藍は心の中で溜息を吐いた。
 考えあぐねるにも程がある。こうやって進む先がさて行き止まりだったりしたら、色々とご愁傷様なのだが、性質の悪い事に取り敢えず当分そんな事は無さそうだ。
 せめてこう、脇道や嵌れそうな窪みでもあれば、と油断無く視界への注意を怠らないようにするので精一杯だった。
 勿論そんな回避フラグは存在しない。
「めー!」
 藍を先頭としたV字隊形の内、左翼の妖夢がまた叫んだ。
「いー!」
 若いのは良いなぁと素直に感心していたら、左の方からすらりと鞘走りの音が聞こえる。
「づー!」
 おいおいと思いそちらへ視線をやって、藍は戦慄した。
 己の半身は脇へ抱えられ、駆け抜けながら抜き放たれたのは楼観剣。その刀身が青い光を帯びて伸びているのだ。
「ぉおー?」
 ルーミアはその刀身の方へ視線を向けていた。だって綺麗なんだもん。
「じー!」
 まさかやる気か!?
 内心で容赦なく妖夢の正気を疑う藍だったが、つと視線を妖夢の顔に向けてやれば至極まともだったので、やはりやる気なのだろう。近接戦については、専心してきた彼女の方が頼りになるのは確かだし。
 藍は任せる事にした。
「こー!」
 楼観剣をしっかと握り、駆け抜けるまま腕の向きを調節する。
 妖夢が狙うは、振り向き様の袈裟斬りによる大岩の破壊。
 走り続けるよりも、彼女は原因の解決に乗り出そうとしたのだ。
「ざ」
「うわああああああああああ! 妖夢ー!?」
 ―――残念! 妖夢の冒険はここで終わってしまった!
 容赦なく、まさにそんな感じで振り向き様の袈裟懸けは大失敗に終わっていた。そもそも、振り向く際に数瞬前進の動きが減速した時点で大岩に容赦なく追い付かれていたのである。
 そんな状況で太刀を振れる余裕なんて常識的に無い。
 という訳で妖夢は、抱えた半身ごと、伸ばした刀身をろくに活かせずに大岩に呑まれてしまった。
 それも、凄く、あっさりと。
「……ぺちゃんこ?」
 走る速度を緩める事無く呟いたルーミアの一言が、藍の耳にやけに鮮明に届いた。
 あれでは、流石に無事という訳にはいかないだろう。地面の硬さからいっても、大怪我以上なのは間違いない。
「くっ……!」
 藍は目尻から涙を零しながらも、走り続けた。
 悲しんでいる場合ではないのだ。


    ∽


 去っていくのは轟音。
 広がるのは真っ暗闇。
 断命剣を振り抜いた妖夢は、面妖な事態に目を瞬かせていた。
「……あれ?」
 あの瞬間、確かに自分は迷津慈航斬を大岩に向けて振るった筈なのだが、大岩はそれをあざ笑うように青い刃やこちらの身体をすり抜けて、轟音と共に転がっていってしまったのだ。
「えー……っと」
 取り敢えず、楼観剣を鞘に戻す。
「……何がどうなって?」
 それから疑問を率直に口に出した。

 ―――その時、妖夢はまだ気付いていない。自分の背後に忍び寄るしわしわ耳の月兎に。


    ∽


「何してんの?」
「うわひゃうっ!」
 いきなり後ろから掛けられた声に、妖夢の身体が三センチ宙に浮く。
 飛び上がると同時に剣を構えて向き直ったのは立派だが、震える両手は隠せない。
「だ、誰だっ!」
「あー改めて問われると……鈴仙だか、ウドンゲだか、イナバだか……」
「鈴仙・優曇華院・イナバかっ!」
「フルネームで呼ばれると、何かこそばゆいものがあるわね……」
 鈴仙はぽりぽりと頬を掻きながら、軽く息を吐いた。
 流れるような銀の髪と赤い瞳。頭に揺れるへなへなの耳。
 美しい少女ではあるが、微妙に疲れているような表情が少々マイナスだ。
 既知であり、敵意を感じさせない鈴仙の風貌に、妖夢も肩の力を抜く。刀を鞘に戻しながら、改めて妖夢は問い掛けた。
「お前は何で此処にいる?」
「哲学的な問い掛けにも聞こえるけど、そうじゃなさそうね。私はてゐの悪戯で……ったく、何考えてるんだか」
「……永遠亭の近くだし、その可能性は考えていたけど、ひょっとして私たちも罠に掛かったのか」
「私たち? あんたの他にも誰かいるの?」
「ああ……ってしまった。はぐれちゃったのか」
「なんだか面倒そうねぇ」
 鈴仙と妖夢は同時に溜息を吐く。
 外見、年齢、その他諸々は異なる二人だが、根っこの部分は良く似ているのかもしれない。

 曰く、玩具にすると面白い――

「それで鈴仙。お前は出口を知らないのか?」
「元は兎たちの巣穴だって話だけどね。私だって来たのは初めてよ」
「むぅ」
 妖夢は腕を組んで考え込む。
 道連れができたのは心強いが、これでは迷子が増えただけだ。藍と合流して、脱出路を探さなくてはならない。
「仕方ない、とりあえず戻るとしよう」
「ん? どっちに?」
「あっちだよ。とりあえず藍さんと合流しないと――」
 そこまで言いかけて、妖夢の脳裏に電流が奔った。
 先程の大岩。未熟な自分は兎も角、藍ですら騙されるほどの幻影。
 そんな幻術を使える者となると――
「……なぁ、鈴仙」
「ん?」
「正直に答えろ。お前は敵か? それとも味方か?」
「――何? 疑ってるわけ?」
「あの岩はこの道の先から来た。お前がやってきた方から――お前はそれまで何処にいた?」
「……」
「答えなければ――斬る」
 妖夢は僅かに鯉口を切る。
 鈴仙との距離は僅か一間。踏み込み、抜き放てば両断できる必殺の間合い。
 そして妖夢なら、鈴仙が何をするよりも早く、それを為せるだろう。
「……了解。話すから、斬らないでよね?」
 鈴仙は両手を上げ、やれやれと溜息を吐きながら肩を落とす。
 妖夢は抜刀の構えを解かぬまま、視線でその先を促した。
 鈴仙と妖夢の視線が絡み合う。
「確かにあの大岩は私よ」
「……しまっちゃう妖怪もか?」
「しまっちゃう? 何それ?」
「とぼけるな。しまっちゃうよーと歌いながらしまってしまう妖怪だ!」
「……さすがにそれは知らないけど……まぁ、私以外にも色々噛んでるってのは聞いてるから、別口でしょうね」
「……『聞いている』と言ったな? 誰からだ?」
「おっと、口が滑っちゃったか。まぁ、私は元々気乗りしなかったし……どうでもいいけど、さ」
「答えろ! 誰の命令でこんな真似をする!」
「ねぇ、妖夢?」
 ふいに、鈴仙が微笑みを浮かべた。
 雪のように白い顔に浮かぶ、真っ赤な瞳。

「あなたやっぱり……修行が足りないわよっ!」

 鈴仙の瞳が緋を放つ。
 赤光が妖夢の目を貫くと同時に、その足元が崩れ去る。
「今更幻覚かっ! 効かんぞ!」
 妖夢は崩れ去る足場を、何もない空中を蹴って、鈴仙へと踊りかかった。否、踊りかかろうとした。
 剣を抜き放ち、躊躇いなく一閃するが、斬ったはずの鈴仙が朧に霞んでいく。

 ――あはははははははは

 洞窟内に笑い声が響く。
 鈴仙の幻影は消え、一人取り残された妖夢は首をめぐらせて周囲を探るが、もはや何の気配もない。
「鈴仙! 卑怯だぞ、出て来い!」
「私だって斬られたくないもの。それはお断り。でもヒントだけはあげましょうか?」
「何?」

 ――真の嘘吐きは、自分さえも騙せるのよ

 笑い声が響く。
 遠く、遠く、霞んでいく。
 そして取り残された妖夢は、呆然とその言葉の意味を噛み締めていた――


   ∽  



誰か続き書いて
穂積名堂
コメント



1.無評価Bucky削除
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2.無評価Tessa削除
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