/00
こんな顔をしている戦友を見るのは久しぶりだ、と彼女は思った。
宮藤やリーネが『怒ると一番怖い』と話していたのを聞いたのはいつだったか。
目の前にいる上官は、それを体現する様に両手を顔の前で組んだまま、これでもかと言うぐらいに険しい表情を浮かべている。
「あなたは軍法会議の開催を望む事ができます」
普段に発される人への気遣いを感じられる優しいものとは違って、眼前にいる部下を強く弾劾する声が、二人だけしかいない静寂な室内に派手に転がった。
「いいえ、結構です」
背筋を伸ばして直立不動のままに、短く必要な事だけを答える。
以前に各ウィッチの自主性を重んじ、旧態然とした軍隊からの脱却を目指しているとはいえ、些かこの部隊には命令違反が多すぎるのではないかと。規律をもう少し厳しくすべきだと、彼女は上申した事があった。その時は自分がこんな風になるとは、欠片も思ってなどいなかっただろう。
「あなたは飛行停止の上、自室待機の命令を受けていました。しかし本日の昼頃、それを無視して禁止兵装となっていたジェットストライカーを無断使用し、その際に基地備品を破損。そのまま許可なく戦闘に参加、ネウロイ撃墜後に意識を失い、試作機であるジェットストライカーを全壊させる結果となりましたね。この報告に何か間違いは」
「全て事実です」
言い訳などするつもりは毛頭なかったのか、彼女自身は姿勢を崩すことなく再び簡潔に答えるだけだった。このような結末となってしまったのは、自分の責任に他ならないと言われるまでも無く態度で示している様でもあり、凛然としている。
「わかりました。それではあなたに処分を言い渡します」
そうして一つ、小さく息をついた。対する者は、身をやや強張らせて次の言葉を待つ。
「ゲルトルート・バルクホルン大尉、あなたには十日間の自室禁錮を命じます」
501統合戦闘航空団隊長であるミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ中佐は、上官らしくぴしゃりとそう言い放った。
今まで軍人として生きてきた中で、上からの命令を違えた事など一度も無い。よって、今回の一件で生まれて始めて禁錮を受ける事となったバルクホルンだが、自分へと下された罰が不当に軽いものである事ぐらいは分かっていた。窮地に陥った仲間を助ける為の行動だという斟酌もあるのかもしれないが、彼女はそんなものは少しも欲しくはなかったのである。
命令は遵守されるもの。そして罪には痛みを。
それが大きなものであれば、きちんと両者を対応させなければならない。そうあって然るべきだと、心の中で何度も繰り返す。
「やはりミーナは身内に甘過ぎる部分がある……」
平素であれば、夜の基地はとても静かなものだ。しかし今夜は、長い廊下に不機嫌そうな足音が響いている。その主は、赤毛の上官に届かないとは知りつつも呆れた様に呟いた。彼女は有能な指揮官であると同時に慈悲深い人物であると、長年の付き合いから理解は出来るが、これではまるで部下に示しがつかない。同郷の間柄である故のお目溢しだと、心無い者からの誹りを受けても、そこに弁解する余地が無いからだ。バルクホルンはそれによって、自分だけではなくミーナまでもが不利益を被るのではないかと、忸怩たる思いだった。
歩を止めて、やはり先程の部屋へ引き返そうかと考える。
しかし処分を聞かされてから、すぐさまその正当性に異を唱えたものの、まるで取り付く島もなく『退出してよろしい』とだけ繰り返していた隊長を思い出すと、それが無駄でしかないのは明らかだった。
「もしかすると、私がこんな風に煩悶するのが本当の罰なのかもしれないな……」
それならば、これは責任感が人一倍強い彼女にとって最も厳しいものであった。
バルクホルンは少し重くなった両肩を落としつつ、また進み出す。その背中がやけに疲れて見えたのは、魔法力の枯渇だけに因るものではないだろう。
いくら暖かいロマーニャといえど、夜は冷える。首筋にぽとりと水滴を垂らされた様な錯覚に、小さく身を震わせた。
「しかし本当に騒がしい一日だった。軍人になってから、一番だったかもしれない」
誰もいないというのに、また言葉を紡ぐ。
そして自分はこんなに壁に話しかけるのが好きな性質だったかと、苦笑した。
「とにかく今日は、もう休んでしまおう」
独り言はこれで最後だと言わんばかりに勢いよく言い切ると、ノブに手をかけて目の前にあるドアをそっと開いた。中で寝ているであろう、同室のハルトマンは滅多な事で起きたりはしない。しかしそれが気遣いをしなくていい理由にはならないと、そう考えるのがバルクホルンの為人である。案の定、ジークフリート線の向こう側に広がっているゴミの山の中心にあるベッドの上には、こんもりと盛り上がったシーツで覆われた小さな山がまた一つ。
ゴミとベッドと窓から差し込む月の光で大方を構成されたような珍妙な室内で、時折可愛らしい寝息が混じる。それを聞いたバルクホルンの心に、僅かな寂寥感が生じた。
別に帰りを待っていて欲しかったわけではなかった。だが今まで厳格な軍人たれと自戒し努めてきた己が崩れてしまった事が、彼女を精神的な不安定に陥らせたのであろう。就寝してしまう前に誰かと。いや、最も心安い仲間であるハルトマンと言葉を交わしたかったのだ。
しかしその願いはどうやら叶いそうにもない。
バルクホルンは弱々しく数回頭を振ってから、リボンタイを解いた。
しゅるりと、布が走る音がやけに彼女の耳をついた。
/01
起床のラッパが鳴るきっかり十五分前。それがゲルトルート・バルクホルンが意識を覚醒させる時間である。そしてすぐさまベッドから下り、寝ている間に乱れたシーツを直してから着慣れた軍服に袖を通す。
もう幾度となく繰り返したせいか体は自ずと動き、惰眠を貪る事は決して無い。そして全ての準備を終えると、両肩をゆっくりと回す様にしてから大きく息を吸う。すると体の隅々に酸素が行き渡り、何とも言えぬ心地良さを感じられた。
今日の天気は快晴。窓から見える空には雲一つ無く、飛ぶには最適な天気だった。
彼女は朝を苦とせず、むしろ好ましいと思っている。だから隣にいる寝汚いハルトマンの気持ちがさっぱり分からなかった。軍籍に身を置くのならば、通常よりも厳しい規律の下で規則正しい生活を送る事が当然であり、またそれが有事の際の備えにもなると信じていた。
「起きろ、ハルトマン! もう朝だぞ!」
幼い子供が聞けば泣いてしまう位の大声を出したが、返事などあるはずもない。今迄で一度だって、彼女がすんなりと起きてきた例があっただろうか。残念ながらバルクホルンに、そんな記憶はまるで再生されない。
「起きるんだ! 今日から私は自室禁錮となっている、だからお前は早くここを出るんだ!」
こう言ってみたものの、実際はミーナはそんな指示を出してはいない。しかしバルクホルンにとってそうする事は至極真っ当な行動だった。罰は一人で償うものであり、同室で誰かと一緒に過ごしながらなどというのは、ひどく軽薄で不誠実だと考えられたからだ。
だからこそ、早く目の前にいるハルトマンを起こさなければならない。毎日毎日それに盛大な労力を払っている彼女は、強硬手段も已む無しとジークフリート線を越えようとする。そして石畳の床に走る赤色を右足で踏んだ瞬間、それが合図だったのか。
「えっ、トゥルーデ。なにそれっ!?」
シーツを足で蹴飛ばすようにして、ハルトマンは起き上がった。
稀に見る盛大な寝起きである。
「お、おお。感心だな、今日は随分と寝起きがいいじゃないか。普段からも――」
「そんなことどうでもいいよ、っと」
大きくベッドから跳ね、掛け声と共にゴミの山を飛び越える。その際に程よく筋肉のついた足が露になり、思春期の少女特有の美しさがぱっと咲いた。
そのままバルクホルンの傍に着地すると、涎の痕も寝癖も気にしない風で彼女の左袖を握り締め、矢継ぎ早に問いを投げかける。
「どうして同室の私が出て行かないといけないのさ。それに待機じゃなくて、禁錮刑にまでなっちゃったの?」
「ど、どうしても何も私がそう判断したからだ。うん、少し時間があるな。ちょっと座れ」
ハルトマンの予想外の勢いにやや戸惑い、数歩後ずさりながらもバルクホルンは答えた。そして窓側にある中立地帯。ジークフリート線上にあり、互いの領域を等しく侵犯する様に設けてあるテーブルセットへと部下を促した。
「朝から長い話は聞きたくないんだけどなぁ」
「安心しろ、すぐ終わる。お前だって朝食を食べて、訓練に行かなければならないんだから、それに支障が無い程度にはな」
「あー、今日は昼からじゃないんだよね。面倒」
堅物と評される上官には聞き逃し難い言葉が漏れたが、それは無かった事にしたらしい。二人は直に対面して、まずはバルクホルンが座った。そしてどうやら昨日の夜、ハルトマンはきちんとズボンを着用したまま寝ていたらしい。まだ夜の冷たさを残したままの椅子に、躊躇せずに腰を下ろした。
お互いに視線を絡ませて、瞬きを三回ほどした後だろうか。バルクホルンは口を開く。
「最初に、私に下った処分を言っておく。不本意な事甚だしく個人的には全く納得はしていないが、十日間の自室禁錮となった」
「そうだよ、トゥルーデ別に悪くないじゃん。非常事態だったんだし」
「違う、お前は何を言っているんだ! 本来ならもっと重くあるべきだという事だ! 命令に違反し私情に駆られて行動した結果、部隊と戦局に著しい混乱を招いたのだ。カールスラント軍人としてあるまじき失態ではないか。それなのにたったこれだけだぞ!」
両掌をテーブルに叩きつけながら、バルクホルンは激昂した。昨夜の内に抱いてきた感情が今更になって爆発したのか、それは炸裂弾よりも苛烈だった。
一方のハルトマンは、その言葉を受けて自身の中に冷ややかな怒りを灯した。それをあからさまに表情に浮かべはしなかったが、目の前の戦友がひどく間抜けな事を口走ったせいで、形の良い眉をやや顰める程度には十分である。
「そんな風に言わないでよ。トゥルーデがああしなければ、シャーリーだって危なかったかもしれないんだ。大事な仲間を守ったんだよ。なのに、それを間違ってたって言うの?」
「それはそれ、これはこれだ。あの時、私は自分の良心に基づいて行動した。それについての反省はあっても後悔はない。だが結果がどうあれ、命令違反をしていいという理由にはならんだろう。私も大尉という地位にあるのだし、部下の模範となるように振舞う義務がある」
ああ、そうだ。この人はこういう人だ。
ハルトマンは溜息を吐きながら、この上官が頑固で真面目で堅物であると再認識した。
『結局は自分がただ落ち着きたいだけじゃん、それを一々規律とかで取り繕っちゃて』
心中でも大きく溜息を吐いて、毒づく。だが実際にぶつける事はしない。それをしてしまえば、きっと彼女は今以上に凝り固まってしまうだろうから。
しかしハルトマンには、その中にある変化が嬉しかった。
誤解されがちだがバルクホルンという人間の本質は、冷徹などというものからは程遠い。ただ人よりも使命感や義務感に縛られがちで、視野狭窄に陥る嫌いがあるだけなのだ。その結果として、優しさや人間味を持ち合わせていないと評される事が多い。特に妹が負傷して意識を失っていた間は、それが顕著であった。まるで機械の様に戦闘と訓練を淡々とこなし、ネウロイの撃墜数を重ねるだけの装置。そう思われても仕方が無い程に。
ストライクウィッチーズが結成されてからの彼女しか知らない者。例えばリーネやエイラが、バルクホルンの姿を視界の端に収めただけで居心地悪そうに体を小さくしたり、それとなく用事を思い出した風にして部屋を出て行く事などは数え切れなかった。当の本人もそれを咎める事をせずに、小さく鼻を鳴らす程度のものだった。
そんなバルクホルンが、命令違反をしてまで仲間を助けた。
しかも、それについては後悔をしていないというおまけつきで。
自分の子供の善行を誇らしげに思う母親の様な、なんともむず痒い気持ちがハルトマンに湧き上がる。それに伴って頬が少しだけ紅潮したが、彼女はその事には気づいていない。目の前で顔をつき合わせている人物も、その変化に気づかなかった。
「覚えているか? まだ私達がJG52にいた頃、あの名前を出すのも気に食わない問題児のマルセイユが、ストライカーユニットを壊しすぎて禁錮となっていただろう。あの時も同室だったお前は、別室へと移るように言われただろう」
つまりはそれが正しい軍規に則った判断というものであってだな、などと訥々と語る事に夢中になっているバルクホルンだが、ハルトマンの耳には右から左へと流れていくだけだった。
「分かったよ、もう。これ以上軍人のお小言なんて聞きたくないし、ひとまずは合格点って感じだしね。花を持たせたげる」
やや口早にそう言って、わざとらしい動作で立ち上がった。その際に椅子が倒れてしまいそうになり、ハルトマンは慌てて手を伸ばす。そして石畳と木材による騒音が撒き散らされるのをなんとか防ぐと、さっさとドアに向かって歩き始めた。同僚のナイトウィッチの場合とは違い、バルクホルンの話を聞くのはエネルギーを大量に消費するのである。かわいらしく鳴るお腹は、朝食の必要性を自覚させるには十分過ぎた。
「待たんか、まだ話は終わってないぞ。それにそんな格好のまま外に出るなどだらしない、せめてシャツぐらいは着んか! こら、逃げるんじゃない!」
自分の背後からガタガタと落ち着きの無い音と、引止めの言葉が追ってきたがそんなものは聞こえない事にすればいいのだ。ハルトマンはそう考えて、手早く床に脱ぎ捨ててあったシャツとジャケットを拾い上げる。
「んじゃね、トゥルーデ。ご飯はそのうち持ってきてあげるよ」
小悪魔のような部下はそんな置き土産をして、ドアを後ろ手に閉めていった。そして部屋に一人の上官が残される。離れていく彼女を掴もうとして空を切り、手を伸ばしたままのその姿はなんだか間が抜けていた。
普段なら簡単に逃がしたりはしない。きっとすぐさま彼女の襟首を捕まえるのだが、部屋の外へと出られてしまってはどうしようもないのだ。何故なら禁錮中の身の上である。おいそれと出て行くわけにはいかない。バルクホルンは一日目の開始一時間も経たぬうちに、自らの不自由さを痛感する事となる。
「全く、いくつになっても世話が焼けるやつだ」
鬱憤を晴らすつもりで、そう呟こうとする。しかしそれは起床を告げるけたたましいラッパの音によって遮られ、彼女の願望を果たすには至らなかった。
/02
何もしてはいけない一日というものが、これほどにまで長いとは。
バルクホルンは椅子から窓の外を見ながら、生まれて始めて気づいた事実に驚愕していた。
当初の予定では、室内であってもできるトレーニングで、体力作りをして日々を過ごそうと決めていたのだ。そうすれば十日後にすぐに実戦に復帰する事が出来る。訓練を絶やしてしまっては己の戦力の低下に繋がるという考えから、彼女は昨日の朝食を終えてからしばしの休息の後、すぐに体を動かし始めた。
しかしそれは「魔法力の早期回復の為にも、体に負担をかける運動は禁止します」という、ミーナによる無慈悲な命令によって中止を余儀なくされたのである。
そう言われてしまっては、不服であれ従うしかない。バルクホルンは渋々といった感じではあったが、その命令を受け入れた。その様子を見てミーナは満足そうに頷くと、彼女が隙を見てトレーニングを再開しないように、ご丁寧に監察役を寄越す旨を続けて伝えてきたのである。時間の空いている隊員が、不定期にやって来ては部屋を覘いていくので、バルクホルンは閉口した。それは階級が下の人物である場合が殆どだったが、坂本やミーナがやってくることもあり、そのせいで基地の機能が円滑に進んでいないのではないかと心配になるほどである。
そんな中で、きちんとノックをしてから部屋に入ってくる者と、唐突にドアを開け放つ者に分かれている事に彼女は気づく。前者は宮藤、リーネ、ペリーヌ、坂本、ミーナの五名。後者はエイラ、ハルトマン、シャーリーの三名である。ルッキーニとサーニャの二人はそもそもこの役目を言いつけられていないのか、未だに姿は見せていない。
監察役なのだから、ノックをして事前に知らせてしまっては意味が無いのではないかとは思いはするが、バルクホルンは彼女らのその礼儀正しさに好感を抱いた。
そのように入念な管理下では、できる事は両手で数えられる程に限られている。
もう何度も読み返した銃器のマニュアルに目を通したり、徒にチェス盤を触ってみたりはするものの、直に飽きてしまうのだ。
「退屈が人を殺すとは、古人は実に本質を捉えた事を言う」
先ほどまで読んでいた、カールスラント語の文字が印刷されたハードカバーを硬くなった指先そっと撫でる。この指は引き金となり、ネウロイを倒すための指だ。いいや、指だけではなく彼女の身体全てがもはや戦う為だけに作り変えられている。
それを無くしてしまったら、一体自分はどうなるのだろうと。バルクホルンは漠然とした不安に襲われる。すると首筋の産毛がやけに敏感になった気がして、思わずそこを覆うように手をやった。その掌も硬く、我ながら到底女の物であるとは思い難かった。
まだ二日目午後を回ったばかりだというのに、これでは先が思いやられる。
「やれやれだ。時間を持て余すと、どうにも碌な事にならんな」
今の自分に必要なのはとにかく大量の空白を埋める物だと、恨み言を吐き捨ててから確認した。トレーニングが不許可だというのなら、デスクワークでもすべきか。そんな考えが頭に浮かんでくる。バルクホルンは本国では既に少佐に昇進との打診もあり、今までも補佐として書類整理の仕事の経験はそれなりにあった。
だがこの部隊の書類を一手に担っているミーナが、此度の要望を許してくれるとは思えない。それはバルクホルンの仕事ぶりが心配でそうするのではなく、この十日間を何もさせずにただの休暇として過ごしていて欲しいという親切心からなのだ。しかしそれによって余計なストレスを抱えてしまっては意味が無いのである。扶桑にある貧乏性という言葉が、自分にはぴったりだとバルクホルンは苦笑した。
さて、どうしたものかと腕組みをして唸っているとドアがやかましく開け放たれた。
確率は三分の一だが、ここまで無遠慮にやらかすのは一人しかいない。
「ノックぐらいはしたらどうだ、ハルトマン」
閉じていた両目に片方だけ光を入れ睨め付ける様にしてみるも、今までこの自由奔放な部下が怯え竦んだ事は無い。今回も毎度の如く、自分を貫く眼光をあっさりと躱してバルクホルンの元へとステップを踏みつつ近づいた。
「いやー、今日はまだ挨拶してなかったからさ。トゥルーデが寂しくて泣いてるんじゃないかって心配だったよ。優しいね、私」
「寝言は寝ていうものだぞ。それにお前には今日、哨戒任務があったはずだ。こんなところで油を売ってる暇があったら、とっとと準備をしろ。兵は神速を貴ぶという言葉もある」
「午前の任務だったからもう終わりましたよーだ。本当は午後からペリーヌとのロッテを組むはずだったんだけどね、なんか変更があって私が先にやるように少佐から言われたんだ」
「む、何かあったのか。ひょっとして私が欠けたから――」
ハルトマンの言葉にさっと表情が陰る。十一人という少数精鋭であるウィッチ隊は、今までにない柔軟な運用をする事ができるが、如何せん不測の事態に弱い。
自分が起こした不祥事による影響がこんなところで表面化したのかと、バルクホルンの心は錆びた棘で抉られる様に痛んだ。
しかしそれは杞憂だった。
「違うよ。なんかルッキーニのストライカーが調子悪くなっちゃったみたい。ロマーニャのユニットって結構トラブルが多いよねえ。ガリアのやつよりはマシだけどさ」
だから安心して、トゥルーデ。とハルトマンは付け足した。そしてゴミで囲まれていない、自分の物ではない方の几帳面に整えられているベッドに豪快に飛び込んだのである。
スプリングが軋む音にぎょっとしながらも、バルクホルンは自身が原因ではなかった事に安堵した。そしていつでも確認できるように、引き出しに入れておいた一枚の紙を取り出す。
そこには一週間先までの予定が印刷されている。そして本日の午前の哨戒任務の欄に名前があるのはフランチェスカ・ルッキーニ少尉と、シャーロット・E・イェーガー大尉。
この凸凹なロッテは大層仲が良く、大層自由が過ぎる。一人だけでも頭が痛いというのに、この二人はとにかく一緒にいる事が多いものだから、大騒ぎをしては基地の中を引っ掻き回す事などはもはや風物詩だった。
だが斑があるのは確かだが、空戦技術には文句は無い。特にシャーロットの方は、ああ見えて周囲を見る事に長けており長機としても僚機としても有能であるから、ハルトマンも満足に任務を終えられたと思われる。
バルクホルンはそう納得すると、ほうと息を吐いていつの間にか強張っていた肩を下げた。
「それでどうかしたのか? わざわざ追い出された部屋にまで来て、何か報告するような事があったとも思えないが」
「いや、別に報告って程じゃないんだけどね。やっぱりちょっと違うな、ってさ」
「違う? 一体何がだ。もしかして、お前のユニットまで調子がおかしいとか言うんじゃないだろうな。それはいかんぞ、小さなミスが命を奪う事もあるのだ。すぐに整備兵に――」
ハルトマンの言葉に俄かに色めき立ち、立ち上がろうとした。
「それこそ違うよ。私が言ってるのはシャーリーと飛んでるって事についてね」
早合点した上官に呆れる様な声で、部下は答えた。そして続ける。
「普段はさ、やっぱりトゥルーデと飛ぶ事が多いじゃん。だから何も言わなくても次はどうするとか、ここはこうするとか。体が覚えちゃってるんだよ。私の固有魔法のせいか、シャーリーから感じる風ってなんだかいつもより強くてさぁ。違和感でぞわぞわーってなるの。もちろん任務に支障はないけど、完璧じゃないんだ」
そんな風にハルトマンが、予想外の事を言うものだからバルクホルンは面食らう。
ひどく恥ずかしい事を言われた気がして、自分が赤面するのを感じた。そしてこれを見られてはなるまいと、勢いよく顔を伏せる。そのまま自分の膝と椅子と床の三点に漫ろに視線をやってから、そっと顔を上げて前髪越しにハルトマンを盗み見た。
しかしそれは叶わず、ベッドに寝転んで自分に背を向けた小憎らしい姿を捉えただけである。助かった、と思うと同時に悔しくなって歯噛みした。普段からふざけた態度ばかりでポーカーフェイスをなかなか崩さない部下が、今どんな表情をしているのか知りたくもある。しかし本人からすると別段、特別な事を述べたつもりも全く無いのだろう。
『あいつは、そういうやつだ』
気紛れに心を引っ掻き回しては、するりと溶けてしまう。
だからこのまま百面相をしていたら、そのうち振り返られてからかわれるのが関の山だと。バルクホルンはそう考えて自分の両頬をぴしゃりとやると、筋肉を無理矢理に動かす。すると五秒程で堅物と揶揄される顔へと戻る。そのまま勢いをつけて立ち上がり、ベッドへと歩を進め始める。自分は禁錮中なのだ。それなのにこのまま雰囲気に流されてしまっては、一日目の朝にせっかく追い出したハルトマンが居ついてしまう気がしたので、それを打破する為に強い鼓動を告げる心臓をねじ伏せて動いたのだ。
接近する足音の主へのせめてもの抵抗なのか。ハルトマンは機敏な動作でシーツを持ち上げると、頭の先からそれにすっぽりと包まった。もちろん表情など分かるはずもない。
ベッドの上で芋虫の様にもぞもぞとしている彼女は、思いの外に強情だった。
いくらバルクホルンの固有魔法が怪力とはいえ、無理に引っ張ればシーツが凄惨な姿となってしまう。ハルトマンが内から巻き込むように引っ張り、そうはさせじと逆の方向へと力を込める二人は、互いに無言だったのも手伝って滑稽と表現する他ない。
一方は未だに気恥ずかしさが抜けきっていないので、恐ろしい事を口走ってしまうのを恐れたからこそ、無言である。この場合のもう一方はどうなのだろう。
奇妙な綱引きは続いている。
このままでは埒が明かないし、不毛な事この上ない。そう考えた上官は一度だけ、魔法を行使する事に決めた。実際のところ、この部下を放置しておけばそのうちに飽きて姿を露にするだろう。しかし負けず嫌いのバルクホルンはそれを良しとしなかった。
慎重かつ、大胆に。
まるでネウロイへの攻撃をする時の心構えではないか。
繭の中で上下する芋虫の力の緩急を見極め、絶好のタイミングで思いっきり引っ張る。
それだけなのだ。彼女は自分の勝負運が中々に強い事を自覚していたし、その相手が長年連れ立った者であれば尚更である。
『もらったぞ、ハルトマン!』
精神を奮い立たせ、一足早い勝鬨を上げた。
しかし、それが最大の誤算となる――
バルクホルンが渾身の力を込めた時に、ハルトマンはそれをすっと手放したのだから。
結果どうなるか、逐一説明するまでもない。勢い余って後ろに倒れ込むならまだしも、壁に強かに後頭部と背をぶつける事となってしまった者が誕生した。不意討ちに、星が瞬く。
「ばか」
その合間を縫って、ハルトマンはあっさりと逃げ出してしまった。
バルクホルンは反射的に零れた涙で滲んだ世界を数回開閉してから、頭にできた瘤を摩る。それは見事に膨らんでいて、衝撃の度合いを雄弁に物語っていた。
そして部屋には彼女だけが残される。ともすれば先程までの出来事が白昼夢だったのではないか、とそんな錯覚までがぬっと部屋全体に漂った。そもそも、ハルトマンがあんな台詞を口にするなんて有り得ない。おそらく退屈の海に溺れた自分が、椅子に座ったまま微睡んでいたのだ。そしてバランスを崩してみっともなく床に転げ落ちたのだとすれば、なにも不自然な点はない。そう思い込もうとしたが、目の前には証拠が転がっている。
一つ目は退出する際に開け放たれて、そのままになっているドア。おまけに廊下からは誰かが騒々しい音を立てて遠ざかっていくのが聞こえる。二つ目は彼女が今手にしている微かな温もりが残ったシーツと、それの本来の居場所であるベッドはトランポリンでもしたみたいに皺くちゃだ。
もう、どうしようもなかった。
体が覚えちゃっているんだよ、なんて聞く人によっては大きな誤解を招くではないか。
それを思い出して、バルクホルンはまた赤面した。顔だけではなく、首筋や耳までが染まる。こんな風に邪推して勝手に盛り上がってしまうのも、退屈のせいなのだろうか。
悶々とした気持ちを払拭しようとするが、どうにも上手くいかず。むしろどうすればよいかが分からず、痛みを抱えた体をそのままにバルクホルンは座り込んでいる。石畳の冷たさ程度では、熱は収まりそうにもなかった。
どれほどそうしていたか。バルクホルンは自分の周囲が薄暗くなっている事に気づき、はっとする。いつまで放心していたのかと慌てて時計を見ると、なんと三時間程が経過していた。
「不覚をとったか……」
呟いた言葉が落ちてから、のろのろと立ち上がる。どうやら痛みも瘤も引いてしまったようだ。体に異常がない事を確認してから、彼女はゆっくりと伸びをする。すると関節が小気味良い音を響かせた。
体を外に出してしまわないように腕を懸命に伸ばして、ドアを閉める。それからシーツを大きく翻らせてから、てきぱきと手際良くベッドメイクをし直した。すると室内は平素の様相を取り戻し、そこでようやくバルクホルンは落ち着く事ができたのである。
「そういえば、気になる事を言っていたな」
自慢ではないが、彼女にとってハルトマンは自分とロッテを組んでいる時が一番いい動きをしているように見えた。もしそれが勘違いでないとしたら、誰が相手であったとしてもその力を発揮できるようになったとしたらどうだろう。そんな考えが頭に浮かんだ時、バルクホルンは大きく頷いた。どうやら、この残りの八日間のうち何日かは無為に過ごす事は無くなりそうだ。彼女は上機嫌で机に向かう。そして再び時計を見ると、夕食まではあと一時間弱。
これ幸いと、配膳係の者にちょっとした用事を頼む事にした。小間使いのような事をさせるので、できれば上官でなければありがたい。などと考えながら椅子を軋ませる。
紙が必要だ、ひとまずは二十枚程の。
バルクホルンはひとまず手元にあった万年筆を手に取って、引き出しから一枚の白紙を取り出す。すると角張った彼女の為人をよく表している文字でこう記した。
『エーリカ・ハルトマンとの空戦における報告』
誰でも読めるようにという配慮から、言語はブリタニア語が選択されている。
「さて、私の知る限りの全てをここに記そう」
禁錮刑となってから初めて、バルクホルンの顔に笑みが浮かんだ。
/08
執筆は昼夜兼行であった。
当初の予定では二十数枚で終わるはずが、下書き、推敲、清書と段階を踏めば踏むだけその枚数は増えていく。清書がまた下書きとなり、その清書がまた下書きとなるといった風に。それはさながら、転がり落ちていく雪だるまである。
そして最終的には118ページに及ぶ書類ができあがってしまった。
完成時には達成感で我を忘れ、たまたま部屋を訪れていたエイラにこれを見せつけたのだが「こんないっぱい読めるわけないだろ、気づけよ」とばしゃりと冷水を浴びせられたのだ。
そこで初めて冷静になって読み返してみると、なるほどその通りである。まるで要点が整理されておらず、ただ詰め込める物をありったけ詰め込んだだけの代物がそこにあった。
「これでは使い物になるはずもない。やはりバランスが大事だな。武器でもいくら火力があっても扱いにくければ意味がないものだ。そうすると改善点は……」
急に思案顔になって一人でぶつぶつとやり始めたバルクホルンに、エイラは半目になった。
「うええ。ミヤフジと一緒の時よりも変で気持ち悪いぞ、大尉」
そんな言葉を気にもせず、再び机に向かったのが一昨日の夜。
本日は禁錮8日目である。徹夜のせいか、バルクホルンの目の下にはくっきりとした隈が刻まれている。普段なら燦々と輝いて活力を与えてくれる朝の太陽も、今の彼女にとっては天敵となった。それがひどく自分勝手な理由だと知りつつも、少しでも目を休める為に部屋中のカーテンを閉め切る。すると丁度良い暗がりができた。
「さて、あとはサインを書くだけだな」
その程度ならばこの明るさでも何も問題はないと、椅子に座ってから穏やかな気持ちで万年筆を握り締める。静かな部屋には紙をインクと一緒に掻き毟る音だけが響き、それが止んだ時に報告書は真の完成を見た。
改訂する事四回、熱中のあまり食事を摂らずにミーナから怒られた事二回、机に突っ伏して眠ってしまった事三回、冷ややかな視線で刺された事数え切れず。そして総執筆時間は100時間にも手が届きそうな、バルクホルンの努力の結晶がそこに存在した。
「私は同じ轍は踏まん!」
誰もいないというのに拳を振り上げつつ大きくそう宣言して、枚数を確認する。
それは何度確認しても28ページという実にコンパクトにまとまっており、分かり切った注意事項をつらつらと退屈に並べてあるFw190D-9型のマニュアルよりも、よっぽど読みやすい物となっていた。できれば図示により更なる理解を深める為の手助けとしたかったのだが、バルクホルンは絵が不得手だったので、仕方なく文字のみの構成となっている。しかしそれでもこの報告書には、十分な価値があると彼女は信じていた。そしてかつてない充足感と睡眠欲が彼女を襲う。今だけはこれに埋没してしまいたいと、その身を委ね掛けた時だった。
「メシの時間だぞーっと!」
あっけらかんとした声がそれを阻んだ。
続けて皿やカップを乗せたカートが、がらがらと賑やかに部屋に闖入してくる。せっかく至福の時に浸っていたというのに、これはひどいのではないか。そう思ってバルクホルンはシャーロットに目をやる。不健康そうな顔付きに加え、不機嫌さを微塵も隠していないカールスラント人にリベリアンは少しだけたじろいだ。
「おいおい、そんなに怒るなよ。ほら、今日はポテトだぞ。お前の好きな」
子供をあやす様な猫撫で声に毒気を抜かれたのか、はたまた好物に魅かれたのか。バルクホルンは相好を崩し、ぐっと体を伸ばしてから、フライドポテトをひょいと摘んでもそもそと食べ始める。いつだって折り目正しい彼女らしくないその所作に、シャーロットは驚いた。
「大分お疲れみたいじゃないか。無理は良くないぞ、まだ病み上がりだろう」
「あまり私を見くびるなよリベリアン。体調管理も軍人の仕事のうちだ」
「はいはい、それは失礼いたしましたっと」
「まぁ気持ちだけはありがたく受け取っておこう、ご苦労だったな」
いつもの軽口を数回交わしてから、シャーロットは気づく。バルクホルンが素直に自分への感謝を述べたという事に。もしかして睡眠不足のせいで、思考回路に異常を来したのかと疑ったがそれは違う。元よりバルクホルンはシャーロットのことを嫌ってはいないし、見縊ってもいないのだ。ただ彼女は褒める事よりも叱る事の方が、軍隊という組織に置いて大きな役割を持つと考えているだけである。
珍しい事もあるものだと立ち尽くしているリベリアンを尻目に、カールスラント人はカートから皿をテーブルへと移していく。
黒パン、ルッコラのサラダ、スクランブルエッグにヴルスト、野菜のポタージュ、そしてコーヒー。最後に山盛りのフライドポテトを並べると、バルクホルンはナプキンでしっかりと手を拭いてから、食卓についた。シンプルなメニューではあるが中々に豪勢な内容に、彼女は自分が本当に恵まれた環境にいると改めて感謝した。
最初はコーヒ−を口に含み、その香りを楽しむ。そしてナイフとフォークを使ってヴルストを切り分けようとした時に、がたんがたんとやかましい音が響いた。
何事かと目の前の皿から顔を上げてみれば、そこにはハルトマンの敷地から椅子を持ち出してくるシャーロットがいた。そのままバルクホルンのテーブルにまで近づくと、背もたれを前にしてからそこに両手を乗せる様にしてどっかりと座る。小さく軋む音がした。
「一人よりも二人だよな、食事っていうのはさ。幸せが二倍だ」
そう言ってフライドポテトを一度に三本も掴むと、一気に口へと放り込んだ。まだ湯気が立っているぐらいには熱いものを、よくもまあそんな勢いで食べられるものだとバルクホルンは感心する。しかし、ただ食い意地が張っているだけだと思い直した。
「私の取り分は半分になりそうなんだがな」
「気にするなって。それにこの量だと食べきれないだろ。それにお前、部屋に引き篭もっちゃってるし普段みたいに食べてると太っちゃうぞ。だからこれはあたしの親切心だよ」
澄ました顔でカウンターパンチを繰り出してから、シャーロットは再び獲物を消化し始めた。うまいうまいと繰り返しながら、快調に山を崩していくその様子とは対照的に、バルクホルンの手の動きは鈍い。
確かに一週間以上、まともに訓練はできていなかった。部屋の中で体操するなどの軽い運動をしてはいるが、消費する熱量が微々たるものである事に疑問の余地は無い。
言われて初めて自覚したのか、そっと自分の下腹部に目をやると前よりもそこが膨らんでいる気までしてきたのである。ひょっとしたらそれは気のせいなのかもしれないが、バルクホルンの気持ちは乱れた。そして眼前で暢気かつ幸せそうに芋を貪るリベリアンに、恨みがましい気持ちを抱く。彼女のプロポーションは同性の目からしても素晴らしいものであり、今自分を襲っている悩みなどとは無縁であるように思われたからだ。
「んふふふふ。気にすんなよー、冗談だからさ」
自分から言っておいて勝手な事を! と、反射的に口にしそうになるのをぐっと飲み込んで、黒パンに噛り付く。独特の酸味がじわりと広がった。
程なくして食事は終了し、結局シャーロットは八割程のフライドポテトを自分の胃袋の中に収めていた。少しからかいすぎたか、と彼女は反省する。普段では女らしさなど見せないこのカールスラント人が、まさかここまで冗談を気にするとは思っていなかったのだ。
「ごちそうさまでした」
二人が同時に食後の挨拶をする。それを終えるや否や、バルクホルンはある物を差し出した。それは大型のクリップで纏められている紙の束である。
「リベリアン、これは特にお前に目を通していて欲しい物だ」
「ん、なんだ? お前が一生懸命やってたのは人から聞いたけど、もしかしてこれか?」
「ああ、ハルトマンの一言からヒントを得て書き記した。頭に入れるだけなら。二時間もあれば十分だろう。効果的な戦闘方法の為にも心して読むように」
そう告げて相手へと所有権を移そうとしたが、寸前でそれを引っ込めた。中身はともかく、とりあえずは受け取ろうとしたのにタイミングをずらされる形となる。
「今はまだ複写ができていないので、一点物だ。間違ってもエンジンオイルで汚したり、コーヒーを零したり、油まみれの手で触って染みを残したりするのは厳禁だぞ」
まるで母親の様な物言いにシャーロットは懐かしさを感じつつ、自分の鈍い光沢を持った右の親指と人差し指の先の一本ずつを遠慮無く口に含んだ。まるで子供の様に。
しかしそれからの行動は、どう見ても子供のものではない。
シャーロットは舌が吸い付く音をわざとらしくさせてから指を抜き、濡れたそれをバルクホルンが使ったナプキンで拭う。そして挑戦的な色を含ませてから、視線をやった。
「そういった事は相手を選んでからやるといい」
アプローチはけんもほろろに切り捨てられる。どうやらこの手の冗談は、目の前にいる相手のお気に召さなかったらしい。ペリーヌに似たような事をした時は烈火の如く怒られたが、そっちの方がまだ可愛げがあったと、シャーロットは思い返す。
「お堅いねぇ」
「お前と一緒にされては困るな」
いつの間にか両者の間にはやや冷めた空気が流れている。潮時と考えるには十分だった。
「分かったよ、今日中には済ませておく。それでいいだろ?」
「いや、できればこれからすぐに頼む。そして実践する機械があった場合、これに間違いがあったら聞かせて欲しい。大尉は今日、午後からハルトマンと哨戒任務があったはずだ」
「よく覚えてるな。私はさっき中佐に言われて思い出したぐらいなのに」
軍人としての意識の差を感じつつも、バルクホルンはそれを咎める事はしなかった。何故なら心身は連日の執筆によって強い疲労を覚えていたし、その状態で食事を摂ったものだから、脳はただひたすらに睡眠を欲し始めたからである。ウィッチとて本能には逆らえないのだ。
「ハルトマンと一緒に飛ぶ時の留意事項を記してある。尤も私の経験からではあるがな。特に難しい事は求めていないから、少し頭に入れておくだけでもいい」
頼んだぞ、お前の実力ならば容易いはずだ。
そう最後に付け加えてから、バルクホルンは席を立った。そしてふらふらと少し覚束無い足取りでベッドに辿り着くと、そこに倒れ込んでから直に寝息を立て始める。
「いや、それは普通に無理だろ……」
階級は同じ大尉にあるとはいえ、彼女とのウィッチとしての力量差は歴然としている。人類二位の撃墜数を誇る、カールスラントのスーパーエースから『自分と同じように動け』なんて事を言われてすぐに実行できる者がこの地球上に何名いる事か。少なくとも、シャーロットはそうではない。これは己が力量を正しく把握しているからこその認識である。
「一応は見ておくけどさ」
今までのシャーロットならなにか適当な理由を付けて、それを回避していただろう。しかし彼女には自覚していない程に僅かではあるが、バルクホルンへの負い目があった。
使用禁止だったジェットストライカーを使ってまで、ピンチに駆けつけてくれた事は、心底意外であったしそれを嬉しく思った。今までのそれなりの付き合いの中で、ひどく嫌われてはいない自信はあったが、自分の為に犠牲を払ってくれる程に良好な関係を築いているかどうかは不明だったのである。それが先日の一件で、明らかになったのだ。
「それなのにこっちが尻尾巻いちゃったら、リベリアンとしての名折れだからな」
シャーロットは聞こえないように小声でそう言ってから、テーブルの上に並んだままの空の食器を片付け始める。本来ならば食事を運ぶのはリーネか宮藤の役目だったが、今日は気まぐれにそれを代わったのだ。そこには何の意図も無かったが、そのお釣りは予想以上に大きなものとなり、彼女の顔に笑みを湛えるには十分だった。
昏々と眠っていたバルクホルンの意識を強引に覚醒させたのは、基地中に轟く敵襲のサイレンだった。それは彼女の一番深い部分へと入り込んで、四方へと拡散する。
それによって睡魔は一瞬で体から消え去り、ベッドから飛び起きた。敵の規模はどれほどだと脳内でシミュレートしながらドアノブに手をかけようとして、はたと動きが止まる。
彼女は未だに禁錮中である。敵襲があろうともその処分を撤回されなければ、出撃する事は適わない。もしここでそれを破れば、数日前と同じ過ちを繰り返す事になる。
彼女はいつだって前線に赴き、ネウロイと戦っていた。予備員として戦闘時に基地で待機をしていた事は何度もあったし、それを不満に思ったことは無い。それは一重に、自分の手が必要になればいつだって飛んで行けるという前提があったからだ。
だが今のバルクホルンはそうではない。
彼女に出来る事は、仲間の無事を心から祈る事ぐらいのものである。
窓辺に駆け寄り、閉じたままのカーテンを乱暴に引いた。ロマーニャの夕暮れ特有の燃える様な赤い空が視界いっぱいに広がり、途端にそれが不吉なものに感じられてバルクホルンは小さく身を震わせる。だが次の瞬間はそれに負けじと、虹彩が歪ませながら赤を睨み付けた。
今までこの部隊における戦死者はいなかったが、それがどれだけ幸運な事であるか彼女はよく知っている。地獄という言葉すら生温いカールスラント撤退戦を経験したその身にとっては、命など吹けば飛ぶ程度のものでしかない事も。
ハンガーのある方向から、ウィッチ達が空へと昇って行くのが横目に見えた。
「みんな、無事に帰還してくれ……!」
心の底から声を絞り出し、爪が掌に食い込んで血が流れそうな程に力を込める。死地へと向かう仲間達の背中に、自分の思いを預ける為バルクホルンは硬く目を閉じた。
そして大きく深呼吸をして、瞼を上げた瞬間だった。
「バルクホルン大尉!」
叫び声と共にドアが破られる様に開かれる。
それはリネット・ビショップ曹長によるものだった。
「ミーナ中佐から司令室に来るようにとの事ですっ!」
渡りに船とはこの事か。このまま自室でじっとしているのは、到底不可能だろうと思っていたところにこの報せである。振り返ると同時に彼女の足は石畳を蹴り上げて、こう答えた。
「了解!!」
そのまま初速の速さに評判があるMG42から打ち出された弾丸の様に、部屋から飛び出す。
室内にずっと篭っていたにも関わらず、バルクホルンの体はまるでそれを感じさせない猛然とした速度で司令室への道程を進む。
これはきっとこれまでの研鑽の賜物であろう。日々の鍛錬を怠らず、いつだって軍人として正しくあろうとしたその志は鮮やかに煌いて、彼女を前へ前へと運んでいく。
普段なら廊下を走るなどとんでもないと誰かを叱る事が多いが、この非常時にはそんな暢気をしてなどいられない。ただひたすらに目的地へと向けて足を動かした。
そして彼女の速さが後方のリーネの姿を完全に振り切ったと同時に、重厚な司令室の扉は開かれた。中には緊張した面持ちのミーナが一人、無線機に齧り付く様にしている。
「トゥルーデ!」
「戦況を聞かせてくれ」
備え付けてあるインカムを右耳に、そしてミーナからの説明を聞く為に左耳は空けておく。そしてレーダーにさっと目をやってから光点の位置を把握した。
「敵ネウロイは小型機が5機よ。場所はアドリア海と地中海の境目の上空、このままの進路だとタラントへ侵攻されてしまうわ。それを哨戒任務に当たっていたシャーリーさんとエーリカが発見して、現在は戦闘中よ」
「小型機といえ5機か…… 増援にはどれぐらいかかる?」
「どんなに早くても15分ね」
「際どい、か。上手く時間を稼いでくれるといいが」
インカムからは2人の銃撃音と、ネウロイのレーザーが空を裂く鋭い音が流れ出てくる。戦場で耳にし慣れているとはいえ、こうして自分がその場にいないというだけでそれはまた違った恐怖を与えてきた。
『くっそ、こいつらやけに硬いぞ! いい加減沈めよ!』
『本当だね。ちょっとこれじゃ火力が足りないかも』
そんな中、2人の声が届いた。厄介なネウロイに愚痴を言うぐらいには、余裕があるらしい。彼女らが無事である事に安堵しつつも、バルクホルンは無線機へと駆け寄った。
「聞こえるか? 応援が既にそちらへと向かっている。撃墜が難しいのなら、そのままの状態を維持しつつ耐えてくれ。決して無茶はするなよ」
『あれ、なんでトゥルーデがいるの? ミーナは?』
『おいおい、バルクホルン。また命令違反か』
「馬鹿な事を言っている場合か! 私はちゃんと許可を得てここにいるんだ。それにミーナもいるが、お前達の泣き言が聞こえてきたのでな」
せっかく心配をしてやったのに。
そんな言葉が飛び出しそうになるのを押さえ、バルクホルンは状況を整理し始めた。そして過去に何百と繰り返してきた戦闘の経験を掘り出して、最も適した指示を探す。
「トゥルーデ、ここはあなたに任せるわ」
ミーナは深い信頼を含んだ瞳でバルクホルンの肩に手を置いた。その重みに心地良さを感じながら、彼女は小さく頷く。
戦況は水物で、遅疑逡巡は許されない。
しかしシャーロットがハルトマンとロッテを組んでいて助かったと、バルクホルンは思う。
「おい、リベリアン。聞こえているのならそのまま聞け。朝、お前に渡したものがあるだろう。それの第二章第一節を思い出せ。それを実践すれば危険性の減少に繋がるはずだ」
『もっと分かりやすく頼む!』
「ちゃんと読んでおくように言っただろう! 13ページの“数的不利における一撃離脱と敵の誘導について”の項目だ!」
ひょっとしてこのリベリアンは、あの報告書を読まずに捨てたのではあるまいか。そんな不安がバルクホルンに訪れたが、それは快活な返事によって打ち払われた。
『最初からそう言ってくれよ! オーケー、お前を信じる』
シャーロットはそう言って、記憶の紐を手繰り寄せた。
そして几帳面そうな角張った如何にもな文字で綴られたそれを、頭の中に浮かべる。
「私じゃ力不足かもしれないけど、借りは早めに返さないとな。行くぞ、ハルトマン!」
自分に発破を掛け、シャーロットは敵へと向かう。そしてハルトマンがそれを援護しながら後に続いていった。
まずは長機が敵の注意を引き付ける程度に攻撃を与えてから、即離脱。それから僚機は長機退路を確保しつつ、次の敵に備える。これを数回繰り返してから今度は役割を入れ替えて、弾薬の消費の偏りを抑えながら、敵ネウロイを一体ずつ誘導。それが散らばるようであれば急上昇からの奇襲も有効であり、その際は決して僚機との距離を取り過ぎない事。なおハルトマンが僚機の場合は、長機の者は全ての行動をやや早めに行うとより効果的である。
他にも細々とした事は書いてあったが、シャーロットが覚えているのは大雑把にこの程度だ。今回は幸いにもハルトマンが僚機で、自分は長機という編成になっている。
つまり、自分がバルクホルンの代わりをするように動けばいいのだ。あの報告書の通りにやれば、きっと間違いは無いのだろう。とはいってもやはり実力差に不安はあるが、それを差し引いてもバルクホルンは信頼に足る人物だった。
ならば答えは一つである――
シャーロットはビームを掻い潜る様にしながら、攻撃を始めた。それはコアを破壊する為のものではない。同じ大尉として基地から指示を送っている、彼女の教えを遂行する為である。
その意思を以ってM1918から放たれる熱量が、ネウロイの表面を浅く削った。
きっと上手くいくと、いつもより優しい風を感じてシャーロットはそう信じていた。
/08.7
『戦闘終了、基地に帰還する』
「お疲れ様、美緒」
地中海の空にいる8人のウィッチは、無事にネウロイを撃退した。シャーロットとハルトマンの2人は危なげなく時間を稼ぎ、無事に基地からの応援と合流。そしてそのまま数で勝るこちらに軍配が上がったのである。
「今夜はもうネウロイは来ないと考えられます。サーニャさん、今日の夜間哨戒はいいわ」
『わかりました』
各々の顔からは先程までの緊張が消えていた。夕焼けを受けて真っ赤に染まったウィッチ達は、達成感と共に悠然と空を翔る。
「トゥルーデ、リーネさんもお疲れ様。これでようやく一安心ね」
隊長は柔らかく微笑むと、部下を労った。
「サイレンが鳴った時は肝を冷やしたが、どうやら考え過ぎだったみたいだな。それにしてもミーナ。どうして私をここに?」
室内の空気が弛緩してから、ずっと気になっていた事をバルクホルンは問う。
「それはね、あなたがまた勝手に出撃しちゃうんじゃないかって心配だったからよ」
くすくすと笑いながら返されてしまったので、薮蛇だったかと後悔した。隣にいるリーネも
同調する様に笑うものだから、バルクホルンは居心地が悪い。これはどうしたものかとシャツの裾を弄りながら悩んでいると、上機嫌な声が飛び込んできた。
『おーい、バルクホルン! いい感じだったろ!』
「まぁまぁと、言っておこう。しかしリベリアン、あれぐらいで調子に乗っては困るぞ。お前の動きにはまだまだ無駄があるように思われるからな。それでハルトマンはどうだった」
『そもそも、トゥルーデとシャーリーが何を話してんのか全然分からないんだけど』
『ああ、ハルトマンは知らないんだったか。なに簡単な話だよ』
その瞬間、バルクホルンはひどく悪いものを感じた。
そしてここからは見えない筈のシャーロットの口元が、いやらしい形になった事も。
『バルクホルンがお前の為に何日もかかって書いたラブレターを、私が先に読んだだけさ』
鮮やかに、爆弾が投下された。
「おいリベリアン、何だそれは! 報告は明瞭且つ的確にしろ!」
『だってさー。あそこまであいつの事を見てるとは思わなかったよ。じゃないとあんな風に熱っぽく書けないと思うね。読んでるこっちが恥ずかしいったらありゃしない。堅物だって決め付けてたけど、意外とやるじゃん。ちょっとお前を見る目が変わりそうだ』
『えええー!? バルクホルンさんがラブレター!?』
「違うぞ、落ち着け宮藤! 誤解だ、話を聞け!」
効果は抜群だ。兎の思惑通りに、戦況は混乱の一途を辿る。
『バルクホルンさん、素敵です……』
『サ、サーニャもやっぱり、そういうの、欲しいのか?』
『いいじゃないか。想いを伝えるというのは実に素晴らしい事だぞ。はっはっはっ!』
わざと誤解を招く一言のせいで、通信回線は俄かに混雑を始めた。バルクホルンはこの事態をどう収拾したらよいものかと、ミーナとリーネに縋る様な視線を向けた。しかし二人もシャーロットの言葉を真に受けたのか、頬を染めて少し身を捩りながらそれを回避する。冷静に話を聞いてもらえるとは、考え難い精神状態だった。
ゲルトルート・バルクホルンがこの世に生を受けて十九年。
彼女は今、大きな試練を迎えていた。
インカムの向こうからは機関銃の様な数の質問が自分へと襲い掛かってきて、乱痴気騒ぎが加速している事がありありと窺い知れる。いくらスーパーエースといえど、まだ少女といって差し支えの無い年齢だ。そんな彼女にこれらを完璧に対処しろという命令は、無理難題でしかない。圧倒的に人生経験というものが足りていないのだから。
「つ、通信を終了するっ!」
だからバルクホルンは最後通告の後に撤退する事を選んだ。
いつだって勇敢で先頭に立って戦う彼女だが、今回は違う。
これ以上の被害を出さない。それが最重要事項であると判断して、インカムを乱暴に耳から抜き取るとそれを投げ捨ててから司令室を飛び出した。そして羞恥に塗れながら走り出す。
床に転がったインカムからは、まだまだ賑やかな声が聞こえてくる。
『あれ、ちょっとやりすぎたかな。まぁいいか、いい気分転換だよ』
シャーロットは自分が原因だというのに、無責任な事を言って楽しそうに笑った。
/09
日付が変わって数時間経つ。
あの後、自室に戻ってからバルクホルンは初めてドアに鍵をかけた。もしこれが施錠できないタイプの物であったら、恐らくジークフリート線を越えた先にあるハルトマンの領地から、ありったけのゴミやらなにやらを掻き集めて即席のバリケードを作っていた事だろう。
外界との接触を断ってしまった彼女は、夕食が部屋に運ばれてきてもそれを開かなかった。恥ずかしいやら情けないやらで、自分の器の許容量を優に超える感情によって平静を保つ事などできるはずもない。
数日前はハルトマンがそうしていたが、今はバルクホルンがベッドの上でシーツに包まった繭となっていた。シーツに包まって。じっと夜が明けるのを待つ。
何度かこれを繰り返せば、そのうちに皆の記憶も薄れるだろう。
そう信じる他に道は無かった。
禁錮となっている残り日数は二日。つまりその間は誰とも会わずに住むと考えると、幾許かバルクホルンの心は安らぐ。そしてなんとしてもあの諸悪の根源であるシャーロットに、発言の撤回を求めるつもりでいた。
「それがされないと、私はこの部隊で生きていけない……」
「だーれが生きていけないってー」
「ひゃあっ!」
自分しかいないはずの部屋なのに、急に声をかけられた事に驚いてシーツから顔を出す。するとそこには、今最も顔を会わせ辛い人物であるエーリカ・ハルトマンがいた。
がばっと反射的に再びシーツを頭まで被る。みっともない顔を見られたくないのはもちろん、一瞬で顔に血が回ってきてしまったのを隠す為だ。そもそもなんでここに来たのか、そしてどうやって鍵を開けたのか。バルクホルンの器には更に感情が注がれていく。
「ど、どうして」
少し震えた鼻声で、そう口にするのが彼女は精一杯だった。
「トゥルーデってさ、誰が同室だったって事もう忘れちゃったの? 私が合鍵持ってないわけ無いじゃん。大変だったんだよ、気付かれないようにこっそり入ってさー」
それに対してハルトマンは、例の一件など何も無かったかのように接する。まるでここに来た理由も、単なる思い付きだといった感じさえした。ひょっとしたら自分が意識をし過ぎているだけで、部隊の仲間達全員が殆ど気にしてなどいないのではないか。そんな風に考えてしまう程に、彼女の声は聞き慣れたものだ。そこには怒りも憐憫も何も無い。
だがそれは思い違いだった。
「トゥルーデ。あれ、シャーリーに渡されたから読んだよ」
不意討ちである。
バルクホルンは落ち着きかけた心が、ひどく乱れるのを感じた。
「すごい詳しく書かれてた、自分じゃ気付かない癖もいっぱいあったし」
静かで強い声が聞こえ、それと同時にベッドのスプリングが軋む。二人分の体重がかかったなによりの証拠がそこにあった。布と肌が擦れる音に息を呑んだのは一体どちらだったろう。
「ねぇ、なんであんなの書いたの」
教えてよ、トゥルーデ。と今度は囁く様な声だった。
バルクホルンの心臓は何故か早鐘を打ち、喉はひりりと焼け付いている。
「お前が…… 私と飛んでいないと、不満だと言ったから……」
そう答えるのがやっとだった。
「だからもういいだろう、少し私を1人にしておいてくれないか。話なら明日――」
恥ずかしさが臨界を越えたのか、バルクホルンは被っているシーツをばさりと放った。そしてハルトマンを、強引にでもこの部屋から追い出そうと決める。その為に右腕をぐっと伸ばした。姿は見えていなかったが、気配でどの辺りにいるかは把握できている。
どうやらその勘は正しかったらしく、すぐ傍で背を向けてベッドに座っていた彼女の肩に指先が当たる。タンクトップにズボンという軽装だったせいか、細やかな肌の感触が脊髄にまで一瞬にして伝わった。
ハルトマンはひゃっと小さく悲鳴を上げると、振り返った。
振り返ってしまった。
「……………………」
無言のまま夜だというのに額から首まで朱に染まった彼女と視線が絡まる。
窓からの仄から月明かりが、それをより一層際立たせた。
いつもポーカーフェイスで捉え所の無い彼女がこんな顔をしているなどと、バルクホルンは微塵も思っておらず、肩に触れたまま固まってしまっている。一方のハルトマンもただ朱を深めていくばかりで全く動けずにいた。
どれぐらいそうしていただろう。
それは数分、数十分。もしかしたら数秒かもしれない。
とうとうハルトマンが堪えきれなくなって、すっと視線を外した。
「ばか、トゥルーデのばか」
そして唐突に繰り出された罵倒の言葉に、思わず面食らう。
「私はあんなものが欲しくて、言ったんじゃない。いや、でもあそこまで書ける位に、ずっと見ていてくれたのはその、あれだよ。結構嬉しかったけど」
ぽつぽつと小さな宝物を零す様に、少女は語った。
「実は、ちょっと期待してたんだ」
ハルトマンの表情が移ろい、はにかむ様な形を取る。バルクホルンはそれに照れてしまい、体がかっと熱くなった。掌にはじわりと汗が滲む。
「シャーリーの時みたいに。トゥルーデが命令違反して、駆けつけてくれないかなーなんて」
「そ、それは」
「我儘っていうか、自分がどれぐらい駄目な事言ってるか分かってる。でもさ、あの時はそうしたのに今回はしないって、なんか寂しい。負けちゃったみたいで」
荒唐無稽も甚だしいと、この場合は厳しく叱る事が正しい上官としての務めである。しかしそうすると目の前の彼女を傷つけてしまいそうで、それを無意識的に避けていた。かといって気の利いた台詞を言える程に器用でもなく、バルクホルンは次の言葉を待つ。
「トゥルーデってほんとばか。いつもいつも自分はなんでもできるって自信満々の癖に、実際は何もできてないじゃん。何もしてくれないじゃん。ばか、ほんとばか」
子供が駄々を捏ねる様に、ハルトマンは体を左右へと揺らした。そのせいで熱を共有していた部分が、あっさりと離れる。それを惜しいと思った。
だからもっと強く触れたくて、両腕を伸ばす。
「リベリアンの時は、きっと例外だ。あいつが危なっかしいから、私が出るしかなくて――」
そのまま衝動的に抱きすくめながら、バルクホルンは弁解した。
彼女の胸の辺りには相手の綺麗な髪が押し付けられて、なんとも気持ちが良い。
「それに、一番信用しているのはお前だから。きっと大丈夫だって思ったんだ、フラウ」
自分なんていなくても、フラウはもうとっくに一人前のウィッチで。私生活はだらしないかもしれないが、空では世界一だと。バルクホルンはお互いに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。一頻り終わってから、はぁと息を吐くとそれがくすぐったかったのか。腕の中で甘える様にハルトマンは四肢を緩く動かす。
「やっぱりばかだ。そんなんじゃないのに」
しかし、答えはどうやら不正解だったようで。
その罰なのか、少し拗ね気味の声といつの間にか背中に回されていた手が肉を軽く抓った。
小さな痛みを感じて、今度は抱きしめる腕に力が入る。それは二人の距離をすっと狭めた。
「でも今日のところは許しておいてあげる」
ハルトマンはそう囁いてから、頤を上げて笑顔を見せ付けた。天使の様な笑顔を。
それに暫し見惚れてから、バルクホルンはこう言った。
「ありがたい。お前の機嫌を取るのは大変だからな」
両者はまた視線を絡ませる。そして密着したままベッドに横になった。
ちょっとぐらいはこうして寝るのもいいだろう。
熱くなっていたは身体は、いつのまにか適した温度へと戻っている。
あぁ、これでは安らか過ぎて随分と長く眠ってしまいそう。
そう思いながら、2人は素直に意識を手放した。
ベッドの上の彼女等がまだ幸せな夢の中にいる最中。そっとそこを訪れる人物がいた。
「まったく、本当にいい顔してるよ」
その人物は少しだけ恨めし気にそう言って、静かに部屋を後にする。
空に青と白が混じり始め、新しい夜明けがすぐそこまでやって来ていた。
こんな顔をしている戦友を見るのは久しぶりだ、と彼女は思った。
宮藤やリーネが『怒ると一番怖い』と話していたのを聞いたのはいつだったか。
目の前にいる上官は、それを体現する様に両手を顔の前で組んだまま、これでもかと言うぐらいに険しい表情を浮かべている。
「あなたは軍法会議の開催を望む事ができます」
普段に発される人への気遣いを感じられる優しいものとは違って、眼前にいる部下を強く弾劾する声が、二人だけしかいない静寂な室内に派手に転がった。
「いいえ、結構です」
背筋を伸ばして直立不動のままに、短く必要な事だけを答える。
以前に各ウィッチの自主性を重んじ、旧態然とした軍隊からの脱却を目指しているとはいえ、些かこの部隊には命令違反が多すぎるのではないかと。規律をもう少し厳しくすべきだと、彼女は上申した事があった。その時は自分がこんな風になるとは、欠片も思ってなどいなかっただろう。
「あなたは飛行停止の上、自室待機の命令を受けていました。しかし本日の昼頃、それを無視して禁止兵装となっていたジェットストライカーを無断使用し、その際に基地備品を破損。そのまま許可なく戦闘に参加、ネウロイ撃墜後に意識を失い、試作機であるジェットストライカーを全壊させる結果となりましたね。この報告に何か間違いは」
「全て事実です」
言い訳などするつもりは毛頭なかったのか、彼女自身は姿勢を崩すことなく再び簡潔に答えるだけだった。このような結末となってしまったのは、自分の責任に他ならないと言われるまでも無く態度で示している様でもあり、凛然としている。
「わかりました。それではあなたに処分を言い渡します」
そうして一つ、小さく息をついた。対する者は、身をやや強張らせて次の言葉を待つ。
「ゲルトルート・バルクホルン大尉、あなたには十日間の自室禁錮を命じます」
501統合戦闘航空団隊長であるミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ中佐は、上官らしくぴしゃりとそう言い放った。
今まで軍人として生きてきた中で、上からの命令を違えた事など一度も無い。よって、今回の一件で生まれて始めて禁錮を受ける事となったバルクホルンだが、自分へと下された罰が不当に軽いものである事ぐらいは分かっていた。窮地に陥った仲間を助ける為の行動だという斟酌もあるのかもしれないが、彼女はそんなものは少しも欲しくはなかったのである。
命令は遵守されるもの。そして罪には痛みを。
それが大きなものであれば、きちんと両者を対応させなければならない。そうあって然るべきだと、心の中で何度も繰り返す。
「やはりミーナは身内に甘過ぎる部分がある……」
平素であれば、夜の基地はとても静かなものだ。しかし今夜は、長い廊下に不機嫌そうな足音が響いている。その主は、赤毛の上官に届かないとは知りつつも呆れた様に呟いた。彼女は有能な指揮官であると同時に慈悲深い人物であると、長年の付き合いから理解は出来るが、これではまるで部下に示しがつかない。同郷の間柄である故のお目溢しだと、心無い者からの誹りを受けても、そこに弁解する余地が無いからだ。バルクホルンはそれによって、自分だけではなくミーナまでもが不利益を被るのではないかと、忸怩たる思いだった。
歩を止めて、やはり先程の部屋へ引き返そうかと考える。
しかし処分を聞かされてから、すぐさまその正当性に異を唱えたものの、まるで取り付く島もなく『退出してよろしい』とだけ繰り返していた隊長を思い出すと、それが無駄でしかないのは明らかだった。
「もしかすると、私がこんな風に煩悶するのが本当の罰なのかもしれないな……」
それならば、これは責任感が人一倍強い彼女にとって最も厳しいものであった。
バルクホルンは少し重くなった両肩を落としつつ、また進み出す。その背中がやけに疲れて見えたのは、魔法力の枯渇だけに因るものではないだろう。
いくら暖かいロマーニャといえど、夜は冷える。首筋にぽとりと水滴を垂らされた様な錯覚に、小さく身を震わせた。
「しかし本当に騒がしい一日だった。軍人になってから、一番だったかもしれない」
誰もいないというのに、また言葉を紡ぐ。
そして自分はこんなに壁に話しかけるのが好きな性質だったかと、苦笑した。
「とにかく今日は、もう休んでしまおう」
独り言はこれで最後だと言わんばかりに勢いよく言い切ると、ノブに手をかけて目の前にあるドアをそっと開いた。中で寝ているであろう、同室のハルトマンは滅多な事で起きたりはしない。しかしそれが気遣いをしなくていい理由にはならないと、そう考えるのがバルクホルンの為人である。案の定、ジークフリート線の向こう側に広がっているゴミの山の中心にあるベッドの上には、こんもりと盛り上がったシーツで覆われた小さな山がまた一つ。
ゴミとベッドと窓から差し込む月の光で大方を構成されたような珍妙な室内で、時折可愛らしい寝息が混じる。それを聞いたバルクホルンの心に、僅かな寂寥感が生じた。
別に帰りを待っていて欲しかったわけではなかった。だが今まで厳格な軍人たれと自戒し努めてきた己が崩れてしまった事が、彼女を精神的な不安定に陥らせたのであろう。就寝してしまう前に誰かと。いや、最も心安い仲間であるハルトマンと言葉を交わしたかったのだ。
しかしその願いはどうやら叶いそうにもない。
バルクホルンは弱々しく数回頭を振ってから、リボンタイを解いた。
しゅるりと、布が走る音がやけに彼女の耳をついた。
/01
起床のラッパが鳴るきっかり十五分前。それがゲルトルート・バルクホルンが意識を覚醒させる時間である。そしてすぐさまベッドから下り、寝ている間に乱れたシーツを直してから着慣れた軍服に袖を通す。
もう幾度となく繰り返したせいか体は自ずと動き、惰眠を貪る事は決して無い。そして全ての準備を終えると、両肩をゆっくりと回す様にしてから大きく息を吸う。すると体の隅々に酸素が行き渡り、何とも言えぬ心地良さを感じられた。
今日の天気は快晴。窓から見える空には雲一つ無く、飛ぶには最適な天気だった。
彼女は朝を苦とせず、むしろ好ましいと思っている。だから隣にいる寝汚いハルトマンの気持ちがさっぱり分からなかった。軍籍に身を置くのならば、通常よりも厳しい規律の下で規則正しい生活を送る事が当然であり、またそれが有事の際の備えにもなると信じていた。
「起きろ、ハルトマン! もう朝だぞ!」
幼い子供が聞けば泣いてしまう位の大声を出したが、返事などあるはずもない。今迄で一度だって、彼女がすんなりと起きてきた例があっただろうか。残念ながらバルクホルンに、そんな記憶はまるで再生されない。
「起きるんだ! 今日から私は自室禁錮となっている、だからお前は早くここを出るんだ!」
こう言ってみたものの、実際はミーナはそんな指示を出してはいない。しかしバルクホルンにとってそうする事は至極真っ当な行動だった。罰は一人で償うものであり、同室で誰かと一緒に過ごしながらなどというのは、ひどく軽薄で不誠実だと考えられたからだ。
だからこそ、早く目の前にいるハルトマンを起こさなければならない。毎日毎日それに盛大な労力を払っている彼女は、強硬手段も已む無しとジークフリート線を越えようとする。そして石畳の床に走る赤色を右足で踏んだ瞬間、それが合図だったのか。
「えっ、トゥルーデ。なにそれっ!?」
シーツを足で蹴飛ばすようにして、ハルトマンは起き上がった。
稀に見る盛大な寝起きである。
「お、おお。感心だな、今日は随分と寝起きがいいじゃないか。普段からも――」
「そんなことどうでもいいよ、っと」
大きくベッドから跳ね、掛け声と共にゴミの山を飛び越える。その際に程よく筋肉のついた足が露になり、思春期の少女特有の美しさがぱっと咲いた。
そのままバルクホルンの傍に着地すると、涎の痕も寝癖も気にしない風で彼女の左袖を握り締め、矢継ぎ早に問いを投げかける。
「どうして同室の私が出て行かないといけないのさ。それに待機じゃなくて、禁錮刑にまでなっちゃったの?」
「ど、どうしても何も私がそう判断したからだ。うん、少し時間があるな。ちょっと座れ」
ハルトマンの予想外の勢いにやや戸惑い、数歩後ずさりながらもバルクホルンは答えた。そして窓側にある中立地帯。ジークフリート線上にあり、互いの領域を等しく侵犯する様に設けてあるテーブルセットへと部下を促した。
「朝から長い話は聞きたくないんだけどなぁ」
「安心しろ、すぐ終わる。お前だって朝食を食べて、訓練に行かなければならないんだから、それに支障が無い程度にはな」
「あー、今日は昼からじゃないんだよね。面倒」
堅物と評される上官には聞き逃し難い言葉が漏れたが、それは無かった事にしたらしい。二人は直に対面して、まずはバルクホルンが座った。そしてどうやら昨日の夜、ハルトマンはきちんとズボンを着用したまま寝ていたらしい。まだ夜の冷たさを残したままの椅子に、躊躇せずに腰を下ろした。
お互いに視線を絡ませて、瞬きを三回ほどした後だろうか。バルクホルンは口を開く。
「最初に、私に下った処分を言っておく。不本意な事甚だしく個人的には全く納得はしていないが、十日間の自室禁錮となった」
「そうだよ、トゥルーデ別に悪くないじゃん。非常事態だったんだし」
「違う、お前は何を言っているんだ! 本来ならもっと重くあるべきだという事だ! 命令に違反し私情に駆られて行動した結果、部隊と戦局に著しい混乱を招いたのだ。カールスラント軍人としてあるまじき失態ではないか。それなのにたったこれだけだぞ!」
両掌をテーブルに叩きつけながら、バルクホルンは激昂した。昨夜の内に抱いてきた感情が今更になって爆発したのか、それは炸裂弾よりも苛烈だった。
一方のハルトマンは、その言葉を受けて自身の中に冷ややかな怒りを灯した。それをあからさまに表情に浮かべはしなかったが、目の前の戦友がひどく間抜けな事を口走ったせいで、形の良い眉をやや顰める程度には十分である。
「そんな風に言わないでよ。トゥルーデがああしなければ、シャーリーだって危なかったかもしれないんだ。大事な仲間を守ったんだよ。なのに、それを間違ってたって言うの?」
「それはそれ、これはこれだ。あの時、私は自分の良心に基づいて行動した。それについての反省はあっても後悔はない。だが結果がどうあれ、命令違反をしていいという理由にはならんだろう。私も大尉という地位にあるのだし、部下の模範となるように振舞う義務がある」
ああ、そうだ。この人はこういう人だ。
ハルトマンは溜息を吐きながら、この上官が頑固で真面目で堅物であると再認識した。
『結局は自分がただ落ち着きたいだけじゃん、それを一々規律とかで取り繕っちゃて』
心中でも大きく溜息を吐いて、毒づく。だが実際にぶつける事はしない。それをしてしまえば、きっと彼女は今以上に凝り固まってしまうだろうから。
しかしハルトマンには、その中にある変化が嬉しかった。
誤解されがちだがバルクホルンという人間の本質は、冷徹などというものからは程遠い。ただ人よりも使命感や義務感に縛られがちで、視野狭窄に陥る嫌いがあるだけなのだ。その結果として、優しさや人間味を持ち合わせていないと評される事が多い。特に妹が負傷して意識を失っていた間は、それが顕著であった。まるで機械の様に戦闘と訓練を淡々とこなし、ネウロイの撃墜数を重ねるだけの装置。そう思われても仕方が無い程に。
ストライクウィッチーズが結成されてからの彼女しか知らない者。例えばリーネやエイラが、バルクホルンの姿を視界の端に収めただけで居心地悪そうに体を小さくしたり、それとなく用事を思い出した風にして部屋を出て行く事などは数え切れなかった。当の本人もそれを咎める事をせずに、小さく鼻を鳴らす程度のものだった。
そんなバルクホルンが、命令違反をしてまで仲間を助けた。
しかも、それについては後悔をしていないというおまけつきで。
自分の子供の善行を誇らしげに思う母親の様な、なんともむず痒い気持ちがハルトマンに湧き上がる。それに伴って頬が少しだけ紅潮したが、彼女はその事には気づいていない。目の前で顔をつき合わせている人物も、その変化に気づかなかった。
「覚えているか? まだ私達がJG52にいた頃、あの名前を出すのも気に食わない問題児のマルセイユが、ストライカーユニットを壊しすぎて禁錮となっていただろう。あの時も同室だったお前は、別室へと移るように言われただろう」
つまりはそれが正しい軍規に則った判断というものであってだな、などと訥々と語る事に夢中になっているバルクホルンだが、ハルトマンの耳には右から左へと流れていくだけだった。
「分かったよ、もう。これ以上軍人のお小言なんて聞きたくないし、ひとまずは合格点って感じだしね。花を持たせたげる」
やや口早にそう言って、わざとらしい動作で立ち上がった。その際に椅子が倒れてしまいそうになり、ハルトマンは慌てて手を伸ばす。そして石畳と木材による騒音が撒き散らされるのをなんとか防ぐと、さっさとドアに向かって歩き始めた。同僚のナイトウィッチの場合とは違い、バルクホルンの話を聞くのはエネルギーを大量に消費するのである。かわいらしく鳴るお腹は、朝食の必要性を自覚させるには十分過ぎた。
「待たんか、まだ話は終わってないぞ。それにそんな格好のまま外に出るなどだらしない、せめてシャツぐらいは着んか! こら、逃げるんじゃない!」
自分の背後からガタガタと落ち着きの無い音と、引止めの言葉が追ってきたがそんなものは聞こえない事にすればいいのだ。ハルトマンはそう考えて、手早く床に脱ぎ捨ててあったシャツとジャケットを拾い上げる。
「んじゃね、トゥルーデ。ご飯はそのうち持ってきてあげるよ」
小悪魔のような部下はそんな置き土産をして、ドアを後ろ手に閉めていった。そして部屋に一人の上官が残される。離れていく彼女を掴もうとして空を切り、手を伸ばしたままのその姿はなんだか間が抜けていた。
普段なら簡単に逃がしたりはしない。きっとすぐさま彼女の襟首を捕まえるのだが、部屋の外へと出られてしまってはどうしようもないのだ。何故なら禁錮中の身の上である。おいそれと出て行くわけにはいかない。バルクホルンは一日目の開始一時間も経たぬうちに、自らの不自由さを痛感する事となる。
「全く、いくつになっても世話が焼けるやつだ」
鬱憤を晴らすつもりで、そう呟こうとする。しかしそれは起床を告げるけたたましいラッパの音によって遮られ、彼女の願望を果たすには至らなかった。
/02
何もしてはいけない一日というものが、これほどにまで長いとは。
バルクホルンは椅子から窓の外を見ながら、生まれて始めて気づいた事実に驚愕していた。
当初の予定では、室内であってもできるトレーニングで、体力作りをして日々を過ごそうと決めていたのだ。そうすれば十日後にすぐに実戦に復帰する事が出来る。訓練を絶やしてしまっては己の戦力の低下に繋がるという考えから、彼女は昨日の朝食を終えてからしばしの休息の後、すぐに体を動かし始めた。
しかしそれは「魔法力の早期回復の為にも、体に負担をかける運動は禁止します」という、ミーナによる無慈悲な命令によって中止を余儀なくされたのである。
そう言われてしまっては、不服であれ従うしかない。バルクホルンは渋々といった感じではあったが、その命令を受け入れた。その様子を見てミーナは満足そうに頷くと、彼女が隙を見てトレーニングを再開しないように、ご丁寧に監察役を寄越す旨を続けて伝えてきたのである。時間の空いている隊員が、不定期にやって来ては部屋を覘いていくので、バルクホルンは閉口した。それは階級が下の人物である場合が殆どだったが、坂本やミーナがやってくることもあり、そのせいで基地の機能が円滑に進んでいないのではないかと心配になるほどである。
そんな中で、きちんとノックをしてから部屋に入ってくる者と、唐突にドアを開け放つ者に分かれている事に彼女は気づく。前者は宮藤、リーネ、ペリーヌ、坂本、ミーナの五名。後者はエイラ、ハルトマン、シャーリーの三名である。ルッキーニとサーニャの二人はそもそもこの役目を言いつけられていないのか、未だに姿は見せていない。
監察役なのだから、ノックをして事前に知らせてしまっては意味が無いのではないかとは思いはするが、バルクホルンは彼女らのその礼儀正しさに好感を抱いた。
そのように入念な管理下では、できる事は両手で数えられる程に限られている。
もう何度も読み返した銃器のマニュアルに目を通したり、徒にチェス盤を触ってみたりはするものの、直に飽きてしまうのだ。
「退屈が人を殺すとは、古人は実に本質を捉えた事を言う」
先ほどまで読んでいた、カールスラント語の文字が印刷されたハードカバーを硬くなった指先そっと撫でる。この指は引き金となり、ネウロイを倒すための指だ。いいや、指だけではなく彼女の身体全てがもはや戦う為だけに作り変えられている。
それを無くしてしまったら、一体自分はどうなるのだろうと。バルクホルンは漠然とした不安に襲われる。すると首筋の産毛がやけに敏感になった気がして、思わずそこを覆うように手をやった。その掌も硬く、我ながら到底女の物であるとは思い難かった。
まだ二日目午後を回ったばかりだというのに、これでは先が思いやられる。
「やれやれだ。時間を持て余すと、どうにも碌な事にならんな」
今の自分に必要なのはとにかく大量の空白を埋める物だと、恨み言を吐き捨ててから確認した。トレーニングが不許可だというのなら、デスクワークでもすべきか。そんな考えが頭に浮かんでくる。バルクホルンは本国では既に少佐に昇進との打診もあり、今までも補佐として書類整理の仕事の経験はそれなりにあった。
だがこの部隊の書類を一手に担っているミーナが、此度の要望を許してくれるとは思えない。それはバルクホルンの仕事ぶりが心配でそうするのではなく、この十日間を何もさせずにただの休暇として過ごしていて欲しいという親切心からなのだ。しかしそれによって余計なストレスを抱えてしまっては意味が無いのである。扶桑にある貧乏性という言葉が、自分にはぴったりだとバルクホルンは苦笑した。
さて、どうしたものかと腕組みをして唸っているとドアがやかましく開け放たれた。
確率は三分の一だが、ここまで無遠慮にやらかすのは一人しかいない。
「ノックぐらいはしたらどうだ、ハルトマン」
閉じていた両目に片方だけ光を入れ睨め付ける様にしてみるも、今までこの自由奔放な部下が怯え竦んだ事は無い。今回も毎度の如く、自分を貫く眼光をあっさりと躱してバルクホルンの元へとステップを踏みつつ近づいた。
「いやー、今日はまだ挨拶してなかったからさ。トゥルーデが寂しくて泣いてるんじゃないかって心配だったよ。優しいね、私」
「寝言は寝ていうものだぞ。それにお前には今日、哨戒任務があったはずだ。こんなところで油を売ってる暇があったら、とっとと準備をしろ。兵は神速を貴ぶという言葉もある」
「午前の任務だったからもう終わりましたよーだ。本当は午後からペリーヌとのロッテを組むはずだったんだけどね、なんか変更があって私が先にやるように少佐から言われたんだ」
「む、何かあったのか。ひょっとして私が欠けたから――」
ハルトマンの言葉にさっと表情が陰る。十一人という少数精鋭であるウィッチ隊は、今までにない柔軟な運用をする事ができるが、如何せん不測の事態に弱い。
自分が起こした不祥事による影響がこんなところで表面化したのかと、バルクホルンの心は錆びた棘で抉られる様に痛んだ。
しかしそれは杞憂だった。
「違うよ。なんかルッキーニのストライカーが調子悪くなっちゃったみたい。ロマーニャのユニットって結構トラブルが多いよねえ。ガリアのやつよりはマシだけどさ」
だから安心して、トゥルーデ。とハルトマンは付け足した。そしてゴミで囲まれていない、自分の物ではない方の几帳面に整えられているベッドに豪快に飛び込んだのである。
スプリングが軋む音にぎょっとしながらも、バルクホルンは自身が原因ではなかった事に安堵した。そしていつでも確認できるように、引き出しに入れておいた一枚の紙を取り出す。
そこには一週間先までの予定が印刷されている。そして本日の午前の哨戒任務の欄に名前があるのはフランチェスカ・ルッキーニ少尉と、シャーロット・E・イェーガー大尉。
この凸凹なロッテは大層仲が良く、大層自由が過ぎる。一人だけでも頭が痛いというのに、この二人はとにかく一緒にいる事が多いものだから、大騒ぎをしては基地の中を引っ掻き回す事などはもはや風物詩だった。
だが斑があるのは確かだが、空戦技術には文句は無い。特にシャーロットの方は、ああ見えて周囲を見る事に長けており長機としても僚機としても有能であるから、ハルトマンも満足に任務を終えられたと思われる。
バルクホルンはそう納得すると、ほうと息を吐いていつの間にか強張っていた肩を下げた。
「それでどうかしたのか? わざわざ追い出された部屋にまで来て、何か報告するような事があったとも思えないが」
「いや、別に報告って程じゃないんだけどね。やっぱりちょっと違うな、ってさ」
「違う? 一体何がだ。もしかして、お前のユニットまで調子がおかしいとか言うんじゃないだろうな。それはいかんぞ、小さなミスが命を奪う事もあるのだ。すぐに整備兵に――」
ハルトマンの言葉に俄かに色めき立ち、立ち上がろうとした。
「それこそ違うよ。私が言ってるのはシャーリーと飛んでるって事についてね」
早合点した上官に呆れる様な声で、部下は答えた。そして続ける。
「普段はさ、やっぱりトゥルーデと飛ぶ事が多いじゃん。だから何も言わなくても次はどうするとか、ここはこうするとか。体が覚えちゃってるんだよ。私の固有魔法のせいか、シャーリーから感じる風ってなんだかいつもより強くてさぁ。違和感でぞわぞわーってなるの。もちろん任務に支障はないけど、完璧じゃないんだ」
そんな風にハルトマンが、予想外の事を言うものだからバルクホルンは面食らう。
ひどく恥ずかしい事を言われた気がして、自分が赤面するのを感じた。そしてこれを見られてはなるまいと、勢いよく顔を伏せる。そのまま自分の膝と椅子と床の三点に漫ろに視線をやってから、そっと顔を上げて前髪越しにハルトマンを盗み見た。
しかしそれは叶わず、ベッドに寝転んで自分に背を向けた小憎らしい姿を捉えただけである。助かった、と思うと同時に悔しくなって歯噛みした。普段からふざけた態度ばかりでポーカーフェイスをなかなか崩さない部下が、今どんな表情をしているのか知りたくもある。しかし本人からすると別段、特別な事を述べたつもりも全く無いのだろう。
『あいつは、そういうやつだ』
気紛れに心を引っ掻き回しては、するりと溶けてしまう。
だからこのまま百面相をしていたら、そのうち振り返られてからかわれるのが関の山だと。バルクホルンはそう考えて自分の両頬をぴしゃりとやると、筋肉を無理矢理に動かす。すると五秒程で堅物と揶揄される顔へと戻る。そのまま勢いをつけて立ち上がり、ベッドへと歩を進め始める。自分は禁錮中なのだ。それなのにこのまま雰囲気に流されてしまっては、一日目の朝にせっかく追い出したハルトマンが居ついてしまう気がしたので、それを打破する為に強い鼓動を告げる心臓をねじ伏せて動いたのだ。
接近する足音の主へのせめてもの抵抗なのか。ハルトマンは機敏な動作でシーツを持ち上げると、頭の先からそれにすっぽりと包まった。もちろん表情など分かるはずもない。
ベッドの上で芋虫の様にもぞもぞとしている彼女は、思いの外に強情だった。
いくらバルクホルンの固有魔法が怪力とはいえ、無理に引っ張ればシーツが凄惨な姿となってしまう。ハルトマンが内から巻き込むように引っ張り、そうはさせじと逆の方向へと力を込める二人は、互いに無言だったのも手伝って滑稽と表現する他ない。
一方は未だに気恥ずかしさが抜けきっていないので、恐ろしい事を口走ってしまうのを恐れたからこそ、無言である。この場合のもう一方はどうなのだろう。
奇妙な綱引きは続いている。
このままでは埒が明かないし、不毛な事この上ない。そう考えた上官は一度だけ、魔法を行使する事に決めた。実際のところ、この部下を放置しておけばそのうちに飽きて姿を露にするだろう。しかし負けず嫌いのバルクホルンはそれを良しとしなかった。
慎重かつ、大胆に。
まるでネウロイへの攻撃をする時の心構えではないか。
繭の中で上下する芋虫の力の緩急を見極め、絶好のタイミングで思いっきり引っ張る。
それだけなのだ。彼女は自分の勝負運が中々に強い事を自覚していたし、その相手が長年連れ立った者であれば尚更である。
『もらったぞ、ハルトマン!』
精神を奮い立たせ、一足早い勝鬨を上げた。
しかし、それが最大の誤算となる――
バルクホルンが渾身の力を込めた時に、ハルトマンはそれをすっと手放したのだから。
結果どうなるか、逐一説明するまでもない。勢い余って後ろに倒れ込むならまだしも、壁に強かに後頭部と背をぶつける事となってしまった者が誕生した。不意討ちに、星が瞬く。
「ばか」
その合間を縫って、ハルトマンはあっさりと逃げ出してしまった。
バルクホルンは反射的に零れた涙で滲んだ世界を数回開閉してから、頭にできた瘤を摩る。それは見事に膨らんでいて、衝撃の度合いを雄弁に物語っていた。
そして部屋には彼女だけが残される。ともすれば先程までの出来事が白昼夢だったのではないか、とそんな錯覚までがぬっと部屋全体に漂った。そもそも、ハルトマンがあんな台詞を口にするなんて有り得ない。おそらく退屈の海に溺れた自分が、椅子に座ったまま微睡んでいたのだ。そしてバランスを崩してみっともなく床に転げ落ちたのだとすれば、なにも不自然な点はない。そう思い込もうとしたが、目の前には証拠が転がっている。
一つ目は退出する際に開け放たれて、そのままになっているドア。おまけに廊下からは誰かが騒々しい音を立てて遠ざかっていくのが聞こえる。二つ目は彼女が今手にしている微かな温もりが残ったシーツと、それの本来の居場所であるベッドはトランポリンでもしたみたいに皺くちゃだ。
もう、どうしようもなかった。
体が覚えちゃっているんだよ、なんて聞く人によっては大きな誤解を招くではないか。
それを思い出して、バルクホルンはまた赤面した。顔だけではなく、首筋や耳までが染まる。こんな風に邪推して勝手に盛り上がってしまうのも、退屈のせいなのだろうか。
悶々とした気持ちを払拭しようとするが、どうにも上手くいかず。むしろどうすればよいかが分からず、痛みを抱えた体をそのままにバルクホルンは座り込んでいる。石畳の冷たさ程度では、熱は収まりそうにもなかった。
どれほどそうしていたか。バルクホルンは自分の周囲が薄暗くなっている事に気づき、はっとする。いつまで放心していたのかと慌てて時計を見ると、なんと三時間程が経過していた。
「不覚をとったか……」
呟いた言葉が落ちてから、のろのろと立ち上がる。どうやら痛みも瘤も引いてしまったようだ。体に異常がない事を確認してから、彼女はゆっくりと伸びをする。すると関節が小気味良い音を響かせた。
体を外に出してしまわないように腕を懸命に伸ばして、ドアを閉める。それからシーツを大きく翻らせてから、てきぱきと手際良くベッドメイクをし直した。すると室内は平素の様相を取り戻し、そこでようやくバルクホルンは落ち着く事ができたのである。
「そういえば、気になる事を言っていたな」
自慢ではないが、彼女にとってハルトマンは自分とロッテを組んでいる時が一番いい動きをしているように見えた。もしそれが勘違いでないとしたら、誰が相手であったとしてもその力を発揮できるようになったとしたらどうだろう。そんな考えが頭に浮かんだ時、バルクホルンは大きく頷いた。どうやら、この残りの八日間のうち何日かは無為に過ごす事は無くなりそうだ。彼女は上機嫌で机に向かう。そして再び時計を見ると、夕食まではあと一時間弱。
これ幸いと、配膳係の者にちょっとした用事を頼む事にした。小間使いのような事をさせるので、できれば上官でなければありがたい。などと考えながら椅子を軋ませる。
紙が必要だ、ひとまずは二十枚程の。
バルクホルンはひとまず手元にあった万年筆を手に取って、引き出しから一枚の白紙を取り出す。すると角張った彼女の為人をよく表している文字でこう記した。
『エーリカ・ハルトマンとの空戦における報告』
誰でも読めるようにという配慮から、言語はブリタニア語が選択されている。
「さて、私の知る限りの全てをここに記そう」
禁錮刑となってから初めて、バルクホルンの顔に笑みが浮かんだ。
/08
執筆は昼夜兼行であった。
当初の予定では二十数枚で終わるはずが、下書き、推敲、清書と段階を踏めば踏むだけその枚数は増えていく。清書がまた下書きとなり、その清書がまた下書きとなるといった風に。それはさながら、転がり落ちていく雪だるまである。
そして最終的には118ページに及ぶ書類ができあがってしまった。
完成時には達成感で我を忘れ、たまたま部屋を訪れていたエイラにこれを見せつけたのだが「こんないっぱい読めるわけないだろ、気づけよ」とばしゃりと冷水を浴びせられたのだ。
そこで初めて冷静になって読み返してみると、なるほどその通りである。まるで要点が整理されておらず、ただ詰め込める物をありったけ詰め込んだだけの代物がそこにあった。
「これでは使い物になるはずもない。やはりバランスが大事だな。武器でもいくら火力があっても扱いにくければ意味がないものだ。そうすると改善点は……」
急に思案顔になって一人でぶつぶつとやり始めたバルクホルンに、エイラは半目になった。
「うええ。ミヤフジと一緒の時よりも変で気持ち悪いぞ、大尉」
そんな言葉を気にもせず、再び机に向かったのが一昨日の夜。
本日は禁錮8日目である。徹夜のせいか、バルクホルンの目の下にはくっきりとした隈が刻まれている。普段なら燦々と輝いて活力を与えてくれる朝の太陽も、今の彼女にとっては天敵となった。それがひどく自分勝手な理由だと知りつつも、少しでも目を休める為に部屋中のカーテンを閉め切る。すると丁度良い暗がりができた。
「さて、あとはサインを書くだけだな」
その程度ならばこの明るさでも何も問題はないと、椅子に座ってから穏やかな気持ちで万年筆を握り締める。静かな部屋には紙をインクと一緒に掻き毟る音だけが響き、それが止んだ時に報告書は真の完成を見た。
改訂する事四回、熱中のあまり食事を摂らずにミーナから怒られた事二回、机に突っ伏して眠ってしまった事三回、冷ややかな視線で刺された事数え切れず。そして総執筆時間は100時間にも手が届きそうな、バルクホルンの努力の結晶がそこに存在した。
「私は同じ轍は踏まん!」
誰もいないというのに拳を振り上げつつ大きくそう宣言して、枚数を確認する。
それは何度確認しても28ページという実にコンパクトにまとまっており、分かり切った注意事項をつらつらと退屈に並べてあるFw190D-9型のマニュアルよりも、よっぽど読みやすい物となっていた。できれば図示により更なる理解を深める為の手助けとしたかったのだが、バルクホルンは絵が不得手だったので、仕方なく文字のみの構成となっている。しかしそれでもこの報告書には、十分な価値があると彼女は信じていた。そしてかつてない充足感と睡眠欲が彼女を襲う。今だけはこれに埋没してしまいたいと、その身を委ね掛けた時だった。
「メシの時間だぞーっと!」
あっけらかんとした声がそれを阻んだ。
続けて皿やカップを乗せたカートが、がらがらと賑やかに部屋に闖入してくる。せっかく至福の時に浸っていたというのに、これはひどいのではないか。そう思ってバルクホルンはシャーロットに目をやる。不健康そうな顔付きに加え、不機嫌さを微塵も隠していないカールスラント人にリベリアンは少しだけたじろいだ。
「おいおい、そんなに怒るなよ。ほら、今日はポテトだぞ。お前の好きな」
子供をあやす様な猫撫で声に毒気を抜かれたのか、はたまた好物に魅かれたのか。バルクホルンは相好を崩し、ぐっと体を伸ばしてから、フライドポテトをひょいと摘んでもそもそと食べ始める。いつだって折り目正しい彼女らしくないその所作に、シャーロットは驚いた。
「大分お疲れみたいじゃないか。無理は良くないぞ、まだ病み上がりだろう」
「あまり私を見くびるなよリベリアン。体調管理も軍人の仕事のうちだ」
「はいはい、それは失礼いたしましたっと」
「まぁ気持ちだけはありがたく受け取っておこう、ご苦労だったな」
いつもの軽口を数回交わしてから、シャーロットは気づく。バルクホルンが素直に自分への感謝を述べたという事に。もしかして睡眠不足のせいで、思考回路に異常を来したのかと疑ったがそれは違う。元よりバルクホルンはシャーロットのことを嫌ってはいないし、見縊ってもいないのだ。ただ彼女は褒める事よりも叱る事の方が、軍隊という組織に置いて大きな役割を持つと考えているだけである。
珍しい事もあるものだと立ち尽くしているリベリアンを尻目に、カールスラント人はカートから皿をテーブルへと移していく。
黒パン、ルッコラのサラダ、スクランブルエッグにヴルスト、野菜のポタージュ、そしてコーヒー。最後に山盛りのフライドポテトを並べると、バルクホルンはナプキンでしっかりと手を拭いてから、食卓についた。シンプルなメニューではあるが中々に豪勢な内容に、彼女は自分が本当に恵まれた環境にいると改めて感謝した。
最初はコーヒ−を口に含み、その香りを楽しむ。そしてナイフとフォークを使ってヴルストを切り分けようとした時に、がたんがたんとやかましい音が響いた。
何事かと目の前の皿から顔を上げてみれば、そこにはハルトマンの敷地から椅子を持ち出してくるシャーロットがいた。そのままバルクホルンのテーブルにまで近づくと、背もたれを前にしてからそこに両手を乗せる様にしてどっかりと座る。小さく軋む音がした。
「一人よりも二人だよな、食事っていうのはさ。幸せが二倍だ」
そう言ってフライドポテトを一度に三本も掴むと、一気に口へと放り込んだ。まだ湯気が立っているぐらいには熱いものを、よくもまあそんな勢いで食べられるものだとバルクホルンは感心する。しかし、ただ食い意地が張っているだけだと思い直した。
「私の取り分は半分になりそうなんだがな」
「気にするなって。それにこの量だと食べきれないだろ。それにお前、部屋に引き篭もっちゃってるし普段みたいに食べてると太っちゃうぞ。だからこれはあたしの親切心だよ」
澄ました顔でカウンターパンチを繰り出してから、シャーロットは再び獲物を消化し始めた。うまいうまいと繰り返しながら、快調に山を崩していくその様子とは対照的に、バルクホルンの手の動きは鈍い。
確かに一週間以上、まともに訓練はできていなかった。部屋の中で体操するなどの軽い運動をしてはいるが、消費する熱量が微々たるものである事に疑問の余地は無い。
言われて初めて自覚したのか、そっと自分の下腹部に目をやると前よりもそこが膨らんでいる気までしてきたのである。ひょっとしたらそれは気のせいなのかもしれないが、バルクホルンの気持ちは乱れた。そして眼前で暢気かつ幸せそうに芋を貪るリベリアンに、恨みがましい気持ちを抱く。彼女のプロポーションは同性の目からしても素晴らしいものであり、今自分を襲っている悩みなどとは無縁であるように思われたからだ。
「んふふふふ。気にすんなよー、冗談だからさ」
自分から言っておいて勝手な事を! と、反射的に口にしそうになるのをぐっと飲み込んで、黒パンに噛り付く。独特の酸味がじわりと広がった。
程なくして食事は終了し、結局シャーロットは八割程のフライドポテトを自分の胃袋の中に収めていた。少しからかいすぎたか、と彼女は反省する。普段では女らしさなど見せないこのカールスラント人が、まさかここまで冗談を気にするとは思っていなかったのだ。
「ごちそうさまでした」
二人が同時に食後の挨拶をする。それを終えるや否や、バルクホルンはある物を差し出した。それは大型のクリップで纏められている紙の束である。
「リベリアン、これは特にお前に目を通していて欲しい物だ」
「ん、なんだ? お前が一生懸命やってたのは人から聞いたけど、もしかしてこれか?」
「ああ、ハルトマンの一言からヒントを得て書き記した。頭に入れるだけなら。二時間もあれば十分だろう。効果的な戦闘方法の為にも心して読むように」
そう告げて相手へと所有権を移そうとしたが、寸前でそれを引っ込めた。中身はともかく、とりあえずは受け取ろうとしたのにタイミングをずらされる形となる。
「今はまだ複写ができていないので、一点物だ。間違ってもエンジンオイルで汚したり、コーヒーを零したり、油まみれの手で触って染みを残したりするのは厳禁だぞ」
まるで母親の様な物言いにシャーロットは懐かしさを感じつつ、自分の鈍い光沢を持った右の親指と人差し指の先の一本ずつを遠慮無く口に含んだ。まるで子供の様に。
しかしそれからの行動は、どう見ても子供のものではない。
シャーロットは舌が吸い付く音をわざとらしくさせてから指を抜き、濡れたそれをバルクホルンが使ったナプキンで拭う。そして挑戦的な色を含ませてから、視線をやった。
「そういった事は相手を選んでからやるといい」
アプローチはけんもほろろに切り捨てられる。どうやらこの手の冗談は、目の前にいる相手のお気に召さなかったらしい。ペリーヌに似たような事をした時は烈火の如く怒られたが、そっちの方がまだ可愛げがあったと、シャーロットは思い返す。
「お堅いねぇ」
「お前と一緒にされては困るな」
いつの間にか両者の間にはやや冷めた空気が流れている。潮時と考えるには十分だった。
「分かったよ、今日中には済ませておく。それでいいだろ?」
「いや、できればこれからすぐに頼む。そして実践する機械があった場合、これに間違いがあったら聞かせて欲しい。大尉は今日、午後からハルトマンと哨戒任務があったはずだ」
「よく覚えてるな。私はさっき中佐に言われて思い出したぐらいなのに」
軍人としての意識の差を感じつつも、バルクホルンはそれを咎める事はしなかった。何故なら心身は連日の執筆によって強い疲労を覚えていたし、その状態で食事を摂ったものだから、脳はただひたすらに睡眠を欲し始めたからである。ウィッチとて本能には逆らえないのだ。
「ハルトマンと一緒に飛ぶ時の留意事項を記してある。尤も私の経験からではあるがな。特に難しい事は求めていないから、少し頭に入れておくだけでもいい」
頼んだぞ、お前の実力ならば容易いはずだ。
そう最後に付け加えてから、バルクホルンは席を立った。そしてふらふらと少し覚束無い足取りでベッドに辿り着くと、そこに倒れ込んでから直に寝息を立て始める。
「いや、それは普通に無理だろ……」
階級は同じ大尉にあるとはいえ、彼女とのウィッチとしての力量差は歴然としている。人類二位の撃墜数を誇る、カールスラントのスーパーエースから『自分と同じように動け』なんて事を言われてすぐに実行できる者がこの地球上に何名いる事か。少なくとも、シャーロットはそうではない。これは己が力量を正しく把握しているからこその認識である。
「一応は見ておくけどさ」
今までのシャーロットならなにか適当な理由を付けて、それを回避していただろう。しかし彼女には自覚していない程に僅かではあるが、バルクホルンへの負い目があった。
使用禁止だったジェットストライカーを使ってまで、ピンチに駆けつけてくれた事は、心底意外であったしそれを嬉しく思った。今までのそれなりの付き合いの中で、ひどく嫌われてはいない自信はあったが、自分の為に犠牲を払ってくれる程に良好な関係を築いているかどうかは不明だったのである。それが先日の一件で、明らかになったのだ。
「それなのにこっちが尻尾巻いちゃったら、リベリアンとしての名折れだからな」
シャーロットは聞こえないように小声でそう言ってから、テーブルの上に並んだままの空の食器を片付け始める。本来ならば食事を運ぶのはリーネか宮藤の役目だったが、今日は気まぐれにそれを代わったのだ。そこには何の意図も無かったが、そのお釣りは予想以上に大きなものとなり、彼女の顔に笑みを湛えるには十分だった。
昏々と眠っていたバルクホルンの意識を強引に覚醒させたのは、基地中に轟く敵襲のサイレンだった。それは彼女の一番深い部分へと入り込んで、四方へと拡散する。
それによって睡魔は一瞬で体から消え去り、ベッドから飛び起きた。敵の規模はどれほどだと脳内でシミュレートしながらドアノブに手をかけようとして、はたと動きが止まる。
彼女は未だに禁錮中である。敵襲があろうともその処分を撤回されなければ、出撃する事は適わない。もしここでそれを破れば、数日前と同じ過ちを繰り返す事になる。
彼女はいつだって前線に赴き、ネウロイと戦っていた。予備員として戦闘時に基地で待機をしていた事は何度もあったし、それを不満に思ったことは無い。それは一重に、自分の手が必要になればいつだって飛んで行けるという前提があったからだ。
だが今のバルクホルンはそうではない。
彼女に出来る事は、仲間の無事を心から祈る事ぐらいのものである。
窓辺に駆け寄り、閉じたままのカーテンを乱暴に引いた。ロマーニャの夕暮れ特有の燃える様な赤い空が視界いっぱいに広がり、途端にそれが不吉なものに感じられてバルクホルンは小さく身を震わせる。だが次の瞬間はそれに負けじと、虹彩が歪ませながら赤を睨み付けた。
今までこの部隊における戦死者はいなかったが、それがどれだけ幸運な事であるか彼女はよく知っている。地獄という言葉すら生温いカールスラント撤退戦を経験したその身にとっては、命など吹けば飛ぶ程度のものでしかない事も。
ハンガーのある方向から、ウィッチ達が空へと昇って行くのが横目に見えた。
「みんな、無事に帰還してくれ……!」
心の底から声を絞り出し、爪が掌に食い込んで血が流れそうな程に力を込める。死地へと向かう仲間達の背中に、自分の思いを預ける為バルクホルンは硬く目を閉じた。
そして大きく深呼吸をして、瞼を上げた瞬間だった。
「バルクホルン大尉!」
叫び声と共にドアが破られる様に開かれる。
それはリネット・ビショップ曹長によるものだった。
「ミーナ中佐から司令室に来るようにとの事ですっ!」
渡りに船とはこの事か。このまま自室でじっとしているのは、到底不可能だろうと思っていたところにこの報せである。振り返ると同時に彼女の足は石畳を蹴り上げて、こう答えた。
「了解!!」
そのまま初速の速さに評判があるMG42から打ち出された弾丸の様に、部屋から飛び出す。
室内にずっと篭っていたにも関わらず、バルクホルンの体はまるでそれを感じさせない猛然とした速度で司令室への道程を進む。
これはきっとこれまでの研鑽の賜物であろう。日々の鍛錬を怠らず、いつだって軍人として正しくあろうとしたその志は鮮やかに煌いて、彼女を前へ前へと運んでいく。
普段なら廊下を走るなどとんでもないと誰かを叱る事が多いが、この非常時にはそんな暢気をしてなどいられない。ただひたすらに目的地へと向けて足を動かした。
そして彼女の速さが後方のリーネの姿を完全に振り切ったと同時に、重厚な司令室の扉は開かれた。中には緊張した面持ちのミーナが一人、無線機に齧り付く様にしている。
「トゥルーデ!」
「戦況を聞かせてくれ」
備え付けてあるインカムを右耳に、そしてミーナからの説明を聞く為に左耳は空けておく。そしてレーダーにさっと目をやってから光点の位置を把握した。
「敵ネウロイは小型機が5機よ。場所はアドリア海と地中海の境目の上空、このままの進路だとタラントへ侵攻されてしまうわ。それを哨戒任務に当たっていたシャーリーさんとエーリカが発見して、現在は戦闘中よ」
「小型機といえ5機か…… 増援にはどれぐらいかかる?」
「どんなに早くても15分ね」
「際どい、か。上手く時間を稼いでくれるといいが」
インカムからは2人の銃撃音と、ネウロイのレーザーが空を裂く鋭い音が流れ出てくる。戦場で耳にし慣れているとはいえ、こうして自分がその場にいないというだけでそれはまた違った恐怖を与えてきた。
『くっそ、こいつらやけに硬いぞ! いい加減沈めよ!』
『本当だね。ちょっとこれじゃ火力が足りないかも』
そんな中、2人の声が届いた。厄介なネウロイに愚痴を言うぐらいには、余裕があるらしい。彼女らが無事である事に安堵しつつも、バルクホルンは無線機へと駆け寄った。
「聞こえるか? 応援が既にそちらへと向かっている。撃墜が難しいのなら、そのままの状態を維持しつつ耐えてくれ。決して無茶はするなよ」
『あれ、なんでトゥルーデがいるの? ミーナは?』
『おいおい、バルクホルン。また命令違反か』
「馬鹿な事を言っている場合か! 私はちゃんと許可を得てここにいるんだ。それにミーナもいるが、お前達の泣き言が聞こえてきたのでな」
せっかく心配をしてやったのに。
そんな言葉が飛び出しそうになるのを押さえ、バルクホルンは状況を整理し始めた。そして過去に何百と繰り返してきた戦闘の経験を掘り出して、最も適した指示を探す。
「トゥルーデ、ここはあなたに任せるわ」
ミーナは深い信頼を含んだ瞳でバルクホルンの肩に手を置いた。その重みに心地良さを感じながら、彼女は小さく頷く。
戦況は水物で、遅疑逡巡は許されない。
しかしシャーロットがハルトマンとロッテを組んでいて助かったと、バルクホルンは思う。
「おい、リベリアン。聞こえているのならそのまま聞け。朝、お前に渡したものがあるだろう。それの第二章第一節を思い出せ。それを実践すれば危険性の減少に繋がるはずだ」
『もっと分かりやすく頼む!』
「ちゃんと読んでおくように言っただろう! 13ページの“数的不利における一撃離脱と敵の誘導について”の項目だ!」
ひょっとしてこのリベリアンは、あの報告書を読まずに捨てたのではあるまいか。そんな不安がバルクホルンに訪れたが、それは快活な返事によって打ち払われた。
『最初からそう言ってくれよ! オーケー、お前を信じる』
シャーロットはそう言って、記憶の紐を手繰り寄せた。
そして几帳面そうな角張った如何にもな文字で綴られたそれを、頭の中に浮かべる。
「私じゃ力不足かもしれないけど、借りは早めに返さないとな。行くぞ、ハルトマン!」
自分に発破を掛け、シャーロットは敵へと向かう。そしてハルトマンがそれを援護しながら後に続いていった。
まずは長機が敵の注意を引き付ける程度に攻撃を与えてから、即離脱。それから僚機は長機退路を確保しつつ、次の敵に備える。これを数回繰り返してから今度は役割を入れ替えて、弾薬の消費の偏りを抑えながら、敵ネウロイを一体ずつ誘導。それが散らばるようであれば急上昇からの奇襲も有効であり、その際は決して僚機との距離を取り過ぎない事。なおハルトマンが僚機の場合は、長機の者は全ての行動をやや早めに行うとより効果的である。
他にも細々とした事は書いてあったが、シャーロットが覚えているのは大雑把にこの程度だ。今回は幸いにもハルトマンが僚機で、自分は長機という編成になっている。
つまり、自分がバルクホルンの代わりをするように動けばいいのだ。あの報告書の通りにやれば、きっと間違いは無いのだろう。とはいってもやはり実力差に不安はあるが、それを差し引いてもバルクホルンは信頼に足る人物だった。
ならば答えは一つである――
シャーロットはビームを掻い潜る様にしながら、攻撃を始めた。それはコアを破壊する為のものではない。同じ大尉として基地から指示を送っている、彼女の教えを遂行する為である。
その意思を以ってM1918から放たれる熱量が、ネウロイの表面を浅く削った。
きっと上手くいくと、いつもより優しい風を感じてシャーロットはそう信じていた。
/08.7
『戦闘終了、基地に帰還する』
「お疲れ様、美緒」
地中海の空にいる8人のウィッチは、無事にネウロイを撃退した。シャーロットとハルトマンの2人は危なげなく時間を稼ぎ、無事に基地からの応援と合流。そしてそのまま数で勝るこちらに軍配が上がったのである。
「今夜はもうネウロイは来ないと考えられます。サーニャさん、今日の夜間哨戒はいいわ」
『わかりました』
各々の顔からは先程までの緊張が消えていた。夕焼けを受けて真っ赤に染まったウィッチ達は、達成感と共に悠然と空を翔る。
「トゥルーデ、リーネさんもお疲れ様。これでようやく一安心ね」
隊長は柔らかく微笑むと、部下を労った。
「サイレンが鳴った時は肝を冷やしたが、どうやら考え過ぎだったみたいだな。それにしてもミーナ。どうして私をここに?」
室内の空気が弛緩してから、ずっと気になっていた事をバルクホルンは問う。
「それはね、あなたがまた勝手に出撃しちゃうんじゃないかって心配だったからよ」
くすくすと笑いながら返されてしまったので、薮蛇だったかと後悔した。隣にいるリーネも
同調する様に笑うものだから、バルクホルンは居心地が悪い。これはどうしたものかとシャツの裾を弄りながら悩んでいると、上機嫌な声が飛び込んできた。
『おーい、バルクホルン! いい感じだったろ!』
「まぁまぁと、言っておこう。しかしリベリアン、あれぐらいで調子に乗っては困るぞ。お前の動きにはまだまだ無駄があるように思われるからな。それでハルトマンはどうだった」
『そもそも、トゥルーデとシャーリーが何を話してんのか全然分からないんだけど』
『ああ、ハルトマンは知らないんだったか。なに簡単な話だよ』
その瞬間、バルクホルンはひどく悪いものを感じた。
そしてここからは見えない筈のシャーロットの口元が、いやらしい形になった事も。
『バルクホルンがお前の為に何日もかかって書いたラブレターを、私が先に読んだだけさ』
鮮やかに、爆弾が投下された。
「おいリベリアン、何だそれは! 報告は明瞭且つ的確にしろ!」
『だってさー。あそこまであいつの事を見てるとは思わなかったよ。じゃないとあんな風に熱っぽく書けないと思うね。読んでるこっちが恥ずかしいったらありゃしない。堅物だって決め付けてたけど、意外とやるじゃん。ちょっとお前を見る目が変わりそうだ』
『えええー!? バルクホルンさんがラブレター!?』
「違うぞ、落ち着け宮藤! 誤解だ、話を聞け!」
効果は抜群だ。兎の思惑通りに、戦況は混乱の一途を辿る。
『バルクホルンさん、素敵です……』
『サ、サーニャもやっぱり、そういうの、欲しいのか?』
『いいじゃないか。想いを伝えるというのは実に素晴らしい事だぞ。はっはっはっ!』
わざと誤解を招く一言のせいで、通信回線は俄かに混雑を始めた。バルクホルンはこの事態をどう収拾したらよいものかと、ミーナとリーネに縋る様な視線を向けた。しかし二人もシャーロットの言葉を真に受けたのか、頬を染めて少し身を捩りながらそれを回避する。冷静に話を聞いてもらえるとは、考え難い精神状態だった。
ゲルトルート・バルクホルンがこの世に生を受けて十九年。
彼女は今、大きな試練を迎えていた。
インカムの向こうからは機関銃の様な数の質問が自分へと襲い掛かってきて、乱痴気騒ぎが加速している事がありありと窺い知れる。いくらスーパーエースといえど、まだ少女といって差し支えの無い年齢だ。そんな彼女にこれらを完璧に対処しろという命令は、無理難題でしかない。圧倒的に人生経験というものが足りていないのだから。
「つ、通信を終了するっ!」
だからバルクホルンは最後通告の後に撤退する事を選んだ。
いつだって勇敢で先頭に立って戦う彼女だが、今回は違う。
これ以上の被害を出さない。それが最重要事項であると判断して、インカムを乱暴に耳から抜き取るとそれを投げ捨ててから司令室を飛び出した。そして羞恥に塗れながら走り出す。
床に転がったインカムからは、まだまだ賑やかな声が聞こえてくる。
『あれ、ちょっとやりすぎたかな。まぁいいか、いい気分転換だよ』
シャーロットは自分が原因だというのに、無責任な事を言って楽しそうに笑った。
/09
日付が変わって数時間経つ。
あの後、自室に戻ってからバルクホルンは初めてドアに鍵をかけた。もしこれが施錠できないタイプの物であったら、恐らくジークフリート線を越えた先にあるハルトマンの領地から、ありったけのゴミやらなにやらを掻き集めて即席のバリケードを作っていた事だろう。
外界との接触を断ってしまった彼女は、夕食が部屋に運ばれてきてもそれを開かなかった。恥ずかしいやら情けないやらで、自分の器の許容量を優に超える感情によって平静を保つ事などできるはずもない。
数日前はハルトマンがそうしていたが、今はバルクホルンがベッドの上でシーツに包まった繭となっていた。シーツに包まって。じっと夜が明けるのを待つ。
何度かこれを繰り返せば、そのうちに皆の記憶も薄れるだろう。
そう信じる他に道は無かった。
禁錮となっている残り日数は二日。つまりその間は誰とも会わずに住むと考えると、幾許かバルクホルンの心は安らぐ。そしてなんとしてもあの諸悪の根源であるシャーロットに、発言の撤回を求めるつもりでいた。
「それがされないと、私はこの部隊で生きていけない……」
「だーれが生きていけないってー」
「ひゃあっ!」
自分しかいないはずの部屋なのに、急に声をかけられた事に驚いてシーツから顔を出す。するとそこには、今最も顔を会わせ辛い人物であるエーリカ・ハルトマンがいた。
がばっと反射的に再びシーツを頭まで被る。みっともない顔を見られたくないのはもちろん、一瞬で顔に血が回ってきてしまったのを隠す為だ。そもそもなんでここに来たのか、そしてどうやって鍵を開けたのか。バルクホルンの器には更に感情が注がれていく。
「ど、どうして」
少し震えた鼻声で、そう口にするのが彼女は精一杯だった。
「トゥルーデってさ、誰が同室だったって事もう忘れちゃったの? 私が合鍵持ってないわけ無いじゃん。大変だったんだよ、気付かれないようにこっそり入ってさー」
それに対してハルトマンは、例の一件など何も無かったかのように接する。まるでここに来た理由も、単なる思い付きだといった感じさえした。ひょっとしたら自分が意識をし過ぎているだけで、部隊の仲間達全員が殆ど気にしてなどいないのではないか。そんな風に考えてしまう程に、彼女の声は聞き慣れたものだ。そこには怒りも憐憫も何も無い。
だがそれは思い違いだった。
「トゥルーデ。あれ、シャーリーに渡されたから読んだよ」
不意討ちである。
バルクホルンは落ち着きかけた心が、ひどく乱れるのを感じた。
「すごい詳しく書かれてた、自分じゃ気付かない癖もいっぱいあったし」
静かで強い声が聞こえ、それと同時にベッドのスプリングが軋む。二人分の体重がかかったなによりの証拠がそこにあった。布と肌が擦れる音に息を呑んだのは一体どちらだったろう。
「ねぇ、なんであんなの書いたの」
教えてよ、トゥルーデ。と今度は囁く様な声だった。
バルクホルンの心臓は何故か早鐘を打ち、喉はひりりと焼け付いている。
「お前が…… 私と飛んでいないと、不満だと言ったから……」
そう答えるのがやっとだった。
「だからもういいだろう、少し私を1人にしておいてくれないか。話なら明日――」
恥ずかしさが臨界を越えたのか、バルクホルンは被っているシーツをばさりと放った。そしてハルトマンを、強引にでもこの部屋から追い出そうと決める。その為に右腕をぐっと伸ばした。姿は見えていなかったが、気配でどの辺りにいるかは把握できている。
どうやらその勘は正しかったらしく、すぐ傍で背を向けてベッドに座っていた彼女の肩に指先が当たる。タンクトップにズボンという軽装だったせいか、細やかな肌の感触が脊髄にまで一瞬にして伝わった。
ハルトマンはひゃっと小さく悲鳴を上げると、振り返った。
振り返ってしまった。
「……………………」
無言のまま夜だというのに額から首まで朱に染まった彼女と視線が絡まる。
窓からの仄から月明かりが、それをより一層際立たせた。
いつもポーカーフェイスで捉え所の無い彼女がこんな顔をしているなどと、バルクホルンは微塵も思っておらず、肩に触れたまま固まってしまっている。一方のハルトマンもただ朱を深めていくばかりで全く動けずにいた。
どれぐらいそうしていただろう。
それは数分、数十分。もしかしたら数秒かもしれない。
とうとうハルトマンが堪えきれなくなって、すっと視線を外した。
「ばか、トゥルーデのばか」
そして唐突に繰り出された罵倒の言葉に、思わず面食らう。
「私はあんなものが欲しくて、言ったんじゃない。いや、でもあそこまで書ける位に、ずっと見ていてくれたのはその、あれだよ。結構嬉しかったけど」
ぽつぽつと小さな宝物を零す様に、少女は語った。
「実は、ちょっと期待してたんだ」
ハルトマンの表情が移ろい、はにかむ様な形を取る。バルクホルンはそれに照れてしまい、体がかっと熱くなった。掌にはじわりと汗が滲む。
「シャーリーの時みたいに。トゥルーデが命令違反して、駆けつけてくれないかなーなんて」
「そ、それは」
「我儘っていうか、自分がどれぐらい駄目な事言ってるか分かってる。でもさ、あの時はそうしたのに今回はしないって、なんか寂しい。負けちゃったみたいで」
荒唐無稽も甚だしいと、この場合は厳しく叱る事が正しい上官としての務めである。しかしそうすると目の前の彼女を傷つけてしまいそうで、それを無意識的に避けていた。かといって気の利いた台詞を言える程に器用でもなく、バルクホルンは次の言葉を待つ。
「トゥルーデってほんとばか。いつもいつも自分はなんでもできるって自信満々の癖に、実際は何もできてないじゃん。何もしてくれないじゃん。ばか、ほんとばか」
子供が駄々を捏ねる様に、ハルトマンは体を左右へと揺らした。そのせいで熱を共有していた部分が、あっさりと離れる。それを惜しいと思った。
だからもっと強く触れたくて、両腕を伸ばす。
「リベリアンの時は、きっと例外だ。あいつが危なっかしいから、私が出るしかなくて――」
そのまま衝動的に抱きすくめながら、バルクホルンは弁解した。
彼女の胸の辺りには相手の綺麗な髪が押し付けられて、なんとも気持ちが良い。
「それに、一番信用しているのはお前だから。きっと大丈夫だって思ったんだ、フラウ」
自分なんていなくても、フラウはもうとっくに一人前のウィッチで。私生活はだらしないかもしれないが、空では世界一だと。バルクホルンはお互いに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。一頻り終わってから、はぁと息を吐くとそれがくすぐったかったのか。腕の中で甘える様にハルトマンは四肢を緩く動かす。
「やっぱりばかだ。そんなんじゃないのに」
しかし、答えはどうやら不正解だったようで。
その罰なのか、少し拗ね気味の声といつの間にか背中に回されていた手が肉を軽く抓った。
小さな痛みを感じて、今度は抱きしめる腕に力が入る。それは二人の距離をすっと狭めた。
「でも今日のところは許しておいてあげる」
ハルトマンはそう囁いてから、頤を上げて笑顔を見せ付けた。天使の様な笑顔を。
それに暫し見惚れてから、バルクホルンはこう言った。
「ありがたい。お前の機嫌を取るのは大変だからな」
両者はまた視線を絡ませる。そして密着したままベッドに横になった。
ちょっとぐらいはこうして寝るのもいいだろう。
熱くなっていたは身体は、いつのまにか適した温度へと戻っている。
あぁ、これでは安らか過ぎて随分と長く眠ってしまいそう。
そう思いながら、2人は素直に意識を手放した。
ベッドの上の彼女等がまだ幸せな夢の中にいる最中。そっとそこを訪れる人物がいた。
「まったく、本当にいい顔してるよ」
その人物は少しだけ恨めし気にそう言って、静かに部屋を後にする。
空に青と白が混じり始め、新しい夜明けがすぐそこまでやって来ていた。