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『――であるからして、特にもうじき行われるであろう彼岸の大行進は、死後冥界に行ったとしても自分が大行進をする側に回るため、生きている間にしか見ることが出来ない希少なイベントだ。大量の幽霊がかの亡霊嬢、西行寺幽々子に導かれて冥界を横断する様は一見の価値があるので、その時期を見計らって冥界を訪れるのもいいだろう。もっとも、生きたまま冥界を訪ねるのが中々に困難だということが、このイベントの――』
「欠点でもあるのだが。てんてんてん、っと」
内容を口にしながら走らせていた筆をおいて、組んだ両手をうんと天に伸ばした。記事を書き終えたことによる充足感と解放感が、身体だけでなく心の凝りまで解してくれるのを感じながら、ついでとばかりに首を前後左右へと振ってみる。右に振ったところでこきんと小気味の良い音が鳴って、そこでようやく一息、肩の荷が降りたと安堵の息を吐いた。
薄暗い灯りに照らされた、今書き終えたばかりの記事をざっと眺めて、よしと一つ頷いて立ち上がる。
「よっとっと」
長らく座っていた所為だろうか、痺れた足がもつれかけたがそこは鴉天狗の射命丸。すぐに態勢を立て直すと、何事もなかったように壁際へと歩いていった。そしてガラス窓を手前に引き開けて、次いで外の雨戸を押し開ける。すると瞬く間に今まで頼りない灯り一つで照らされていた室内に陽光が差し込み、その光を真正面から受けた文が眩しそうに手を翳した。見事な快晴。焼けるような夏の午後だった。
雨戸を閉めていたのは何も雨風が激しかったからという訳ではなく、彼女が原稿を仕上げる時の常。外部からの干渉の一切を遮断して最後の仕上げに臨むという、ある種の癖のようなものだ。本人曰く、そちらの方が筆の進みが良くなってはかどるというのだが、そのおかげで気付かない間に何日も経過してしまい、結果としてとうに旬の過ぎた記事を号外としてばら撒いたりすることも多々あった。
しかしそんな日数や時間というものは、妖怪として永い時を生きる彼女らにしてみれば些細な事なのだ。それに、彼女らがこうして書き上げている新聞というものも天狗の間で流行っている遊びのようなものであり、そこに情報の速さや正確さといったものは必要としていない。
確かに新聞記者としてそれらしい事をしている天狗もいるし、文もどちらかといえばそちらの部類に入るのだが、結局のところ、根本的には『面白ければそれでいい』という精神で行動しているに過ぎない。
たとえ記事に書かれた内容が、その記者たる自分の手によって引き起こされたような出来事であっても。
たとえ記事に書かれた内容が、全く根も葉も無い嘘八百を並べたようなものであっても。
優先されるのは面白さであり、追求するのもまたそこなのだ。
故に、面白ければそれでいい。面白ければ――。
「……って、こんな記事が面白い訳ないじゃないですかァ!」
突如窓の外に向かって叫んだかと思うと、文がそのままへなへなと窓枠に倒れ込んだ。ちらりと室内を振り返り、卓袱台に置かれた記事の版を見て、もう一度窓の外に向き直る。そうして吐かれた溜息は呪詛のように重く暗く、運悪く目の前を通り過ぎていった妖精が、それに当てられて力無く遥か眼下へと落ちていった。
スランプだった。
とはいえ、文章が書けなくなったという訳ではない。現にこうして記事は書けているし、今し方書き終えた物以外にも、部屋の天井近くを渡された紐には今まで書き上げた原稿が所狭しと吊り下げられている。それらは合わせれば新聞として出すには十分な量。しかし、文は一つとして納得していなかった。
緩やかに吹き込む風が文の頬を撫で、そして吊り下げられた原稿を揺らす。それら一つ一つに大小様々な見出しが付けられているのだが、書いてある内容はといえば、やれブドウ狩りの案内だの、太陽の畑に見る、安全で楽しい向日葵鑑賞ツアーだの、地獄温泉巡りだの。
「これじゃあただの観光パンフレットだわ――」
スランプだった。
ネタがない。ネタが見つからない。ネタを作る事も出来ない。
ストックも底を尽き、それでも今年の新聞大会に向けて新聞を出さない訳にはいかず。結果、出来上がったのは夏を彩る幻想郷の観光案内。こんなものを出したところで、精々幻想郷縁起の地域紹介の項目が充実するぐらいなもの。より多くの購読者。より多くの発行部数を得るにはあまりにも頼りない。
もっとも、そう思うのは彼女が天狗だからであって、幻想郷の、特に人間たちからすれば、むしろそういう物の方が需要はあるのだが。
「こんなはずでは……」
再び漏れ出た呪詛めいた呟きに、先程の落下からどうにか復帰してきた妖精がまたも眼下に消えていった。しかし文がそうボヤくのも無理はない。ほんの数週間前まで記事の当てはあったのだ。かの紅魔館の当主こと吸血鬼、レミリア・スカーレットにまつわる話。特に注目はここ数年で霊夢に挑んだ少し変わった将棋の勝負。既に九九九連敗していて、一〇〇〇連敗の大台に乗るかどうかの一大センセーショナル。見事達成した暁には、インタビュー中にどうやって笑いを堪えればいいのだろうかと、そんな心配までしていたのだ。なのにどういう訳か、レミリアは一〇〇〇連敗を目前にして突然引き籠もってしまった。
思えばそれが切っ掛けだったのかもしれない。
それからというもの、飛べども駆けどもネタは見つからず、いたずらに過ぎていく時間に焦りを覚え、気付けば記事の穴埋めにと書いていた観光案内で原稿が埋まってしまった。
「む、なんですかこんな時に。放っておいてください。私は今、とても沈んでいるんです。凹んでいるんです。ブルーなんです憂鬱なんです生きているのも辛いんです」
相変わらず窓枠にへたれ込んだまま、視線だけを隣に移す。そこには真っ黒なカラスが一羽。何を言うでもなく文の方をじっと見据えていた。
「そもそもそういう仕事は私の管轄ではないと言っているじゃないですか。なんのための哨戒、なんのための犬走ですか。なに、それともまたあのパターンですか? 黒白と紅白のどちらかは知りませんが、今あれの相手なんて嫌ですよ。他を当たれと伝えておいてください」
一方的に言うだけ言って、文が三度重苦しい溜息を漏らす。三度目の正直とでもいうのか、今度こそ妖精がその餌食になることはなかったが、昇ってくる様子もない辺り、二度目の落下で一回休みにでもなったのだろうか。
しかし、それでも隣に居座ったカラスは微動だにせず、変わらず文の顔をじっと見たまま。
「あーもう、解りましたよ行けばいいんでしょう?」
本当に人使いが荒いったらない。
梃子でも動きそうにないその様子に根負けしたのか、溜息混じりにボヤいた文が窓枠から身を乗り出した。縁を足場にして飛び上がり、宙で身を翻したかと思うとそのまま屋根に着地する。山の中でも特に見晴らしの良い場所を選んだ住み処。眼前に広がる幻想郷は、夏の盛りを知らしめるかのように全てが青に彩られ、遠く人里は午後の日差しにも負けない活気を今日も見せている。
ここから見れば、人里の通りを行き交う人々など精々米粒程度。けれど白狼天狗のそれに比べればいくらか劣るものの、文とて身体能力に長ける天狗の一族。この距離であれば、人の顔を見分ける程度は造作もない事だった。
道端で話に花を咲かせる若い女。所狭しと駆け回る子供たち。買い物、散歩、遊びに仕事。それぞれにそれぞれの目的がある。そういう様は、見ているだけでも楽しい。
「そういえば、里ではもうじきお祭りでしたか」
音までは流石に聞こえないものの、それでも見ただけで解る、いつもと少し違う雰囲気。どこか浮ついたような、そんな様子が見て取れた。
「……む、それなりに珍しい人と、そこはかとなく珍しい人じゃないですか。これは何か起きそうな予感が――」
そうして里を眺めている途中で見つけた小さな違和感。流し見ていても思わず目を止めてしまったそれは、里の一角で鉢合わせたのであろう、メイドと亡霊だった。里という場所を考えれば、なんとも珍しい組み合わせ。ようやくツキが回ってきたかと俄然意気込んだものの、突き刺すような視線を背中に感じて思わず屋根の縁にかけた足が止まった。一体誰だと文が振り返ると、
「――」
先程のカラスだった。
いつの間に移動したのか、カラスもまた窓辺から屋根の上へ。けれど、無言で文を見据える視線だけは先程と変わらない。早く行けという圧力に、文は名残惜しそうに里の方を振り返る。先程と同じ場所、何を話していたのか、亡霊について行くメイドの姿が見て取れた。きっと何かがあるのだろう。あの二人、特に亡霊の方が絡んで何もないという方が不自然だ。しかし、いくらあれに自分もついて行ければと思ったところで、そんな願いが叶うはずもなく。
「組織というのも一長一短ですかね……」
晴れ渡った青空が、少しだけ憎かった。
§
夏に彩られているのはどうやら妖怪の山も同じようで、山の表面を覆う木々の青はいつにも増して濃くなっていた。一足飛びにそれらを越えて降り立った木から辺りを見渡し、また次へと飛んでいく。瞬く間に後方へと流れていく景色。入山した者がいるという連絡が回った割には騒々しさや慌ただしさといったものは感じられず、あるのはいつもの静かな昼下がり。そんな様子を見て流石に文も不審に思ったのか、次の足場にと目を付けた木に降りたところで、後に続いていたカラスに声をかけた。
「本当に誰か入山したんですか? デマだったら焼き鳥にしますよ」
寝不足も相まって随分とギラついた目で睨んでみたが、カラスも負けじと文を睨み返して『なんだこのヤロー、末端構成員のくせに仕事をサボって同僚を共食いしようだなんていい度胸じゃねえか』と訴えかけてきた。嘘だけど。
「いやいや、そういうのはもういいんですよ。って誰に言っているんですか私は」
やっぱり帰って寝るべきだ。入山者なんていなかったんだ。病気の赤ん坊もいなかったんだ。
疲れた頭で考えても碌なことがない。そんなことを思いながら文が踵を返そうとした時、麓から吹き上げた風が足場にしていた木の枝葉を揺らした。吹き抜けるのは一瞬。山の頂を見上げれば、木々の揺れで見えないはずの風の姿を見る事が出来た。
「どうやら風が山によくないものを運んできてしまったようですね……」
ふむと一つ頷いて隣のカラスに向き直ると、何故か凄い勢いで顔を背けられてしまった。その心の内を問い質したかったが、入山者の情報が間違いでないと解った以上、文もサボる訳にはいかない。先程の風で相手の場所は大体掴めている。ここからならばあと一飛びで辿り着けるであろう距離。ぐっと足に力を込めて見据える一点。次の瞬間、文の体は遥か前方へと飛んでいた。
「さて、黒白か紅白か……どちらかと言えば黒白の方がまだ言いくるめやすいから助かるのですが」
風を正面から受けながら、さてどう対処したものかと考える。しかし少し考えたところで、そもそも相手の目的が解らない以上仕方のない事だと思考を投げ捨てた。目標は中腹辺り、通称大蝦蟇の池。その辺りならばまだ実力行使に出る必要もない。適当に言いくるめてお帰りいただけばいいだろう。面倒事は少ないに限るのだ。
「む……む……?」
池の周りは少し開けた場所になっている。その縁にあたる木の上に降りて地上を見下ろしてみれば、確かにそこには山の中では見慣れない者の姿。意外だと思うとともに、文は自分が駆り出された理由も納得出来た。どうにも上は自分を便利扱いしすぎている気がする。あとで直訴しておくべきかと考えて、池の畔に立つ彼女の元へと飛び降りた。
「その祠、何かありますか?」
「うわっ! びっくりしたぁ!?」
「まぁ何があったところで、貴方が下山するという事実に変わりはないので一向に構いませんけど」
「いやちょっと待って。どうして私が下山しないといけないのよ」
「貴方が入山したからです。実に単純明快な理由ですね。とまぁぶっちゃけると早く帰って寝たいので、あまり手を煩わせないでいただけると助かるのですが」
「そりゃあ登ったからにはその内降りる……いや、私の場合は帰りも登り? やっぱり下山する必要なんてないじゃない」
そう言って、それみたことかと少女が胸を張る。
「そうは言っても、おいそれと山に人を入れる訳にはいかないのですよ。どうぞお帰りの際はお好きな空路を使って下さい。それとも私が打ち上げましょうか? えーと……てんこさんでしたっけ?」
「てんしやっちゅーに。というか打ち上げるって何よ。別にいいじゃない通り道にするくらい。誰にも迷惑はかけないわよ」
失礼、噛みました。なんて言葉が口から出そうになったが、何故だかそれは言ってはいけないような気がして、文が口を噤む。天子はそれきり興味を失ったのか、放っておいてと背を向けてしまった。
「ふむ?」
天子の肩越しに覗き込む。その先には小さな祠。いつ、誰が、何の目的で建てたのか解らない、随分と古い物だ。形こそ保っているが、荒んだ様子は長い間人の手が加えられていない事を如実に語っている。
「しばらく見ない間にまた一段とボロくなっていますねぇ」
「……」
「昔はよく里の人間達がお供え物を持ってきていたりもしたのですが、はてあれはいつの事でしたか」
「……」
「――ふむ」
どうしたものかと考えて、一歩前に出て天子の横に並ぶ。祠にこれといって変わった様子はなく、けれどそれを見る天子の横顔は怒りと嘆きが入り交じったかのよう。どちらにせよ、明るいものではなかった。
「はて、そういえばこの祠、何を祀っていましたか」
いくら古いといっても、文が生まれるより前からあったという事はない。どれだけ溯ったとしても、精々数百年といったところだろう。ならば山の中の事。見ているはずなのだ、この祠が建てられたその時を、その経緯を。
「うーん……正直そんなに古い事は覚えてないんですよねぇ。家に戻れば当時の新聞があるかもしれませんが」
呟いて、けれど天子は変わらず神妙な面持ちのまま。そもそもどうして彼女がこんな場所にいるのだろうか。
「はて、そういえば貴方の名前は――」
「てんこじゃないわよ」
「そこは反応するんですね……」
ふん、と鼻をならす天子に、文が苦笑する。
「先程のは冗談です。これでも私、記憶力には人一倍自信がありますから。貴方の名前だってフルネームでちゃんと言えますよ、比那名居天子さん」
「……合ってる」
「それに幻想郷中の女の子の誕生日も全て記憶しています」
「……カメラ繋がり?」
そんなピンクな趣味はありませんよ、と文が首を振った。
「いえまぁ、話が脱線してしまいましたが、そういえばこの祠は名居守を祀ったものでした。ならば比那名居の貴方がここに居るというのも納得です」
「知ってるの?」
素直に返されるとどうにも調子が狂う。けれどそんな事は表には一切出さず、文は頭の中でこの場をどうすべきかを考えた。普段は滅多に地上に降りてこない天人の登場は、それだけでもネタになるが些か弱い。ならばもう少し情報を引き出すべきか。なんならこちらからけしかけても構わない。ネタとは時に自ら作り出すものなのだ。
「えぇ、貴方の事も知っていますよ。比那名居地子さん」
「どうしてそれを……!」
「おや、当たっていましたか」
当時の事をどうにか思い出しながらの一言だったが、どうやら記憶の底から拾い上げたそれも間違いではなかったようで、内心安堵の息を吐いた。
「まぁ私も当時の貴方の事はよく知りません。なにせ話した事はおろか、会った事も、見かけた事すらもありませんでしたから」
ならどうして、と天子が疑問の目を向ける。
「今も昔も、幻想郷の中で起きたあらゆる事が私達の耳に入ってきます。その話の事実はどうであれ、そこに関わった物や人が変わる事はない。当時は結構いいネタになっていましたよ。地上から飛び級扱いで天人になった一族がいる、って」
まさかそれが貴方だったとは、今になるまで忘れていましたが、と言って、文はもう一度祠を見た。
名居守。かつて大村守に仕えていた一族。幻想郷の地震に関するあらゆる事を担い、神霊化してからは実質その仕事の全てを名居守の部下であった比那名居一族に委ねる事になったと聞くが、なるほどそれならば彼女の能力も頷ける。今や幻想郷の地震、地盤に関する全てを比那名居一族が握っていると言っても過言ではないだろう。あるいはこの祠の現状を見るに、名居守の力が弱まった事を受けて、その力を比那名居に譲ったと見るべきか。
「別にどうでもいいのよ、名居守とか大村守とか。私は全然見たこともないし関係もない。天人だなんていっても皆歌ったり踊ったりで遊んでばかり。誰一人として仕事なんてしやしない、道楽者の集まりよ」
「では何故この場所に?」
先の彼女が巻き起こした騒動を見るに、自分も十分道楽者ではないかと思ったが、流石の文もそれを口にはせず、無難な言葉で聞き返す。
「別に、地上に名居守を祀った祠があるって聞いたから、どんなものか試しに見に来ただけ。他意はないよ」
「なるほど、博麗神社を自分の物に出来なかったから、今度は身内を襲撃ですか。中々良い性格をしてますね」
「だ、誰がそんな事を――」
「違うんですか?」
「ちちち違うわよそんな訳ないじゃない何を言っているのよさっぱりわかんない」
それにしても地上は暑いわねぇ、などと言いながら、天子がぱたぱたと胸元を扇ぐ。
なんとも解りやすい反応だった。
けれど、それだけならばこんな所で佇んでいる必要はない。こんな小さな祠だ。さっさと壊して直して自分の物にしてしまえばいい。神社の時とは違って、そこまで時間のかかる事でもないだろう。では何故そうしないのか。
「……ふむ」
文の脳裏にいくつかの候補が浮かぶ。けれどそれらは纏めてみると一言で収まった。
――数百年生きたところで、子供のままか。
口笛まで吹き出した天子を見て、文が呆れたように笑った。
「風見幽香辺りを見習うべきですかね」
「ん? 何か言った?」
振り返る天子になんでもないと首を振る文が、浮かべる笑みを悪戯っぽいそれに変える。恰好のネタを見つけた時によく見せるものだったが、天子は気付かない。
「それよりどうでしょう、里に出てみたりしませんか?」
「はぁ? なんで?」
「いやまぁ、考えてもみてください。こんなところにある祠を自分の物にしたところで、どうせ今と同じようなボロになってしまうのは明かです」
「ぐ――そ、それは」
誰も訪れないから祠はここまで荒んでしまった。その程度は天子も解っていたのだろう。たじろいで言葉を詰まらせた彼女を見て、文がそこで里ですよ、と人差し指をぴんと立てた。
「先程も言いましたが、昔はこの祠もよくお供え物が置いてあったりしたんですよ。いつの間にかこんな状態になっていましたが、かつてそういう事があったという事実は変わりません。そして、あったという事は取り戻せるという事です。新たに何かを創り出すよりかは、元からあったものを復元させる方が楽でしょう」
「復元って……別に私は名居守をどうこうするつもりはないわよ」
「細かいところを突いてきますね……別に名居守への信仰を取り戻すという訳ではありませんよ。この祠の存在、そして祠に対する信仰心。この二つを取り戻せばいいのです。その上で祠が貴方の物であるという事を知らしめられれば、とりあえずは安泰でしょう」
「まぁ、それはそうね」
どうにも納得出来ないのか、少しぎこちない様子で天子が頷く。
神社、祠、その他のあらゆる物は祀られる事によって初めて力を持つようになる。形だけを揃えたところで、それはただの神社や祠の形をした建物であり、それ以上の物には成り得ない。
しかし、ただ祀るというだけでは力も微弱なもの。祀った者、物への信仰を集める事が出来れば、その分だけ力は増していく。そういう点では、文の言う事は至極当然の事であり、間違いではないと言える。
「この祠が貴方の物だという確固たる証明になる。信仰によって貴方の力も強くなる。良いことずくめじゃないですか。何を疑う余地があるというんです?」
「良いことずくめな時点で怪しさ満点じゃない。何か裏でもあるんじゃないの?」
「失礼ですね、この清く正しい美少女新聞記者の射命丸、裏だなんてそんなものはどこにもありませんよ」
「ごめん、表からして腐ってたわ」
心底疲れたというように肩を落とす天子とは対照的に、文が声をあげて笑う。
そうと決まれば行動あるのみ。ようやく掴みかけたスランプ脱出の切っ掛け、そうそう手放す訳にはいかない。ネタになるかどうかはこれからの行動次第だろうが、何せ相手はあの比那名居天子。少なくとも何も起きないという事はないだろう。あとはそれをどこまで面白くできるか、だ。
いよいよ楽しい事になりそうだと歩き出した文の後を、天子は重い足取りでついて行った。
2
夏祭りを目前に控えた里は、昼時を越えていよいよ活気に満ち溢れていた。外から見るのと実際に中に入った差もあるのだろうが、先程山から見下ろしていた時よりも、更に人が増えているように思える。店先で話す客と店主、飽きもせずに駆け回る子供たち、大きな荷物を抱えて急ぐのは、祭りの準備をしている者だろうか。人間だけではなく、人混みの中には妖怪の姿も少なからず見受けられた。妖怪は人間以上に陽気な者が多い。きっとこの雰囲気に釣られてやってきたのだろう。
「ねぇ、あれなんか美味しそうじゃない?」
祭りは準備の時が一番楽しいとはよく言ったもので、確かに通りを歩く誰もが熱に浮かされたように、どこかそわそわと落ち着きがない。辺り一帯を包む喧噪を不快に感じる者などこの幻想郷にはおらず、人も妖怪も関係なく、皆がこの雰囲気を楽しんでいる。
「地上の食べ物も中々いけるじゃないの。あ、あれはカステラかな? 珍しい、そんな物もあるのね」
そういえば、と文が人混みの中に目を向ける。山から見ていた時にあのメイドと亡霊が見えたのが丁度この辺りだったのだ。とはいえ、自分が見ていた時には既にどこかへ行こうとしていたのだから、当然その姿が見えるはずはない。里に入ってからここまでの道程を思い出してみるが、視界にそれらしい影が映ったという事もなく、そうなるともうこの辺りにはいないのだろうか。
「っと、これまた美味しそうな羊羹を発見」
別件でネタの確保が出来そうだとはいえ、ネタというものはいくつあっても困らないもの。出来ればそちらも抑えておきたいというのが本心だったが、文はぐっと我慢した。
二兎を追う者は一兎をも得ず。一度にあれこれ飛び回っては、一つ一つの記事が薄くなってしまう。
どのみち天狗の新聞である以上、後からあることないこと付け足されていくのだが、そういう点では文は報道機関に属する天狗の中では比較的真面目な方。もっとも、真面目であるが故に天狗達の新聞大会では敗退続きなのだが。
「ねぇねぇ、ちょっとそこな天狗さん」
「……貴方はさっきから何をちょろちょろとしているんですか。ここに来た目的を忘れてやいませんかね」
「大丈夫だって。そんな事より、ちょっとお金貸してくれない?」
「お金?」
「いやぁ、ほら私ってば天人だから、地上のお金とかほとんど持ってないのよ」
あっけらかんと言う天子の顔を見てみれば、その口の回りにはなにやらあれこれとくっついている。一体どれだけ食べていたのかと呆れた文がお金が無いなら諦めろと伝えると、天子は満面の笑みを浮かべてみせた。
「無理よ。もう食べちゃったもの」
「お金が無いなら食べないでくださいよ!?」
「だって美味しそうだったんだもの!」
なら仕方がないな、と言えればよかったのだが、そうもいかない。
山には山のルールがあるように、里には里のルールがある。たとえ妖怪であっても、里の中ではそれらを守らなければいけないのだ。
「それで、お代は払っていただけるのかい?」
不意に二人の間に割って入った野太い声。それが天子のすぐ後ろに立つ人物が言ったものだと気付いた文がそちらに目を向けると、そこにはなんと熊が立っていた。いや流石にこんな所に熊はいないだろうと思って見直すと、確かに熊ではなく人、人間だった。けれどその身体は大柄で雄々しく、正に熊のようなという表現がピッタリと当てはまりそうなもの。熊と見間違うのも仕方のない事だろう。
「貴方は――」
腕を組んでこちらを睨む熊男に、文は見覚えがあった。
正確には直接会った事はない。けれど文の頭の中には現在幻想郷に住むほとんどの妖怪と人間、それにいくらかの妖精の顔と名前が記憶されている。新聞記者として、ネタを探して飛び回っている内に身についたものだった。
そしてその記憶によれば、この熊男の名前は東海道源五郎。確か和菓子屋を営んでいたはずだ。大男の割には手先が器用で、その菓子の出来は里の中でも中々の評判。けれどこの男は菓子職人というだけではない。
――鬼の源五郎。
鬼が実在する幻想郷において、なお鬼の異名を持つ親父。それがこの東海道源五郎だ。
一時は完全に平和ボケしてしまった幻想郷だったが、それでも中にはやる気のある妖怪もいたし、それらを退治しようとする血気盛んな人間もいた。そうした人間たちの中で、一際抜きん出ていたのが彼だった。人外の如き強さを発揮する彼にそこいらの妖怪では太刀打ち出来ず、それらは今でも語り種になっているとかいないとか。
一線からはとうに退いているとはいえ、こちらを睨む目に宿る力は僅かな衰えも感じさせない力強いもの。流石に天狗である文と正面からぶつかれば勝ち目はないだろう。それでも天狗を前にしても一切怯まず、逆に威圧感を与える事が出来るのは、やはりそれだけの経験をしてきたという事なのだろう。
「あやややや……」
文も普段は滅多に里には姿を現さない。つまり、持ち金などほとんど無いに等しい。山の中であれば、金銭以外の物でも割とどうにでもなるのだ。
いきなり面倒な事になったものだと、文は盛大に溜息を吐いた。
§
「いやぁ、危ないところだったわね」
「元はといえば貴方の所為じゃないですか……」
先程の場をどうにか切り抜けて、二人は里の中央に位置する広場へと向かっていた。この場所は丁度祭りでも中心地になるようで、広場の真ん中には半ばまで組み上がった櫓がある。人の多さは先程の通りとそう変わらないが、違うところは木材を運んでいたり男手ばかりだったりという点。準備の真っ最中なのだろう。
「というかもう少し考えて行動してくださいよ。仮にも天人なんですから」
「失礼ね、仮じゃなくて歴とした天人よ。三歩進めば物を忘れるような貴方と一緒にしないでほしいわね」
「いや、そんな典型的な鳥頭なのは地底のあれくらいなものですよ……」
「あぁ、あの核娘。そういえばあれも貴方と同じでカラスだったわね」
「いやはや、種族は違えど、あの方は同じ出自としてはなんともお恥ずかしい限りです。と私が言ったところでどうなるものでもありませんが」
「ふぅん、まぁなんでもいいのだけれど、それでどうするの?」
「あ、覚えていたんですね、里に来た目的」
「だから貴方と一緒にしないでと言ったじゃないの」
それで、ともう一度尋ねる天子に、文は待っていましたと持っていた手帳を開いた。そこに案を書いておいたという訳ではないが、なんとなくその方が格好がつくのだ。
「信仰とは、言ってしまえば人気のようなものです。つまり貴方の知名度、注目度を一気に上げる事が出来ればよいのですよ」
「人気……まぁそうね」
どんなものでも、何もなければ見向きもされない。食べ物であればより美味しい物が。道具であればより機能的な物が注目を集める。ならば人の場合はどうだろうか。どんなものがあれば注目されるのか。人気が出るのか。
「それはつまり、見返りです」
「見返り、ねぇ」
神社を始め、祀られている神様というのは集まった信仰の分だけその力を人のために使う。そして得られたものを受けて人々はまた神様を信仰し、神様もまた人のために力を使うという循環で成り立っている。人々からの信仰がなければ神様は本来持っている力を発揮することが出来なくなり、人々もまた、神様から与えられる恩恵がなくては日々の生活に影響が出てくる。
神様と人間、それに妖怪もお互いが持ちつ持たれつの関係なのだ。何も御利益のない神様であれば、信仰する人も増えないだろう。
「でも、私に出来ることなんて地震を起こしたり鎮めたりするくらいよ? どうやってそれを知らせるのよ」
「もう一つあるじゃないですか。ほらさっきの」
「あぁ、要石」
言われて思い出したように天子が頷いた。
先程の源五郎とのいざこざ。文の手持ち分も微々たるもので、さてどうするかと悩んだ結果、彼の店の下に要石を挿すという事でどうにか納得してもらったのだ。
しかし天子はあまり気が進まないようで、それもねぇ、と溜息混じりに呟いた。
「要石って言っても、本来そう簡単に挿したり抜いたりしたらいけないのよ」
「神社には随分と簡単そうに挿していたじゃないですか」
「あれは特別。それにこの幻想郷程度の規模なら、神社に挿したあれ一つで十分なのよ。さっきのもオマケみたいなものだし、実際のところ効果はないでしょうね。神社に挿したものより先に消えるだろうし」
それに、と言って天子は屈んで地面に手を伸ばした。
「要石っていうのはそれ一つでも影響力が凄く大きいの。さっきのオマケのようなものでも、大地に与える影響は大したもの。この里全部に挿して回ったりしたら、自然のバランスが崩れてしまうわ。人間には都合の悪い事かもしれないけれど、地震とか土砂崩れとか、そういうのも時として必要なのよ。貴方なら解るでしょう?」
「……へぇ」
「なによ」
「いえ、案外真面目に考えていたんですね。私はてっきり、後先考えずにその場の勢いで挿したものだと思っていたのですが」
「……そんなことないです、よ?」
人間よりも自然に近い場所で生活をする妖怪ならば、たとえそういった災害が起こったとしても、自然の成すことだからと納得出来るだろう。天子はそう言ったのだ。もちろん妖怪や自然そのものにとっても災いとなる事象はある。けれど、それらも全てひっくるめての自然なのだ。流れるままに、赴くままに。そこに過ぎた手を加える事は、たとえ神様であっても許される事ではない。
確かに文もその点は理解している。しかし、要石をネタにしようとしていたのも事実。代わりはないかと考えを巡らせ、ならばと一つの案に辿り着いた。
「そういえば貴方のその地震を起こす能力、範囲指定とかも出来るんでしたっけ」
「あ、当たり前じゃないそのくらいお手の物よ。この前のだってその気になれば神社だけと言わずに幻想郷全部を揺らす事だって出来たんだから」
慌てて立ち上がった天子が両手を腰にあてて胸を張る。こういった解りやすいところは、そんなに嫌いじゃない。
「ほほう、ではあの緋色の雲は単なるメッセージでしかなかったと?」
「もちろん! あんな大掛かりな事をしなくたって、私の能力だけで十分よ」
「……」
「――」
「……」
「――すいません、嘘言いました」
じっと見つめる文の視線に耐えられなくなったのか、天子が弱々しく白状した。
地震を司る比那名居の一族とはいえ、天子にそこまでの力はない。比那名居の持つ能力である大地を揺るがす力を身につけてはいるものの、その効果はまだしも範囲という事になれば、彼女の父に当たる比那名居の総領に比べれば正に大人と子供。
「まぁでも、別にいいんですよそんな事は。大事なのは貴方が地震を自在に操れるというところなのです」
話の行く先が解らないのか、天子が首を傾げる。何をやらせようというのか。そんな顔だ。
「まぁ簡単な事ですよ。貴方が地震を起こし、そしてそれを鎮める」
「それだけ?」
「えぇ、それだけです。こういった事で大切なのは、内容よりも演出。どうやって魅せるかという事なのです」
「……なんか不安だなぁ」
§
里の中央に位置する広場。普段は様々な人や妖怪が行き交い、先程までは櫓を組む為に男たちが集っていたその場所に、今は天子と文を中心とした輪が広がっていた。
「さぁさお集まりの皆さん! こちらにおわすは天より参りし天人の比那名居天子! 今日は皆さんに重大な発表があって地上に降りてきたというじゃありませんか!」
「……ワタシが比那名居天子ダ」
ぐるりと囲む人々の前で、柄にもなく緊張した様子の天子が文に促されて自己紹介をすると、わっと歓声が上がった。興味深そうに二人を見る者もいれば、何やら面白そうな事が始まったと酒を持ち出した者まで。作業が中断された事に異を唱える者もいるが、それは少数。櫓は完成間近。最後の仕上げに取りかかる前の余興として受け取っている者の方が圧倒的に多いのだろう。
これらは全て、文の仕掛け。
広場で作業を進める男衆を見ていたかと思うと、いきなりその中に割り込んで一人の男の前へ。男はこの作業の指揮を執っていた者で、最初こそ不意に現れた文をあしらっていたものの、話す内に次第に態度を緩和させ、最後はしきりに頷くようになっていた。一体何を話していたのかと聞いた天子に、文は「相手の緊張を解くのもインタビューの基本ですよ」と返答。訝しむ天子を引っ張って、あれよあれよとこうして皆の前に引きずり出されたという訳だ。
「どうしろっていうのよ……」
居並ぶ人々から期待の眼差しを受けて、天子が冷や汗一つ。横に立つ文の耳元で囁く間に、周りを取り囲む観衆は更に増えていた。広場で何かやっていると誰かが伝えたのだろう。作業をしていた男衆以外にも、大人から子供まで、皆が見慣れない二人の少女に視線を向けている。
「大丈夫ですって。私が合図をしますから、そこで地震を起こしてください。あ、範囲はあくまでもこの広場だけですよ。家を倒したりしたら面倒ですからね」
「合図って、どんな――」
文の耳には届かなかったのか、それとも意図的に無視されたのか。再び周りに向けて声を上げた彼女の言葉に、天子の声はかき消されてしまった。
「なんと彼女は地震を司る比那名居の一族! 話を聞くと、今日にもこの幻想郷を巨大な地震が襲うそうです!」
「……えっ、私?」
文にせっつかれて、天子が慌てて一歩前に出る。大丈夫かとも思ったが、この程度をこなせないようでは祀られるというのも無理な話。頑張ってもらわないと困るのだ。
――とはいえ、はてさて。
「えーっと……そ、そうですもうじき地震が起こるのです……と」
「ですが心配いりません、です」
言葉に詰まって振り向く天子に、文が小声で続きを促す。天人とはいえ元は人の子。大勢の前で演説をするという事は、経験がなければ難しいものだ。
「ですが心配いりません。……と、私は地震を司る天人比那名居天子。近く行われる祭りの準備を邪魔するような無粋な地震は、私が見事鎮めてみせましょう」
それでも興が乗ってきたのか、それとも元来の性格故か、最初は怖々といった様子だった天子の声も次第になめらかになっていった。紡がれる天人の言葉に人々は度々歓声を上げ、手を打ち鳴らして酔いしれる。それに応えるように、天子の声にも熱が篭もっていく。
実際のところは別に天人の言葉だとかにそんなありがたみを感じている訳でもないのだろう。
祭りの準備という熱に浮かされた人々は、更なる楽しみを求めているに過ぎない。けれど、それでいいのだと文は思う。何かを与えてくれる存在として天子が認められればいいのだ。それで表も裏も全てが丸く収まる。なんとも親切心溢れる事をしているものだと、頭の隅でそんな事を言う自分もいるが、このネタはどちらかといえば人間に向けたもの。それならば人間相手にちょっとしたサービスをしておいた方が、後のウケもいいだろう。
「そろそろです。すぐに止めてくださいね?」
「まかせとけ!」
ドン、と。
一瞬の出来事だった。
大地の揺らぎは正に地震のもたらす力であり、立っていられなくなった子供が地面に手を付き、座り込んで酒を片手にこちらを見ていた男の手から杯が落ちる。予想外の震動。事前の打ち合わせなどはほとんどしていなかったが、それでも地震は少々の揺れでいいと伝えていた。しかしこれは少々どころではない、間違いなく大地震と言われる程の揺れだ。
「ちょ、ちょっと天子さん、強すぎですって!」
「え? あ、ゴメン」
周りの人々と同じように地面に崩れ落ちた文が、そんな中でも平然と立っている天子になんとか手を伸ばす。そこで天子もようやく周りで起こっている事態に気が付いたのか、右手を地面に向けてむんと一息。すると今までの揺れが嘘だったかのように、一帯が静けさに包まれた。
「ちょっとしたものでいいって言ったじゃないですか……」
「だからゴメンって。でもほら、ちゃんと広場の中だけにしておいたのよ」
ようやく立ち上がった文が天子に促されて周りを見ると、確かに揺れていたのは広場の中だけだったようで、あれだけの地震だったのにも関わらず、立ち並ぶ建物はどれ一つとして形を崩してはいない。一体どういう原理で一定範囲内の地面だけを揺らす事が出来るのかという疑問は湧いたが、それよりも気になった事が一つ。
「ほら、皆さん驚いて逃げちゃったじゃないですか」
「……何よ、だらしがないわねぇ、これくらいの地震で」
「今のは間違いなく六十年に一度とか、そういうレベルのものでしたよ……って、あー」
怪我人なんて出ようものなら、関係各所から何を言われるか解ったものではない。主に巫女とか、あと白沢とか。そう思って文が続けて首を回し、そして後ろを向いたところで異変に気が付いた。
「……私の所為じゃないわよ」
釣られて天子も振り向いて、その惨状を目の当たりにする。完成間近まで組み上げられていた櫓が、ものの見事に崩れていたのだ。それなりの大きさを誇っていたもの。これで怪我人が出なかったのがせめてもの救いだろうか。しかし、こればっかりは要石で解決という訳にもいかない。
「どう見ても天子さんの地震の所為じゃないですか」
「貴方が地震を起こせって言ったんだから、そっちの所為に決まっているじゃない」
そうして解決策よりも先に責任のなすり合いを始めた二人の間に、不意に割って入った声があった。
「これはどういう事かしら?」
聞き覚えのある声。
けれどこんな所では聞くはずのないだろう声。
どちらにしてもこの状況では絶対に聞きたくない声。
「八雲……」
「紫……さん」
背後から聞こえた声に、二人は思わず直立姿勢になった。
恐る恐る振り返ると、そこには確かに八雲紫の姿。ただし、日傘の下の顔は笑みこそ浮かべているものの、その声と瞳はまるで笑っていない。
「小娘がちょこまかとしていたからしばらく様子を見ていたのだけれど、また随分と派手な事をしてくれたものね。幻想郷で勝手な事はしないとこの間約束したでしょう?」
「べ、別に勝手な事じゃないわよ。私はこの天狗がやれって言ったからやっただけ。何も悪くないわ」
「いやいや、確かに地震を起こせとは言いましたが、あんな規模のものを起こせとは私は一言も言っていませんよ!?」
「そもそもそっちの案が穴だらけだったんじゃない!? 私の所為にしないでよ!」
「何を言うんですか、私の案は完璧でしたよ! 貴方がそんな事だから――」
「解りました。解りました」
再び睨み合いを始めた二人を止めるように、紫が胸の前で手を打ち鳴らした。それでもお互いまだまだ気が済まないのか、隙あらば飛びかかろうかというように唸り声を上げる。広場にいるのは三人だけ。逃げていった人達も地震が収まった事で戻ろうとしたのだが、そこに現れた第三の妖怪が気になって戻るに戻れず、遠巻きに見守るばかり。そうでなくとも、天狗と天人がいがみ合っている中に進んで戻ろうとする者はいないだろう。
「理由も過程も関係ありません。ここは人間達の里。里には里のルールがあり、たとえ妖怪であってもそれを破る事は許されない。そっちの小娘はともかく、天狗の貴女なら解っていた事ではありませんか?」
「そ、れは……そうですが……」
妙に口調が丁寧なのが気になる。こういう時の紫に関わると碌な事がない事を、文はそれほど多くはない彼女とのやりとりの中でも十分に学んでいた。解りやすく言うと、すごく怒っていらっしゃる。
「解っているのなら話は早い。どうやら貴方たちにはお仕置きが必要なようですね」
「いや、私はそんな事全然知らない――」
「貴女はそもそも地上に降りてくる時点で問答無用です」
一転、先程までのいがみ合いもどこへやら。これはまずい事になったと思った文が、八つ手の団扇を取り出して一扇ぎ。早々に退却を試みた。そんなこちらの様子に気付いた天子が呼び止めたが、彼女を助けるなどという考えはない。ネタのために身体を張る事はあっても、命なくしてネタは追えないのだ。他の相手ならばまだしも、なにせあの八雲紫。闘うか逃げるかという選択肢であれば、間違いなく後者を選ぶだろう。速さであれば誰にも負けない自信はあるし、この状況ならば天子が囮と時間稼ぎにもなってくれる。しばらく大手を振って歩けなくなるかもしれないが、それでも永遠に一回休みを言い渡されるよりかはよっぽどマシだ。
「という訳で、私はこれにて失礼します。それでは!」
「無駄よ」
「わきゃぁ!?」
疾風迅雷。風と化して飛び上がった文だったが、それもすぐに止められてしまった。追いつかれた訳でもなければ、スキマを開いて襟首を捕まれただとか、そういうものでもない。何もない空間で、何かにぶつかったような感触。もしやと文が手を伸ばしてみると、そこには確かに見えない壁があった。
「確かに貴方の速さであれば、私から逃げる事も出来るでしょう。まぁ逃げたところで無駄な事だけれど。私も忙しいのよ、あまり手を煩わせないでほしいわね」
スキマ妖怪と言われているが、紫の本質は境界を操る力であり、結界の専門家。結界に関する事であれば、同じく結界を操る霊夢以上のものなのだ。恐らくは最初に姿を見せた時点、もしくはその前から既に広場を覆うように結界を張っていたのだろう。よく見てみれば、遠巻きに見ていた人間達も、戻らないというよりかは戻れないといった様子だった。
物理的な結界。文と天子には、残念ながらこれを破る術は無い。
「さぁ、これで邪魔者は入りませんわ」
「紫さん、落ち着きましょう。話せば解ります。暴力は悲しみしか産まないのです。私達は話す事によってより深く相手を知る事が出来る、相手を思いやる事が出来るのです」
「遺言はそれだけかしら」
「……」
「……」
いよいよどうにもならなくなった文が地上に戻り、肩を振るわす天子と顔を合わせる。
どうするか。
あやまるか。
それしかないな。
「……許して?」
胸の前で手を組んで、目尻に涙を浮かべて潤んだ瞳で上目遣い。文と天子、頭に美が付くような少女二人にこんな風に迫られれば、大抵の事は許してしまうだろう。
「……」
けれど、その戦略で落とすにはどうにも相手が悪かった。目の前にいるのは八雲紫。天狗と天人がどれだけ可愛い子ぶったところで、効果があるはずもない。この大妖怪を陥落させるのであれば、せめてあの亡霊嬢を連れてくるべきだろう。こんな事なら何が何でも最初に幽々子を探しておくべきだったと文が思ってももう遅い。
八雲紫をどうにかしてください。
神様に向かって祈ったところで、果たしてどこの神様がこんな無謀な願いを聞いてくれるのか。山の神社にいる二柱ならば聞いてはくれそうだが、それでも聞いてくれるだけだろう。
跪いて懇願する二人を前に、紫は何かを考えるように人差し指を顎に当てて、うーんと宙を見ていたが、そこで何を思いついたのか、目を細めて慈愛に満ちた笑みを二人に向けて、
「ダメ」
まるで語尾に星マークかハートマークが付きそうな、そんな朗らかな声だった。
後に解った事だが、どうやらこの時の結界は外側からは中で何が起こっているのかが見えていなかったらしい。それはきっと、紫の人間たちへのせめてもの優しさだったのだろう。何故なら、もし結界の中を見ていたら、きっとトラウマになっていただろうから――。
3
「前が見えねぇ……」
「どうして私までこんな目に……」
ひどい事件だったね……と過去の事にするにはまだそれほど時間は経っていない。里から出た辺りで大の字になって倒れて見上げた空。太陽は西に傾いてはいるものの、この時期はまだまだ夜の訪れには余裕がある。雲は少なく、風も夏場にしては随分と涼しい。
――こういう時は風に乗ると気持ちいいんだけどなぁ。
風に乗るどころか、飛ぶことはおろか立ち上がる事さえままならない。それは天子も同じようで、今も隣で傷の痛みに身を悶えさせている。
それにしても容赦のない、あまりにも一方的な暴力だった。
文も紫との付き合いはそれほど長い訳でもないが、見る、知るという点では数百年という単位で接してきている。それでもかつてここまで暴力的な事件を起こした事があっただろうか。自分が見ていないだけでどこかでこういう事もあったのかもしれないが、それでも疑問は残る。
こういう部分、文は根っからの記者なのだろう。
相手がいつもと少しでも違うと、そこが気になってしまう。
以前、天子が博麗神社を倒壊させたり建て直したりした時も珍しいくらいに怒っていたが、それとはまた別の理由、感情があるようにも思える。幽々子と喧嘩でもしたのだろうか。
もう少し早く紫の異変に気付いていればそちらを追いかけるという手もあったのだが、如何せん神出鬼没の彼女。こちらから会いたいと思ったところで会うことは出来ず、会いたくないと思ってもやっぱり会うことは叶わない。取材の対象とするには、あまりにも難易度が高すぎる相手だ。
「それにしても、どうしますかねぇ」
しかし、どれだけ手傷を負わされたところで、こうして休んでいればそれも見る間に癒えていく。こういう時ばかりは、妖怪でよかったと心の底から思う。人間の身体であれば、既に五桁を超える回数は死んでいただろう。
天子の方も、傷は癒えてきたのか痛みに唸る声は聞こえなくなっていた。天人も肉体強度という点では妖怪に勝るものを持っている。彼女ももう動けるようにはなっているのだろう。けれどまだ起き上がる様子はない。
「……崖から落ちそうな男を助ける夢を見たわ」
「夢ですか」
「残念ね」
不意に口を開いた天子が、よく解らない事を言う。元より天人というのは言うこと成すこと、そのほとんどが地上に住む者にはよく解らないものなのだ。こういうところばかりは、彼女もそんな天人なのだという事を思い起こさせる。
「失敗したなぁー」
溜息混じりに漏れた天子の呟き。夢の中の事を言っているのか、それとも先程の事を言っているのか。文は何かを言おうとして、けれど出かかった言葉を飲み込んだ。
失敗した。確かに失敗だった。
思わぬ事態や紫の乱入。それを抜いても先程は失敗だった。どうやら自分も知らない間に熱に浮かされてしまっていたのだろうか。普段であれば絶対にやらないであろう失態。
新聞記者とは、傍観者でなければいけないのだ。過度に自分が関わってしまっては、客観でいられなくなってしまう。
とはいえ、ネタが無ければ作るのもまた記者としての勤め。
「いえいえまだこれからです。早速次に行きましょう」
つまるところ、まったく懲りていなかった。
「まだ何かするの……?」
天子の声が若干嫌そうに聞こえたのも無理はないだろう。自分の名前を轟かせたいという想いは確かにあるが、先程のような目に遭うくらいなら潔く諦める。簡単に死なないとはいっても、痛いものは痛いのだ。
「えぇ、貴方もこのままでは引き下がれないでしょう?」
「いや、私は別に引き下がってもいいんだけど」
「大丈夫。流石に先程の紫さんは想定外でしたが、今度はあらかじめ相手が解っていますから、準備をしっかりとしてから挑めばなんの問題もありませんよ」
「相手?」
天子が寝ころんだままこちらを向く。その視線を受けて、文は返事の変わりに上半身を起こした。空は大分夕暮れの色に染まってきていたが、まだ幾分青が残っている。彼女は妖怪にしては珍しく昼間に行動する事が多いが、このくらいならばまだ休んでいるということもないだろう。天人冒険活劇の第二幕だ。
「人々に貴方の力を見せるのは、何もその地震に関連した能力だけではありません。貴方は天人なんですから、天人としてもっとらしさを見せていけばいいんですよ」
「見返りはどこにいったの……」
「天人として出来ること。それは何か。ずばり妖怪退治です」
「妖怪退治?」
聞いた天子が、身を起こして隣に並ぶ。彼女としても、こういった解りやすいものの方が好きなのだろう。好戦的とまではいかないが、勝負事には拘りがあるのか、こちらを見る目も心なしか輝いて見えた。
「貴方を退治すればいいの?」
「いや、私を退治したところで喜ぶ人は……いないといいなぁ」
「じゃあ誰を退治するのよ。大抵の奴らはこの前全員倒したわよ」
誰でも相手になってやる。そう意気込んで、跳ねるように天子が立ち上がる。その背中は先程までとは打って変わって活き活きとしていて、やっぱり戦いたかっただけなんじゃないだろうかと思えた。もしくは、紫にやられた事の憂さ晴らしか。
まぁそんなことも、天人の彼女にとっては遊びの範疇なのだろう。そして、同じ遊ぶなら身体を動かす方がいい。
――やっぱり子供か。
呆れたように一つ笑って、文も彼女の隣に立ち上がる。先程は自分が関わりすぎた。そういう事を考えれば、失敗したのはむしろ好都合ともいえるだろう。こうして次のネタへと向かう事が出来るのだから。
もっとも、一度目で成功していればこうして次に行く事も無かったのだが。
「どうせ退治するなら、力の強い妖怪です。それを倒す事が出来れば、里の方達もきっと貴方を見直すでしょう」
「いいね! 折角だから、幻想郷で一番強い奴に会わせてよ。一気に頂点を取るわ!」
「では参りましょう、いざ太陽の畑へ!」
「おー!」
§
「前が見えねぇ……」
「だからどうして私まで……」
完敗だった。
おまけにとばっちりまで受けた。
何がいけなかったのか。
どこが駄目だったというのか。
夏も盛りを迎えたこの時期、太陽の畑は眩しい程の黄色一色に彩られている。それらは全て見事に咲いた向日葵の色。太陽の畑という名前に相応しく、まるで地上にいくつもの太陽が咲いているような、そんな場所だ。夏場は特にここを訪れる妖精や妖怪も多く、昼間は妖精たち、夜は陽気な妖怪たちでいつも賑わっている。黄昏時の今はそんな二つの世界が丁度交差する時間帯。人里にも負けない賑わいを見せるその一角に、探していた彼女の姿があった。
「どうしてあんなに怒っていたのでしょう……?」
「貴方が安っぽい挑発なんかするからじゃない……」
「いやまさか、彼女があんな言葉に反応するとは思いませんでした。しかしこれはこれで、一つ収穫です」
『最近怠けてばかりで、少し太ったんじゃないですか?』
思い返してみても、妖怪の彼女がそんな事を気にしているとは思えない。ならば何故そんな事を言ったのかといえば、単純に何を言っても向こうが動じず、苦し紛れに出たというだけ。
しかし、怒ったという事は図星なのでしょうか。などと思いながら、文が文花帖を開き、空いたスペースに筆を走らせる。
風見幽香、ダイエット中。
「随分可愛らしい字を書くのね」
「……放っておいてください」
文の持つ文花帖。そこには日々気付いた事や、記事に使えそうなネタが所狭しと書き込まれている。それは時に図であったり絵であったりと文字に限定されないのだが、そのどれもが丸かったり花が飛んでいたり、やたらと女の子らしい。文も天狗とはいえ女の子と言えば間違いではないのだから、それらもまた間違いではないのかもしれないが、それでも天狗の文花帖というイメージからは程遠い。個人的には気に入っているのだが、周りの評判が揃いも揃って芳しくないのが、少しだけショックだった。
「しかし、あれも駄目これも駄目。というか貴方本当に強いんですか?」
「少なくとも、貴方よりは強いわよ」
「そうですかねぇ……?」
「なによ、疑うっていうの? なんなら今ここで貴方を退治してあげてもいいのよ。そして私は貴方の首を持って里に凱旋するわ!」
先程と同じように、跳ねるように立ち上がった天子が高らかに天へと叫ぶ。
「いや、それただのホラーですから」
間違いなく里の入り口で門前払いを喰らうだろう。そして里の入り口に晒される自分の首。
嫌すぎる。
何よりも嫌なのは、恐らくはそんな状態でもそう簡単に死なないだろうという事だ。生首のまま生き長らえるくらいなら、いっそのこと殺してほしい。こういう時ばかりは頑丈すぎる妖怪の身体が嫌になる。とはいえ、一度もそういう事態になった事がないのだけれど。
「……さて」
文はまだ倒れたまま、もう傷はすっかりと癒えて動けるようになっているのだが、どうにも起き上がる気になれない。幽香にのされて倒れている間に日はすっかりと暮れてしまい、視界には満天の星空が広がっている。それらを見つめながらどうしたものかと考えていると、自然と溜息が漏れた。
考えていたのは新聞のこと。
紫と幽香、起こった事をそのまま書くにはいささか相手と状況の分が悪い。けれど、ただ天子が二人と戦ったという部分だけを抜き出せば、それなりに面白い記事にはなるかもしれない。
さしずめ見出しは『天人の腕試し! 早くも幻想郷の洗礼浴びる!』といった辺りか。
「うーん……」
書けなくはない。
天人が幻想郷の者に倒されるという内容は、それなりに支持も集めるだろう。
「……うーん」
もう一度唸って、星空から隣に立つ天子へと視線を落とす。こちらに背を向けて星を見上げる彼女の表情は窺えない。どんな事を思って空を見上げているのだろう。自分の住む空を。
「失敗したなぁー」
先程の天子と同じように、溜息混じりに文が呟いた。
その声が聞こえたのか、天子がくるりと身体ごとこちらに振り向いた。
「いえいえまだこれからです。早速次に行きましょう!」
それもまた先程と同じように、こちらは文の言葉を天子が言う。違うところは、文が言った時と違って彼女の顔が楽しそうに笑っていたという事か。
「もういいとか言っていませんでしたっけ」
「んー、なんかもう少しやってみようかなって」
「それはまた、殊勝な心がけですね。一体何があったのかはとても気になりますが、この際それは後に置いておきましょう。私もまだまだ引き下がれませんから」
言いながら、文が立ち上がる。夜の向日葵畑。あれほど色鮮やかに天を向いていた花たちが項垂れる中、あちこちから響く喧噪は妖怪たちの集まりか。
「そうでないと! あーでも、なんか痛いのはもう勘弁してほしいかな。いくら身体が頑丈だからって、何度もあんな目にあってたらもたないわ」
「勝てばいいじゃないですか」
「……別に負けてないわよ」
ぶーっと頬を膨らませて、天子がそっぽを向いてしまう。
どこまでが彼女の本気なのかは解らないが、いくら頑丈な肉体を持つ天人とはいえ、あの二人ならば負けてしまったとしても仕方のない事だろう。特に今日のような一切の手加減がない状態だと尚のこと。むしろ生きていた事を喜ぶべきだ。
「しかしこれまでとは違う事をするとなると、さて何をしたものですかね」
「頭とかいいわよ、天人だもの」
「……」
「なによその目は」
「いえいえお気になさらず……あぁでもそうですね。なるほどそんな手もありますか」
天子の言葉を受けて思いついた次の案。ネタとしてもそんなに悪くはない。
まぁなるようになるだろう。そう思って、文がもう一度星空を見上げた。
4
「暗いしじめじめするしなんかよく解らない茸とか生えてるし」
「あ、その茸は近付いてはいけませんよ。胞子に幻覚作用がありますから」
「私もう帰ってもいいよね」
「今度こそ貴方の所為じゃないですか、こんな所に来るハメになったのは」
昨日の勢いもどこへ消えてしまったのか、一歩進む度に天子が愚痴を零していく。とはいえ、昼間でも太陽の光がほとんど届かない森の中はやはり薄気味悪いものがある。妖怪である文は何も感じなくとも、普段雲の上という正に天上に住んでいる天子にとっては耐え難いものがあるのだろう。見慣れない形をした、いかにも怪しげな茸が広がる様は、確かに見ているだけでも気分が悪くなってくる。
――祭りに出てみませんかね。
文の次なる提案は、近く里で行われる夏祭りへの参加だった。
里の夏祭りは、幻想郷で行われる唯一ともいえる大規模なもので、多方面にわたって様々な催し物が開催される。屋台や舞台。祭りを盛り上げるために趣向を凝らしていくようになったそれらは、いつからか誰が一番祭りを盛り上げたか、などという余興を産み出していた。
余興とはいえ、そこで栄冠を勝ち取れば里は元より広く幻想郷に名が知られるようになる事もある。
そこに天子を参加させようというのだ。
屋台、舞台、内容はなんでも構わない。昔は統一で優勝者を決めていたが、増えすぎた催し物に対応するために分散され、今は各部門毎に選出されるようになっている。
天子とて天人の端くれ。何か一つくらい人間や妖怪には真似の出来ない何かがあるだろうと踏んでの事だったが、文の言葉を聞いた天子の反応は散々なものだった。
「料理? いつも誰かが作ってるよ」
「包丁? 緋想の剣ならよく振り回してるけど」
「歌? よく歌ってるわよ。――どうして耳を塞ぐのよ」
「踊りも得意よ。天人としての嗜みね。――どうして野花にカメラを向けているのよ」
「せめて何か一つくらい特技とかないんですか、貴方は」
「地震とか起こせるわよ」
「うわー、かっこいー」
ならばと天界の道具などを使った催しなども考えてみたが、それもまた返ってきたのは散々な答え。曰く、地上に降りてびっくりしたのは、道具がどれも天界の物よりもずっと凄い、だとかなんとか。
「そういえば天人は釣りもよくすると聞きますが」
「あぁ釣り。そうね、私はあまりやらないけれど、好きな人は多いよ」
「ならば天界の魚を使ったミニ釣り堀とかはいかがでしょう。物珍しさでは絶対に負けないものになりますよ」
「あぁだめだめ、天界の釣りなんて雲の中に釣り竿を垂らしてぼーっとしてるだけだもの。そもそも魚なんていないわ」
「……それ、釣りの意味はあるんでしょうか」
「だから私は好きじゃないのよ」
何を聞いてもそんな調子で、結局昨日は案がまとまらず、一晩考えた結果こうして魔法の森にやってきたという訳だ。
「あぁほら、見えてきましたよ」
文が指さした先、鬱蒼と生い茂る木々の向こう側に見える白い壁。昼間でも薄暗い森の中で光の当たる数少ない場所。
森の魔法使い。
人形遣い。
アリス・マーガトロイドの家だった。
§
「それで、どうして私の所に来る事になるのかしら」
人形達の用意したティーカップを手にとって、アリスが開口一番、二人に尋ねた。
天子は答えるつもりはなさそうで、物珍しそうに部屋の中を見回している。特に勝手に動いているようにしか見えない人形たちが気になるのか、その内の一体を手にとってあちこちを眺めては、ほー、と感嘆していた。
「戦ってる時はあんまり気にならなかったけど、こうしてちょこまか動き回っているのを見ると、やっぱり不思議だわ」
「ちょっと、勝手に触らないでよ。嫌がっているじゃない」
「人形が嫌がるの?」
天子がそう言うのも無理はない。どこまで動いたところで人形は人形。これらも結局のところは全てをアリスが魔法で操っているに過ぎない。つまりは今天子に捕らえられ、その手の中でじたばたと短い手足をばたつかせているのも元を正せばアリスの力。
「大した役者ぶりですねぇ」
その様子を見て、文がカップの中に入れた砂糖をかき混ぜながら一言。夏場にホットティーはないだろうと思いながら、立ち上る湯気を追いかけていく。
それで? とアリスに問い質されて、文は視線を湯気からアリスへ。特にやましい事もないのだから、正直に言ってしまえばいい。
「いやいや大した事ではないんですよ。アリスさんを一流の芸人と見込んでですね、少しお願いしたい事がありまして」
「芸人……特に何かをしていたという覚えはないのだけれど」
「あやや、祭りの時に人形芸を披露していたと聞きましたが」
その言葉を聞いて、アリスがぴくりと眉を動かした。
「誰に聞いたのよ、そんな話」
「聞いたというよりは読んだと言った方が正しいでしょうか。ほら、稗田のお嬢さんの」
「あぁ……あれか」
稗田の当主、阿求が記した幻想郷縁起。幻想郷に住まう妖怪たちの事が纏められた本だ。
その中にはどうやって調べたのか、アリスや文の事も記されており、内容は確かなものから不確かなものまで様々。けれど見る者に深い興味を与える物としては十分で、その点は文も少なからず参考にしている節がある。
「あれも本当なんだか嘘なんだかよく解らない事ばかり書かれているけれど、まぁ私のその項目に関しては間違いでもないわね。確かに、そういう事もしていたわ」
昔の事だけれど、と付け足して、アリスが湯気の昇る紅茶を啜る。熱くないのだろうか。
「当時はまだ今ほど人形たちを操る事が出来なかったから、練習も兼ねてそんな芸まがいの事もしていたのよ。懐かしいわね」
言いながら、アリスがついと視線を窓の外へと投げた。そこにはかつての情景が映っているのだろうか、浮かべる笑みはずっと遠くへと向けられているように見えた。
「――」
どう声をかけたものかと迷い、逸らすように天子の方を向くと、いつの間に仲良くなったのか、先程の人形と戯れていた。話は聞いていたのだろうか。
「はた迷惑な天狗に天人。それで私に何をしろと言うのかしら」
「おや、聞いてくれるのですか」
「なによ、その意外そうな顔は」
むっと眉を顰めるアリスに、文が愛想笑いを浮かべる。アリスもそれほど怒ってもいなかったのか、すぐに「まぁいいわ」と肩を竦めてみせた。
「今回は別に大した用事でもなさそうだし。私だって鬼じゃない、そんななんでも無下にするような事はしないわよ」
「ふむ。ではお言葉に甘えて」
間を取るように、文がずっと置いていたティーカップを手に取った。一口啜る。まだ熱い。
「なんてことはありません。その人形芸を彼女に教えてあげてはくれませんかね」
「……え?」
二人に見られて、ようやく自分に話が振られたと気付いた天子が慌てて顔を上げた。
「人形芸? 私がやるの?」
「えぇ、その通りです。屋台がダメなら舞台。過去にアリスさんがやっていたのであれば二番煎じは否めませんが、見ての通り操り糸もなく勝手に動く人形たち。インパクトは十分です」
幻想郷の中で、魔法というものは別段珍しいものではない。このアリスや同じく魔法の森に住む魔理沙、紅魔館に住むパチュリーなど、種族としての魔法使いや職業として魔法使いを自負する者こそ少ないものの、初級の魔法程度ならば一般的なものとして広まっている。
それでもこの魔法で人形を操る事が出来るのは、精々アリスくらいなもの。例え操る人形が一体だったとしても、自然な動きに見せるのは簡単な事ではない。だからこそ、インパクトとしては十分。見る者の目を引けるだろう。
「屋台? 舞台? ……貴方たち、ひょっとして夏祭りに出るつもりなのかしら」
こちらのやりとりを聞いたアリスが尋ねてくる。そうだと文が答えると、アリスは考え込むように、顎に手を当てて俯いた。
幾許かの沈黙。
やがて何かを思いついたのか、アリスがぽんと両手を合わせた。
「解ったわ。協力しましょう」
「ほんとですか?」
「ええ。ただし、一つだけ条件があるわ。いえ、条件というよりかは私の個人的な事なのだけれど」
不適な笑みを浮かべるアリスに、文と天子が顔を見合わせる。何か見返りを要求されるのだろうか。そういえば見返りの話はどこにいったのかと天子が目で訴えてきたが、とりあえず流しておいた。
「その夏祭りの舞台、私も出るわ」
なるほど、それは確かにこちらには関係のない、アリス個人の事だ。
「って、ぇえっ!?」
文と天子が揃って叫んだ。無理もない。本家本元のアリスが出るとなれば、どれだけ天子が頑張ったところで勝てるはずがない。それどころか勝負にもならないだろう。形は違えど昨日の紫と幽香、二人を相手にした失敗をまた繰り返してしまう。
「何か問題でも?」
笑みを崩さず、アリスが二人を見据える。
「貴方たちが何を思って舞台に出ようとしているのかは知らないし、知るつもりもないわ。それに私は貴方たちを邪魔するつもりはない。だから貴方にはこの子たちの扱い方をしっかりと教えてあげる。正々堂々、よ」
「既に最初の力差が開きすぎているような気もしますが、どういうつもりでしょう?」
文の質問を受けて、アリスは尚不適な笑みのまま。
「別に、単に貴方たちの話を聞いていたら、久しぶりに出てみようかと思っただけよ。それに私が教えて一位になって、なんていうのは都合がよすぎるでしょう? そうね、敢えて言うなれば保険かしら」
「保険、ですか」
「そう、保険。一位になってもつまらない。けれど逆に一位になれなければ、教えた私の力まで疑われてしまうわ。別に外の人間たちにどう思われようとも構わないけれど、下等に見られるのもそれはそれで気分の良いものではないからね」
先程はああ言っていたものの、つまりは邪魔をすると言っているのだ。
どうしたものかと横の天子を見ると、意外にもどっしりと座って前を見据えていた。視線の先にはアリス。
「面白い! いつぞやに私にやられた腹いせかい? いいよ、その勝負受けてあげるわ!」
天子の宣戦布告を見て、何やらまたよく解らない流れになってきたなと思いつつ、まぁこれはこれで面白そうだからいいかと、文は一人紅茶を啜る。カップの中身はようやく気にせず飲める程度には温くなっていた。そもそも天子の言葉は勝負を受ける側としては正しくても教えを請う側としては見当違いも甚だしいのだが、流しておいた方がいいのだろう。
§
魔法で何かを操るという事は、思った以上に難しい。ただ操るだけでなく、操る対象の事もきちんと把握出来ていなければいけない。どの部分をどのように動かせばどういう結果になるのか、全てを理解しなくてはまともに動かす事も出来ない。
人の形。人形を動かすのであれば、普段自身が無意識の内に行っている事も全て意識して行わなければならなくなる。重心、バランス、歩かせるだけでもただ足を動かせばいいという訳ではない。もちろん魔法で動かす以上、浮かせる事も出来るのだから何も足を地に付ける必要はない。しかし、浮かせるにしても結局人の形を動かす事に違いはないのだ。力加減を見誤れば、すぐに糸の絡まった操り人形のようになってしまう。
緻密さ繊細さ、物を操るという事は、常に縫い針に糸を通すような集中力が必要になる。
そんな仕組みを知れば知るほど、アリスという魔法使いが如何に強い力を持っているのかが解る。解らされる。常に人形を周りに置き、動かし、個別に行動させる。並大抵の事ではないだろう。
一方、そんなアリスに教えを請うことになった天子はといえば。
「あーもう! ちゃんと動きなさいよ、爆発させるわよ!」
戯れていた一体を貸し与えられてずっと練習しているものの、一向に上達の兆しは見えない。
「今日で三日目。本番まで後二日。これだと一位は夢のまた夢かしらね」
茶請けのクッキーをつまみながら、アリスが騒ぐ天子を眺めていた。
文もテーブルを挟んだ向かい側に座って、同じようにクッキーを一口。甘い。
「私としては、初日から僅かとはいえ動かせた事の方が驚きでしたが」
「そうね、初級の魔法は比較的誰でも扱えるとはいえ、大したものよ。それだけ力があるという事なのだろうけど、魔法はイメージが大切なのよ。より正確に、より綿密に。でなければこの子たちも答えてはくれないわ」
傍らに置いた人形の頬を人差し指で撫でて、アリスが言う。人形はくすぐったそうにしていたが、見ようによってはなんとも寂しい一人芝居。
けれど、もし無意識の内に人形たちを操れるようになったとしたら、それは果たして一人芝居と言えるのだろうか。意識せずとも人形たちは各々で動き出す。触れられれば反応を示し、意識せずとも仕事をこなす。そうなれば、それはもう自律人形と言っても過言ではないように思える。
「アリスさんは、無意識の内に人形を動かしていたりした事とか、ありますか?」
不意の質問。アリスはきょとんとした顔を見せたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「無意識……そうね、ないこともないわよ。自分の身に危険が迫った時とか、思わず総動員して盾にしていたりするもの」
「盾、ですか」
物騒な話だった。
「そういえば爆弾にしていたりもしましたよね。あれって結局どうやって火薬を仕込んでいるのでしょう?」
「あぁ、そういえば以前そんな事を聞いていたわね」
アリスが立ち上がり、ちょっと待ってて、と言い残して部屋を出て行った。どことなく手持ち無沙汰になって、クッキーをまた一枚つまむ。甘い。
天子は先程と変わらず、怒鳴っては繰り返し、怒鳴っては繰り返し。
正直よく続いているものだと思う。
アリスの家に来て今日で三日。泊まり込みで朝から晩までずっとあの調子だ。
初日で手足を動かせるようになり、二日目には立ち上がらせる事が出来た。
けれど、そこからが中々上手くいかない。歩かせようと片足を上げた途端に、人形は容易く倒れてしまう。浮かせながら歩く振りをさせれば転びはしないものの、やはりどうしても自然な動きとは言い難い。
「よし! 今度こそこけ……たー!?」
がっくりと、倒れた人形と同じように天子が床に手を着いて項垂れた。
基本的に負けず嫌いなのだろう。本当に。
「おまたせ……っと」
そんな事をしている内に、アリスが部屋に戻ってきた。
入り口のすぐ前で項垂れていた天子を思わず踏みそうになって、やれやれと呆れたように溜息を吐く。
「どうしたの、遂に諦めた?」
「諦めた訳じゃないけど……」
怨めしそうな目を向けて、天子がよろよろと立ち上がる。しかし続いてた集中力も途切れてしまったのか、それ以上何を言うでもなくソファの方へと向かうと、文の隣に崩れ落ちるように座った。それを追うように、アリスもまた先程まで座っていたソファに腰を下ろす。手には別室から持ってきた爆弾人形と、もう一つは先程まで天子が練習に使っていた人形。
置いていったらダメよ、と天子の前に人形を置く。
「まぁ誰でも最初はそんなものよ……とばかりも言っていられない、か」
あと二日。確かに歩かせる事もままならないようでは、先は少々危ういだろう。これが単に人形を動かす練習というだけならばもっと時間をかけても構わないだろうが、アリスの言葉通り、それほど悠長な事も言っていられない。
「さて、どうしたものかしらね」
「貴方は……」
不意に、天子が口を開いた。
「貴方は、最初からそんな風に動かせたの?」
周りを見れば、今もあちこちで人形たちが動いている。部屋の中ではアリスのグラスに紅茶を注いでいるし、窓の外を見れば庭先を掃除している人形たちがいる。アリスを見てみても、彼女がそちらを見ている様子はなく、一体どうやって外の状況を把握しているのかは文でも解らなかった。
「私の魔法の力というのは先天的なものではないわ。昔……子供の頃、魔法というものに触れたばかりの頃は魔力だって今ほど強くはなかったし、始めから人形を使うという事はしていたけれど、そうね、今の貴方と同じような事をしていたかしら」
子供の頃の話よ、とアリスが改めて言う。
「それから長い間――といっても妖怪と天人の貴方たちから見れば随分と短い時間かもしれないけれど、研究に研究を重ねて、ようやく自分でも少しはマシになってきたと思える程度にはなったわ」
「ずっと一人で?」
天子の言葉に、アリスが少し考え込むような仕草を見せる。これ以上言うべきか否かを迷っているといったところだろうか。しばらくして吐いた息は、少し諦めの色が混ざっていた。
「一人……そうね、最初の頃は教えてくれる人がいたのだけれど、少なくとも幻想郷に来てからはずっと一人でやっているわ」
「こんな所で一人で、退屈にならない?」
「退屈だとか、そんな事を思う暇もなかったわね。目指すものがある。目指す場所がある。立ち止まっていられない――いや、止まるのが嫌だっただけかもしれない。言葉にしてみれば、見返してやりたいだなんて単純で稚拙なものになるかもしれないけれど、それでも私は試してみたいのよ。私として、アリス・マーガトロイドとして、コピーでもなんでもない、一つの個としての行く末を」
独り言のように吶々と話すアリスを見て、天子が「ふうん」と、どこか上の空で頷いた。
彼女の生い立ちや境遇というのは流石に解らないが、それでも少し、どこか似ているような気がすると、文は思った。
アリスと天子。
全く接点のない二人。
『別にどうでもいいのよ、名居守とか大村守とか』
数日前に聞いた天子の声が蘇る。
恐らくは天子自身も気付いていない部分。表面上は違うと思っていても、深層心理は強くそれを願っている。
大村守がいなければ名居守もおらず、また比那名居が名居の一族に仕えていなければ今の天子もない。けれど、そんな事は関係ないのだ。なにをどうしたところで天子は名居守に仕える比那名居一族の娘であり、天人である事に変わりはない。もしというのは創作の中にしか存在せず、既に起こった過去は何者にも変えられない事実。歴史なのだ。
静寂。
見れば、いつの間にかせっせと働いていた人形たちも今は動きを止めていた。アリスは静かに目を閉じている。やはり無意識などではなく、全て彼女が操っているという事なのだろうか。
「……おや」
そんな中で動く気配を感じて隣を見てみれば、いつの間にか天子が立ち上がっていた。
いつかと同じ。見上げてみても、こちらからではその表情までは窺えない。
アリスもそんな彼女を見ていたが、結局天子は二人には何も言わず、また人形を持って先程と同じ、部屋の入り口の方へと行ってしまった。
――はてさて。
天子を追っていた視線を戻すと、丁度アリスも同じ事をしていたのか、テーブルの上で二人の視線が交差する。何も言わずに文が首を傾げると、アリスは少し呆れたような顔で、肩を竦めて見せた。
5
豪華絢爛。
そんな言葉を実現したかのような光景が、里中に広がっていた。
日が落ちた事によって一層通りを彩る灯りはその煌めきを増していき、道を行く誰もが笑い笑って手を取り合って、常ならば畏れる夜も、今ばかりはそれが待ち遠しいとさえ感じられる。
祭り囃子を奏でる広場の櫓は一層高く、その周りでは早くも待ちきれずに踊り出す者たちがいた。
夏祭り。迎えた当日。普段は家屋や商店が建ち並ぶ通りには出店がひしめき合い、客を呼び込む声とそれらを求める人たちの声で大いに賑わっている。見てみれば、里の人間だけではない。妖怪、妖精、正に幻想郷の住人全てがこの場にいるような、そんな光景。出店は食べ物や遊戯などどれもが目を引くもので、思わず立ち止まらずにはいられない。祭りの余興。各部門の最優秀。それもあってかどこも力を入れているようで、しかしやはり第一には祭りを楽しむ事をよしとしているのか、和気藹々とした雰囲気が広がっている。
そして、それは何も生きる者たちだけではない。
陽気な幽霊たちがどこからか集まってきていて、並ぶ出店の中にも普段は中有の道で営んでいる、地獄の罪人たちによるものまで見受けられる。
人間も、妖怪も、妖精も、死者も生者も入り交じって、今夜だけは憂いも何もなく、垣根を越えてただ祭りを楽しもうと皆が笑う。
「いやはや、中々どうして大したものじゃないですか」
賑わいを見せない所などないといった様子の里の本通りを歩きながら、文が感嘆したように一人頷く。
射的に興じる子供。買ったばかりの水飴を美味しそうに舐める少女。大食い大会会場と書かれた門柱に『亡霊禁止』の張り紙を見つけてくすりと笑みが零れるが、それはなにもかの亡霊嬢を差しているという訳ではない。以前幽々子に『亡霊は食べてもお腹が膨れないからいくらでも入るだけ』という答えを聞いたが、確かにそれでは勝負にならないだろう。もっとも、それならば食べた物はどこにいくのかという事が気になるところではあるが、それに対する答えは『……さぁ?』という疑問と愛くるしい仕草だけだった。
「ひどいわよねぇ、それ」
横合いからかけられた声にそちらを向くと、噂をすればなんとやら、いつの間にか幽々子が隣に立っていた。
「美味しい物を好きなだけ食べられるというこの幸せを邪魔するだなんて、そんな無粋な事はしてほしくないものだわ」
そんな事を言っても、常時ならともかく大食い大会とあっては、反則以外のなにものでもないだろう。
「そんな目で見なくても、別に本気にしてないわよ」
袖を口元に当ててくすくすと幽々子が笑う。
何か用事があったのか、それともただの気まぐれなのか。しかしその疑問を投げかける前に、「はいこれ」と小さな紙袋を手渡されて、文が開きかけた口を閉じた。
「なんですか、これ」
「げん担ぎ」
それだけ言うと、幽々子はさっさと背中を向けて行ってしまった。
なんだというのか。
聞いてみようにも、立ち去る幽々子の背中はすぐに人混みの中へと消えてしまった。
本当に一瞬のこと。残されたのは小さな紙袋が一つだけ。
ともあれ、あの気まぐれな亡霊のこと。特に意味などないのだろうと、文もまたその場を後にする。丁度時間も頃合いだろう。
§
「これはまた、なんとも」
櫓の建てられた中央の広場とはまた別の所。少し開けた空間になっているそこで、丁度四角の一辺を背負うように舞台が備え付けられている。
日が沈んで祭りが本格化してくる前から、舞台の上では時に演舞であったり歌であったり、更には魔法を使ったショーや一発芸のようなものまで、多種多様な催しが行われている。中央の広場よりも若干狭いこの場所。舞台の前の観客席は既に人で溢れていて、次々と出てくる演目に皆が歓声を上げていた。
文が向かったのは、その傍らにある小さな小屋。
中は舞台の出番を待つ人々の控え室になっていて、そこには先に来ていた天子とアリスの姿もあった。
アリスは周りに人形たちを並べて、この時のために着せた服におかしな所はないかと、一体ずつ入念に調べている。普段人形たちに着せているフリルのついた可愛らしい物とは違い、ドレスを来ていたり鎧を纏っていたりと、まるで西洋のお伽噺に出てくるような恰好。人形芸というよりかは人形劇。それが今回のアリスの出し物だった。
小さいながらも煌びやかな人形たちは、控え室の中でも一際目立つようで、新たに控え室に入ってきた者は元より、既に待機している他の参加者たちも、時折そちらに視線を投げては感嘆の息を漏らしていた。
そんな人形たちの手入れをするアリスの横で、天子もまた同じように手に持った人形をじっと見ていた。
「どうですか天子さん、調子の方は」
「……大丈夫、な、はず」
出る言葉は途切れ途切れに、人形を持つ手も力が入っているのか小刻みに震えている。以前広場で大勢の人の前に立った時もそうだったが、どうにもこういう場には慣れていないのか。
普段あれだけ自由奔放に好き勝手しているのだから、当然こういう場面でも我が物顔で突き進んでいくのかと思っていただけに、少し意外な発見。とはいえ畏れを抱いているというようでもなくて、単に慣れていないだけなのだろう。前回も固まっていたのは最初だけで、途中からはすっかりと馴染んでいた。
「しっかりしてよね、貴方が主役なんだから」
「解ってるわよ、うるさいなぁ」
アリスの声に、天子が頬を膨らませる。
主役。
そう、主役なのだ。
あの後、どんな心境の変化があったのか、文句も言わず真面目に練習をするようになった天子に、アリスは一つの提案を持ちかけた。
『貴方が主役の劇をやりましょう』
こちらもまたどんな心境の変化があったのか。それまでずっと本番になれば正々堂々の勝負だと言っていたアリスが、天子に共演を持ちかけたのだ。
天子の人形を主役に進む物語。
最初は訝しんで断っていた天子も、アリスの言葉を聞いて納得したのか、その申し出を受け取った。
過去にもアリスは劇と呼べるものを行っていたようで、台本は当時使っていた物に少し手を加えて再利用。真面目に魔法に取り組んだ天子の成長ぶりは目を見張るものがあり、まだたどたどしさは残るものの、歩く、走る、飛ぶ跳ねるといった事も出来るようになっていた。
五日間ずっと一緒に練習をしてきた人形は、所々に修繕の痕が見られるものの、今はアリスの人形たちと同じように着飾っている。
「そういえばこれ、さっき幽々子さんに貰ったんですよ。食べますか?」
思い出したように、文が先程の紙袋を二人の前に差し出した。
中には包みが入っていて、開いてみると十個ほどの小さな団子。緑色の茶団子だった。
幽々子から渡されたという事と、紙袋の中から仄かに漂う香りから菓子の類であろうと文も思っていたのだが、実際に出てきた物に思わずほうと息を吐く。
「茶団子か、美味しそうね」
そう言って早速アリスが一つ手に取った。そのまま一口、「あら、本当に美味しいわね」と言って頬を緩ませる。天子も一気に二つ三つと頬張って、もごもごと口を動かしている。そこへ更にもう一つ。気に入ったのだろうか。
やがて、小屋の外から呼び出しの声がかかる。天子とアリス、二人の名前。
呼ばれて立ち上がり、小屋の出入り口へと向かうアリスと人形たち。戸惑っていたり励ましていたりと、まるで自我を持っているかのようなその動きは、やはり何度見ても全てを一人で操っているとは思えない。
後に続く天子はやはりまだどこか少し緊張が残っているのか、進む足は僅かに震えている。
しかし抱えるように人形を持つその手と、前を見る目には確かな力が宿り、しっかりと前を向いていた。これならばきっと、大丈夫だろう。
お互いに、この数日間随分とらしくない事をしてきた。けれど、たまにはそういうのもいいんじゃないかと文は思う。なにせ今日は祭りなのだ。幻想郷中を巻き込んだ、盛大な。
だからこれはきっと、祭りの意志。人々の想いが、熱気が産み出した、一夜限りの幻想。
最初から最後まで。
けれど、彼女は望んだのだ。そんな幻想を。そんな未来を。
全てはこれまでの為に。
全てはこれからの為に。
比那名居天子という、少女の為に。
§
――ここではない時間。ここではない世界。
舞台にアリスの声が響く。
――これは小さなお姫様の物語。
始まりを告げられて、しんと静まり返った中で。
――お城の中でいつも空を見上げながら。
人形達を従えて、並ぶ二人の少女。
――街を想い、世界を想い。
目指し、目指して、舞台の上で。
――いつかに見たそんな光景を。
過去を見て、今を生き、明日を望む。
――また自分の目で見られる時を夢見ていた。
いつかその先に辿り着けるようにと。
――そんな、少女の物語。
幻想の夜の、幕開けだった。
6
夏の日差しもいくらか陰りを見せて、少しずつではあるが吹く風も秋の到来を告げるようになっていた。
妖怪の山は遠くに滝の音が聞こえる以外は風に木々が揺れる音が聞こえてくる程度で、静寂そのもの。いつかと同じような、けれど以前よりは弱まった午後の日差しの中に、文は一人佇んでいた。
目の前には古びた祠があった。名居守が祀られている、あの祠だ。
「……山は何人たりとも入山禁止なんですが」
「あら、それじゃあ追い返す?」
滝の音と木々の音。その中に混ざった足音を聞いて文が振り向くと、アリスの姿があった。
こうして会うのは夏祭りの日以来。数週間ぶりといったところだろうか。
「あいにく、非番の日にまで仕事をするほど真面目ではありませんので」
そう、とだけ返して、アリスが文の隣に並ぶ。
「……ツンデレ?」
「私は何もしていませんよ」
二人の前の祠は、今までと同じく荒み、寂れ、過ぎた年月をその身のあちこちに刻んでいる。
けれど、そこには今までに無かったものも増えていた。
まずその祠自体。
今にも朽ち果てそうだという印象は残っているものの、それでも誰が行ったのか全体は綺麗に磨かれていて、祠の周りも雑草は抜かれて整地されている。
そしてもう一つ。
「多いわねぇ」
「……まったく、こちらの仕事を増やさないでいただきたいものです」
「増えるの?」
「割と」
それはお疲れ様ね、と欠片も労いの意を含めない声でアリスが言って、祠の前に屈むと持っていた包みを同じように並ぶ物の中にそっと置いた。
満足そうなアリスを見て、文が盛大に溜息を漏らす。
「妖怪の山としての威厳はどこへ行ってしまったのか。悲しい限りです」
信仰とはなんだろうか。
祀る者、祀られる者、交わした約束、想い、想われ、与えられ。
巡り巡る連鎖。輪廻。
一つの因果はその意志を元の場所へと回帰させ、記憶の深淵に刻まれた起源の意識を思い起こさせる。つまりはそういう事なのだろうか。
あの人形劇が人々に何を想わせたのか。人々はあの人形劇に何を見たのか。
空を見上げる。
この空のずっと高い所。お城の中のお姫様は、再び見た外の世界に何を想ったのだろう。
「これで……良かったのかしら?」
「さぁ、どうでしょう」
ここからどうなるかは文にも解らない。時間は前にしか進まず、戻ることも止まる事も許さない。停滞していても、安定していても、時間が進む限りそれらもまた進み続ける。変わり続ける。
ならば、いつか変わるのだろうか。それとも既に変わっているのだろうか。
遥か天に眩く輝く太陽に向けて手を伸ばす。握った拳には、さて何が掴めただろう。
「まぁ大丈夫じゃないですかね。あれならきっと」
「いつの日か?」
聞いて、アリスが立ち上がる。そうですね、と答えて文も挙げた手を下ろした。
「そういえばあの写真、出す予定はないのかしら」
「あー、どうでしょう」
「どうせ出してくるだろうと思っていたのだけれど、折角だからそのつもりがないのなら一枚貰えないかしら」
「それはつまり、出せば私の新聞を読んでくれるという事でしょうか」
「写真だけ切り抜いてあとは焼き芋の糧にでもするわ」
「それはまた、美味しい芋が焼けますよ」
最後に笑って、アリスが文に背を向けた。
遠ざかっていく背中は、やがて草木の向こうに消えていく。見えなくなるまで見送って、文は文花帖に挟んでいた一枚の写真を取り出した。
――はてさて。
収まりきらないほどに押し寄せる人の中で、それでも真ん中に陣取って満面の笑みを浮かべる少女。
旅路の果てに。
「……まだまだ途中ですかね」
幾らか涼しさを伴うようになった風を受けながら、文がもう一度空を見た。
一面の青の中、ぽつぽつと雲が浮かんでいる。
その内の一つが桃のように見えて、少しだけ美味しそうだと思った。
《了》
『――であるからして、特にもうじき行われるであろう彼岸の大行進は、死後冥界に行ったとしても自分が大行進をする側に回るため、生きている間にしか見ることが出来ない希少なイベントだ。大量の幽霊がかの亡霊嬢、西行寺幽々子に導かれて冥界を横断する様は一見の価値があるので、その時期を見計らって冥界を訪れるのもいいだろう。もっとも、生きたまま冥界を訪ねるのが中々に困難だということが、このイベントの――』
「欠点でもあるのだが。てんてんてん、っと」
内容を口にしながら走らせていた筆をおいて、組んだ両手をうんと天に伸ばした。記事を書き終えたことによる充足感と解放感が、身体だけでなく心の凝りまで解してくれるのを感じながら、ついでとばかりに首を前後左右へと振ってみる。右に振ったところでこきんと小気味の良い音が鳴って、そこでようやく一息、肩の荷が降りたと安堵の息を吐いた。
薄暗い灯りに照らされた、今書き終えたばかりの記事をざっと眺めて、よしと一つ頷いて立ち上がる。
「よっとっと」
長らく座っていた所為だろうか、痺れた足がもつれかけたがそこは鴉天狗の射命丸。すぐに態勢を立て直すと、何事もなかったように壁際へと歩いていった。そしてガラス窓を手前に引き開けて、次いで外の雨戸を押し開ける。すると瞬く間に今まで頼りない灯り一つで照らされていた室内に陽光が差し込み、その光を真正面から受けた文が眩しそうに手を翳した。見事な快晴。焼けるような夏の午後だった。
雨戸を閉めていたのは何も雨風が激しかったからという訳ではなく、彼女が原稿を仕上げる時の常。外部からの干渉の一切を遮断して最後の仕上げに臨むという、ある種の癖のようなものだ。本人曰く、そちらの方が筆の進みが良くなってはかどるというのだが、そのおかげで気付かない間に何日も経過してしまい、結果としてとうに旬の過ぎた記事を号外としてばら撒いたりすることも多々あった。
しかしそんな日数や時間というものは、妖怪として永い時を生きる彼女らにしてみれば些細な事なのだ。それに、彼女らがこうして書き上げている新聞というものも天狗の間で流行っている遊びのようなものであり、そこに情報の速さや正確さといったものは必要としていない。
確かに新聞記者としてそれらしい事をしている天狗もいるし、文もどちらかといえばそちらの部類に入るのだが、結局のところ、根本的には『面白ければそれでいい』という精神で行動しているに過ぎない。
たとえ記事に書かれた内容が、その記者たる自分の手によって引き起こされたような出来事であっても。
たとえ記事に書かれた内容が、全く根も葉も無い嘘八百を並べたようなものであっても。
優先されるのは面白さであり、追求するのもまたそこなのだ。
故に、面白ければそれでいい。面白ければ――。
「……って、こんな記事が面白い訳ないじゃないですかァ!」
突如窓の外に向かって叫んだかと思うと、文がそのままへなへなと窓枠に倒れ込んだ。ちらりと室内を振り返り、卓袱台に置かれた記事の版を見て、もう一度窓の外に向き直る。そうして吐かれた溜息は呪詛のように重く暗く、運悪く目の前を通り過ぎていった妖精が、それに当てられて力無く遥か眼下へと落ちていった。
スランプだった。
とはいえ、文章が書けなくなったという訳ではない。現にこうして記事は書けているし、今し方書き終えた物以外にも、部屋の天井近くを渡された紐には今まで書き上げた原稿が所狭しと吊り下げられている。それらは合わせれば新聞として出すには十分な量。しかし、文は一つとして納得していなかった。
緩やかに吹き込む風が文の頬を撫で、そして吊り下げられた原稿を揺らす。それら一つ一つに大小様々な見出しが付けられているのだが、書いてある内容はといえば、やれブドウ狩りの案内だの、太陽の畑に見る、安全で楽しい向日葵鑑賞ツアーだの、地獄温泉巡りだの。
「これじゃあただの観光パンフレットだわ――」
スランプだった。
ネタがない。ネタが見つからない。ネタを作る事も出来ない。
ストックも底を尽き、それでも今年の新聞大会に向けて新聞を出さない訳にはいかず。結果、出来上がったのは夏を彩る幻想郷の観光案内。こんなものを出したところで、精々幻想郷縁起の地域紹介の項目が充実するぐらいなもの。より多くの購読者。より多くの発行部数を得るにはあまりにも頼りない。
もっとも、そう思うのは彼女が天狗だからであって、幻想郷の、特に人間たちからすれば、むしろそういう物の方が需要はあるのだが。
「こんなはずでは……」
再び漏れ出た呪詛めいた呟きに、先程の落下からどうにか復帰してきた妖精がまたも眼下に消えていった。しかし文がそうボヤくのも無理はない。ほんの数週間前まで記事の当てはあったのだ。かの紅魔館の当主こと吸血鬼、レミリア・スカーレットにまつわる話。特に注目はここ数年で霊夢に挑んだ少し変わった将棋の勝負。既に九九九連敗していて、一〇〇〇連敗の大台に乗るかどうかの一大センセーショナル。見事達成した暁には、インタビュー中にどうやって笑いを堪えればいいのだろうかと、そんな心配までしていたのだ。なのにどういう訳か、レミリアは一〇〇〇連敗を目前にして突然引き籠もってしまった。
思えばそれが切っ掛けだったのかもしれない。
それからというもの、飛べども駆けどもネタは見つからず、いたずらに過ぎていく時間に焦りを覚え、気付けば記事の穴埋めにと書いていた観光案内で原稿が埋まってしまった。
「む、なんですかこんな時に。放っておいてください。私は今、とても沈んでいるんです。凹んでいるんです。ブルーなんです憂鬱なんです生きているのも辛いんです」
相変わらず窓枠にへたれ込んだまま、視線だけを隣に移す。そこには真っ黒なカラスが一羽。何を言うでもなく文の方をじっと見据えていた。
「そもそもそういう仕事は私の管轄ではないと言っているじゃないですか。なんのための哨戒、なんのための犬走ですか。なに、それともまたあのパターンですか? 黒白と紅白のどちらかは知りませんが、今あれの相手なんて嫌ですよ。他を当たれと伝えておいてください」
一方的に言うだけ言って、文が三度重苦しい溜息を漏らす。三度目の正直とでもいうのか、今度こそ妖精がその餌食になることはなかったが、昇ってくる様子もない辺り、二度目の落下で一回休みにでもなったのだろうか。
しかし、それでも隣に居座ったカラスは微動だにせず、変わらず文の顔をじっと見たまま。
「あーもう、解りましたよ行けばいいんでしょう?」
本当に人使いが荒いったらない。
梃子でも動きそうにないその様子に根負けしたのか、溜息混じりにボヤいた文が窓枠から身を乗り出した。縁を足場にして飛び上がり、宙で身を翻したかと思うとそのまま屋根に着地する。山の中でも特に見晴らしの良い場所を選んだ住み処。眼前に広がる幻想郷は、夏の盛りを知らしめるかのように全てが青に彩られ、遠く人里は午後の日差しにも負けない活気を今日も見せている。
ここから見れば、人里の通りを行き交う人々など精々米粒程度。けれど白狼天狗のそれに比べればいくらか劣るものの、文とて身体能力に長ける天狗の一族。この距離であれば、人の顔を見分ける程度は造作もない事だった。
道端で話に花を咲かせる若い女。所狭しと駆け回る子供たち。買い物、散歩、遊びに仕事。それぞれにそれぞれの目的がある。そういう様は、見ているだけでも楽しい。
「そういえば、里ではもうじきお祭りでしたか」
音までは流石に聞こえないものの、それでも見ただけで解る、いつもと少し違う雰囲気。どこか浮ついたような、そんな様子が見て取れた。
「……む、それなりに珍しい人と、そこはかとなく珍しい人じゃないですか。これは何か起きそうな予感が――」
そうして里を眺めている途中で見つけた小さな違和感。流し見ていても思わず目を止めてしまったそれは、里の一角で鉢合わせたのであろう、メイドと亡霊だった。里という場所を考えれば、なんとも珍しい組み合わせ。ようやくツキが回ってきたかと俄然意気込んだものの、突き刺すような視線を背中に感じて思わず屋根の縁にかけた足が止まった。一体誰だと文が振り返ると、
「――」
先程のカラスだった。
いつの間に移動したのか、カラスもまた窓辺から屋根の上へ。けれど、無言で文を見据える視線だけは先程と変わらない。早く行けという圧力に、文は名残惜しそうに里の方を振り返る。先程と同じ場所、何を話していたのか、亡霊について行くメイドの姿が見て取れた。きっと何かがあるのだろう。あの二人、特に亡霊の方が絡んで何もないという方が不自然だ。しかし、いくらあれに自分もついて行ければと思ったところで、そんな願いが叶うはずもなく。
「組織というのも一長一短ですかね……」
晴れ渡った青空が、少しだけ憎かった。
§
夏に彩られているのはどうやら妖怪の山も同じようで、山の表面を覆う木々の青はいつにも増して濃くなっていた。一足飛びにそれらを越えて降り立った木から辺りを見渡し、また次へと飛んでいく。瞬く間に後方へと流れていく景色。入山した者がいるという連絡が回った割には騒々しさや慌ただしさといったものは感じられず、あるのはいつもの静かな昼下がり。そんな様子を見て流石に文も不審に思ったのか、次の足場にと目を付けた木に降りたところで、後に続いていたカラスに声をかけた。
「本当に誰か入山したんですか? デマだったら焼き鳥にしますよ」
寝不足も相まって随分とギラついた目で睨んでみたが、カラスも負けじと文を睨み返して『なんだこのヤロー、末端構成員のくせに仕事をサボって同僚を共食いしようだなんていい度胸じゃねえか』と訴えかけてきた。嘘だけど。
「いやいや、そういうのはもういいんですよ。って誰に言っているんですか私は」
やっぱり帰って寝るべきだ。入山者なんていなかったんだ。病気の赤ん坊もいなかったんだ。
疲れた頭で考えても碌なことがない。そんなことを思いながら文が踵を返そうとした時、麓から吹き上げた風が足場にしていた木の枝葉を揺らした。吹き抜けるのは一瞬。山の頂を見上げれば、木々の揺れで見えないはずの風の姿を見る事が出来た。
「どうやら風が山によくないものを運んできてしまったようですね……」
ふむと一つ頷いて隣のカラスに向き直ると、何故か凄い勢いで顔を背けられてしまった。その心の内を問い質したかったが、入山者の情報が間違いでないと解った以上、文もサボる訳にはいかない。先程の風で相手の場所は大体掴めている。ここからならばあと一飛びで辿り着けるであろう距離。ぐっと足に力を込めて見据える一点。次の瞬間、文の体は遥か前方へと飛んでいた。
「さて、黒白か紅白か……どちらかと言えば黒白の方がまだ言いくるめやすいから助かるのですが」
風を正面から受けながら、さてどう対処したものかと考える。しかし少し考えたところで、そもそも相手の目的が解らない以上仕方のない事だと思考を投げ捨てた。目標は中腹辺り、通称大蝦蟇の池。その辺りならばまだ実力行使に出る必要もない。適当に言いくるめてお帰りいただけばいいだろう。面倒事は少ないに限るのだ。
「む……む……?」
池の周りは少し開けた場所になっている。その縁にあたる木の上に降りて地上を見下ろしてみれば、確かにそこには山の中では見慣れない者の姿。意外だと思うとともに、文は自分が駆り出された理由も納得出来た。どうにも上は自分を便利扱いしすぎている気がする。あとで直訴しておくべきかと考えて、池の畔に立つ彼女の元へと飛び降りた。
「その祠、何かありますか?」
「うわっ! びっくりしたぁ!?」
「まぁ何があったところで、貴方が下山するという事実に変わりはないので一向に構いませんけど」
「いやちょっと待って。どうして私が下山しないといけないのよ」
「貴方が入山したからです。実に単純明快な理由ですね。とまぁぶっちゃけると早く帰って寝たいので、あまり手を煩わせないでいただけると助かるのですが」
「そりゃあ登ったからにはその内降りる……いや、私の場合は帰りも登り? やっぱり下山する必要なんてないじゃない」
そう言って、それみたことかと少女が胸を張る。
「そうは言っても、おいそれと山に人を入れる訳にはいかないのですよ。どうぞお帰りの際はお好きな空路を使って下さい。それとも私が打ち上げましょうか? えーと……てんこさんでしたっけ?」
「てんしやっちゅーに。というか打ち上げるって何よ。別にいいじゃない通り道にするくらい。誰にも迷惑はかけないわよ」
失礼、噛みました。なんて言葉が口から出そうになったが、何故だかそれは言ってはいけないような気がして、文が口を噤む。天子はそれきり興味を失ったのか、放っておいてと背を向けてしまった。
「ふむ?」
天子の肩越しに覗き込む。その先には小さな祠。いつ、誰が、何の目的で建てたのか解らない、随分と古い物だ。形こそ保っているが、荒んだ様子は長い間人の手が加えられていない事を如実に語っている。
「しばらく見ない間にまた一段とボロくなっていますねぇ」
「……」
「昔はよく里の人間達がお供え物を持ってきていたりもしたのですが、はてあれはいつの事でしたか」
「……」
「――ふむ」
どうしたものかと考えて、一歩前に出て天子の横に並ぶ。祠にこれといって変わった様子はなく、けれどそれを見る天子の横顔は怒りと嘆きが入り交じったかのよう。どちらにせよ、明るいものではなかった。
「はて、そういえばこの祠、何を祀っていましたか」
いくら古いといっても、文が生まれるより前からあったという事はない。どれだけ溯ったとしても、精々数百年といったところだろう。ならば山の中の事。見ているはずなのだ、この祠が建てられたその時を、その経緯を。
「うーん……正直そんなに古い事は覚えてないんですよねぇ。家に戻れば当時の新聞があるかもしれませんが」
呟いて、けれど天子は変わらず神妙な面持ちのまま。そもそもどうして彼女がこんな場所にいるのだろうか。
「はて、そういえば貴方の名前は――」
「てんこじゃないわよ」
「そこは反応するんですね……」
ふん、と鼻をならす天子に、文が苦笑する。
「先程のは冗談です。これでも私、記憶力には人一倍自信がありますから。貴方の名前だってフルネームでちゃんと言えますよ、比那名居天子さん」
「……合ってる」
「それに幻想郷中の女の子の誕生日も全て記憶しています」
「……カメラ繋がり?」
そんなピンクな趣味はありませんよ、と文が首を振った。
「いえまぁ、話が脱線してしまいましたが、そういえばこの祠は名居守を祀ったものでした。ならば比那名居の貴方がここに居るというのも納得です」
「知ってるの?」
素直に返されるとどうにも調子が狂う。けれどそんな事は表には一切出さず、文は頭の中でこの場をどうすべきかを考えた。普段は滅多に地上に降りてこない天人の登場は、それだけでもネタになるが些か弱い。ならばもう少し情報を引き出すべきか。なんならこちらからけしかけても構わない。ネタとは時に自ら作り出すものなのだ。
「えぇ、貴方の事も知っていますよ。比那名居地子さん」
「どうしてそれを……!」
「おや、当たっていましたか」
当時の事をどうにか思い出しながらの一言だったが、どうやら記憶の底から拾い上げたそれも間違いではなかったようで、内心安堵の息を吐いた。
「まぁ私も当時の貴方の事はよく知りません。なにせ話した事はおろか、会った事も、見かけた事すらもありませんでしたから」
ならどうして、と天子が疑問の目を向ける。
「今も昔も、幻想郷の中で起きたあらゆる事が私達の耳に入ってきます。その話の事実はどうであれ、そこに関わった物や人が変わる事はない。当時は結構いいネタになっていましたよ。地上から飛び級扱いで天人になった一族がいる、って」
まさかそれが貴方だったとは、今になるまで忘れていましたが、と言って、文はもう一度祠を見た。
名居守。かつて大村守に仕えていた一族。幻想郷の地震に関するあらゆる事を担い、神霊化してからは実質その仕事の全てを名居守の部下であった比那名居一族に委ねる事になったと聞くが、なるほどそれならば彼女の能力も頷ける。今や幻想郷の地震、地盤に関する全てを比那名居一族が握っていると言っても過言ではないだろう。あるいはこの祠の現状を見るに、名居守の力が弱まった事を受けて、その力を比那名居に譲ったと見るべきか。
「別にどうでもいいのよ、名居守とか大村守とか。私は全然見たこともないし関係もない。天人だなんていっても皆歌ったり踊ったりで遊んでばかり。誰一人として仕事なんてしやしない、道楽者の集まりよ」
「では何故この場所に?」
先の彼女が巻き起こした騒動を見るに、自分も十分道楽者ではないかと思ったが、流石の文もそれを口にはせず、無難な言葉で聞き返す。
「別に、地上に名居守を祀った祠があるって聞いたから、どんなものか試しに見に来ただけ。他意はないよ」
「なるほど、博麗神社を自分の物に出来なかったから、今度は身内を襲撃ですか。中々良い性格をしてますね」
「だ、誰がそんな事を――」
「違うんですか?」
「ちちち違うわよそんな訳ないじゃない何を言っているのよさっぱりわかんない」
それにしても地上は暑いわねぇ、などと言いながら、天子がぱたぱたと胸元を扇ぐ。
なんとも解りやすい反応だった。
けれど、それだけならばこんな所で佇んでいる必要はない。こんな小さな祠だ。さっさと壊して直して自分の物にしてしまえばいい。神社の時とは違って、そこまで時間のかかる事でもないだろう。では何故そうしないのか。
「……ふむ」
文の脳裏にいくつかの候補が浮かぶ。けれどそれらは纏めてみると一言で収まった。
――数百年生きたところで、子供のままか。
口笛まで吹き出した天子を見て、文が呆れたように笑った。
「風見幽香辺りを見習うべきですかね」
「ん? 何か言った?」
振り返る天子になんでもないと首を振る文が、浮かべる笑みを悪戯っぽいそれに変える。恰好のネタを見つけた時によく見せるものだったが、天子は気付かない。
「それよりどうでしょう、里に出てみたりしませんか?」
「はぁ? なんで?」
「いやまぁ、考えてもみてください。こんなところにある祠を自分の物にしたところで、どうせ今と同じようなボロになってしまうのは明かです」
「ぐ――そ、それは」
誰も訪れないから祠はここまで荒んでしまった。その程度は天子も解っていたのだろう。たじろいで言葉を詰まらせた彼女を見て、文がそこで里ですよ、と人差し指をぴんと立てた。
「先程も言いましたが、昔はこの祠もよくお供え物が置いてあったりしたんですよ。いつの間にかこんな状態になっていましたが、かつてそういう事があったという事実は変わりません。そして、あったという事は取り戻せるという事です。新たに何かを創り出すよりかは、元からあったものを復元させる方が楽でしょう」
「復元って……別に私は名居守をどうこうするつもりはないわよ」
「細かいところを突いてきますね……別に名居守への信仰を取り戻すという訳ではありませんよ。この祠の存在、そして祠に対する信仰心。この二つを取り戻せばいいのです。その上で祠が貴方の物であるという事を知らしめられれば、とりあえずは安泰でしょう」
「まぁ、それはそうね」
どうにも納得出来ないのか、少しぎこちない様子で天子が頷く。
神社、祠、その他のあらゆる物は祀られる事によって初めて力を持つようになる。形だけを揃えたところで、それはただの神社や祠の形をした建物であり、それ以上の物には成り得ない。
しかし、ただ祀るというだけでは力も微弱なもの。祀った者、物への信仰を集める事が出来れば、その分だけ力は増していく。そういう点では、文の言う事は至極当然の事であり、間違いではないと言える。
「この祠が貴方の物だという確固たる証明になる。信仰によって貴方の力も強くなる。良いことずくめじゃないですか。何を疑う余地があるというんです?」
「良いことずくめな時点で怪しさ満点じゃない。何か裏でもあるんじゃないの?」
「失礼ですね、この清く正しい美少女新聞記者の射命丸、裏だなんてそんなものはどこにもありませんよ」
「ごめん、表からして腐ってたわ」
心底疲れたというように肩を落とす天子とは対照的に、文が声をあげて笑う。
そうと決まれば行動あるのみ。ようやく掴みかけたスランプ脱出の切っ掛け、そうそう手放す訳にはいかない。ネタになるかどうかはこれからの行動次第だろうが、何せ相手はあの比那名居天子。少なくとも何も起きないという事はないだろう。あとはそれをどこまで面白くできるか、だ。
いよいよ楽しい事になりそうだと歩き出した文の後を、天子は重い足取りでついて行った。
2
夏祭りを目前に控えた里は、昼時を越えていよいよ活気に満ち溢れていた。外から見るのと実際に中に入った差もあるのだろうが、先程山から見下ろしていた時よりも、更に人が増えているように思える。店先で話す客と店主、飽きもせずに駆け回る子供たち、大きな荷物を抱えて急ぐのは、祭りの準備をしている者だろうか。人間だけではなく、人混みの中には妖怪の姿も少なからず見受けられた。妖怪は人間以上に陽気な者が多い。きっとこの雰囲気に釣られてやってきたのだろう。
「ねぇ、あれなんか美味しそうじゃない?」
祭りは準備の時が一番楽しいとはよく言ったもので、確かに通りを歩く誰もが熱に浮かされたように、どこかそわそわと落ち着きがない。辺り一帯を包む喧噪を不快に感じる者などこの幻想郷にはおらず、人も妖怪も関係なく、皆がこの雰囲気を楽しんでいる。
「地上の食べ物も中々いけるじゃないの。あ、あれはカステラかな? 珍しい、そんな物もあるのね」
そういえば、と文が人混みの中に目を向ける。山から見ていた時にあのメイドと亡霊が見えたのが丁度この辺りだったのだ。とはいえ、自分が見ていた時には既にどこかへ行こうとしていたのだから、当然その姿が見えるはずはない。里に入ってからここまでの道程を思い出してみるが、視界にそれらしい影が映ったという事もなく、そうなるともうこの辺りにはいないのだろうか。
「っと、これまた美味しそうな羊羹を発見」
別件でネタの確保が出来そうだとはいえ、ネタというものはいくつあっても困らないもの。出来ればそちらも抑えておきたいというのが本心だったが、文はぐっと我慢した。
二兎を追う者は一兎をも得ず。一度にあれこれ飛び回っては、一つ一つの記事が薄くなってしまう。
どのみち天狗の新聞である以上、後からあることないこと付け足されていくのだが、そういう点では文は報道機関に属する天狗の中では比較的真面目な方。もっとも、真面目であるが故に天狗達の新聞大会では敗退続きなのだが。
「ねぇねぇ、ちょっとそこな天狗さん」
「……貴方はさっきから何をちょろちょろとしているんですか。ここに来た目的を忘れてやいませんかね」
「大丈夫だって。そんな事より、ちょっとお金貸してくれない?」
「お金?」
「いやぁ、ほら私ってば天人だから、地上のお金とかほとんど持ってないのよ」
あっけらかんと言う天子の顔を見てみれば、その口の回りにはなにやらあれこれとくっついている。一体どれだけ食べていたのかと呆れた文がお金が無いなら諦めろと伝えると、天子は満面の笑みを浮かべてみせた。
「無理よ。もう食べちゃったもの」
「お金が無いなら食べないでくださいよ!?」
「だって美味しそうだったんだもの!」
なら仕方がないな、と言えればよかったのだが、そうもいかない。
山には山のルールがあるように、里には里のルールがある。たとえ妖怪であっても、里の中ではそれらを守らなければいけないのだ。
「それで、お代は払っていただけるのかい?」
不意に二人の間に割って入った野太い声。それが天子のすぐ後ろに立つ人物が言ったものだと気付いた文がそちらに目を向けると、そこにはなんと熊が立っていた。いや流石にこんな所に熊はいないだろうと思って見直すと、確かに熊ではなく人、人間だった。けれどその身体は大柄で雄々しく、正に熊のようなという表現がピッタリと当てはまりそうなもの。熊と見間違うのも仕方のない事だろう。
「貴方は――」
腕を組んでこちらを睨む熊男に、文は見覚えがあった。
正確には直接会った事はない。けれど文の頭の中には現在幻想郷に住むほとんどの妖怪と人間、それにいくらかの妖精の顔と名前が記憶されている。新聞記者として、ネタを探して飛び回っている内に身についたものだった。
そしてその記憶によれば、この熊男の名前は東海道源五郎。確か和菓子屋を営んでいたはずだ。大男の割には手先が器用で、その菓子の出来は里の中でも中々の評判。けれどこの男は菓子職人というだけではない。
――鬼の源五郎。
鬼が実在する幻想郷において、なお鬼の異名を持つ親父。それがこの東海道源五郎だ。
一時は完全に平和ボケしてしまった幻想郷だったが、それでも中にはやる気のある妖怪もいたし、それらを退治しようとする血気盛んな人間もいた。そうした人間たちの中で、一際抜きん出ていたのが彼だった。人外の如き強さを発揮する彼にそこいらの妖怪では太刀打ち出来ず、それらは今でも語り種になっているとかいないとか。
一線からはとうに退いているとはいえ、こちらを睨む目に宿る力は僅かな衰えも感じさせない力強いもの。流石に天狗である文と正面からぶつかれば勝ち目はないだろう。それでも天狗を前にしても一切怯まず、逆に威圧感を与える事が出来るのは、やはりそれだけの経験をしてきたという事なのだろう。
「あやややや……」
文も普段は滅多に里には姿を現さない。つまり、持ち金などほとんど無いに等しい。山の中であれば、金銭以外の物でも割とどうにでもなるのだ。
いきなり面倒な事になったものだと、文は盛大に溜息を吐いた。
§
「いやぁ、危ないところだったわね」
「元はといえば貴方の所為じゃないですか……」
先程の場をどうにか切り抜けて、二人は里の中央に位置する広場へと向かっていた。この場所は丁度祭りでも中心地になるようで、広場の真ん中には半ばまで組み上がった櫓がある。人の多さは先程の通りとそう変わらないが、違うところは木材を運んでいたり男手ばかりだったりという点。準備の真っ最中なのだろう。
「というかもう少し考えて行動してくださいよ。仮にも天人なんですから」
「失礼ね、仮じゃなくて歴とした天人よ。三歩進めば物を忘れるような貴方と一緒にしないでほしいわね」
「いや、そんな典型的な鳥頭なのは地底のあれくらいなものですよ……」
「あぁ、あの核娘。そういえばあれも貴方と同じでカラスだったわね」
「いやはや、種族は違えど、あの方は同じ出自としてはなんともお恥ずかしい限りです。と私が言ったところでどうなるものでもありませんが」
「ふぅん、まぁなんでもいいのだけれど、それでどうするの?」
「あ、覚えていたんですね、里に来た目的」
「だから貴方と一緒にしないでと言ったじゃないの」
それで、ともう一度尋ねる天子に、文は待っていましたと持っていた手帳を開いた。そこに案を書いておいたという訳ではないが、なんとなくその方が格好がつくのだ。
「信仰とは、言ってしまえば人気のようなものです。つまり貴方の知名度、注目度を一気に上げる事が出来ればよいのですよ」
「人気……まぁそうね」
どんなものでも、何もなければ見向きもされない。食べ物であればより美味しい物が。道具であればより機能的な物が注目を集める。ならば人の場合はどうだろうか。どんなものがあれば注目されるのか。人気が出るのか。
「それはつまり、見返りです」
「見返り、ねぇ」
神社を始め、祀られている神様というのは集まった信仰の分だけその力を人のために使う。そして得られたものを受けて人々はまた神様を信仰し、神様もまた人のために力を使うという循環で成り立っている。人々からの信仰がなければ神様は本来持っている力を発揮することが出来なくなり、人々もまた、神様から与えられる恩恵がなくては日々の生活に影響が出てくる。
神様と人間、それに妖怪もお互いが持ちつ持たれつの関係なのだ。何も御利益のない神様であれば、信仰する人も増えないだろう。
「でも、私に出来ることなんて地震を起こしたり鎮めたりするくらいよ? どうやってそれを知らせるのよ」
「もう一つあるじゃないですか。ほらさっきの」
「あぁ、要石」
言われて思い出したように天子が頷いた。
先程の源五郎とのいざこざ。文の手持ち分も微々たるもので、さてどうするかと悩んだ結果、彼の店の下に要石を挿すという事でどうにか納得してもらったのだ。
しかし天子はあまり気が進まないようで、それもねぇ、と溜息混じりに呟いた。
「要石って言っても、本来そう簡単に挿したり抜いたりしたらいけないのよ」
「神社には随分と簡単そうに挿していたじゃないですか」
「あれは特別。それにこの幻想郷程度の規模なら、神社に挿したあれ一つで十分なのよ。さっきのもオマケみたいなものだし、実際のところ効果はないでしょうね。神社に挿したものより先に消えるだろうし」
それに、と言って天子は屈んで地面に手を伸ばした。
「要石っていうのはそれ一つでも影響力が凄く大きいの。さっきのオマケのようなものでも、大地に与える影響は大したもの。この里全部に挿して回ったりしたら、自然のバランスが崩れてしまうわ。人間には都合の悪い事かもしれないけれど、地震とか土砂崩れとか、そういうのも時として必要なのよ。貴方なら解るでしょう?」
「……へぇ」
「なによ」
「いえ、案外真面目に考えていたんですね。私はてっきり、後先考えずにその場の勢いで挿したものだと思っていたのですが」
「……そんなことないです、よ?」
人間よりも自然に近い場所で生活をする妖怪ならば、たとえそういった災害が起こったとしても、自然の成すことだからと納得出来るだろう。天子はそう言ったのだ。もちろん妖怪や自然そのものにとっても災いとなる事象はある。けれど、それらも全てひっくるめての自然なのだ。流れるままに、赴くままに。そこに過ぎた手を加える事は、たとえ神様であっても許される事ではない。
確かに文もその点は理解している。しかし、要石をネタにしようとしていたのも事実。代わりはないかと考えを巡らせ、ならばと一つの案に辿り着いた。
「そういえば貴方のその地震を起こす能力、範囲指定とかも出来るんでしたっけ」
「あ、当たり前じゃないそのくらいお手の物よ。この前のだってその気になれば神社だけと言わずに幻想郷全部を揺らす事だって出来たんだから」
慌てて立ち上がった天子が両手を腰にあてて胸を張る。こういった解りやすいところは、そんなに嫌いじゃない。
「ほほう、ではあの緋色の雲は単なるメッセージでしかなかったと?」
「もちろん! あんな大掛かりな事をしなくたって、私の能力だけで十分よ」
「……」
「――」
「……」
「――すいません、嘘言いました」
じっと見つめる文の視線に耐えられなくなったのか、天子が弱々しく白状した。
地震を司る比那名居の一族とはいえ、天子にそこまでの力はない。比那名居の持つ能力である大地を揺るがす力を身につけてはいるものの、その効果はまだしも範囲という事になれば、彼女の父に当たる比那名居の総領に比べれば正に大人と子供。
「まぁでも、別にいいんですよそんな事は。大事なのは貴方が地震を自在に操れるというところなのです」
話の行く先が解らないのか、天子が首を傾げる。何をやらせようというのか。そんな顔だ。
「まぁ簡単な事ですよ。貴方が地震を起こし、そしてそれを鎮める」
「それだけ?」
「えぇ、それだけです。こういった事で大切なのは、内容よりも演出。どうやって魅せるかという事なのです」
「……なんか不安だなぁ」
§
里の中央に位置する広場。普段は様々な人や妖怪が行き交い、先程までは櫓を組む為に男たちが集っていたその場所に、今は天子と文を中心とした輪が広がっていた。
「さぁさお集まりの皆さん! こちらにおわすは天より参りし天人の比那名居天子! 今日は皆さんに重大な発表があって地上に降りてきたというじゃありませんか!」
「……ワタシが比那名居天子ダ」
ぐるりと囲む人々の前で、柄にもなく緊張した様子の天子が文に促されて自己紹介をすると、わっと歓声が上がった。興味深そうに二人を見る者もいれば、何やら面白そうな事が始まったと酒を持ち出した者まで。作業が中断された事に異を唱える者もいるが、それは少数。櫓は完成間近。最後の仕上げに取りかかる前の余興として受け取っている者の方が圧倒的に多いのだろう。
これらは全て、文の仕掛け。
広場で作業を進める男衆を見ていたかと思うと、いきなりその中に割り込んで一人の男の前へ。男はこの作業の指揮を執っていた者で、最初こそ不意に現れた文をあしらっていたものの、話す内に次第に態度を緩和させ、最後はしきりに頷くようになっていた。一体何を話していたのかと聞いた天子に、文は「相手の緊張を解くのもインタビューの基本ですよ」と返答。訝しむ天子を引っ張って、あれよあれよとこうして皆の前に引きずり出されたという訳だ。
「どうしろっていうのよ……」
居並ぶ人々から期待の眼差しを受けて、天子が冷や汗一つ。横に立つ文の耳元で囁く間に、周りを取り囲む観衆は更に増えていた。広場で何かやっていると誰かが伝えたのだろう。作業をしていた男衆以外にも、大人から子供まで、皆が見慣れない二人の少女に視線を向けている。
「大丈夫ですって。私が合図をしますから、そこで地震を起こしてください。あ、範囲はあくまでもこの広場だけですよ。家を倒したりしたら面倒ですからね」
「合図って、どんな――」
文の耳には届かなかったのか、それとも意図的に無視されたのか。再び周りに向けて声を上げた彼女の言葉に、天子の声はかき消されてしまった。
「なんと彼女は地震を司る比那名居の一族! 話を聞くと、今日にもこの幻想郷を巨大な地震が襲うそうです!」
「……えっ、私?」
文にせっつかれて、天子が慌てて一歩前に出る。大丈夫かとも思ったが、この程度をこなせないようでは祀られるというのも無理な話。頑張ってもらわないと困るのだ。
――とはいえ、はてさて。
「えーっと……そ、そうですもうじき地震が起こるのです……と」
「ですが心配いりません、です」
言葉に詰まって振り向く天子に、文が小声で続きを促す。天人とはいえ元は人の子。大勢の前で演説をするという事は、経験がなければ難しいものだ。
「ですが心配いりません。……と、私は地震を司る天人比那名居天子。近く行われる祭りの準備を邪魔するような無粋な地震は、私が見事鎮めてみせましょう」
それでも興が乗ってきたのか、それとも元来の性格故か、最初は怖々といった様子だった天子の声も次第になめらかになっていった。紡がれる天人の言葉に人々は度々歓声を上げ、手を打ち鳴らして酔いしれる。それに応えるように、天子の声にも熱が篭もっていく。
実際のところは別に天人の言葉だとかにそんなありがたみを感じている訳でもないのだろう。
祭りの準備という熱に浮かされた人々は、更なる楽しみを求めているに過ぎない。けれど、それでいいのだと文は思う。何かを与えてくれる存在として天子が認められればいいのだ。それで表も裏も全てが丸く収まる。なんとも親切心溢れる事をしているものだと、頭の隅でそんな事を言う自分もいるが、このネタはどちらかといえば人間に向けたもの。それならば人間相手にちょっとしたサービスをしておいた方が、後のウケもいいだろう。
「そろそろです。すぐに止めてくださいね?」
「まかせとけ!」
ドン、と。
一瞬の出来事だった。
大地の揺らぎは正に地震のもたらす力であり、立っていられなくなった子供が地面に手を付き、座り込んで酒を片手にこちらを見ていた男の手から杯が落ちる。予想外の震動。事前の打ち合わせなどはほとんどしていなかったが、それでも地震は少々の揺れでいいと伝えていた。しかしこれは少々どころではない、間違いなく大地震と言われる程の揺れだ。
「ちょ、ちょっと天子さん、強すぎですって!」
「え? あ、ゴメン」
周りの人々と同じように地面に崩れ落ちた文が、そんな中でも平然と立っている天子になんとか手を伸ばす。そこで天子もようやく周りで起こっている事態に気が付いたのか、右手を地面に向けてむんと一息。すると今までの揺れが嘘だったかのように、一帯が静けさに包まれた。
「ちょっとしたものでいいって言ったじゃないですか……」
「だからゴメンって。でもほら、ちゃんと広場の中だけにしておいたのよ」
ようやく立ち上がった文が天子に促されて周りを見ると、確かに揺れていたのは広場の中だけだったようで、あれだけの地震だったのにも関わらず、立ち並ぶ建物はどれ一つとして形を崩してはいない。一体どういう原理で一定範囲内の地面だけを揺らす事が出来るのかという疑問は湧いたが、それよりも気になった事が一つ。
「ほら、皆さん驚いて逃げちゃったじゃないですか」
「……何よ、だらしがないわねぇ、これくらいの地震で」
「今のは間違いなく六十年に一度とか、そういうレベルのものでしたよ……って、あー」
怪我人なんて出ようものなら、関係各所から何を言われるか解ったものではない。主に巫女とか、あと白沢とか。そう思って文が続けて首を回し、そして後ろを向いたところで異変に気が付いた。
「……私の所為じゃないわよ」
釣られて天子も振り向いて、その惨状を目の当たりにする。完成間近まで組み上げられていた櫓が、ものの見事に崩れていたのだ。それなりの大きさを誇っていたもの。これで怪我人が出なかったのがせめてもの救いだろうか。しかし、こればっかりは要石で解決という訳にもいかない。
「どう見ても天子さんの地震の所為じゃないですか」
「貴方が地震を起こせって言ったんだから、そっちの所為に決まっているじゃない」
そうして解決策よりも先に責任のなすり合いを始めた二人の間に、不意に割って入った声があった。
「これはどういう事かしら?」
聞き覚えのある声。
けれどこんな所では聞くはずのないだろう声。
どちらにしてもこの状況では絶対に聞きたくない声。
「八雲……」
「紫……さん」
背後から聞こえた声に、二人は思わず直立姿勢になった。
恐る恐る振り返ると、そこには確かに八雲紫の姿。ただし、日傘の下の顔は笑みこそ浮かべているものの、その声と瞳はまるで笑っていない。
「小娘がちょこまかとしていたからしばらく様子を見ていたのだけれど、また随分と派手な事をしてくれたものね。幻想郷で勝手な事はしないとこの間約束したでしょう?」
「べ、別に勝手な事じゃないわよ。私はこの天狗がやれって言ったからやっただけ。何も悪くないわ」
「いやいや、確かに地震を起こせとは言いましたが、あんな規模のものを起こせとは私は一言も言っていませんよ!?」
「そもそもそっちの案が穴だらけだったんじゃない!? 私の所為にしないでよ!」
「何を言うんですか、私の案は完璧でしたよ! 貴方がそんな事だから――」
「解りました。解りました」
再び睨み合いを始めた二人を止めるように、紫が胸の前で手を打ち鳴らした。それでもお互いまだまだ気が済まないのか、隙あらば飛びかかろうかというように唸り声を上げる。広場にいるのは三人だけ。逃げていった人達も地震が収まった事で戻ろうとしたのだが、そこに現れた第三の妖怪が気になって戻るに戻れず、遠巻きに見守るばかり。そうでなくとも、天狗と天人がいがみ合っている中に進んで戻ろうとする者はいないだろう。
「理由も過程も関係ありません。ここは人間達の里。里には里のルールがあり、たとえ妖怪であってもそれを破る事は許されない。そっちの小娘はともかく、天狗の貴女なら解っていた事ではありませんか?」
「そ、れは……そうですが……」
妙に口調が丁寧なのが気になる。こういう時の紫に関わると碌な事がない事を、文はそれほど多くはない彼女とのやりとりの中でも十分に学んでいた。解りやすく言うと、すごく怒っていらっしゃる。
「解っているのなら話は早い。どうやら貴方たちにはお仕置きが必要なようですね」
「いや、私はそんな事全然知らない――」
「貴女はそもそも地上に降りてくる時点で問答無用です」
一転、先程までのいがみ合いもどこへやら。これはまずい事になったと思った文が、八つ手の団扇を取り出して一扇ぎ。早々に退却を試みた。そんなこちらの様子に気付いた天子が呼び止めたが、彼女を助けるなどという考えはない。ネタのために身体を張る事はあっても、命なくしてネタは追えないのだ。他の相手ならばまだしも、なにせあの八雲紫。闘うか逃げるかという選択肢であれば、間違いなく後者を選ぶだろう。速さであれば誰にも負けない自信はあるし、この状況ならば天子が囮と時間稼ぎにもなってくれる。しばらく大手を振って歩けなくなるかもしれないが、それでも永遠に一回休みを言い渡されるよりかはよっぽどマシだ。
「という訳で、私はこれにて失礼します。それでは!」
「無駄よ」
「わきゃぁ!?」
疾風迅雷。風と化して飛び上がった文だったが、それもすぐに止められてしまった。追いつかれた訳でもなければ、スキマを開いて襟首を捕まれただとか、そういうものでもない。何もない空間で、何かにぶつかったような感触。もしやと文が手を伸ばしてみると、そこには確かに見えない壁があった。
「確かに貴方の速さであれば、私から逃げる事も出来るでしょう。まぁ逃げたところで無駄な事だけれど。私も忙しいのよ、あまり手を煩わせないでほしいわね」
スキマ妖怪と言われているが、紫の本質は境界を操る力であり、結界の専門家。結界に関する事であれば、同じく結界を操る霊夢以上のものなのだ。恐らくは最初に姿を見せた時点、もしくはその前から既に広場を覆うように結界を張っていたのだろう。よく見てみれば、遠巻きに見ていた人間達も、戻らないというよりかは戻れないといった様子だった。
物理的な結界。文と天子には、残念ながらこれを破る術は無い。
「さぁ、これで邪魔者は入りませんわ」
「紫さん、落ち着きましょう。話せば解ります。暴力は悲しみしか産まないのです。私達は話す事によってより深く相手を知る事が出来る、相手を思いやる事が出来るのです」
「遺言はそれだけかしら」
「……」
「……」
いよいよどうにもならなくなった文が地上に戻り、肩を振るわす天子と顔を合わせる。
どうするか。
あやまるか。
それしかないな。
「……許して?」
胸の前で手を組んで、目尻に涙を浮かべて潤んだ瞳で上目遣い。文と天子、頭に美が付くような少女二人にこんな風に迫られれば、大抵の事は許してしまうだろう。
「……」
けれど、その戦略で落とすにはどうにも相手が悪かった。目の前にいるのは八雲紫。天狗と天人がどれだけ可愛い子ぶったところで、効果があるはずもない。この大妖怪を陥落させるのであれば、せめてあの亡霊嬢を連れてくるべきだろう。こんな事なら何が何でも最初に幽々子を探しておくべきだったと文が思ってももう遅い。
八雲紫をどうにかしてください。
神様に向かって祈ったところで、果たしてどこの神様がこんな無謀な願いを聞いてくれるのか。山の神社にいる二柱ならば聞いてはくれそうだが、それでも聞いてくれるだけだろう。
跪いて懇願する二人を前に、紫は何かを考えるように人差し指を顎に当てて、うーんと宙を見ていたが、そこで何を思いついたのか、目を細めて慈愛に満ちた笑みを二人に向けて、
「ダメ」
まるで語尾に星マークかハートマークが付きそうな、そんな朗らかな声だった。
後に解った事だが、どうやらこの時の結界は外側からは中で何が起こっているのかが見えていなかったらしい。それはきっと、紫の人間たちへのせめてもの優しさだったのだろう。何故なら、もし結界の中を見ていたら、きっとトラウマになっていただろうから――。
3
「前が見えねぇ……」
「どうして私までこんな目に……」
ひどい事件だったね……と過去の事にするにはまだそれほど時間は経っていない。里から出た辺りで大の字になって倒れて見上げた空。太陽は西に傾いてはいるものの、この時期はまだまだ夜の訪れには余裕がある。雲は少なく、風も夏場にしては随分と涼しい。
――こういう時は風に乗ると気持ちいいんだけどなぁ。
風に乗るどころか、飛ぶことはおろか立ち上がる事さえままならない。それは天子も同じようで、今も隣で傷の痛みに身を悶えさせている。
それにしても容赦のない、あまりにも一方的な暴力だった。
文も紫との付き合いはそれほど長い訳でもないが、見る、知るという点では数百年という単位で接してきている。それでもかつてここまで暴力的な事件を起こした事があっただろうか。自分が見ていないだけでどこかでこういう事もあったのかもしれないが、それでも疑問は残る。
こういう部分、文は根っからの記者なのだろう。
相手がいつもと少しでも違うと、そこが気になってしまう。
以前、天子が博麗神社を倒壊させたり建て直したりした時も珍しいくらいに怒っていたが、それとはまた別の理由、感情があるようにも思える。幽々子と喧嘩でもしたのだろうか。
もう少し早く紫の異変に気付いていればそちらを追いかけるという手もあったのだが、如何せん神出鬼没の彼女。こちらから会いたいと思ったところで会うことは出来ず、会いたくないと思ってもやっぱり会うことは叶わない。取材の対象とするには、あまりにも難易度が高すぎる相手だ。
「それにしても、どうしますかねぇ」
しかし、どれだけ手傷を負わされたところで、こうして休んでいればそれも見る間に癒えていく。こういう時ばかりは、妖怪でよかったと心の底から思う。人間の身体であれば、既に五桁を超える回数は死んでいただろう。
天子の方も、傷は癒えてきたのか痛みに唸る声は聞こえなくなっていた。天人も肉体強度という点では妖怪に勝るものを持っている。彼女ももう動けるようにはなっているのだろう。けれどまだ起き上がる様子はない。
「……崖から落ちそうな男を助ける夢を見たわ」
「夢ですか」
「残念ね」
不意に口を開いた天子が、よく解らない事を言う。元より天人というのは言うこと成すこと、そのほとんどが地上に住む者にはよく解らないものなのだ。こういうところばかりは、彼女もそんな天人なのだという事を思い起こさせる。
「失敗したなぁー」
溜息混じりに漏れた天子の呟き。夢の中の事を言っているのか、それとも先程の事を言っているのか。文は何かを言おうとして、けれど出かかった言葉を飲み込んだ。
失敗した。確かに失敗だった。
思わぬ事態や紫の乱入。それを抜いても先程は失敗だった。どうやら自分も知らない間に熱に浮かされてしまっていたのだろうか。普段であれば絶対にやらないであろう失態。
新聞記者とは、傍観者でなければいけないのだ。過度に自分が関わってしまっては、客観でいられなくなってしまう。
とはいえ、ネタが無ければ作るのもまた記者としての勤め。
「いえいえまだこれからです。早速次に行きましょう」
つまるところ、まったく懲りていなかった。
「まだ何かするの……?」
天子の声が若干嫌そうに聞こえたのも無理はないだろう。自分の名前を轟かせたいという想いは確かにあるが、先程のような目に遭うくらいなら潔く諦める。簡単に死なないとはいっても、痛いものは痛いのだ。
「えぇ、貴方もこのままでは引き下がれないでしょう?」
「いや、私は別に引き下がってもいいんだけど」
「大丈夫。流石に先程の紫さんは想定外でしたが、今度はあらかじめ相手が解っていますから、準備をしっかりとしてから挑めばなんの問題もありませんよ」
「相手?」
天子が寝ころんだままこちらを向く。その視線を受けて、文は返事の変わりに上半身を起こした。空は大分夕暮れの色に染まってきていたが、まだ幾分青が残っている。彼女は妖怪にしては珍しく昼間に行動する事が多いが、このくらいならばまだ休んでいるということもないだろう。天人冒険活劇の第二幕だ。
「人々に貴方の力を見せるのは、何もその地震に関連した能力だけではありません。貴方は天人なんですから、天人としてもっとらしさを見せていけばいいんですよ」
「見返りはどこにいったの……」
「天人として出来ること。それは何か。ずばり妖怪退治です」
「妖怪退治?」
聞いた天子が、身を起こして隣に並ぶ。彼女としても、こういった解りやすいものの方が好きなのだろう。好戦的とまではいかないが、勝負事には拘りがあるのか、こちらを見る目も心なしか輝いて見えた。
「貴方を退治すればいいの?」
「いや、私を退治したところで喜ぶ人は……いないといいなぁ」
「じゃあ誰を退治するのよ。大抵の奴らはこの前全員倒したわよ」
誰でも相手になってやる。そう意気込んで、跳ねるように天子が立ち上がる。その背中は先程までとは打って変わって活き活きとしていて、やっぱり戦いたかっただけなんじゃないだろうかと思えた。もしくは、紫にやられた事の憂さ晴らしか。
まぁそんなことも、天人の彼女にとっては遊びの範疇なのだろう。そして、同じ遊ぶなら身体を動かす方がいい。
――やっぱり子供か。
呆れたように一つ笑って、文も彼女の隣に立ち上がる。先程は自分が関わりすぎた。そういう事を考えれば、失敗したのはむしろ好都合ともいえるだろう。こうして次のネタへと向かう事が出来るのだから。
もっとも、一度目で成功していればこうして次に行く事も無かったのだが。
「どうせ退治するなら、力の強い妖怪です。それを倒す事が出来れば、里の方達もきっと貴方を見直すでしょう」
「いいね! 折角だから、幻想郷で一番強い奴に会わせてよ。一気に頂点を取るわ!」
「では参りましょう、いざ太陽の畑へ!」
「おー!」
§
「前が見えねぇ……」
「だからどうして私まで……」
完敗だった。
おまけにとばっちりまで受けた。
何がいけなかったのか。
どこが駄目だったというのか。
夏も盛りを迎えたこの時期、太陽の畑は眩しい程の黄色一色に彩られている。それらは全て見事に咲いた向日葵の色。太陽の畑という名前に相応しく、まるで地上にいくつもの太陽が咲いているような、そんな場所だ。夏場は特にここを訪れる妖精や妖怪も多く、昼間は妖精たち、夜は陽気な妖怪たちでいつも賑わっている。黄昏時の今はそんな二つの世界が丁度交差する時間帯。人里にも負けない賑わいを見せるその一角に、探していた彼女の姿があった。
「どうしてあんなに怒っていたのでしょう……?」
「貴方が安っぽい挑発なんかするからじゃない……」
「いやまさか、彼女があんな言葉に反応するとは思いませんでした。しかしこれはこれで、一つ収穫です」
『最近怠けてばかりで、少し太ったんじゃないですか?』
思い返してみても、妖怪の彼女がそんな事を気にしているとは思えない。ならば何故そんな事を言ったのかといえば、単純に何を言っても向こうが動じず、苦し紛れに出たというだけ。
しかし、怒ったという事は図星なのでしょうか。などと思いながら、文が文花帖を開き、空いたスペースに筆を走らせる。
風見幽香、ダイエット中。
「随分可愛らしい字を書くのね」
「……放っておいてください」
文の持つ文花帖。そこには日々気付いた事や、記事に使えそうなネタが所狭しと書き込まれている。それは時に図であったり絵であったりと文字に限定されないのだが、そのどれもが丸かったり花が飛んでいたり、やたらと女の子らしい。文も天狗とはいえ女の子と言えば間違いではないのだから、それらもまた間違いではないのかもしれないが、それでも天狗の文花帖というイメージからは程遠い。個人的には気に入っているのだが、周りの評判が揃いも揃って芳しくないのが、少しだけショックだった。
「しかし、あれも駄目これも駄目。というか貴方本当に強いんですか?」
「少なくとも、貴方よりは強いわよ」
「そうですかねぇ……?」
「なによ、疑うっていうの? なんなら今ここで貴方を退治してあげてもいいのよ。そして私は貴方の首を持って里に凱旋するわ!」
先程と同じように、跳ねるように立ち上がった天子が高らかに天へと叫ぶ。
「いや、それただのホラーですから」
間違いなく里の入り口で門前払いを喰らうだろう。そして里の入り口に晒される自分の首。
嫌すぎる。
何よりも嫌なのは、恐らくはそんな状態でもそう簡単に死なないだろうという事だ。生首のまま生き長らえるくらいなら、いっそのこと殺してほしい。こういう時ばかりは頑丈すぎる妖怪の身体が嫌になる。とはいえ、一度もそういう事態になった事がないのだけれど。
「……さて」
文はまだ倒れたまま、もう傷はすっかりと癒えて動けるようになっているのだが、どうにも起き上がる気になれない。幽香にのされて倒れている間に日はすっかりと暮れてしまい、視界には満天の星空が広がっている。それらを見つめながらどうしたものかと考えていると、自然と溜息が漏れた。
考えていたのは新聞のこと。
紫と幽香、起こった事をそのまま書くにはいささか相手と状況の分が悪い。けれど、ただ天子が二人と戦ったという部分だけを抜き出せば、それなりに面白い記事にはなるかもしれない。
さしずめ見出しは『天人の腕試し! 早くも幻想郷の洗礼浴びる!』といった辺りか。
「うーん……」
書けなくはない。
天人が幻想郷の者に倒されるという内容は、それなりに支持も集めるだろう。
「……うーん」
もう一度唸って、星空から隣に立つ天子へと視線を落とす。こちらに背を向けて星を見上げる彼女の表情は窺えない。どんな事を思って空を見上げているのだろう。自分の住む空を。
「失敗したなぁー」
先程の天子と同じように、溜息混じりに文が呟いた。
その声が聞こえたのか、天子がくるりと身体ごとこちらに振り向いた。
「いえいえまだこれからです。早速次に行きましょう!」
それもまた先程と同じように、こちらは文の言葉を天子が言う。違うところは、文が言った時と違って彼女の顔が楽しそうに笑っていたという事か。
「もういいとか言っていませんでしたっけ」
「んー、なんかもう少しやってみようかなって」
「それはまた、殊勝な心がけですね。一体何があったのかはとても気になりますが、この際それは後に置いておきましょう。私もまだまだ引き下がれませんから」
言いながら、文が立ち上がる。夜の向日葵畑。あれほど色鮮やかに天を向いていた花たちが項垂れる中、あちこちから響く喧噪は妖怪たちの集まりか。
「そうでないと! あーでも、なんか痛いのはもう勘弁してほしいかな。いくら身体が頑丈だからって、何度もあんな目にあってたらもたないわ」
「勝てばいいじゃないですか」
「……別に負けてないわよ」
ぶーっと頬を膨らませて、天子がそっぽを向いてしまう。
どこまでが彼女の本気なのかは解らないが、いくら頑丈な肉体を持つ天人とはいえ、あの二人ならば負けてしまったとしても仕方のない事だろう。特に今日のような一切の手加減がない状態だと尚のこと。むしろ生きていた事を喜ぶべきだ。
「しかしこれまでとは違う事をするとなると、さて何をしたものですかね」
「頭とかいいわよ、天人だもの」
「……」
「なによその目は」
「いえいえお気になさらず……あぁでもそうですね。なるほどそんな手もありますか」
天子の言葉を受けて思いついた次の案。ネタとしてもそんなに悪くはない。
まぁなるようになるだろう。そう思って、文がもう一度星空を見上げた。
4
「暗いしじめじめするしなんかよく解らない茸とか生えてるし」
「あ、その茸は近付いてはいけませんよ。胞子に幻覚作用がありますから」
「私もう帰ってもいいよね」
「今度こそ貴方の所為じゃないですか、こんな所に来るハメになったのは」
昨日の勢いもどこへ消えてしまったのか、一歩進む度に天子が愚痴を零していく。とはいえ、昼間でも太陽の光がほとんど届かない森の中はやはり薄気味悪いものがある。妖怪である文は何も感じなくとも、普段雲の上という正に天上に住んでいる天子にとっては耐え難いものがあるのだろう。見慣れない形をした、いかにも怪しげな茸が広がる様は、確かに見ているだけでも気分が悪くなってくる。
――祭りに出てみませんかね。
文の次なる提案は、近く里で行われる夏祭りへの参加だった。
里の夏祭りは、幻想郷で行われる唯一ともいえる大規模なもので、多方面にわたって様々な催し物が開催される。屋台や舞台。祭りを盛り上げるために趣向を凝らしていくようになったそれらは、いつからか誰が一番祭りを盛り上げたか、などという余興を産み出していた。
余興とはいえ、そこで栄冠を勝ち取れば里は元より広く幻想郷に名が知られるようになる事もある。
そこに天子を参加させようというのだ。
屋台、舞台、内容はなんでも構わない。昔は統一で優勝者を決めていたが、増えすぎた催し物に対応するために分散され、今は各部門毎に選出されるようになっている。
天子とて天人の端くれ。何か一つくらい人間や妖怪には真似の出来ない何かがあるだろうと踏んでの事だったが、文の言葉を聞いた天子の反応は散々なものだった。
「料理? いつも誰かが作ってるよ」
「包丁? 緋想の剣ならよく振り回してるけど」
「歌? よく歌ってるわよ。――どうして耳を塞ぐのよ」
「踊りも得意よ。天人としての嗜みね。――どうして野花にカメラを向けているのよ」
「せめて何か一つくらい特技とかないんですか、貴方は」
「地震とか起こせるわよ」
「うわー、かっこいー」
ならばと天界の道具などを使った催しなども考えてみたが、それもまた返ってきたのは散々な答え。曰く、地上に降りてびっくりしたのは、道具がどれも天界の物よりもずっと凄い、だとかなんとか。
「そういえば天人は釣りもよくすると聞きますが」
「あぁ釣り。そうね、私はあまりやらないけれど、好きな人は多いよ」
「ならば天界の魚を使ったミニ釣り堀とかはいかがでしょう。物珍しさでは絶対に負けないものになりますよ」
「あぁだめだめ、天界の釣りなんて雲の中に釣り竿を垂らしてぼーっとしてるだけだもの。そもそも魚なんていないわ」
「……それ、釣りの意味はあるんでしょうか」
「だから私は好きじゃないのよ」
何を聞いてもそんな調子で、結局昨日は案がまとまらず、一晩考えた結果こうして魔法の森にやってきたという訳だ。
「あぁほら、見えてきましたよ」
文が指さした先、鬱蒼と生い茂る木々の向こう側に見える白い壁。昼間でも薄暗い森の中で光の当たる数少ない場所。
森の魔法使い。
人形遣い。
アリス・マーガトロイドの家だった。
§
「それで、どうして私の所に来る事になるのかしら」
人形達の用意したティーカップを手にとって、アリスが開口一番、二人に尋ねた。
天子は答えるつもりはなさそうで、物珍しそうに部屋の中を見回している。特に勝手に動いているようにしか見えない人形たちが気になるのか、その内の一体を手にとってあちこちを眺めては、ほー、と感嘆していた。
「戦ってる時はあんまり気にならなかったけど、こうしてちょこまか動き回っているのを見ると、やっぱり不思議だわ」
「ちょっと、勝手に触らないでよ。嫌がっているじゃない」
「人形が嫌がるの?」
天子がそう言うのも無理はない。どこまで動いたところで人形は人形。これらも結局のところは全てをアリスが魔法で操っているに過ぎない。つまりは今天子に捕らえられ、その手の中でじたばたと短い手足をばたつかせているのも元を正せばアリスの力。
「大した役者ぶりですねぇ」
その様子を見て、文がカップの中に入れた砂糖をかき混ぜながら一言。夏場にホットティーはないだろうと思いながら、立ち上る湯気を追いかけていく。
それで? とアリスに問い質されて、文は視線を湯気からアリスへ。特にやましい事もないのだから、正直に言ってしまえばいい。
「いやいや大した事ではないんですよ。アリスさんを一流の芸人と見込んでですね、少しお願いしたい事がありまして」
「芸人……特に何かをしていたという覚えはないのだけれど」
「あやや、祭りの時に人形芸を披露していたと聞きましたが」
その言葉を聞いて、アリスがぴくりと眉を動かした。
「誰に聞いたのよ、そんな話」
「聞いたというよりは読んだと言った方が正しいでしょうか。ほら、稗田のお嬢さんの」
「あぁ……あれか」
稗田の当主、阿求が記した幻想郷縁起。幻想郷に住まう妖怪たちの事が纏められた本だ。
その中にはどうやって調べたのか、アリスや文の事も記されており、内容は確かなものから不確かなものまで様々。けれど見る者に深い興味を与える物としては十分で、その点は文も少なからず参考にしている節がある。
「あれも本当なんだか嘘なんだかよく解らない事ばかり書かれているけれど、まぁ私のその項目に関しては間違いでもないわね。確かに、そういう事もしていたわ」
昔の事だけれど、と付け足して、アリスが湯気の昇る紅茶を啜る。熱くないのだろうか。
「当時はまだ今ほど人形たちを操る事が出来なかったから、練習も兼ねてそんな芸まがいの事もしていたのよ。懐かしいわね」
言いながら、アリスがついと視線を窓の外へと投げた。そこにはかつての情景が映っているのだろうか、浮かべる笑みはずっと遠くへと向けられているように見えた。
「――」
どう声をかけたものかと迷い、逸らすように天子の方を向くと、いつの間に仲良くなったのか、先程の人形と戯れていた。話は聞いていたのだろうか。
「はた迷惑な天狗に天人。それで私に何をしろと言うのかしら」
「おや、聞いてくれるのですか」
「なによ、その意外そうな顔は」
むっと眉を顰めるアリスに、文が愛想笑いを浮かべる。アリスもそれほど怒ってもいなかったのか、すぐに「まぁいいわ」と肩を竦めてみせた。
「今回は別に大した用事でもなさそうだし。私だって鬼じゃない、そんななんでも無下にするような事はしないわよ」
「ふむ。ではお言葉に甘えて」
間を取るように、文がずっと置いていたティーカップを手に取った。一口啜る。まだ熱い。
「なんてことはありません。その人形芸を彼女に教えてあげてはくれませんかね」
「……え?」
二人に見られて、ようやく自分に話が振られたと気付いた天子が慌てて顔を上げた。
「人形芸? 私がやるの?」
「えぇ、その通りです。屋台がダメなら舞台。過去にアリスさんがやっていたのであれば二番煎じは否めませんが、見ての通り操り糸もなく勝手に動く人形たち。インパクトは十分です」
幻想郷の中で、魔法というものは別段珍しいものではない。このアリスや同じく魔法の森に住む魔理沙、紅魔館に住むパチュリーなど、種族としての魔法使いや職業として魔法使いを自負する者こそ少ないものの、初級の魔法程度ならば一般的なものとして広まっている。
それでもこの魔法で人形を操る事が出来るのは、精々アリスくらいなもの。例え操る人形が一体だったとしても、自然な動きに見せるのは簡単な事ではない。だからこそ、インパクトとしては十分。見る者の目を引けるだろう。
「屋台? 舞台? ……貴方たち、ひょっとして夏祭りに出るつもりなのかしら」
こちらのやりとりを聞いたアリスが尋ねてくる。そうだと文が答えると、アリスは考え込むように、顎に手を当てて俯いた。
幾許かの沈黙。
やがて何かを思いついたのか、アリスがぽんと両手を合わせた。
「解ったわ。協力しましょう」
「ほんとですか?」
「ええ。ただし、一つだけ条件があるわ。いえ、条件というよりかは私の個人的な事なのだけれど」
不適な笑みを浮かべるアリスに、文と天子が顔を見合わせる。何か見返りを要求されるのだろうか。そういえば見返りの話はどこにいったのかと天子が目で訴えてきたが、とりあえず流しておいた。
「その夏祭りの舞台、私も出るわ」
なるほど、それは確かにこちらには関係のない、アリス個人の事だ。
「って、ぇえっ!?」
文と天子が揃って叫んだ。無理もない。本家本元のアリスが出るとなれば、どれだけ天子が頑張ったところで勝てるはずがない。それどころか勝負にもならないだろう。形は違えど昨日の紫と幽香、二人を相手にした失敗をまた繰り返してしまう。
「何か問題でも?」
笑みを崩さず、アリスが二人を見据える。
「貴方たちが何を思って舞台に出ようとしているのかは知らないし、知るつもりもないわ。それに私は貴方たちを邪魔するつもりはない。だから貴方にはこの子たちの扱い方をしっかりと教えてあげる。正々堂々、よ」
「既に最初の力差が開きすぎているような気もしますが、どういうつもりでしょう?」
文の質問を受けて、アリスは尚不適な笑みのまま。
「別に、単に貴方たちの話を聞いていたら、久しぶりに出てみようかと思っただけよ。それに私が教えて一位になって、なんていうのは都合がよすぎるでしょう? そうね、敢えて言うなれば保険かしら」
「保険、ですか」
「そう、保険。一位になってもつまらない。けれど逆に一位になれなければ、教えた私の力まで疑われてしまうわ。別に外の人間たちにどう思われようとも構わないけれど、下等に見られるのもそれはそれで気分の良いものではないからね」
先程はああ言っていたものの、つまりは邪魔をすると言っているのだ。
どうしたものかと横の天子を見ると、意外にもどっしりと座って前を見据えていた。視線の先にはアリス。
「面白い! いつぞやに私にやられた腹いせかい? いいよ、その勝負受けてあげるわ!」
天子の宣戦布告を見て、何やらまたよく解らない流れになってきたなと思いつつ、まぁこれはこれで面白そうだからいいかと、文は一人紅茶を啜る。カップの中身はようやく気にせず飲める程度には温くなっていた。そもそも天子の言葉は勝負を受ける側としては正しくても教えを請う側としては見当違いも甚だしいのだが、流しておいた方がいいのだろう。
§
魔法で何かを操るという事は、思った以上に難しい。ただ操るだけでなく、操る対象の事もきちんと把握出来ていなければいけない。どの部分をどのように動かせばどういう結果になるのか、全てを理解しなくてはまともに動かす事も出来ない。
人の形。人形を動かすのであれば、普段自身が無意識の内に行っている事も全て意識して行わなければならなくなる。重心、バランス、歩かせるだけでもただ足を動かせばいいという訳ではない。もちろん魔法で動かす以上、浮かせる事も出来るのだから何も足を地に付ける必要はない。しかし、浮かせるにしても結局人の形を動かす事に違いはないのだ。力加減を見誤れば、すぐに糸の絡まった操り人形のようになってしまう。
緻密さ繊細さ、物を操るという事は、常に縫い針に糸を通すような集中力が必要になる。
そんな仕組みを知れば知るほど、アリスという魔法使いが如何に強い力を持っているのかが解る。解らされる。常に人形を周りに置き、動かし、個別に行動させる。並大抵の事ではないだろう。
一方、そんなアリスに教えを請うことになった天子はといえば。
「あーもう! ちゃんと動きなさいよ、爆発させるわよ!」
戯れていた一体を貸し与えられてずっと練習しているものの、一向に上達の兆しは見えない。
「今日で三日目。本番まで後二日。これだと一位は夢のまた夢かしらね」
茶請けのクッキーをつまみながら、アリスが騒ぐ天子を眺めていた。
文もテーブルを挟んだ向かい側に座って、同じようにクッキーを一口。甘い。
「私としては、初日から僅かとはいえ動かせた事の方が驚きでしたが」
「そうね、初級の魔法は比較的誰でも扱えるとはいえ、大したものよ。それだけ力があるという事なのだろうけど、魔法はイメージが大切なのよ。より正確に、より綿密に。でなければこの子たちも答えてはくれないわ」
傍らに置いた人形の頬を人差し指で撫でて、アリスが言う。人形はくすぐったそうにしていたが、見ようによってはなんとも寂しい一人芝居。
けれど、もし無意識の内に人形たちを操れるようになったとしたら、それは果たして一人芝居と言えるのだろうか。意識せずとも人形たちは各々で動き出す。触れられれば反応を示し、意識せずとも仕事をこなす。そうなれば、それはもう自律人形と言っても過言ではないように思える。
「アリスさんは、無意識の内に人形を動かしていたりした事とか、ありますか?」
不意の質問。アリスはきょとんとした顔を見せたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「無意識……そうね、ないこともないわよ。自分の身に危険が迫った時とか、思わず総動員して盾にしていたりするもの」
「盾、ですか」
物騒な話だった。
「そういえば爆弾にしていたりもしましたよね。あれって結局どうやって火薬を仕込んでいるのでしょう?」
「あぁ、そういえば以前そんな事を聞いていたわね」
アリスが立ち上がり、ちょっと待ってて、と言い残して部屋を出て行った。どことなく手持ち無沙汰になって、クッキーをまた一枚つまむ。甘い。
天子は先程と変わらず、怒鳴っては繰り返し、怒鳴っては繰り返し。
正直よく続いているものだと思う。
アリスの家に来て今日で三日。泊まり込みで朝から晩までずっとあの調子だ。
初日で手足を動かせるようになり、二日目には立ち上がらせる事が出来た。
けれど、そこからが中々上手くいかない。歩かせようと片足を上げた途端に、人形は容易く倒れてしまう。浮かせながら歩く振りをさせれば転びはしないものの、やはりどうしても自然な動きとは言い難い。
「よし! 今度こそこけ……たー!?」
がっくりと、倒れた人形と同じように天子が床に手を着いて項垂れた。
基本的に負けず嫌いなのだろう。本当に。
「おまたせ……っと」
そんな事をしている内に、アリスが部屋に戻ってきた。
入り口のすぐ前で項垂れていた天子を思わず踏みそうになって、やれやれと呆れたように溜息を吐く。
「どうしたの、遂に諦めた?」
「諦めた訳じゃないけど……」
怨めしそうな目を向けて、天子がよろよろと立ち上がる。しかし続いてた集中力も途切れてしまったのか、それ以上何を言うでもなくソファの方へと向かうと、文の隣に崩れ落ちるように座った。それを追うように、アリスもまた先程まで座っていたソファに腰を下ろす。手には別室から持ってきた爆弾人形と、もう一つは先程まで天子が練習に使っていた人形。
置いていったらダメよ、と天子の前に人形を置く。
「まぁ誰でも最初はそんなものよ……とばかりも言っていられない、か」
あと二日。確かに歩かせる事もままならないようでは、先は少々危ういだろう。これが単に人形を動かす練習というだけならばもっと時間をかけても構わないだろうが、アリスの言葉通り、それほど悠長な事も言っていられない。
「さて、どうしたものかしらね」
「貴方は……」
不意に、天子が口を開いた。
「貴方は、最初からそんな風に動かせたの?」
周りを見れば、今もあちこちで人形たちが動いている。部屋の中ではアリスのグラスに紅茶を注いでいるし、窓の外を見れば庭先を掃除している人形たちがいる。アリスを見てみても、彼女がそちらを見ている様子はなく、一体どうやって外の状況を把握しているのかは文でも解らなかった。
「私の魔法の力というのは先天的なものではないわ。昔……子供の頃、魔法というものに触れたばかりの頃は魔力だって今ほど強くはなかったし、始めから人形を使うという事はしていたけれど、そうね、今の貴方と同じような事をしていたかしら」
子供の頃の話よ、とアリスが改めて言う。
「それから長い間――といっても妖怪と天人の貴方たちから見れば随分と短い時間かもしれないけれど、研究に研究を重ねて、ようやく自分でも少しはマシになってきたと思える程度にはなったわ」
「ずっと一人で?」
天子の言葉に、アリスが少し考え込むような仕草を見せる。これ以上言うべきか否かを迷っているといったところだろうか。しばらくして吐いた息は、少し諦めの色が混ざっていた。
「一人……そうね、最初の頃は教えてくれる人がいたのだけれど、少なくとも幻想郷に来てからはずっと一人でやっているわ」
「こんな所で一人で、退屈にならない?」
「退屈だとか、そんな事を思う暇もなかったわね。目指すものがある。目指す場所がある。立ち止まっていられない――いや、止まるのが嫌だっただけかもしれない。言葉にしてみれば、見返してやりたいだなんて単純で稚拙なものになるかもしれないけれど、それでも私は試してみたいのよ。私として、アリス・マーガトロイドとして、コピーでもなんでもない、一つの個としての行く末を」
独り言のように吶々と話すアリスを見て、天子が「ふうん」と、どこか上の空で頷いた。
彼女の生い立ちや境遇というのは流石に解らないが、それでも少し、どこか似ているような気がすると、文は思った。
アリスと天子。
全く接点のない二人。
『別にどうでもいいのよ、名居守とか大村守とか』
数日前に聞いた天子の声が蘇る。
恐らくは天子自身も気付いていない部分。表面上は違うと思っていても、深層心理は強くそれを願っている。
大村守がいなければ名居守もおらず、また比那名居が名居の一族に仕えていなければ今の天子もない。けれど、そんな事は関係ないのだ。なにをどうしたところで天子は名居守に仕える比那名居一族の娘であり、天人である事に変わりはない。もしというのは創作の中にしか存在せず、既に起こった過去は何者にも変えられない事実。歴史なのだ。
静寂。
見れば、いつの間にかせっせと働いていた人形たちも今は動きを止めていた。アリスは静かに目を閉じている。やはり無意識などではなく、全て彼女が操っているという事なのだろうか。
「……おや」
そんな中で動く気配を感じて隣を見てみれば、いつの間にか天子が立ち上がっていた。
いつかと同じ。見上げてみても、こちらからではその表情までは窺えない。
アリスもそんな彼女を見ていたが、結局天子は二人には何も言わず、また人形を持って先程と同じ、部屋の入り口の方へと行ってしまった。
――はてさて。
天子を追っていた視線を戻すと、丁度アリスも同じ事をしていたのか、テーブルの上で二人の視線が交差する。何も言わずに文が首を傾げると、アリスは少し呆れたような顔で、肩を竦めて見せた。
5
豪華絢爛。
そんな言葉を実現したかのような光景が、里中に広がっていた。
日が落ちた事によって一層通りを彩る灯りはその煌めきを増していき、道を行く誰もが笑い笑って手を取り合って、常ならば畏れる夜も、今ばかりはそれが待ち遠しいとさえ感じられる。
祭り囃子を奏でる広場の櫓は一層高く、その周りでは早くも待ちきれずに踊り出す者たちがいた。
夏祭り。迎えた当日。普段は家屋や商店が建ち並ぶ通りには出店がひしめき合い、客を呼び込む声とそれらを求める人たちの声で大いに賑わっている。見てみれば、里の人間だけではない。妖怪、妖精、正に幻想郷の住人全てがこの場にいるような、そんな光景。出店は食べ物や遊戯などどれもが目を引くもので、思わず立ち止まらずにはいられない。祭りの余興。各部門の最優秀。それもあってかどこも力を入れているようで、しかしやはり第一には祭りを楽しむ事をよしとしているのか、和気藹々とした雰囲気が広がっている。
そして、それは何も生きる者たちだけではない。
陽気な幽霊たちがどこからか集まってきていて、並ぶ出店の中にも普段は中有の道で営んでいる、地獄の罪人たちによるものまで見受けられる。
人間も、妖怪も、妖精も、死者も生者も入り交じって、今夜だけは憂いも何もなく、垣根を越えてただ祭りを楽しもうと皆が笑う。
「いやはや、中々どうして大したものじゃないですか」
賑わいを見せない所などないといった様子の里の本通りを歩きながら、文が感嘆したように一人頷く。
射的に興じる子供。買ったばかりの水飴を美味しそうに舐める少女。大食い大会会場と書かれた門柱に『亡霊禁止』の張り紙を見つけてくすりと笑みが零れるが、それはなにもかの亡霊嬢を差しているという訳ではない。以前幽々子に『亡霊は食べてもお腹が膨れないからいくらでも入るだけ』という答えを聞いたが、確かにそれでは勝負にならないだろう。もっとも、それならば食べた物はどこにいくのかという事が気になるところではあるが、それに対する答えは『……さぁ?』という疑問と愛くるしい仕草だけだった。
「ひどいわよねぇ、それ」
横合いからかけられた声にそちらを向くと、噂をすればなんとやら、いつの間にか幽々子が隣に立っていた。
「美味しい物を好きなだけ食べられるというこの幸せを邪魔するだなんて、そんな無粋な事はしてほしくないものだわ」
そんな事を言っても、常時ならともかく大食い大会とあっては、反則以外のなにものでもないだろう。
「そんな目で見なくても、別に本気にしてないわよ」
袖を口元に当ててくすくすと幽々子が笑う。
何か用事があったのか、それともただの気まぐれなのか。しかしその疑問を投げかける前に、「はいこれ」と小さな紙袋を手渡されて、文が開きかけた口を閉じた。
「なんですか、これ」
「げん担ぎ」
それだけ言うと、幽々子はさっさと背中を向けて行ってしまった。
なんだというのか。
聞いてみようにも、立ち去る幽々子の背中はすぐに人混みの中へと消えてしまった。
本当に一瞬のこと。残されたのは小さな紙袋が一つだけ。
ともあれ、あの気まぐれな亡霊のこと。特に意味などないのだろうと、文もまたその場を後にする。丁度時間も頃合いだろう。
§
「これはまた、なんとも」
櫓の建てられた中央の広場とはまた別の所。少し開けた空間になっているそこで、丁度四角の一辺を背負うように舞台が備え付けられている。
日が沈んで祭りが本格化してくる前から、舞台の上では時に演舞であったり歌であったり、更には魔法を使ったショーや一発芸のようなものまで、多種多様な催しが行われている。中央の広場よりも若干狭いこの場所。舞台の前の観客席は既に人で溢れていて、次々と出てくる演目に皆が歓声を上げていた。
文が向かったのは、その傍らにある小さな小屋。
中は舞台の出番を待つ人々の控え室になっていて、そこには先に来ていた天子とアリスの姿もあった。
アリスは周りに人形たちを並べて、この時のために着せた服におかしな所はないかと、一体ずつ入念に調べている。普段人形たちに着せているフリルのついた可愛らしい物とは違い、ドレスを来ていたり鎧を纏っていたりと、まるで西洋のお伽噺に出てくるような恰好。人形芸というよりかは人形劇。それが今回のアリスの出し物だった。
小さいながらも煌びやかな人形たちは、控え室の中でも一際目立つようで、新たに控え室に入ってきた者は元より、既に待機している他の参加者たちも、時折そちらに視線を投げては感嘆の息を漏らしていた。
そんな人形たちの手入れをするアリスの横で、天子もまた同じように手に持った人形をじっと見ていた。
「どうですか天子さん、調子の方は」
「……大丈夫、な、はず」
出る言葉は途切れ途切れに、人形を持つ手も力が入っているのか小刻みに震えている。以前広場で大勢の人の前に立った時もそうだったが、どうにもこういう場には慣れていないのか。
普段あれだけ自由奔放に好き勝手しているのだから、当然こういう場面でも我が物顔で突き進んでいくのかと思っていただけに、少し意外な発見。とはいえ畏れを抱いているというようでもなくて、単に慣れていないだけなのだろう。前回も固まっていたのは最初だけで、途中からはすっかりと馴染んでいた。
「しっかりしてよね、貴方が主役なんだから」
「解ってるわよ、うるさいなぁ」
アリスの声に、天子が頬を膨らませる。
主役。
そう、主役なのだ。
あの後、どんな心境の変化があったのか、文句も言わず真面目に練習をするようになった天子に、アリスは一つの提案を持ちかけた。
『貴方が主役の劇をやりましょう』
こちらもまたどんな心境の変化があったのか。それまでずっと本番になれば正々堂々の勝負だと言っていたアリスが、天子に共演を持ちかけたのだ。
天子の人形を主役に進む物語。
最初は訝しんで断っていた天子も、アリスの言葉を聞いて納得したのか、その申し出を受け取った。
過去にもアリスは劇と呼べるものを行っていたようで、台本は当時使っていた物に少し手を加えて再利用。真面目に魔法に取り組んだ天子の成長ぶりは目を見張るものがあり、まだたどたどしさは残るものの、歩く、走る、飛ぶ跳ねるといった事も出来るようになっていた。
五日間ずっと一緒に練習をしてきた人形は、所々に修繕の痕が見られるものの、今はアリスの人形たちと同じように着飾っている。
「そういえばこれ、さっき幽々子さんに貰ったんですよ。食べますか?」
思い出したように、文が先程の紙袋を二人の前に差し出した。
中には包みが入っていて、開いてみると十個ほどの小さな団子。緑色の茶団子だった。
幽々子から渡されたという事と、紙袋の中から仄かに漂う香りから菓子の類であろうと文も思っていたのだが、実際に出てきた物に思わずほうと息を吐く。
「茶団子か、美味しそうね」
そう言って早速アリスが一つ手に取った。そのまま一口、「あら、本当に美味しいわね」と言って頬を緩ませる。天子も一気に二つ三つと頬張って、もごもごと口を動かしている。そこへ更にもう一つ。気に入ったのだろうか。
やがて、小屋の外から呼び出しの声がかかる。天子とアリス、二人の名前。
呼ばれて立ち上がり、小屋の出入り口へと向かうアリスと人形たち。戸惑っていたり励ましていたりと、まるで自我を持っているかのようなその動きは、やはり何度見ても全てを一人で操っているとは思えない。
後に続く天子はやはりまだどこか少し緊張が残っているのか、進む足は僅かに震えている。
しかし抱えるように人形を持つその手と、前を見る目には確かな力が宿り、しっかりと前を向いていた。これならばきっと、大丈夫だろう。
お互いに、この数日間随分とらしくない事をしてきた。けれど、たまにはそういうのもいいんじゃないかと文は思う。なにせ今日は祭りなのだ。幻想郷中を巻き込んだ、盛大な。
だからこれはきっと、祭りの意志。人々の想いが、熱気が産み出した、一夜限りの幻想。
最初から最後まで。
けれど、彼女は望んだのだ。そんな幻想を。そんな未来を。
全てはこれまでの為に。
全てはこれからの為に。
比那名居天子という、少女の為に。
§
――ここではない時間。ここではない世界。
舞台にアリスの声が響く。
――これは小さなお姫様の物語。
始まりを告げられて、しんと静まり返った中で。
――お城の中でいつも空を見上げながら。
人形達を従えて、並ぶ二人の少女。
――街を想い、世界を想い。
目指し、目指して、舞台の上で。
――いつかに見たそんな光景を。
過去を見て、今を生き、明日を望む。
――また自分の目で見られる時を夢見ていた。
いつかその先に辿り着けるようにと。
――そんな、少女の物語。
幻想の夜の、幕開けだった。
6
夏の日差しもいくらか陰りを見せて、少しずつではあるが吹く風も秋の到来を告げるようになっていた。
妖怪の山は遠くに滝の音が聞こえる以外は風に木々が揺れる音が聞こえてくる程度で、静寂そのもの。いつかと同じような、けれど以前よりは弱まった午後の日差しの中に、文は一人佇んでいた。
目の前には古びた祠があった。名居守が祀られている、あの祠だ。
「……山は何人たりとも入山禁止なんですが」
「あら、それじゃあ追い返す?」
滝の音と木々の音。その中に混ざった足音を聞いて文が振り向くと、アリスの姿があった。
こうして会うのは夏祭りの日以来。数週間ぶりといったところだろうか。
「あいにく、非番の日にまで仕事をするほど真面目ではありませんので」
そう、とだけ返して、アリスが文の隣に並ぶ。
「……ツンデレ?」
「私は何もしていませんよ」
二人の前の祠は、今までと同じく荒み、寂れ、過ぎた年月をその身のあちこちに刻んでいる。
けれど、そこには今までに無かったものも増えていた。
まずその祠自体。
今にも朽ち果てそうだという印象は残っているものの、それでも誰が行ったのか全体は綺麗に磨かれていて、祠の周りも雑草は抜かれて整地されている。
そしてもう一つ。
「多いわねぇ」
「……まったく、こちらの仕事を増やさないでいただきたいものです」
「増えるの?」
「割と」
それはお疲れ様ね、と欠片も労いの意を含めない声でアリスが言って、祠の前に屈むと持っていた包みを同じように並ぶ物の中にそっと置いた。
満足そうなアリスを見て、文が盛大に溜息を漏らす。
「妖怪の山としての威厳はどこへ行ってしまったのか。悲しい限りです」
信仰とはなんだろうか。
祀る者、祀られる者、交わした約束、想い、想われ、与えられ。
巡り巡る連鎖。輪廻。
一つの因果はその意志を元の場所へと回帰させ、記憶の深淵に刻まれた起源の意識を思い起こさせる。つまりはそういう事なのだろうか。
あの人形劇が人々に何を想わせたのか。人々はあの人形劇に何を見たのか。
空を見上げる。
この空のずっと高い所。お城の中のお姫様は、再び見た外の世界に何を想ったのだろう。
「これで……良かったのかしら?」
「さぁ、どうでしょう」
ここからどうなるかは文にも解らない。時間は前にしか進まず、戻ることも止まる事も許さない。停滞していても、安定していても、時間が進む限りそれらもまた進み続ける。変わり続ける。
ならば、いつか変わるのだろうか。それとも既に変わっているのだろうか。
遥か天に眩く輝く太陽に向けて手を伸ばす。握った拳には、さて何が掴めただろう。
「まぁ大丈夫じゃないですかね。あれならきっと」
「いつの日か?」
聞いて、アリスが立ち上がる。そうですね、と答えて文も挙げた手を下ろした。
「そういえばあの写真、出す予定はないのかしら」
「あー、どうでしょう」
「どうせ出してくるだろうと思っていたのだけれど、折角だからそのつもりがないのなら一枚貰えないかしら」
「それはつまり、出せば私の新聞を読んでくれるという事でしょうか」
「写真だけ切り抜いてあとは焼き芋の糧にでもするわ」
「それはまた、美味しい芋が焼けますよ」
最後に笑って、アリスが文に背を向けた。
遠ざかっていく背中は、やがて草木の向こうに消えていく。見えなくなるまで見送って、文は文花帖に挟んでいた一枚の写真を取り出した。
――はてさて。
収まりきらないほどに押し寄せる人の中で、それでも真ん中に陣取って満面の笑みを浮かべる少女。
旅路の果てに。
「……まだまだ途中ですかね」
幾らか涼しさを伴うようになった風を受けながら、文がもう一度空を見た。
一面の青の中、ぽつぽつと雲が浮かんでいる。
その内の一つが桃のように見えて、少しだけ美味しそうだと思った。
《了》