経るべき物を失った全ての存在へ。
Voile.
そこに、光があった。
空は低く厳かで、ある一人の少女の心に闇を根差す焔を作った。
彼女にしてみれば些細な心変わりで、
知識への純粋な欲望は気付けば図り知れずに、氷のように滞ったまま。
でも、それは魔女として当然だったし、
彼女は人間とは違っていた。
力があったし、人間よりも遥かに長い時を生きる事ができた。
知れないものなど、あるはずがなかった。
見えぬものなど。
ただ彼女は滞る事なく、
千の地を斃して、
万の都を越えて、
億の空を翔けて、
兆の帳を束ねて、
京の記を連ねて、
垓の知を率いて、
それで満足だったから。
彼女に知られる事は万物全てに等しく与えられる特権だと。
彼女は自分が知れぬものは無いと、いつしか気付いていたが。
でも、いずれ自分が死に伏すとき、その後の未来を知る事はできない。おそらくは。
それが許せなかった。
悪魔の手をも借りてまで手にいれた全てを、むざむざ放る訳にはいかない。
そんな感情はやがて現代へと駆け巡り、いつのまにか少女は全く動かなくなってしまった。
真鍮の像のように。
『知の鉱脈』の名を冠した魔女は、気付けばそこにいた。
全てを遮断していた。
Locked Girl――ラクトガールとなって、彼女は自身の世界を閉ざした。
百年の歳月の内に全てを改め、経るべき物を失うための、動かぬ旅を行くために。
Patchouli=Knowledge.
――――うつら、うつらと、何をするでもなく。少女の穏やかな指付きが静かに、テーブルの上に開いた書物のページを舐めてゆく。
白く、薄く。
冷たく。
雪解けのさなかのように冷淡な彼女は、常に持ち歩き行動を共にするこの本を、いつもいぶかしむ瞳で眺めている。
白と対照的に血を吸ったような紅の本。
もう紙としての役割を果たさない程に傷み、その内容など頭に入れるべくもない。
苦々しいだけで……
どこかしら怖気が走る。
「いつっ」
ふと反射的に、薄暗い大図書館の中へか細い悲鳴を走らせた。
数秒後に、指先をどこか紙の端で切ってしまったのだと気付く。
白の肌の上。紅がぽつんと落ちる。
何を思ったのか。
自身のほんの微かな切り傷に唇を当てて、
吸う。
じくじくと漏れ出す紅の香りはすぐに口腔を満たす。痛いわけでもなく、酷く曖昧な気だるさを感じさせる。
でもそれが――彼女の感情を揺り動かす手になる事は一切無かった。
ほう、と、本の敷き詰められた棚が立ち並ぶ渓谷へと、青白い瞳が移ってゆく。
彼女はその仕草の一つ一つが、
髪を揺らし指から唇を離す様子まで、
酷薄で美しかった。
でも、指を切ったというその微かな叫びに、目の前にいる霧雨魔理沙は気付かなかったらしい。
「…………はぁー」
溜息のように、少女パチュリー=ノーレッジの息吹は携える本へと投げかけられる。
分厚いページの羅列の先にあるのは、いつもの魔法少女がこちらに背を向け、時折本を開いたり閉じたり絨毯の上を転がったりと、パチュリーの視線を泳がせ急かすだけに忙しそうな姿。
そういえば。今日も魔理沙はここ、ヴワル魔法図書館へと何をするでも無しに、パチュリーの邪魔をしにきていたのだった。
もうこの程度に小柄な少女に大図書館を蹂躙される事は慣れっこであっても。
「やれやれ」そう呟き、いつものように魔理沙へ叱責を飛ばす。
「そろそろ昼も遅いから」語調を強めた一蹴の言葉は「なぁパチュリー、真水の中で魔法を使うとどうなるんだ?」同時に発せられた別の言葉で濁ってしまった。
「時間切れだから出ていっ――はぁ? 何」
ふと聞き返し、しまったと思う。
「水の中でー、魔法を使うと、どうなるんだっけ、と。そこの本にあったんだ。水を扱う魔法の話。で、パチュリーにも実験の手伝いをだな」
思わず、主導権を渡してしまった事に、パチュリーは心底いらだちを強めた。
「……そんなもの、勝手に回りの湖で試せばいいじゃないの。とにかく今日は疲れてるから」
いつのまにかテーブルの対岸まで迫った霧雨魔理沙の、その金色の髪の流麗な事、埃っぽい魔道書の詰まった本棚では息も詰まるだろう。
普段着の白黒のコントラストも鈍るほどに。
パチュリーは半目を強調させる。
でもいつも見受けられるのは、いつもいつも相手の腹を透かすような、猫のような瞳。
気に食わない――
「そっか」
別に残念がるでもなく、魔理沙はリボンで結わえた鬢の毛先をいじりながら、言い放つ。
「じゃあそこにあった資料っぽい本、勝手に貰っていくぜー」
「も、もってかないでー………………ハッ」
「……ふっ、なら良いじゃないか。ほら、」
パチュリーの弱点を押さえた魔理沙は、あっさりと彼女を屈服させてしまった。
泥棒と揶揄される所以たるもの、魔理沙は図書館から本を借りて返した事がない。これ以上被害を出すわけにもいかず。
同時に、それは見まがうことなく、『あのとき』の瞳だった。新しい玩具をみつけると、往々にして子供は眼を爛々とさせて喜ぶものだ。
そんなときの瞳。もう逃さない意思表示。
(妹様はそういう素振りを良く見せるけど、魔理沙も何だかんだで子供だ。人間の)
やれやれどうせいつもの事だ、と。
今日も今日とて魔理沙に手を引かれ、思う事は手の平から伝わる体温の違い。
足の速さの違い。
呼吸の間隔の違い。
魔理沙は「判を押したような生活じゃ面白くないだろ」と言っていた事がある。
パチュリーにとっては余計な世話だった。
元々、面白さを探すために生きているわけでもないし。
どこか心底から冷めたように、黙々と知識を貪るだけで、面白いと言えば面白かった。
だからパチュリーは魔理沙を常々邪険に扱う。
霧雨魔理沙は――
魔法図書館を一歩外に出た時に、かすかに感じた立ち眩みの原因だ。
対極の魔法少女二人が慌ただしく紅い廊下を駆け抜けるのを、館のメイド長はいつも、静かに苦笑して見送るだけ。
ただ、後に引かれるパチュリーはそのメイドの顔が鼻について仕方が無かった。
それこそ後ろ髪を引かれるようで。
細い眉を寄せる。
空を、仰いでいた。
時刻は分からないが、昼と夕方の境界辺り。
紅魔館と湖を挟んで対岸にあたる草原を、二人の魔法使いは涼しげに支配していた。
湖の影響か。晴天にしても空気は涼しく、尊大で謙虚な太陽は、嘘のように優しい微笑みを浮かべている。
片手に箒を携え、尖った帽子を装備した魔理沙が、意気揚々と微笑み返していた。
傾いた陽の下、パチュリーはなぁなぁで付き合わせた魔理沙へと「どうせなら」と心底眠そうに教えてやる事にした。
「私と魔理沙の魔術には違いがあるから」
――根本的な事象としては知ってるでしょうけど、魔理沙の魔法は光粒子、それに対して私は精霊魔法。
私はそもそも水の女王さえも操る事ができるし測るまでもないわ。
「あなたの魔力の召喚法は知らないから、まず一度潜水の準備でもして実践してみれば?」
「ふーん……よし、行くぜー」
そう意気込んで、湖の前で何故かパチュリーの方を見る魔理沙。
「……何やってるの? というか何でこっちを見てるの」
疲れるので脚を崩して休憩するパチュリーは、今促したままだ、と睨み返す。
何を考えている。……と、想像は付いた。
魔理沙はおもむろにパチュリーの腕を引っつかみ、喘息持ちという過去を忘れてしまったかのように笑ったまま。
「とりあえず二人一緒に行くんじゃないのか?」
パチュリーは考えた。あぁこれは駄目だ――「いやいや魔理沙」そう思った次の瞬間には抵抗する間もなく、湖の真っ青な水面が眼前に広がっていた。
ぎゃー。
――――――!
――――
…………
パチュリー=ノーレッジと霧雨魔理沙。
相殺した魔法少女二人分の虚空が、何かの切っ掛けで、世界に生まれていた。
それは互いの細い腕が繋がった今この瞬間にかもしれないし、この深淵なる広大な空が、発生した瞬間からかもしれない。
青々としたままの湖が勢いよくたゆたい、
パチュリーは呪いの言葉をどこか発していた。
昏く昏く淀んだ視界に声が掛けられる――なにを言っているのか、パチュリーには理解すべくもなく、真っ先に問いを返却してやる。
つまり溺れた。
二人とも。
「なん、なんっで! 寒っ先に準備しろって言ったでしょー!」
開口一番、おそらく二人の命の半数を削って必死で岸辺へたどり着いた後。
「うおおおパチュリーぶふっ、空飛んでる内は気付かなかったけど、そういえば私は泳げなかったんだよ!」
「な、なんですってー」
思い切り肩で息をこなしながら、岸辺の二人は雫を零して張り付く髪と服装に気味の悪さを感じ、そして対立していた。
どちらもダウンしていたが。
それでも、二人共々の、共通点を見つけた。魔理沙はパチュリーと同じぐらいに運動ができない事だった。
人間は見た目だけで判断が出来るから、魔理沙の眩しさに目がやられていただけだと。
なんとも詮無い事を考える。
「泳げないってあなた……ほんっとうに莫迦」
二人分の時間が穏やかに止まってゆく。
魔理沙が、水を浴びて艶やかに張り付く髪で酷く扇情的に見える以外は。
「あれ? な、その本さ……」
「これ、水に濡れちゃったじゃないの……はー……へくしっ」
パチュリーはそこで、はたと気付く。無意識に掴んだままであった、常に時を共にしてきた紅の本の存在。強く胸の前で抱きしめ、魔理沙をねめつける。
さっきから魔理沙はどこかしら、似合わぬばつの悪そうな顔でいて。
ごめん。
これが次の言葉だった。
「謝るぐらいなら」
パチュリーには魔理沙の心など汲み取れず、湖面のわずかに荒れた蒼穹のように、胸に浮かんだ『わだかまり』を不思議に思いながら、
雫のこぼれた草原を踏みしめ、立つ。
「別に怒ってるわけじゃないし」
水を吸った服の重さなど、気にも留めない。
青と赤の符を纏った帽子は流されてしまったかもしれないが、神秘的な紫色の長髪を手櫛でやわらげると、魔理沙を放ったまま次の言葉を放つ。
「それで? 魔法はどうなったのよ」
「え? あ、あー、水の中じゃ詠唱ができなかったぜ」
「何 無意味な事やってんのよ!」
「待て待てパチュリー、話せば分ゴッ」
霧雨魔理沙に炎の鉄槌が下ったのを、見ていたのは日の傾いた空だけ。
乾かすには丁度いいでしょう、と。
パチュリーはずぶ濡れの本の事など忘れたように笑んでいた。
じめじめとした感触で思い出す光景はいつだって、淀んだ紅だけの世界だった。
それは恐ろしいまでに居心地が悪くて、奇妙なまでに居心地が良い。
そして、思い出すにはまだ早い。
§
何だかんだで、彼女らの探究心は揺ぎ無く。
滞る。
魔女の炎は二人を乾かし、実験と称した昼下がりのじゃれ合いは興を増す。
小さな手のひら同士、そっとぎこちなく触れたままで。
魔理沙は割と神妙な面持ちで、前準備という名のものをまるで省みずに、素で水へもぐろうとするばかりで。
それをパチュリーは腕を引っ手繰り、必死でつなぎ止めるだけ。
こんな事レミィに見られたらどうしようとか、 門番が見ていたら。別に構わないが、やはり詮無い事だけが脳裏によぎる。
パチュリーの目の前に広がる他愛も無い光景が本当の現実に見えなくて、『永遠』という道標だけが心に『わだかまり』として残る。
――何故。
上辺だけで、やっぱり何気無く、怒ったような困ったような嬉しいような、パチュリーのそれは彼女のためにあるかのような顔をしてみせる。
魔理沙にしてみれば、疑いは微塵もなかった。
「じゃあ水の中で詠唱できないなら、水の中を発生源にすれば良いんじゃないか?」
こんな戯れ事には慣れていても、
「気付くのが遅すぎ」
そう。悠久の世界の中では、こんな時間、永遠で割れば零に等しい。
「素潜りの意味が無いじゃないか……いやまあ、どうせ泳げないけども」
自己犠牲と思えば清々しい、パチュリー=ノーレッジの全て。
「分かってきたけど、あなたの魔力の発生源はあなた自身、よ。水の中で直接放つには媒介が足りない――遠隔操作魔法はあるの?」
霧雨魔理沙には教えの手を差し伸べるには至らない。筈だった。
「アースライトレイが妥当な所か。よし実践!」
――それでも、結果に予想はついていたが。
「……って、あれ? 光符――――っ、おろ、魔方陣が出ないぜ」
珍しく。魔理沙は本気で困惑していた。どんな時も息をする事のように信じてきた魔法が途絶えた瞬間に。
言葉にしてみれば些細であったが、
一瞬だけ見せる怯えた瞳。パチュリーの知らない顔――
でも、それも仕方ない。
「やっぱり、あなたの魔法は水中では発現しない、か」
焦るまでもないのだ。
「あなたの魔法は光の直線を集合あるいは分散、一方向へ発生させる物なのよ。知らない? そこで不思議そうな顔をしない」
パチュリーは魔理沙の弾幕の様子を、以前から観察してきた。
観察というほど回数を見たわけではない。ただパチュリーには知れる物は頭に叩きこんでおく癖があったからだ。
ある程度予想はついていた実験結果――どうせ無理に連れられなくても、答えなど知っている。
あらゆる事柄でも。
「分かりやすく言えば、光は波立つ水の中では分散して、力と一緒に消失してしまうってわけ」
「私の魔法はそんなヤワじゃないぜ……」
「そうかしら。これでも見て比較してみる?」
瞬間、パチュリーの内で何かざわめく物が歩き始めた。
比較。この言葉には随分と魔性が宿っている。
魔理沙はそんなパチュリーの昏い瞳の様には気付けなかった。随分と疲弊して、拗ねたように事を見守るしかできない少女のまま。
そんな彼女が使う光の魔法を尻目に、疎んじるはパチュリー=ノーレッジ。
「精霊は自然それそのもの。水如きは媒介に過ぎず身体に及ばず。大気や大地、天候などは我が手中にあり。
精霊魔法の本懐、どうせだから見せてあげる」
彼女が紡ぐは陽光の術。
かねてから喘息を患っていたが、今の彼女は、恐らく自身が止められぬほどの大魔法を撃つには事欠かない程に好体調。
「牙を剥け、滅裂よ!」
視覚に頼ろうものならば、パチュリーの右腕は不定形な光の靄、以外には知覚できない。
再び彼女は印を紡ぐ。その指先に発生するは焔のカード。
突き出した腕はあらゆる虚像を映し出す。いや、その力の強大さを前にしては、最早光すら触れる事は適わない。
全てを消し去る呪文。全てを廃墟へといざなう術。この世で最も美しくはない弾幕。
「日符――――」
霧雨魔理沙は圧倒された。
何もかもを巻き込み、火焔唯一つだけが、目の前の巨大で尊大な水面の中で、海獣のように蠢いている。
パチュリーはここまで来て気付く。水を被った影響がまだ続いていたのか――さむい。
「『ロイヤルーフレ……ふぁっ……ふえ、うへぁくしょーーん!」
そしてそれが、パチュリー=ノーレッジの災難の始まりだった。
勢い余ったスペルカードの暴動開始。
魔法少女達の心から、ざわめきの鳥達が一斉に飛び立った。
彼女らを慄かせる狩人から逃れる為。
空にしか逃げられないと知っている様に、
空すらも逃げ場にならないと知っているはずなのにそれは無粋に掻き乱す。
パチュリーは「しまった」と思う前に、傍らの魔理沙の腕を、強く引っ手繰っていて、
天がまず眼を見開いたかと思えば。
湖面に光の亀裂が無数に奔り、それ一つ一つが紅魔館など一呑みにするほどだった。
次の瞬間、何ができた?
視認できたのは炎、轟音、龍の咆哮、
湖の水面はぎちぎちと金属のような悲鳴を上げて盛り上がり、雲にまで届き、そしてそれらは全てが瞬きの最中のあらましだった。
過剰なまでに巨大になったロイヤルフレアは自分勝手につけ上がる。
地響きにも似た重い魔力の暴動の震源が少女二人を殴りつけ、それが水滴そのものの爆発と気付いて、どうする事もできなくて。
衝撃に次いで、
吹き付ける水分と熱量。
「…………っ?」
咄嗟に頭を庇っていた腕を、また恐る恐る剥がしてみれば――――後に残った燻った土の香り。
空を舞う飛沫の群れは、藍色の空を別の青として爆破する。
パチュリーの瞳に光が戻ると同時に。
彼女はぎょっとして、魔理沙を引きつれ、湖へと駆け寄った。
「な、あーー!」
紅魔の湖、だった場所に、水分と呼べる水分は残っていなかったのだ。
蒸発、か? あれほどの質量を持った湖が全て一瞬で? 冗談ではなかった。
パチュリー自身にとってはほんの些細な、きっかけの一つ。だったのに……高々くしゃみ一つで、スペルカードの構築能力に尋常でない負荷が加わった、らしい。
生理現象に寄る魔力の過剰摘発なんて良くある事だったのに、これほど意味不明な事象は見た事もなく、パチュリーは眩暈を感じる。
遅かったよう、だ。
情報処理、演算、シミュレート、掌握、理解、言葉はなんだって良かったが魔女としての知能や能力はあくまでも瞬発性に勝負を賭けるものではない。
制御するにはあまりにも、無力だった。
「うぁ……最悪……」
茫洋たる現象を前に、亡羊とした魔女の瞳は鮮やかな空を捉え。
物悲しく、静かに日を傾ける空はもう紅と黒の境界。
幻想の中なのに。
あまりに幻想的な景色に、むしろ思考は少女二人共々停止したまま。ぬるく整った湿った空気を再認する。
最悪な事に、髪が乱れた。
パチュリーが次に認識するのはそこ、しかし人間よりも微かに知覚能力は上だ。
彼女にしてみれば帽子が飛んだだの服が弾けるだのといった瑣末な事象は懸念するに至らない。
青々と茂っていた筈の湖は最早、荒地で。
紅魔館はかろうじて、あるべき場所にある。
門番は……死にはしないだろう。
あれだけの爆発があって――ここまで辿って、ようやく魔理沙のことを思い出すパチュリーは、少女二人分の虚空へと問い掛けた。
「まり、さ、ねぇ――」
その答えは曖昧で、冷たく沸騰したパチュリーの心を、不思議と静かに溶かしていった。
「またずぶ濡れになっちゃったぜ……」
へたりこむパチュリーの側。
命綱のように掴んだままの魔理沙の腕は小さな魔女と同じほどに一つ一つのパーツが小柄で、妙な部分で親近感が沸く。
魔理沙の事を、パチュリーは手放せなかった。俯き、そして、胸を押さえる。
「パチュリー? まさか喘息の」
「違う……。 いいの、ごめん。私の失敗……」
つきんつきんと、さっきから霧雨魔理沙のおどけた姿が、わだかまったまま。
残り香のような熱っぽい風がひときわ強く二人の間を通り抜ける。
でもこの冷たさは、きっと、またも水分にまみれた所為で、パチュリーの心の靄が露見した所為ではあるまい。
むすっとしたままパチュリーは魔理沙の手を、ゆるく跳ね除けた。
「何だ、ひょっとして無茶したのか」
前を向く。
これが無茶であるならば、どうだ。
人間の言葉は人間を基準にしているから。
「本気が思わず出た、とでも言おうかしら」
「そう、か」
魔理沙はパチュリーの横へ、かすかな隙間に気を使うようにして腰を下ろした。
湿った草と濡れた布が騒々しく打ち合わさる。
「よくもまぁ、こんな広い湖全部持ってってくれたな」
「真上へ垂直に昇っただけじゃない。全部」
不可解、とも不可能、とも言えない。
陽光レベルの炎が紅魔館の周りを多い尽くせば、湖の一つや二つ、蒸発してもおかしくなかったのだけど。
まだ上空一帯、魔力の渦を感じる。
詰まるところパチュリーの力はただそれだけの腕力では無かったらしい。地上のビヒモスがふと気まぐれを起こせばこれだ……。
この紅魔の湖前の草原は遥かに広く尊大なのだから、その程度の粗相など笑って許してほしい。
それとついで、そういえば。ここら一帯は妖精達の戯れの場というのを聞いた。
「やれやれご愁傷様……ここまでなっちゃうと……」
ふう。と、唇へ人差し指を押し付けながら、パチュリーは荒野の景色を眺めた。
そしてその向こうにある、ロイヤルフレアと対等となる程の真紅の太陽――傾いた西の日は、やはり巨大で、干上がった湖の跡を悲惨そうに照らし出す。
この湖が、これほどまでに深い事を初めて知り、パチュリーは僅かに頬をゆるめた。
底から巻き上がるような鮮烈な瘴気の匂いは耽美で、それは人間には知覚できないものだと、魔女はそっと小さな鼻先を天へ向けて――
「おろ」
魔理沙の手の平へ落ちた些細な災悪の始まりに、耳を背けてしまった。
「雨……だ」
釣られて空を仰ぐパチュリーの額を、ほぼ同時に打つ水滴の存在。
さらさらと鳴き始める草木。
霧がかったように、極めて静かに、まばらで透明な水面が降りてくる。この血の鈍ったような香りは矢張り、
「なんだ、やっぱり戻って来てる。湖」
「え、予想は出来たけどそんな簡単に巻き戻るもんなのか」
「さあ」
如何やら湖は雨となり、燦然と、降り注ぎ始めたのだ。
淡い霧雨となって。
「でも、あなたの名前と同じ、ね……どうかな。自然現象じゃないし」
差し出した手の平に水滴を生んで、一様にまとまってゆく雨水を、パチュリーは感慨いだかぬ眼で眺めた。
小雨と言うには弱いかもしれないが、この程度の流れ水でも……目の前の館の主はこらえきれずに引っくり返ってしまうだろう。
ふと横から見つめてくる魔理沙の視線を目尻に感じて、でも首を回すのも億劫で。
自らの心に散見するのは、手の平から手首を伝わり身体中を蹂躙するような、
湿った火。
それは熱情から来るものではなく、さめざめしんしんとした雨脚の兆しが生むものだろう。
ほら、もう音は強くなってくる。
「咲夜が何かやってるのかも」
「そりゃー、やるんだろうけど、確かに……あんな風に水があのままだと」
やや戸惑うように、独り言のように言い、魔理沙は改めて天を凝視する。
日暮れの空を壮大に染める透き通った雲が、そこにあった。
跳ね上げられた湖がうねり蠢いて、陽光を乱反射しては星空のような瞬きを見せる。奇妙だった。パチュリーには人為的な作用を勘繰る以外に、する事もなかったが。
あそこから徐々に水滴を落とし始めている様で、それでは、何らか意思の手が加えられていると見るしかない。
一様に空は晴天で、
水の雲は状況によっては暗雲と化すだろう。
紅魔館の上空は何かを閉じ込めるような蓋に覆われたのだ。
光を通す透明さも、
矢張りその中では何かが鈍っている。
両腕で抱え込んだ古書の湿った感触を楽しむように、パチュリーは静かに雨脚を清聴していた。
「なぁ、雨止ませなくても良いのか? 止ませても拙いと思うけど」
何故か、魔理沙はどうしようもない事を口ずさんでいた。
「レミリアなんか雨になって困ってるんだろうな。今日は霊夢の所に出かける予定だって咲夜が言ってたぜ。友達が降らした雨が原因で外に出れなくなるなんて面白くないだろうなー」
座り込んだまま脚をひらつかせ、魔法使いの片側は空を仰いでいた。
どこか、沈黙を抑えられず。
「あー、でも太陽の光が凄く綺麗だ……」
しかして。どこぞの何気のない不意打ちが、どうやらパチュリーを襲うことになった。
「それにしてもさ、その本さっきから――――」
何かといえば。この僅かの好奇心は魔理沙の濡れそぼる腕を動かし、
この瞬間。魔法少女二人分の世界に、亀裂が走る音が響いたのだ。
触るな。
パチュリーはそういう『旨』の言語を放っただけだったが、魔理沙の方は眼を丸くして飛び退いていた。
それにしては、脳裏にいかづちのように残響する言葉。魔理沙はパチュリーの胸にある本に触れようとした。直後、人間の手を強かに弾いていた魔女がいた。
思わず大声を発してしまった事に、
あ、と。僅かに難色を浮かべたパチュリーの表情は、すぐに曇って、また下を向く。
「――――だめ。今のは……謝らないから」
くぐもった声は、低く微かで。
「……さっき私は謝ったぜ」
魔理沙の言はまるで蚊が鳴くようで。
「そんなに大事な本なら、どうして防護の魔法を掛けないんだ? ……何でもあるだろ」
言い捨てるように、それでも言及するように。
「それ、いつもいつも抱えてるけどさ」
紅の書は、この空模様の中で、じわじわと立体感を増してゆく。
「おかしいよな」
「雰囲気によって、脳がとらえる情報は移ろいがちなのよ」
前髪を弄りながらパチュリーは答えて見せた。
ねぇそうでしょう。
そう語る彼女の横目は単純に悪魔染みていた。
「あなた、何で今日私を連れ出したのよ」
確かにパチュリーは天候すらもあやつる事ができる。
「え、今日は天気良かったし……いやでも、水の中でどうこうしようって思ったのは、本当だぜ」
親友が外に出れないと言っても、もっともらしい言い訳なら作ってある。
「天気……私の所為でこんな風になっちゃって」
太陽が綺麗だと言われても。それはそれで。それだけだった。
もう少し。何かがたりない。
魔理沙になら未熟な果実としての何かを見出せた筈だが……
「……でもさ、ここじゃ風邪ひくぜ」
パチュリー=ノーレッジとしての単体は、どうしても幼かったらしい。
「紅魔館に戻れって、紅魔館では雨は罪悪と劣情と死滅の混じりあいの象徴なのに。増して私のミスでこんな事になって、どの面下げて帰れっていうのよ!」
「そ、それじゃ私の家は」
「一人で帰ればいいでしょ。さっき言ったじゃない、もう時間は遅いし帰ったら?」
人間の差し伸べた手の平は簡単に弾き返される。
いつもいつも。
魔理沙は極めて参ったという背格好で、わずかに立ち上がっていた腰を、もう一度下ろした。
対極。
それぞれがそれぞれに、互い違いの事に不快感を抱いていた。
だがパチュリーの側が許せない事は、
魔理沙はどうしてか、まだ一緒に座っていようというらしい事柄。
暫く、辺りを包むのは、さらさら続く雨音だけになった。
中々どうして、空模様と言うのはしばしば天候だけに留まらない。
どんどん降り積もる『わだかまり』がやがて水を吸って膨れ上がり、具現化してしまうまでに。
§
『もう私の居場所は決まっているのに、魔理沙にどかせるわけはない』
「あなた、可笑しい。私は何もしてないのに、
さっきから悲しそう……」
暗闇の中。
棘も何も無くパチュリーは言う。
「でもあなたはいずれ、いなくなるのに」
はて、口を動かしながら考える。
暗闇の中。
まだ太陽は出ている筈の時刻なのに。
「あれ、魔理沙……?」
黒の暗闇の中の一律の黒の風が、魔理沙がいたはずの空間をそっと通り過ぎた。
パチュリーは貌をややこわばらせるが、すぐに平常心を保とうと、紅の本を握り締めたまま立ち上がり、
指先に焔を灯し目を凝らす。
「どうして、紅魔館の外にいたのに」
強いて言えば、この世界は寒く、棘の気配、蔓延る瘴気、燻る血の匂い、一瞬にして知覚させられる脅威の入り混じる天恵。
色を持たない世界。
冥府のような、どこか怖気の奔る光景。
死人の見る世界はいつも色がなく殺風景で物々しく、薄ら寒さが吹き荒れている光景。
耳に噛み付く音はすべてが軋み、肌を這いずるのは粘々とした傷の痛み、錆付いた異臭と腐った砂の味が鼻腔を蹂躙し、
まるで健常者には浄土とは言いがたい空気で。
いつしか亡霊を手中に収めようとしたレミリアに付き合い、しばしそれらの生態――といっていいものかを調べた事はあるが。
今パチュリーがいる世界の、月もなく、水の匂いも途絶えて、あるのは――――
視界そのものを文字の羅列で食い潰す本の群れ。血生臭い、何かの気配がうごめいている。
「……魔法図書館、か。知らないうちに逃げ帰ってたのかな」
今の状況下にとっては物々しく、厳か。それでも慣れ切った空気に、意味の分からない安堵感をパチュリーは覚えた。
黒いインクの匂いが立ちこめる闇の向こう、静かに興奮する魔女の心につけこみ、やがて目を見開く気配があった。
持ち上がる一対の翼が、鋭い瞳のようにパチュリーの視界を覆ったのだ。
えもいわれぬ世界のそれは怪物の呻き。
ひときわ際立つ、黒の中の白き気配。
「……だれ?」
凍ったままの空間を認識しながら、言語の羅列の向こう側へパチュリーは投げかけた。
焔と、彼女の瞳と、押し広げられる心の靄が揺れる。
大きな相貌が、ふと暗い蒼に似た色を乗せた瞳孔を狭めさせる。
そんなパチュリーの瞳に映った、白く輝く淡い無数の瞬き。
剣山のような蜂の巣のような青白いそれ。パチュリーの頭の中では、これは既に夢の渦中の話となっていた。
だから、臆する事もない。
微かな速度で迫り来る、棘にまみれた気配を打ち消すために、パチュリーはこの暗闇で叫んだ。
それに反応し、沸きあがる合唱の如く炎が舞い上がった。
不思議な事に腕を一振りしただけで奇妙な気配は消滅し、変わりに紅となって古びた紙を蹂躙してゆく。
「こんなちっぽけな記録……」
ヴワル魔法図書館。
確かにその匂いを冠したはずの巨大な空間は、パチュリーを中心に熱を広げた。熾烈さを極めた。
轟々猛りをあげる耳障りな空間。
淡々と白く塗りかえられる、破滅の匂い。
「う、けほっごほっ……これ、随分と埃が舞う」
突然、か細く咳き込んでしまう。
何を吸い込んでしまったのか、随分と棘の多い空気だ。
このような気配は他に存在し得ないことを、井の中の蛙でありながら。パチュリーは知っていた。
井の中とはいえ、十分に事を起こすだけの力と、外を知るだけの剣は兼ね備えていたけれど。
しかし考えはしない。
こんなもの、
「心を移す……なにか、なにかが関わってるっていうだけ」
こんなものは夢か予言の一種でしかない。でもパチュリーは魔女だからといって簡単に未来を悟る事が出来る程に修練は積んでいない。
そうやって、理解の出来ない何かはパチュリーの頭から排除される。
彼女にとって、知覚のできない、あやふやなものは存在しないと同義。
ここには雨は降っていない。図書館の中だから当然だ。
最初、紅の書のぬめる感触は雨に濡れていた所為だと思われたのに、またもパチュリーは怖気の奔るものを感じた。
「ひぇっ……なん、なに」
こするたびに、絡み付く粘液。
気持ちの良い物ではない。
ぬめる表皮を連想させる紙は両生類のそれに酷似していて、鈍る血の匂いは無数の知をまるで吸血するように啜ってきた証。
……もはや、これでは紙などではない。
ふと耳を近づけると鼓動の音がする。
罪悪感に囚われる。
特に罪と呼ばれる罪には、対面した覚えすらないのに。
とてつもなく不気味で嗚咽のようなそれは、心に響く怖気どころではなくなる。
それらはまるで、捕らえられた知識が助けを乞うような慟哭の響き。
あれだけ頑なに図書館を護ってきたのに、自分の知識を、自我を奪われまいとしていたのに、
開けっ広げにしていたからか?
魔法図書館は少なくとも一般には立ち入らせもしていない。
それなのに、赤の他人である霧雨魔理沙はいつもパチュリーの横をすり抜け、そして貴重な資料を勝手に借り出し、大抵は返却しない。
丸くなったから、とも言うのか。
だからといってそれを赦してしまう謂れはない。パチュリーの貌に曇りが残る。
「そうよ、この本が叫んでる……この本こそが私にとってのたった一つの拠り所なんだから」
だから紅の書を手放すわけに、いかなかった。
「こんなに私を求めてくれるなら……」
分かっている。
知っている。
それがパチュリー=ノーレッジの世界の切り札なのだから。
知る事が彼女の生き様だと教えてくれた、運命なのだから。
そして目の前には魔理沙がいる。
今までの光景が何だったのか、
暗闇の世界は決壊していたのだ。どうにもこの雨は葡萄酒の香りがする。それでも、紅の書は確かにもといた場所で、静かに座っている。
豊かな草の感触と魔理沙の不穏な視線を感じ、どうやら喋らなくても良い事を、醜態として晒してしまったようだ。
どのみち紅魔館へ今は戻れない。
意地を張る自分の浅ましい心が嫌になるも、その脳裏の奥底は、まだ伝えたい事で溢れていた。
「だから。この本は私の解説書で、証明で、でも決して遺書にはならない」
水を含んで、ただでさえ年季の入った古びし本はぼろぼろだったが、それをパチュリーはうずくまったまま胸の前で強く抱きしめる。
抱き枕がないと落ち着くことのできない眠れる少女。
彼女の白い顎を伝う水滴がまたひとつ、ずぶ濡れの本のページへ吸い込まれゆく。
「私、自身の……ヴワルの世界が、私にとっての最初の道標になったときの」
神々しく屑々と、紅の本はその暗さを増してゆくのを魔理沙は見ていた。
「でも、この道しるべの本には終わりが、ない」
「終わりがない……」
魔理沙の言葉は、眉をひそめて復唱された。
「知らない内にページが継ぎ足されていって、それがヴワル魔法図書館の全てだと知るまでに大した時間はかからなかった。なによりも速く、私に追いつかす余裕など与えないみたいに、広がってるの……分かんないと思うけど」
私はそれが怖い。
そう付け加えられ、パチュリーの杜撰な言葉は次々と広がってゆく。
それは幻想。
『言葉』という一つの概念は『言語』たる核心へと還元し、渦を巻いて魔理沙を取り巻く。
あたかも、彼女自身が魔道書であるかのように錯覚できるだろう。そして人にしてみれば一言で操れる、些細な現象。
「私にとってはパチュリーも怖いぜ」
魔理沙はそうやって、何故か照れ臭そうに笑んでみせた。
「パチュリーがいつもそうやって、黙々図書情報ばっかり眺めてたなんてな。それ、魔道書か何かだと思ってたんだけど」
「……つまんない反応ね」
人間側にしてみれば、それは驚きであるよりは趣の対象物を見つけた時の反応に近い。
物ぐさの癖に好奇で食いつく場所のおかしい魔理沙の、特別さだった。
それでも、身を乗り出しも、それ以上言及しようともしない彼女に胡散臭さの方を優先して抱こうとするパチュリー。
人間には分かり難い話である事は分かっても。
「私は知りたかっただけ……随分懐かしい話、思い出すのが早すぎたみたい」
暗闇の世界を思い出す。思い出すのだ。
ああ、これは空気も境遇も感情もこれ以上湿っぽくなることはないだろうという世界だと。
ヴワル魔法図書館。
入り口にはまず導がある。司書官代わりに秩序で固められた、案内のためのカンテラだ。
それこそ、世界で最も最悪で、それら全てが未知への架け橋だった。
パチュリーの心に光と影を根差した、世界の全てを記録し、保管する場所。
この世に知が蔓延る限り、ヴワル魔法図書館の知識には終わりがない。
パチュリーはこれと出合えた事を命運と信じた。
その導こそ。彼女の目に止まった古書。はじめは単なる魔道書の一つとしか思ってなかったが。
それは魔道書に擬態した悪魔だった。
紅の書、教典、原初の道標、経るべき物を失った未来、パチュリーは嘗てあらゆる異名を古書へ括りつけてきたが、
何れも、そのページを縫い付けるには相応しくなかった。
全ての頁に記された、比較的近代にして古の単語――綴られた文字は『絶望』『無限』『未知』『存在しない未来』を意味していた。
無限という言葉を数値で表すことはできない。
未知という現実を知覚で示すことはできない。
それが彼女には、許せなかった。
「無限の頁を持つ本を読破するためだけの命に終止符を打つとき、最後のページを直視できる?」
変化がある限り無限はない。
永劫の時があったって。
だから、私はどこにも行けない。
どの位置に甘んじる事も出来ない。
だから、図書館の中へ溶け込んでゆく。
どの時間に屈する事も許されない。
パチュリーは、絶望の味を確かに覚えたのだ。
この本の名を見つけた瞬間に。
Le monde de Voiles.――ヴワルの世界。
(時は未だ来ない。時が来る時にはもう、魔理沙なんか目の前にいない)
それでも。
絶望と引き換えに訪れるものを知っているから。
彼女の胸へ知識が頭を埋めるたびに感じる、気だるい快楽の味を、覚えているのだ。
「私にこれだけの悦を分け与えてくれるなら、これは神より示された命運なのよ」
『ヴワル魔法図書館の世界の最果ての壁』
紅の本に記されたそこは、正に大往生を迎えるに相応しい箇所。
最早そこには未知など無い。
その壁に触れる時――どれほどの絶頂を得られるのか!
その瞬間、生まれた意味をも知る事が出来る。その日を渇望して――少女は渦巻く欲望に恍惚と漂っている。
「ならば私は、英知を人間へ与えるべく舞い降りた悪魔概念そのものというわけよ!」
魔女は人間らしからぬ貌を、どこか遠くへ或いは魔理沙へ或いは世界へと向けた。
悪魔に与した甲斐が果たしてあるかどうかは、パチュリー=ノーレッジという名の魔道理論の一ページに刻まれる言葉だけが知っている。
「はあ……百年の歳月なんて本当矢のようで、長かった」
そして、その悦を魔理沙にも共有させたい。
何故なら彼女は、となりにいるからだ。
なまじ理想は近く、手を伸ばせばそこにあるだけに。
分け与える事ができるという優越感が、パチュリーを支配する。
雨音を退けるには十分なほどに。
魔理沙の声色も認識できず、ただ言葉だけが頭に入ってくる。
それだけ長生きできると、どんどん頭も偏屈になっていくんだろうな。
少なくとも人間には理解できないぐらい。
ほら、良く言うじゃないか。バカと天才はなんとやらって……
「井の中の蛙大海を知らず。人の寿命なんて所詮井よ」
されど、空の深さを知る。
そんな一瞬だからこそ、知れる事がある。
本の受け売りなんだけどな……
「ごくごく短い時の中で成し得る事しか考えられない人間には……わからないのよ。でも、それも杜撰なモノ、」
蠱惑的と言うには、彼女の表情は暗澹と沈んでいた。
思い起こすのは埃に塗れ黴に溺れた光景。
どこか葡萄酒の芳香に似ていて、魔女と人間の双方を不自然に近寄らせるには十分だった。
パチュリーは淡い色をしたままの唇を、魔理沙のそれへと、重ね合わせた。
「っふ、……」
蜜を分け合うように。舌をおずおずと出したりする程度の口付け。
肩を掴まれた魔理沙は、いくら腰を落としたままとはいえ思うように動けず、なすがまま。
ほんの一瞬しか続かなかったそれの後、後を引く銀色の架橋。それに反射する紅の陽光。
魔女の側は普段どうりの不機嫌そうな顔、
人間の側は驚き半分、無関心を装おうと頑張った半分。
ただ共通して二人の頬を覆うのは、散る朱の色。
それは紅の太陽が照らし出す幽きあざとき演出で、パチュリーにとっては『平常心』を主張するための最後の抵抗。
魔理沙の側は、本気でこの雨がワインか何かで出来てるんじゃないかと疑う事しかしなかったが。
「色恋沙汰でおさめようとはしない」
パチュリーは小さな身体を最大限に用いて、微かな希望を乗せた表情を浮かべた。
「だからって、どうして」
紅くなったそば、可愛い喉だった。
恥ずかしさからか、微かに顔を逸らす魔理沙の、一つ一つの小さなパーツを眺め。
「嫉妬してるのよ」
パチュリーはその味を、しめたのだ。
口内に舌を這わせてみれば、鋭く尖った歯の存在を確認できる。
人間に見せびらかすものでもない。
少なくとも人間のそれよりも遥かに硬質で、攻撃的。
パチュリーは吸血鬼にみたたないが、人間の血の味から何かしら記憶を汲み取る事ができる程には適材。
そしてレミリアほど血の味に煩いわけではないが、気に入らないものに牙を付き立てるほどには神経質。
身体が全てを物語っている。
分かりやすい頭脳上のポータル、だろう。でも彼女は好き好んで相手の血を奪ったりはしない。
種族の関係上。
守らねばならない幻想郷の規律。
昔じゃそんな事……考えもつかなかっただろう。考える暇もなかったのかもしれないが。
「私に知られる物の全てに、嫉妬してるの」
世界を手にしたような全能感がゆえに。
まるで世界を掌握したかのような、ありとあらゆる望みをかなえる精霊へと恋焦がれたがために。
それは火と風を選んだことに対し、
人間は水と地を選び……
中途半端で、惨めな姿へと成った過去がある。
だから人間は精霊へ願いを乞うのだ。
叶えられぬ望みの条件は三つ。
生命を操ること、
感情を動かすこと、
そして望みを増やす、ということ。
――霧雨魔理沙は、「望みを増やせ」という望みを実現させるための望みを繰り返していた。
それは同時に生命を操る事であり、全知全能と言う名の煩悩を満たすための伏線で、神ですら無し得ない領域は。霧雨魔理沙のほしいものをほしいままにする。
彼女が何を望もうとパチュリーには関係の無い事であったが、同じ志を持つものを放っておくほどに無神経でもなかったから。
魔女の誘惑のようなそれは、確かに魔理沙の心を屠ろうとしていた。
不老不死の世界では時すらも朧気で、
輝かしい。美しい。ただそれだけのため。
「……私にはそんなの、無理だよ……私はまだ人間なんだ」
それを共有する事が、悦びになるのに。
「だってそれは蜃気楼のような物じゃないか。命辛々辿り着いても、そこは抜け殻みたいな物じゃないか……」
同じ道を歩むものだと信じていたのに、魔理沙はどこか遠くへ行ってしまう――
頭を振って、そんな事も外へ追いやろうとする。
がんじがらめの棺おけから、掘り出してもらう日を待つかのように。
パチュリーはまた、平静を保とうと、淡々と鈍光に瞳を泳がせている。
いつまでも。
雨脚は酷いまま。
いつまでも。
「んだから……そうだパチュリー」
何時しか。
何のきっかけを待つことも無く、
魔理沙の脚は自然と軽く身を持ち上げていた。
大げさに濡れたままの白と黒の魔女装束が少女らしい華奢なシルエットを体現しているのは、今に始まったことではない。
「なに……よ」
視界が暗い。暗い。日が沈むときは、いつも気付けば夜の帳と取って変わられている。
でも、そんな、紅から黒への変貌すらもパチュリーにとって見れば新鮮すぎて、立ち上がった魔理沙を止める事は叶わなかった。
「ほんの一瞬でさえ、時なんて何も気に止めない奴がいるんだ」
魔理沙が何か語りかけてくる。雨音が煩わしい。思考が纏まらない。
「それがどうかしたの」
意味を理解しようとしないまま。
雨音が鬱陶しい。思考が纏まらない。
「わかんないやつだな。パチュリーがどうしたいか私はわからないけど、空をみていろよ――彗星『ブレイジングスター』」
――ん、カードを切ったの――か
次の瞬間認識と同時にパチュリーの視界は白い炎に閉ざされ、それは夜空を破る焔の星となった。
蒼が龍となって、次第に勢いを増す豪雨の中を掻っ捌いてゆく。
「な、魔理沙!」
思わず手を伸ばすパチュリーの掠れる声が、雨音に掻き消され、やがて生ぬるい水に叩かれる感覚が気持ち悪くなり、彼女は草原にへたりこんだ。
もう魔理沙の姿は、かすかな光の粒にしか見えない。
夜盲症の気のあるパチュリーは深遠の彼方で佇み、頭を抱え、
「はあ……おとなしく、雨が止むのを待ってれば良いじゃないの……」
深淵の少女は、自分の呟きが嗚咽に似ている事を知っている。
胸に抱きしめられた本は慟哭に軋みを上げた。
持ち主を夜空へ引きずり込まんと、喘いで。
なんだ。フラれたのか、と。
パチュリーは済し崩しにここまでなだれ込んだ事を後悔し、考える。
考える。パチュリー=ノーレッジに残った霧雨魔理沙の記憶。
魔理沙の戦いはいつもそうだ。
『隙を見て全力を叩きこむ』
言葉にしてしまえばこれほど簡単な事はないが、制御するにも莫迦らしい力の下には、相応の努力があったわけだから。
だからパチュリーは分かっている。これは最も器用で、同時に不器用で、それは彼女に残された唯一の戦い方なんだと。
人間に残された唯一――
人間か。人間。吸血鬼直属の咲夜も、あの霊夢も、人としては死んでいるのかもしれない。
でもこれは戦いなのだろうか。
そう改めてもう一度確信する。
戦い、なんだろう。
気付けば背中をナイフで滅多刺しにされて敗北した事。
圧倒的な霊力を魔力は認知すら出来ずに圧し負けた事。
戦闘という概念に置いて理論上、パチュリーは既に人間の覚えられる全てをとうの昔に超越してきた筈。
「人間が、どうして」
彼女は傍の草を引っつかみ、おもむろに苦々しく握り潰した。
たかが雑草の一つ、この程度の命などいくらでも摘み取れる。そしてこの程度で気が晴れるなら、
どうして、魔理沙に真正面から打ち負かされた事実は拭い去れないのだろう。
パチュリーは人間らしい人間を、はじめて見た気がした。霧雨魔理沙はつくづく莫迦だったから。
魔法使いの癖に何も知らないし、
人間の癖にパチュリーの知らないことを知っている。
莫迦みたいだった。
それが許せなかった。
それがやがて、執心へと変わっていったのは、
いつからだったろう。
§
霧雨魔理沙は次の思考を巡らせる。
もう、こんなものは雨でもなんでもなく、水の塊を丸ごと落としたような嵐だ。
紅魔湖上空の、想像以上の荒れ具合に戸惑う魔理沙。
痛みにも似た熾烈さに、まず、あの動かぬ図書館の安否が気がかりになる。
ただパチュリーには見せたいものが一つあって、だから前を向きなおす。
少し面白いチャンス――そう捉えれば、この雨も、訳は無い。
降水量に反比例する魔としての力の鼓動。弱い。水に晒されると光子は正常な軌道を描かない。
真っ直ぐではないのだ。
光自身である魔理沙は紫電をまといながら、蝋燭のように緩やかに、しかし強く、箒のざらついた、馴染んだ感触を確かめる――
ぐらつく視界、黒い空に見出す合わない標準、それでも箒の先は、視線だけは第二の超現象のために直線を示している。
多少の水分は……ブレイジングスターの圧倒的な熱量で蒸発させることも出来ただろう。
体中から煙を上げる。
「――あー冷たい冷たいー」
魔理沙の集中力が途切れる。スペルカードの消耗の速さは尋常ではない。
「さむいなー!」
吹き付ける烈風が暴風へと変わる――「何だよ、これ!」不安色に染まる少女の瞳に映る光のない世界。
帽子の鍔は嵐を防ぐ手段になりえない。
「っと、ブレイジングスターももうギリギリか……ついてこいよ、何でもいい!」
青ざめた魔理沙のスペルカードが、箒が生み出す暴発的エネルギーの軌跡が空を切り裂いた。雷光のように、星も疎らな宵の空に亀裂を閃かせてゆく。
おぼろげな冷めた魔力は、赤と青の五芒星を、水の中に顕現させてゆく。散り散りに、豪雨の手との鍔迫り合いを繰り返す。
それは魔理沙の、ひたむきさの輝き。まだ真っ直ぐでいようとする閃光。
しかし――足りない!
湖中の雨の中では、昼下がりの実験に学んだように、空間の歪みこそ最高の敵。
星の群れ達は発現するやいなや、時には一瞬でかき消され、時には八つ裂きに砕け散り、いずれにしろ熱量を失ってしまう。
「なんでもいいから、」魔理沙の求む道標は一つだったのに。
「光さえありゃ、どうにかなるのに」
パチュリーに出来る事なら自分が出来ない謂れはない筈。だが、
「まさか……」
思い起こす。思い起こす。思い起こすそれはパチュリー=ノーレッジの怨念、暴走、自然の摂理をも手繰る人工物の中の歪な異端。
嘘だと思っていたのに、後も先も見えないこの夜空はもうパチュリーという魔女の精神の手中である。
それが、意思を持つかのように表情を喚起に歪めるこの嵐の正体。
「……やっぱりこれ、ただの雨じゃない……このやり方じゃあダメか、でも、分かった」
ようやく分かった。
陽光であるロイヤルフレアによって吹き飛ばされたこの雨は単なる水ではない。
独立した魔術を含んだスペルカードの残党。
有り体に言えば、流れ弾の一種なのだ。
そして弾幕であるならば、魔理沙にとっては避けるか吹き飛ばすかの二択の手中。
§
一つひときわ大きな飛沫。
それは岸辺のパチュリー=ノーレッジの小さな頬を打った。
その衝撃や不意打ちの事で驚いたが、一瞬で忘れてしまう程度には……分かりきった答えだった。
やれやれ。
「咲夜じゃないのなら、先に言ってほしかった」
パチュリーの鼓動は弱くなり速くなり、針を刻む音すら水音の中へ消失して、
彼女そのものが喪失されゆく冷たさ。
その蝕みは魔理沙なんかは簡単に屠る事の出来る脅威だった。
なるほど上空ではまだおぞましい魔力がとぐろを巻いていて、その切っ先が果たしていずこへ向けられているのかは明白。
(私の力、が……知らないうちに魔理沙を追い込んでる)
スペルカードの術式が崩れ去ったのを皮切りに何かが起こった事はようく覚えている。
奇しくも。
湖そのものが生命を持って、あるべき場所へと還ってきている。
パチュリーのスペルカードは生命を与えるものではなく、むしろそれを手駒にして命を屠るためにあるのに。
「うー……」
不満、だった。
結果的に魔理沙を止められなかった事は、自分の責任と思うわけでもない。
ただ矢のように目の前を過ぎ往くだけの人間の事を気に留めるわけにもいかない。
幻想郷での人の一生など、ほんとうに、
この雨のように容易く消費されていくんだ。
人間と人間外では根本的に、命の価値が違うだけのこと……
それを総括するのが人間――博麗霊夢なのが気に食わないが。
(魔理沙だって知らない内に、自分が窮地に立たされてる事すら知らない内に、そうやって滅びるだけ)
「それが早く訪れるか遅く迎えられるか、の違いだけ」
もう一度見上げる空は、黒。
その中に微かに、人間らしからぬ理解不能な光を見出してしまう辺り、
矢張りパチュリーは、魔力という名を冠した雨水に、葡萄酒の味を覚えてしまったらしい。
酩酊したかのように目が回る。
なにか、大事な何かを手放してしまうような喪失感。
目が回る目が回る目が回る――
「ごめん……まりさ」
含んだ独り言が透き通る。
呼応する何かの雄叫び。
薄れ往く聴覚の麻痺する感覚の中で。
どうして紅魔館の警鐘の咆哮が、今更遥か空間を飛び越えパチュリーの耳を打つのか。
何故その声は耳障りなんだろうか。
その響きは錯覚。
そう、錯覚の中なんだ。どうにも幻覚が体を支配しすぎるのは、散々雨の刺激を受けてしまったからだと説明はつけよう。
ぐらぐら茹だるパチュリーの右胸が強く痛み、
――レミィの歪んだ冷たさが頬を打つ。
咲夜の高貴な下劣さが横を通り過ぎる。
妹様も小悪魔も美鈴もメイド達も、自分の事をどれほど疎ましく遠巻きにしているかも分からない事を思い出す。
何が必要とされているか、なんて考える意義はない。
ただ、細々とした小悪魔は常に目の前にいて、矢張り何かしら気を遣った言葉の一つや二つ持っているから。
どいつもこいつも面向かって話した記憶なんかない事を思い出す――
増して人間相手にする事も無駄の極みなのに。
人間なんていつも目の前を矢のように通り過ぎて、残像すら残さない。
ただそれだけの存在だと教わったのに、
深淵の図書館の隅にいつも光がぽつんと見えて、
霧雨魔理沙だけがいつもいつも目の前にいて、
それ以外が考えられない。
それがもう二度と、道標にならない事は知っていても。
§
となると、だ。霧雨魔理沙は焦りを募らせるよりも、まだやる事のために精神を強く保つ事が優先だと知った。
この空に光を映すための布石は、一つ。
相手の背を奪い奇襲を仕掛けるレーザー発生原、
動きを阻害するための星屑の群れ、
撹乱と格闘戦を主とする複雑な放電、
敵を絡めとる網目状に配置された弾幕、
そのどれもこれもが、魔理沙の頭の中でちぎっては排除されてゆく。
今となっては必要がない。
これほどの魔力の渦が巻いている状況で、太刀打ちできる力は、少なくとも人間である魔理沙には一つしかない。
「そ、っか。いいだろうパチュリー」
閃光の符――
マスタースパークと銘打たれたそれは、持てる力を最強の焔に変える動力構築機構だ。
ロイヤルフレアと同じく、ただ撃てば良い。
この世で最も美しくはなく、そして華々しい、ただそれだけの最強最大の弾幕。
「『比較』してみせるぜ、私とそっち、どっちが強いのか」
凍りついたような手の平を箒から剥がし、魔理沙は箒の柄の上へと器用に飛び、立つ。
その幻想は目前だ。
「あーでももう、寒い……これで最後にさせてもらうぜ」
黒の帽子の鍔を折り直すと、水滴を物ともせずに、強く眼を見開く魔理沙。
目の前を阻害する全ての蛇を淘汰するために、スペルカードを番えた。
しかしブレイジングスターほどの力をも阻害できる威力を持つ敵が相手……単純な力で相殺するには、やや卑怯な手段を用いらせて頂く事が手っ取り早い、と。
「持ってるカード全部消費してやるよ、すっからかんになるけど!」
彼女は今まで鍛えられた中でも最も鋭い二本の剣を携えた。左手に焔の八卦、右手に二つの閃光の符、だ。
重ねられた力の動力源は既に焔を帯び、周囲の嵐を脅かす。
それらは「消えろ」と、魔理沙へ乞うたのだ。暴風を傍らへなびかせ、紫電を生み出し、氷の刃を率いて。
手を伸ばしてくるのだ。
「悪いな雨さん、運が悪かったみたいだ」
魔理沙の両腕が、暴動へ応えるように強く結び付けられる。
豪雨は最後の警鐘を鳴らしたはずなのに。
二つの魔の力が互いに怒号を起こし、まだ見ぬ想いを全力疾走させる。
「最大弩級」
瞬間、両腕の切っ先は天空を覆いかざす。
天候とは真逆の、曇りの無い黄金の瞳はさながら太陽を模すかのように。
そして声を閃かす。
魔砲ファイナルマスタースパーク。
唯一つ、水の中でも鈍らないのは、少女の必殺の一手だけ。
§
さてそれは、ひいては雨脚を途絶えさせるほどの炸裂だった。
鈴の音のように、穏やかに放たれた爆雷音。
追って引き伸ばされる、天空へ昇華する龍の炎。
紅魔館の周りだけに留まらず、山を超えるかのように昼夜を彷徨わす、道標の光。
「んっ――」
陽光は、湖の岸辺のパチュリーの眼を突き刺し、ふいに不機嫌に顔をうずめさせる。
「まぶし……」
やりすぎ、だ。
彼女は毒を吐く。この光の力、どこから、あの小さな身体のどこから発揮しているのか想像もつかなかった。
マスタースパーク。最大閃光と謳われた光と炎の魔法。
荒ぶるそれは、過去に見たものよりも遥かに愚かしく、無粋で幼稚。
唯只管に。
その炎に耐え切れず、渦を巻き、水の幕は崩れ去り、崩壊した。
それ一つが生命を持っていたのに。鼓動を失い、透明な暗雲は落とされたのだ。
どよめく嵐の空は嘘のように。
悪意までもが消滅してゆく。
雨脚は、パチュリーの頬を軽く叩いて、
緩やかにそのなりを沈めてゆく。
草叢が演奏を途絶えさす。
木々のざわめきが揺らぐ。
天蓋の蒼さが際立ち、夜風が最後の雫を覆い流す頃、パチュリーの目の前に尊大に広がる湖が、夜空と陽光を照らす鏡となって、静かに元のまま、存在していた。
人間外を映す穏やかな空気。
雨の代わりに静寂が支配し、先まで雨脚を散々耳に入れ続けたパチュリーは、静けさに逆に耳を痛くした。
こんな事をして何になる。
何を見せたくて、この魔法の空に立ち向かった。
恐らく彼女は赦されやしない。
小説の綺麗事のようには、生暖かい結末が待っているとは言いがたい。
そう、踏んでいたのに。
まだ魔理沙の声が、心の内で反響する。
空を見ていろよ――まったく馬鹿正直だと、パチュリーは自身を疎ましがる。
空か。
まともに上を向いてみるなんて、何年振りだっただろう。
遥か紅魔館の上空を仰げば、その太陽に匹敵した閃光を囲うかのように、広大な……光の環が広がっていた。
驚くほど精密な曲率を描くそれは、かつて本で知った記憶だった。
記録としては知っている。光が水分を通過するに際して、光を構成する色素が分解して複数色の光を作る現象だ。
特殊な突入角や条件があえば遭遇する事が可能な珍しい現象、
複数の色を持つ光の龍。
空に架かる橋。名はL'Arc en Ciel――虹。
記録としては知っている。
それなのに、知っているはずのそれが、酷く違和感としてパチュリーの喉元へ残る。
何故。
「……はじめて、見たから……」
それはどんな鉱石よりも顕実で、
どんな絵画よりも耽美で、
手を伸ばそうとも決して触れられないかのような……幻。
幻なのだ。
そこに存在しえないかのように儚く、
パチュリーにしてみれば記憶の彼方の亡霊。
『僅かな命程度で全てを知らずに没し』
井の中の蛙大海を知らず。
それは人間。滅するために生きるだけの命。
『ただ空の偉大さを知り朽ち逝く』
されど、空の深さを知る。
愚かな者は最後の足掻きとして、何か尊大な者へと手を翳す。
なんと下衆なのか。
虹が、なんだというんだ。
やがて光も掻き消え。
空に再三、静寂が訪れる。
それが人間の生き様の一つ一つを示すようで、不思議と滑稽だった。
目を離せばあざ笑われ、見つめ続けても毒される……
そんな境界線に立たされたようだった。
光の消えた先には、生命の鼓動を微かに感じる。
感じるからなんだというのか知らないが。
その方向を、虚空の方向を、
魔法少女二人を結ぶ世界の規律を、見つめずに、いられなかった。
パチュリーはまったくの無表情を浮かべ、月夜に見合う青白い体躯を、そっと草原から手放した。
もう一度魔理沙へと問いただすためだ。
彼女は虹の美しさを見せたかったのか、
それとも自分の後姿を見せたかったのか。
そして、水の中の魔法の実験の成果を聞くため。
未だ乾かぬ服の重さなど、矢張り気にならない。
§
経るべき物を失った全ての存在へ。
パチュリーはもう一つの現実をみつけるために辟易している。
彼女の永遠の綱はひとつだった。どれほどの山を乗り越えてでも、
千の地を斃して、
万の都を越えて、
億の空を翔けて、
兆の帳を束ねて、
京の記を連ねて、
垓の知を率いて、
杼の焔が生まれ、
穣の海が乾上り、
溝の夜が消滅し、
澗の死を垣間見て、
正の骸が地を跋扈し、
載の葬列を迎えようと、
極の魔に媚びて、
恒河沙の贄を経て、
阿僧祇の血を以って、
那由他の不和を携えて、
不可思議の既知を滅して、
無量大数の、自分を殺して。
魔理沙がパチュリーの前から、いなくなろうと。
その目で見る事。
確かめる事。
知る事。
恐らくパチュリー=ノーレッジにとっての魔女としての一生の手綱。
それは、人間の生りの姿をしていて、無限を統べる十六夜咲夜への一種の復讐だったのかもしれない。
裏など返せばいくらでも見つかるような解せない笑みを貼り付けたままに側近として立つメイドと、それを従える裏の無い酷薄さを持ったレミリア=スカーレットの永遠の統制。
それら『二つ』への渇望。
パチュリーの心の内で、自己犠牲という名の利己が、かくも甘美に響き渡る。
単なるエゴかもしれないが。
魔理沙のような人間には、かすかに感謝はしていた。
いつしか観念も、価値観も変わってしまうのは人も妖も変わらないことだったから。
永遠の時なんて存在しないけど、
永遠の中の、ほんの一瞬の今だけは、
永遠を誓う。
心が移っても世界が反転しても。
今日考えた『人間』という言葉の分だけ思い起こして、
果たして私の答えは変わった?
いいえ、何も。
Voile.
そこに、光があった。
空は低く厳かで、ある一人の少女の心に闇を根差す焔を作った。
彼女にしてみれば些細な心変わりで、
知識への純粋な欲望は気付けば図り知れずに、氷のように滞ったまま。
でも、それは魔女として当然だったし、
彼女は人間とは違っていた。
力があったし、人間よりも遥かに長い時を生きる事ができた。
知れないものなど、あるはずがなかった。
見えぬものなど。
ただ彼女は滞る事なく、
千の地を斃して、
万の都を越えて、
億の空を翔けて、
兆の帳を束ねて、
京の記を連ねて、
垓の知を率いて、
それで満足だったから。
彼女に知られる事は万物全てに等しく与えられる特権だと。
彼女は自分が知れぬものは無いと、いつしか気付いていたが。
でも、いずれ自分が死に伏すとき、その後の未来を知る事はできない。おそらくは。
それが許せなかった。
悪魔の手をも借りてまで手にいれた全てを、むざむざ放る訳にはいかない。
そんな感情はやがて現代へと駆け巡り、いつのまにか少女は全く動かなくなってしまった。
真鍮の像のように。
『知の鉱脈』の名を冠した魔女は、気付けばそこにいた。
全てを遮断していた。
Locked Girl――ラクトガールとなって、彼女は自身の世界を閉ざした。
百年の歳月の内に全てを改め、経るべき物を失うための、動かぬ旅を行くために。
Patchouli=Knowledge.
――――うつら、うつらと、何をするでもなく。少女の穏やかな指付きが静かに、テーブルの上に開いた書物のページを舐めてゆく。
白く、薄く。
冷たく。
雪解けのさなかのように冷淡な彼女は、常に持ち歩き行動を共にするこの本を、いつもいぶかしむ瞳で眺めている。
白と対照的に血を吸ったような紅の本。
もう紙としての役割を果たさない程に傷み、その内容など頭に入れるべくもない。
苦々しいだけで……
どこかしら怖気が走る。
「いつっ」
ふと反射的に、薄暗い大図書館の中へか細い悲鳴を走らせた。
数秒後に、指先をどこか紙の端で切ってしまったのだと気付く。
白の肌の上。紅がぽつんと落ちる。
何を思ったのか。
自身のほんの微かな切り傷に唇を当てて、
吸う。
じくじくと漏れ出す紅の香りはすぐに口腔を満たす。痛いわけでもなく、酷く曖昧な気だるさを感じさせる。
でもそれが――彼女の感情を揺り動かす手になる事は一切無かった。
ほう、と、本の敷き詰められた棚が立ち並ぶ渓谷へと、青白い瞳が移ってゆく。
彼女はその仕草の一つ一つが、
髪を揺らし指から唇を離す様子まで、
酷薄で美しかった。
でも、指を切ったというその微かな叫びに、目の前にいる霧雨魔理沙は気付かなかったらしい。
「…………はぁー」
溜息のように、少女パチュリー=ノーレッジの息吹は携える本へと投げかけられる。
分厚いページの羅列の先にあるのは、いつもの魔法少女がこちらに背を向け、時折本を開いたり閉じたり絨毯の上を転がったりと、パチュリーの視線を泳がせ急かすだけに忙しそうな姿。
そういえば。今日も魔理沙はここ、ヴワル魔法図書館へと何をするでも無しに、パチュリーの邪魔をしにきていたのだった。
もうこの程度に小柄な少女に大図書館を蹂躙される事は慣れっこであっても。
「やれやれ」そう呟き、いつものように魔理沙へ叱責を飛ばす。
「そろそろ昼も遅いから」語調を強めた一蹴の言葉は「なぁパチュリー、真水の中で魔法を使うとどうなるんだ?」同時に発せられた別の言葉で濁ってしまった。
「時間切れだから出ていっ――はぁ? 何」
ふと聞き返し、しまったと思う。
「水の中でー、魔法を使うと、どうなるんだっけ、と。そこの本にあったんだ。水を扱う魔法の話。で、パチュリーにも実験の手伝いをだな」
思わず、主導権を渡してしまった事に、パチュリーは心底いらだちを強めた。
「……そんなもの、勝手に回りの湖で試せばいいじゃないの。とにかく今日は疲れてるから」
いつのまにかテーブルの対岸まで迫った霧雨魔理沙の、その金色の髪の流麗な事、埃っぽい魔道書の詰まった本棚では息も詰まるだろう。
普段着の白黒のコントラストも鈍るほどに。
パチュリーは半目を強調させる。
でもいつも見受けられるのは、いつもいつも相手の腹を透かすような、猫のような瞳。
気に食わない――
「そっか」
別に残念がるでもなく、魔理沙はリボンで結わえた鬢の毛先をいじりながら、言い放つ。
「じゃあそこにあった資料っぽい本、勝手に貰っていくぜー」
「も、もってかないでー………………ハッ」
「……ふっ、なら良いじゃないか。ほら、」
パチュリーの弱点を押さえた魔理沙は、あっさりと彼女を屈服させてしまった。
泥棒と揶揄される所以たるもの、魔理沙は図書館から本を借りて返した事がない。これ以上被害を出すわけにもいかず。
同時に、それは見まがうことなく、『あのとき』の瞳だった。新しい玩具をみつけると、往々にして子供は眼を爛々とさせて喜ぶものだ。
そんなときの瞳。もう逃さない意思表示。
(妹様はそういう素振りを良く見せるけど、魔理沙も何だかんだで子供だ。人間の)
やれやれどうせいつもの事だ、と。
今日も今日とて魔理沙に手を引かれ、思う事は手の平から伝わる体温の違い。
足の速さの違い。
呼吸の間隔の違い。
魔理沙は「判を押したような生活じゃ面白くないだろ」と言っていた事がある。
パチュリーにとっては余計な世話だった。
元々、面白さを探すために生きているわけでもないし。
どこか心底から冷めたように、黙々と知識を貪るだけで、面白いと言えば面白かった。
だからパチュリーは魔理沙を常々邪険に扱う。
霧雨魔理沙は――
魔法図書館を一歩外に出た時に、かすかに感じた立ち眩みの原因だ。
対極の魔法少女二人が慌ただしく紅い廊下を駆け抜けるのを、館のメイド長はいつも、静かに苦笑して見送るだけ。
ただ、後に引かれるパチュリーはそのメイドの顔が鼻について仕方が無かった。
それこそ後ろ髪を引かれるようで。
細い眉を寄せる。
空を、仰いでいた。
時刻は分からないが、昼と夕方の境界辺り。
紅魔館と湖を挟んで対岸にあたる草原を、二人の魔法使いは涼しげに支配していた。
湖の影響か。晴天にしても空気は涼しく、尊大で謙虚な太陽は、嘘のように優しい微笑みを浮かべている。
片手に箒を携え、尖った帽子を装備した魔理沙が、意気揚々と微笑み返していた。
傾いた陽の下、パチュリーはなぁなぁで付き合わせた魔理沙へと「どうせなら」と心底眠そうに教えてやる事にした。
「私と魔理沙の魔術には違いがあるから」
――根本的な事象としては知ってるでしょうけど、魔理沙の魔法は光粒子、それに対して私は精霊魔法。
私はそもそも水の女王さえも操る事ができるし測るまでもないわ。
「あなたの魔力の召喚法は知らないから、まず一度潜水の準備でもして実践してみれば?」
「ふーん……よし、行くぜー」
そう意気込んで、湖の前で何故かパチュリーの方を見る魔理沙。
「……何やってるの? というか何でこっちを見てるの」
疲れるので脚を崩して休憩するパチュリーは、今促したままだ、と睨み返す。
何を考えている。……と、想像は付いた。
魔理沙はおもむろにパチュリーの腕を引っつかみ、喘息持ちという過去を忘れてしまったかのように笑ったまま。
「とりあえず二人一緒に行くんじゃないのか?」
パチュリーは考えた。あぁこれは駄目だ――「いやいや魔理沙」そう思った次の瞬間には抵抗する間もなく、湖の真っ青な水面が眼前に広がっていた。
ぎゃー。
――――――!
――――
…………
パチュリー=ノーレッジと霧雨魔理沙。
相殺した魔法少女二人分の虚空が、何かの切っ掛けで、世界に生まれていた。
それは互いの細い腕が繋がった今この瞬間にかもしれないし、この深淵なる広大な空が、発生した瞬間からかもしれない。
青々としたままの湖が勢いよくたゆたい、
パチュリーは呪いの言葉をどこか発していた。
昏く昏く淀んだ視界に声が掛けられる――なにを言っているのか、パチュリーには理解すべくもなく、真っ先に問いを返却してやる。
つまり溺れた。
二人とも。
「なん、なんっで! 寒っ先に準備しろって言ったでしょー!」
開口一番、おそらく二人の命の半数を削って必死で岸辺へたどり着いた後。
「うおおおパチュリーぶふっ、空飛んでる内は気付かなかったけど、そういえば私は泳げなかったんだよ!」
「な、なんですってー」
思い切り肩で息をこなしながら、岸辺の二人は雫を零して張り付く髪と服装に気味の悪さを感じ、そして対立していた。
どちらもダウンしていたが。
それでも、二人共々の、共通点を見つけた。魔理沙はパチュリーと同じぐらいに運動ができない事だった。
人間は見た目だけで判断が出来るから、魔理沙の眩しさに目がやられていただけだと。
なんとも詮無い事を考える。
「泳げないってあなた……ほんっとうに莫迦」
二人分の時間が穏やかに止まってゆく。
魔理沙が、水を浴びて艶やかに張り付く髪で酷く扇情的に見える以外は。
「あれ? な、その本さ……」
「これ、水に濡れちゃったじゃないの……はー……へくしっ」
パチュリーはそこで、はたと気付く。無意識に掴んだままであった、常に時を共にしてきた紅の本の存在。強く胸の前で抱きしめ、魔理沙をねめつける。
さっきから魔理沙はどこかしら、似合わぬばつの悪そうな顔でいて。
ごめん。
これが次の言葉だった。
「謝るぐらいなら」
パチュリーには魔理沙の心など汲み取れず、湖面のわずかに荒れた蒼穹のように、胸に浮かんだ『わだかまり』を不思議に思いながら、
雫のこぼれた草原を踏みしめ、立つ。
「別に怒ってるわけじゃないし」
水を吸った服の重さなど、気にも留めない。
青と赤の符を纏った帽子は流されてしまったかもしれないが、神秘的な紫色の長髪を手櫛でやわらげると、魔理沙を放ったまま次の言葉を放つ。
「それで? 魔法はどうなったのよ」
「え? あ、あー、水の中じゃ詠唱ができなかったぜ」
「何 無意味な事やってんのよ!」
「待て待てパチュリー、話せば分ゴッ」
霧雨魔理沙に炎の鉄槌が下ったのを、見ていたのは日の傾いた空だけ。
乾かすには丁度いいでしょう、と。
パチュリーはずぶ濡れの本の事など忘れたように笑んでいた。
じめじめとした感触で思い出す光景はいつだって、淀んだ紅だけの世界だった。
それは恐ろしいまでに居心地が悪くて、奇妙なまでに居心地が良い。
そして、思い出すにはまだ早い。
§
何だかんだで、彼女らの探究心は揺ぎ無く。
滞る。
魔女の炎は二人を乾かし、実験と称した昼下がりのじゃれ合いは興を増す。
小さな手のひら同士、そっとぎこちなく触れたままで。
魔理沙は割と神妙な面持ちで、前準備という名のものをまるで省みずに、素で水へもぐろうとするばかりで。
それをパチュリーは腕を引っ手繰り、必死でつなぎ止めるだけ。
こんな事レミィに見られたらどうしようとか、 門番が見ていたら。別に構わないが、やはり詮無い事だけが脳裏によぎる。
パチュリーの目の前に広がる他愛も無い光景が本当の現実に見えなくて、『永遠』という道標だけが心に『わだかまり』として残る。
――何故。
上辺だけで、やっぱり何気無く、怒ったような困ったような嬉しいような、パチュリーのそれは彼女のためにあるかのような顔をしてみせる。
魔理沙にしてみれば、疑いは微塵もなかった。
「じゃあ水の中で詠唱できないなら、水の中を発生源にすれば良いんじゃないか?」
こんな戯れ事には慣れていても、
「気付くのが遅すぎ」
そう。悠久の世界の中では、こんな時間、永遠で割れば零に等しい。
「素潜りの意味が無いじゃないか……いやまあ、どうせ泳げないけども」
自己犠牲と思えば清々しい、パチュリー=ノーレッジの全て。
「分かってきたけど、あなたの魔力の発生源はあなた自身、よ。水の中で直接放つには媒介が足りない――遠隔操作魔法はあるの?」
霧雨魔理沙には教えの手を差し伸べるには至らない。筈だった。
「アースライトレイが妥当な所か。よし実践!」
――それでも、結果に予想はついていたが。
「……って、あれ? 光符――――っ、おろ、魔方陣が出ないぜ」
珍しく。魔理沙は本気で困惑していた。どんな時も息をする事のように信じてきた魔法が途絶えた瞬間に。
言葉にしてみれば些細であったが、
一瞬だけ見せる怯えた瞳。パチュリーの知らない顔――
でも、それも仕方ない。
「やっぱり、あなたの魔法は水中では発現しない、か」
焦るまでもないのだ。
「あなたの魔法は光の直線を集合あるいは分散、一方向へ発生させる物なのよ。知らない? そこで不思議そうな顔をしない」
パチュリーは魔理沙の弾幕の様子を、以前から観察してきた。
観察というほど回数を見たわけではない。ただパチュリーには知れる物は頭に叩きこんでおく癖があったからだ。
ある程度予想はついていた実験結果――どうせ無理に連れられなくても、答えなど知っている。
あらゆる事柄でも。
「分かりやすく言えば、光は波立つ水の中では分散して、力と一緒に消失してしまうってわけ」
「私の魔法はそんなヤワじゃないぜ……」
「そうかしら。これでも見て比較してみる?」
瞬間、パチュリーの内で何かざわめく物が歩き始めた。
比較。この言葉には随分と魔性が宿っている。
魔理沙はそんなパチュリーの昏い瞳の様には気付けなかった。随分と疲弊して、拗ねたように事を見守るしかできない少女のまま。
そんな彼女が使う光の魔法を尻目に、疎んじるはパチュリー=ノーレッジ。
「精霊は自然それそのもの。水如きは媒介に過ぎず身体に及ばず。大気や大地、天候などは我が手中にあり。
精霊魔法の本懐、どうせだから見せてあげる」
彼女が紡ぐは陽光の術。
かねてから喘息を患っていたが、今の彼女は、恐らく自身が止められぬほどの大魔法を撃つには事欠かない程に好体調。
「牙を剥け、滅裂よ!」
視覚に頼ろうものならば、パチュリーの右腕は不定形な光の靄、以外には知覚できない。
再び彼女は印を紡ぐ。その指先に発生するは焔のカード。
突き出した腕はあらゆる虚像を映し出す。いや、その力の強大さを前にしては、最早光すら触れる事は適わない。
全てを消し去る呪文。全てを廃墟へといざなう術。この世で最も美しくはない弾幕。
「日符――――」
霧雨魔理沙は圧倒された。
何もかもを巻き込み、火焔唯一つだけが、目の前の巨大で尊大な水面の中で、海獣のように蠢いている。
パチュリーはここまで来て気付く。水を被った影響がまだ続いていたのか――さむい。
「『ロイヤルーフレ……ふぁっ……ふえ、うへぁくしょーーん!」
そしてそれが、パチュリー=ノーレッジの災難の始まりだった。
勢い余ったスペルカードの暴動開始。
魔法少女達の心から、ざわめきの鳥達が一斉に飛び立った。
彼女らを慄かせる狩人から逃れる為。
空にしか逃げられないと知っている様に、
空すらも逃げ場にならないと知っているはずなのにそれは無粋に掻き乱す。
パチュリーは「しまった」と思う前に、傍らの魔理沙の腕を、強く引っ手繰っていて、
天がまず眼を見開いたかと思えば。
湖面に光の亀裂が無数に奔り、それ一つ一つが紅魔館など一呑みにするほどだった。
次の瞬間、何ができた?
視認できたのは炎、轟音、龍の咆哮、
湖の水面はぎちぎちと金属のような悲鳴を上げて盛り上がり、雲にまで届き、そしてそれらは全てが瞬きの最中のあらましだった。
過剰なまでに巨大になったロイヤルフレアは自分勝手につけ上がる。
地響きにも似た重い魔力の暴動の震源が少女二人を殴りつけ、それが水滴そのものの爆発と気付いて、どうする事もできなくて。
衝撃に次いで、
吹き付ける水分と熱量。
「…………っ?」
咄嗟に頭を庇っていた腕を、また恐る恐る剥がしてみれば――――後に残った燻った土の香り。
空を舞う飛沫の群れは、藍色の空を別の青として爆破する。
パチュリーの瞳に光が戻ると同時に。
彼女はぎょっとして、魔理沙を引きつれ、湖へと駆け寄った。
「な、あーー!」
紅魔の湖、だった場所に、水分と呼べる水分は残っていなかったのだ。
蒸発、か? あれほどの質量を持った湖が全て一瞬で? 冗談ではなかった。
パチュリー自身にとってはほんの些細な、きっかけの一つ。だったのに……高々くしゃみ一つで、スペルカードの構築能力に尋常でない負荷が加わった、らしい。
生理現象に寄る魔力の過剰摘発なんて良くある事だったのに、これほど意味不明な事象は見た事もなく、パチュリーは眩暈を感じる。
遅かったよう、だ。
情報処理、演算、シミュレート、掌握、理解、言葉はなんだって良かったが魔女としての知能や能力はあくまでも瞬発性に勝負を賭けるものではない。
制御するにはあまりにも、無力だった。
「うぁ……最悪……」
茫洋たる現象を前に、亡羊とした魔女の瞳は鮮やかな空を捉え。
物悲しく、静かに日を傾ける空はもう紅と黒の境界。
幻想の中なのに。
あまりに幻想的な景色に、むしろ思考は少女二人共々停止したまま。ぬるく整った湿った空気を再認する。
最悪な事に、髪が乱れた。
パチュリーが次に認識するのはそこ、しかし人間よりも微かに知覚能力は上だ。
彼女にしてみれば帽子が飛んだだの服が弾けるだのといった瑣末な事象は懸念するに至らない。
青々と茂っていた筈の湖は最早、荒地で。
紅魔館はかろうじて、あるべき場所にある。
門番は……死にはしないだろう。
あれだけの爆発があって――ここまで辿って、ようやく魔理沙のことを思い出すパチュリーは、少女二人分の虚空へと問い掛けた。
「まり、さ、ねぇ――」
その答えは曖昧で、冷たく沸騰したパチュリーの心を、不思議と静かに溶かしていった。
「またずぶ濡れになっちゃったぜ……」
へたりこむパチュリーの側。
命綱のように掴んだままの魔理沙の腕は小さな魔女と同じほどに一つ一つのパーツが小柄で、妙な部分で親近感が沸く。
魔理沙の事を、パチュリーは手放せなかった。俯き、そして、胸を押さえる。
「パチュリー? まさか喘息の」
「違う……。 いいの、ごめん。私の失敗……」
つきんつきんと、さっきから霧雨魔理沙のおどけた姿が、わだかまったまま。
残り香のような熱っぽい風がひときわ強く二人の間を通り抜ける。
でもこの冷たさは、きっと、またも水分にまみれた所為で、パチュリーの心の靄が露見した所為ではあるまい。
むすっとしたままパチュリーは魔理沙の手を、ゆるく跳ね除けた。
「何だ、ひょっとして無茶したのか」
前を向く。
これが無茶であるならば、どうだ。
人間の言葉は人間を基準にしているから。
「本気が思わず出た、とでも言おうかしら」
「そう、か」
魔理沙はパチュリーの横へ、かすかな隙間に気を使うようにして腰を下ろした。
湿った草と濡れた布が騒々しく打ち合わさる。
「よくもまぁ、こんな広い湖全部持ってってくれたな」
「真上へ垂直に昇っただけじゃない。全部」
不可解、とも不可能、とも言えない。
陽光レベルの炎が紅魔館の周りを多い尽くせば、湖の一つや二つ、蒸発してもおかしくなかったのだけど。
まだ上空一帯、魔力の渦を感じる。
詰まるところパチュリーの力はただそれだけの腕力では無かったらしい。地上のビヒモスがふと気まぐれを起こせばこれだ……。
この紅魔の湖前の草原は遥かに広く尊大なのだから、その程度の粗相など笑って許してほしい。
それとついで、そういえば。ここら一帯は妖精達の戯れの場というのを聞いた。
「やれやれご愁傷様……ここまでなっちゃうと……」
ふう。と、唇へ人差し指を押し付けながら、パチュリーは荒野の景色を眺めた。
そしてその向こうにある、ロイヤルフレアと対等となる程の真紅の太陽――傾いた西の日は、やはり巨大で、干上がった湖の跡を悲惨そうに照らし出す。
この湖が、これほどまでに深い事を初めて知り、パチュリーは僅かに頬をゆるめた。
底から巻き上がるような鮮烈な瘴気の匂いは耽美で、それは人間には知覚できないものだと、魔女はそっと小さな鼻先を天へ向けて――
「おろ」
魔理沙の手の平へ落ちた些細な災悪の始まりに、耳を背けてしまった。
「雨……だ」
釣られて空を仰ぐパチュリーの額を、ほぼ同時に打つ水滴の存在。
さらさらと鳴き始める草木。
霧がかったように、極めて静かに、まばらで透明な水面が降りてくる。この血の鈍ったような香りは矢張り、
「なんだ、やっぱり戻って来てる。湖」
「え、予想は出来たけどそんな簡単に巻き戻るもんなのか」
「さあ」
如何やら湖は雨となり、燦然と、降り注ぎ始めたのだ。
淡い霧雨となって。
「でも、あなたの名前と同じ、ね……どうかな。自然現象じゃないし」
差し出した手の平に水滴を生んで、一様にまとまってゆく雨水を、パチュリーは感慨いだかぬ眼で眺めた。
小雨と言うには弱いかもしれないが、この程度の流れ水でも……目の前の館の主はこらえきれずに引っくり返ってしまうだろう。
ふと横から見つめてくる魔理沙の視線を目尻に感じて、でも首を回すのも億劫で。
自らの心に散見するのは、手の平から手首を伝わり身体中を蹂躙するような、
湿った火。
それは熱情から来るものではなく、さめざめしんしんとした雨脚の兆しが生むものだろう。
ほら、もう音は強くなってくる。
「咲夜が何かやってるのかも」
「そりゃー、やるんだろうけど、確かに……あんな風に水があのままだと」
やや戸惑うように、独り言のように言い、魔理沙は改めて天を凝視する。
日暮れの空を壮大に染める透き通った雲が、そこにあった。
跳ね上げられた湖がうねり蠢いて、陽光を乱反射しては星空のような瞬きを見せる。奇妙だった。パチュリーには人為的な作用を勘繰る以外に、する事もなかったが。
あそこから徐々に水滴を落とし始めている様で、それでは、何らか意思の手が加えられていると見るしかない。
一様に空は晴天で、
水の雲は状況によっては暗雲と化すだろう。
紅魔館の上空は何かを閉じ込めるような蓋に覆われたのだ。
光を通す透明さも、
矢張りその中では何かが鈍っている。
両腕で抱え込んだ古書の湿った感触を楽しむように、パチュリーは静かに雨脚を清聴していた。
「なぁ、雨止ませなくても良いのか? 止ませても拙いと思うけど」
何故か、魔理沙はどうしようもない事を口ずさんでいた。
「レミリアなんか雨になって困ってるんだろうな。今日は霊夢の所に出かける予定だって咲夜が言ってたぜ。友達が降らした雨が原因で外に出れなくなるなんて面白くないだろうなー」
座り込んだまま脚をひらつかせ、魔法使いの片側は空を仰いでいた。
どこか、沈黙を抑えられず。
「あー、でも太陽の光が凄く綺麗だ……」
しかして。どこぞの何気のない不意打ちが、どうやらパチュリーを襲うことになった。
「それにしてもさ、その本さっきから――――」
何かといえば。この僅かの好奇心は魔理沙の濡れそぼる腕を動かし、
この瞬間。魔法少女二人分の世界に、亀裂が走る音が響いたのだ。
触るな。
パチュリーはそういう『旨』の言語を放っただけだったが、魔理沙の方は眼を丸くして飛び退いていた。
それにしては、脳裏にいかづちのように残響する言葉。魔理沙はパチュリーの胸にある本に触れようとした。直後、人間の手を強かに弾いていた魔女がいた。
思わず大声を発してしまった事に、
あ、と。僅かに難色を浮かべたパチュリーの表情は、すぐに曇って、また下を向く。
「――――だめ。今のは……謝らないから」
くぐもった声は、低く微かで。
「……さっき私は謝ったぜ」
魔理沙の言はまるで蚊が鳴くようで。
「そんなに大事な本なら、どうして防護の魔法を掛けないんだ? ……何でもあるだろ」
言い捨てるように、それでも言及するように。
「それ、いつもいつも抱えてるけどさ」
紅の書は、この空模様の中で、じわじわと立体感を増してゆく。
「おかしいよな」
「雰囲気によって、脳がとらえる情報は移ろいがちなのよ」
前髪を弄りながらパチュリーは答えて見せた。
ねぇそうでしょう。
そう語る彼女の横目は単純に悪魔染みていた。
「あなた、何で今日私を連れ出したのよ」
確かにパチュリーは天候すらもあやつる事ができる。
「え、今日は天気良かったし……いやでも、水の中でどうこうしようって思ったのは、本当だぜ」
親友が外に出れないと言っても、もっともらしい言い訳なら作ってある。
「天気……私の所為でこんな風になっちゃって」
太陽が綺麗だと言われても。それはそれで。それだけだった。
もう少し。何かがたりない。
魔理沙になら未熟な果実としての何かを見出せた筈だが……
「……でもさ、ここじゃ風邪ひくぜ」
パチュリー=ノーレッジとしての単体は、どうしても幼かったらしい。
「紅魔館に戻れって、紅魔館では雨は罪悪と劣情と死滅の混じりあいの象徴なのに。増して私のミスでこんな事になって、どの面下げて帰れっていうのよ!」
「そ、それじゃ私の家は」
「一人で帰ればいいでしょ。さっき言ったじゃない、もう時間は遅いし帰ったら?」
人間の差し伸べた手の平は簡単に弾き返される。
いつもいつも。
魔理沙は極めて参ったという背格好で、わずかに立ち上がっていた腰を、もう一度下ろした。
対極。
それぞれがそれぞれに、互い違いの事に不快感を抱いていた。
だがパチュリーの側が許せない事は、
魔理沙はどうしてか、まだ一緒に座っていようというらしい事柄。
暫く、辺りを包むのは、さらさら続く雨音だけになった。
中々どうして、空模様と言うのはしばしば天候だけに留まらない。
どんどん降り積もる『わだかまり』がやがて水を吸って膨れ上がり、具現化してしまうまでに。
§
『もう私の居場所は決まっているのに、魔理沙にどかせるわけはない』
「あなた、可笑しい。私は何もしてないのに、
さっきから悲しそう……」
暗闇の中。
棘も何も無くパチュリーは言う。
「でもあなたはいずれ、いなくなるのに」
はて、口を動かしながら考える。
暗闇の中。
まだ太陽は出ている筈の時刻なのに。
「あれ、魔理沙……?」
黒の暗闇の中の一律の黒の風が、魔理沙がいたはずの空間をそっと通り過ぎた。
パチュリーは貌をややこわばらせるが、すぐに平常心を保とうと、紅の本を握り締めたまま立ち上がり、
指先に焔を灯し目を凝らす。
「どうして、紅魔館の外にいたのに」
強いて言えば、この世界は寒く、棘の気配、蔓延る瘴気、燻る血の匂い、一瞬にして知覚させられる脅威の入り混じる天恵。
色を持たない世界。
冥府のような、どこか怖気の奔る光景。
死人の見る世界はいつも色がなく殺風景で物々しく、薄ら寒さが吹き荒れている光景。
耳に噛み付く音はすべてが軋み、肌を這いずるのは粘々とした傷の痛み、錆付いた異臭と腐った砂の味が鼻腔を蹂躙し、
まるで健常者には浄土とは言いがたい空気で。
いつしか亡霊を手中に収めようとしたレミリアに付き合い、しばしそれらの生態――といっていいものかを調べた事はあるが。
今パチュリーがいる世界の、月もなく、水の匂いも途絶えて、あるのは――――
視界そのものを文字の羅列で食い潰す本の群れ。血生臭い、何かの気配がうごめいている。
「……魔法図書館、か。知らないうちに逃げ帰ってたのかな」
今の状況下にとっては物々しく、厳か。それでも慣れ切った空気に、意味の分からない安堵感をパチュリーは覚えた。
黒いインクの匂いが立ちこめる闇の向こう、静かに興奮する魔女の心につけこみ、やがて目を見開く気配があった。
持ち上がる一対の翼が、鋭い瞳のようにパチュリーの視界を覆ったのだ。
えもいわれぬ世界のそれは怪物の呻き。
ひときわ際立つ、黒の中の白き気配。
「……だれ?」
凍ったままの空間を認識しながら、言語の羅列の向こう側へパチュリーは投げかけた。
焔と、彼女の瞳と、押し広げられる心の靄が揺れる。
大きな相貌が、ふと暗い蒼に似た色を乗せた瞳孔を狭めさせる。
そんなパチュリーの瞳に映った、白く輝く淡い無数の瞬き。
剣山のような蜂の巣のような青白いそれ。パチュリーの頭の中では、これは既に夢の渦中の話となっていた。
だから、臆する事もない。
微かな速度で迫り来る、棘にまみれた気配を打ち消すために、パチュリーはこの暗闇で叫んだ。
それに反応し、沸きあがる合唱の如く炎が舞い上がった。
不思議な事に腕を一振りしただけで奇妙な気配は消滅し、変わりに紅となって古びた紙を蹂躙してゆく。
「こんなちっぽけな記録……」
ヴワル魔法図書館。
確かにその匂いを冠したはずの巨大な空間は、パチュリーを中心に熱を広げた。熾烈さを極めた。
轟々猛りをあげる耳障りな空間。
淡々と白く塗りかえられる、破滅の匂い。
「う、けほっごほっ……これ、随分と埃が舞う」
突然、か細く咳き込んでしまう。
何を吸い込んでしまったのか、随分と棘の多い空気だ。
このような気配は他に存在し得ないことを、井の中の蛙でありながら。パチュリーは知っていた。
井の中とはいえ、十分に事を起こすだけの力と、外を知るだけの剣は兼ね備えていたけれど。
しかし考えはしない。
こんなもの、
「心を移す……なにか、なにかが関わってるっていうだけ」
こんなものは夢か予言の一種でしかない。でもパチュリーは魔女だからといって簡単に未来を悟る事が出来る程に修練は積んでいない。
そうやって、理解の出来ない何かはパチュリーの頭から排除される。
彼女にとって、知覚のできない、あやふやなものは存在しないと同義。
ここには雨は降っていない。図書館の中だから当然だ。
最初、紅の書のぬめる感触は雨に濡れていた所為だと思われたのに、またもパチュリーは怖気の奔るものを感じた。
「ひぇっ……なん、なに」
こするたびに、絡み付く粘液。
気持ちの良い物ではない。
ぬめる表皮を連想させる紙は両生類のそれに酷似していて、鈍る血の匂いは無数の知をまるで吸血するように啜ってきた証。
……もはや、これでは紙などではない。
ふと耳を近づけると鼓動の音がする。
罪悪感に囚われる。
特に罪と呼ばれる罪には、対面した覚えすらないのに。
とてつもなく不気味で嗚咽のようなそれは、心に響く怖気どころではなくなる。
それらはまるで、捕らえられた知識が助けを乞うような慟哭の響き。
あれだけ頑なに図書館を護ってきたのに、自分の知識を、自我を奪われまいとしていたのに、
開けっ広げにしていたからか?
魔法図書館は少なくとも一般には立ち入らせもしていない。
それなのに、赤の他人である霧雨魔理沙はいつもパチュリーの横をすり抜け、そして貴重な資料を勝手に借り出し、大抵は返却しない。
丸くなったから、とも言うのか。
だからといってそれを赦してしまう謂れはない。パチュリーの貌に曇りが残る。
「そうよ、この本が叫んでる……この本こそが私にとってのたった一つの拠り所なんだから」
だから紅の書を手放すわけに、いかなかった。
「こんなに私を求めてくれるなら……」
分かっている。
知っている。
それがパチュリー=ノーレッジの世界の切り札なのだから。
知る事が彼女の生き様だと教えてくれた、運命なのだから。
そして目の前には魔理沙がいる。
今までの光景が何だったのか、
暗闇の世界は決壊していたのだ。どうにもこの雨は葡萄酒の香りがする。それでも、紅の書は確かにもといた場所で、静かに座っている。
豊かな草の感触と魔理沙の不穏な視線を感じ、どうやら喋らなくても良い事を、醜態として晒してしまったようだ。
どのみち紅魔館へ今は戻れない。
意地を張る自分の浅ましい心が嫌になるも、その脳裏の奥底は、まだ伝えたい事で溢れていた。
「だから。この本は私の解説書で、証明で、でも決して遺書にはならない」
水を含んで、ただでさえ年季の入った古びし本はぼろぼろだったが、それをパチュリーはうずくまったまま胸の前で強く抱きしめる。
抱き枕がないと落ち着くことのできない眠れる少女。
彼女の白い顎を伝う水滴がまたひとつ、ずぶ濡れの本のページへ吸い込まれゆく。
「私、自身の……ヴワルの世界が、私にとっての最初の道標になったときの」
神々しく屑々と、紅の本はその暗さを増してゆくのを魔理沙は見ていた。
「でも、この道しるべの本には終わりが、ない」
「終わりがない……」
魔理沙の言葉は、眉をひそめて復唱された。
「知らない内にページが継ぎ足されていって、それがヴワル魔法図書館の全てだと知るまでに大した時間はかからなかった。なによりも速く、私に追いつかす余裕など与えないみたいに、広がってるの……分かんないと思うけど」
私はそれが怖い。
そう付け加えられ、パチュリーの杜撰な言葉は次々と広がってゆく。
それは幻想。
『言葉』という一つの概念は『言語』たる核心へと還元し、渦を巻いて魔理沙を取り巻く。
あたかも、彼女自身が魔道書であるかのように錯覚できるだろう。そして人にしてみれば一言で操れる、些細な現象。
「私にとってはパチュリーも怖いぜ」
魔理沙はそうやって、何故か照れ臭そうに笑んでみせた。
「パチュリーがいつもそうやって、黙々図書情報ばっかり眺めてたなんてな。それ、魔道書か何かだと思ってたんだけど」
「……つまんない反応ね」
人間側にしてみれば、それは驚きであるよりは趣の対象物を見つけた時の反応に近い。
物ぐさの癖に好奇で食いつく場所のおかしい魔理沙の、特別さだった。
それでも、身を乗り出しも、それ以上言及しようともしない彼女に胡散臭さの方を優先して抱こうとするパチュリー。
人間には分かり難い話である事は分かっても。
「私は知りたかっただけ……随分懐かしい話、思い出すのが早すぎたみたい」
暗闇の世界を思い出す。思い出すのだ。
ああ、これは空気も境遇も感情もこれ以上湿っぽくなることはないだろうという世界だと。
ヴワル魔法図書館。
入り口にはまず導がある。司書官代わりに秩序で固められた、案内のためのカンテラだ。
それこそ、世界で最も最悪で、それら全てが未知への架け橋だった。
パチュリーの心に光と影を根差した、世界の全てを記録し、保管する場所。
この世に知が蔓延る限り、ヴワル魔法図書館の知識には終わりがない。
パチュリーはこれと出合えた事を命運と信じた。
その導こそ。彼女の目に止まった古書。はじめは単なる魔道書の一つとしか思ってなかったが。
それは魔道書に擬態した悪魔だった。
紅の書、教典、原初の道標、経るべき物を失った未来、パチュリーは嘗てあらゆる異名を古書へ括りつけてきたが、
何れも、そのページを縫い付けるには相応しくなかった。
全ての頁に記された、比較的近代にして古の単語――綴られた文字は『絶望』『無限』『未知』『存在しない未来』を意味していた。
無限という言葉を数値で表すことはできない。
未知という現実を知覚で示すことはできない。
それが彼女には、許せなかった。
「無限の頁を持つ本を読破するためだけの命に終止符を打つとき、最後のページを直視できる?」
変化がある限り無限はない。
永劫の時があったって。
だから、私はどこにも行けない。
どの位置に甘んじる事も出来ない。
だから、図書館の中へ溶け込んでゆく。
どの時間に屈する事も許されない。
パチュリーは、絶望の味を確かに覚えたのだ。
この本の名を見つけた瞬間に。
Le monde de Voiles.――ヴワルの世界。
(時は未だ来ない。時が来る時にはもう、魔理沙なんか目の前にいない)
それでも。
絶望と引き換えに訪れるものを知っているから。
彼女の胸へ知識が頭を埋めるたびに感じる、気だるい快楽の味を、覚えているのだ。
「私にこれだけの悦を分け与えてくれるなら、これは神より示された命運なのよ」
『ヴワル魔法図書館の世界の最果ての壁』
紅の本に記されたそこは、正に大往生を迎えるに相応しい箇所。
最早そこには未知など無い。
その壁に触れる時――どれほどの絶頂を得られるのか!
その瞬間、生まれた意味をも知る事が出来る。その日を渇望して――少女は渦巻く欲望に恍惚と漂っている。
「ならば私は、英知を人間へ与えるべく舞い降りた悪魔概念そのものというわけよ!」
魔女は人間らしからぬ貌を、どこか遠くへ或いは魔理沙へ或いは世界へと向けた。
悪魔に与した甲斐が果たしてあるかどうかは、パチュリー=ノーレッジという名の魔道理論の一ページに刻まれる言葉だけが知っている。
「はあ……百年の歳月なんて本当矢のようで、長かった」
そして、その悦を魔理沙にも共有させたい。
何故なら彼女は、となりにいるからだ。
なまじ理想は近く、手を伸ばせばそこにあるだけに。
分け与える事ができるという優越感が、パチュリーを支配する。
雨音を退けるには十分なほどに。
魔理沙の声色も認識できず、ただ言葉だけが頭に入ってくる。
それだけ長生きできると、どんどん頭も偏屈になっていくんだろうな。
少なくとも人間には理解できないぐらい。
ほら、良く言うじゃないか。バカと天才はなんとやらって……
「井の中の蛙大海を知らず。人の寿命なんて所詮井よ」
されど、空の深さを知る。
そんな一瞬だからこそ、知れる事がある。
本の受け売りなんだけどな……
「ごくごく短い時の中で成し得る事しか考えられない人間には……わからないのよ。でも、それも杜撰なモノ、」
蠱惑的と言うには、彼女の表情は暗澹と沈んでいた。
思い起こすのは埃に塗れ黴に溺れた光景。
どこか葡萄酒の芳香に似ていて、魔女と人間の双方を不自然に近寄らせるには十分だった。
パチュリーは淡い色をしたままの唇を、魔理沙のそれへと、重ね合わせた。
「っふ、……」
蜜を分け合うように。舌をおずおずと出したりする程度の口付け。
肩を掴まれた魔理沙は、いくら腰を落としたままとはいえ思うように動けず、なすがまま。
ほんの一瞬しか続かなかったそれの後、後を引く銀色の架橋。それに反射する紅の陽光。
魔女の側は普段どうりの不機嫌そうな顔、
人間の側は驚き半分、無関心を装おうと頑張った半分。
ただ共通して二人の頬を覆うのは、散る朱の色。
それは紅の太陽が照らし出す幽きあざとき演出で、パチュリーにとっては『平常心』を主張するための最後の抵抗。
魔理沙の側は、本気でこの雨がワインか何かで出来てるんじゃないかと疑う事しかしなかったが。
「色恋沙汰でおさめようとはしない」
パチュリーは小さな身体を最大限に用いて、微かな希望を乗せた表情を浮かべた。
「だからって、どうして」
紅くなったそば、可愛い喉だった。
恥ずかしさからか、微かに顔を逸らす魔理沙の、一つ一つの小さなパーツを眺め。
「嫉妬してるのよ」
パチュリーはその味を、しめたのだ。
口内に舌を這わせてみれば、鋭く尖った歯の存在を確認できる。
人間に見せびらかすものでもない。
少なくとも人間のそれよりも遥かに硬質で、攻撃的。
パチュリーは吸血鬼にみたたないが、人間の血の味から何かしら記憶を汲み取る事ができる程には適材。
そしてレミリアほど血の味に煩いわけではないが、気に入らないものに牙を付き立てるほどには神経質。
身体が全てを物語っている。
分かりやすい頭脳上のポータル、だろう。でも彼女は好き好んで相手の血を奪ったりはしない。
種族の関係上。
守らねばならない幻想郷の規律。
昔じゃそんな事……考えもつかなかっただろう。考える暇もなかったのかもしれないが。
「私に知られる物の全てに、嫉妬してるの」
世界を手にしたような全能感がゆえに。
まるで世界を掌握したかのような、ありとあらゆる望みをかなえる精霊へと恋焦がれたがために。
それは火と風を選んだことに対し、
人間は水と地を選び……
中途半端で、惨めな姿へと成った過去がある。
だから人間は精霊へ願いを乞うのだ。
叶えられぬ望みの条件は三つ。
生命を操ること、
感情を動かすこと、
そして望みを増やす、ということ。
――霧雨魔理沙は、「望みを増やせ」という望みを実現させるための望みを繰り返していた。
それは同時に生命を操る事であり、全知全能と言う名の煩悩を満たすための伏線で、神ですら無し得ない領域は。霧雨魔理沙のほしいものをほしいままにする。
彼女が何を望もうとパチュリーには関係の無い事であったが、同じ志を持つものを放っておくほどに無神経でもなかったから。
魔女の誘惑のようなそれは、確かに魔理沙の心を屠ろうとしていた。
不老不死の世界では時すらも朧気で、
輝かしい。美しい。ただそれだけのため。
「……私にはそんなの、無理だよ……私はまだ人間なんだ」
それを共有する事が、悦びになるのに。
「だってそれは蜃気楼のような物じゃないか。命辛々辿り着いても、そこは抜け殻みたいな物じゃないか……」
同じ道を歩むものだと信じていたのに、魔理沙はどこか遠くへ行ってしまう――
頭を振って、そんな事も外へ追いやろうとする。
がんじがらめの棺おけから、掘り出してもらう日を待つかのように。
パチュリーはまた、平静を保とうと、淡々と鈍光に瞳を泳がせている。
いつまでも。
雨脚は酷いまま。
いつまでも。
「んだから……そうだパチュリー」
何時しか。
何のきっかけを待つことも無く、
魔理沙の脚は自然と軽く身を持ち上げていた。
大げさに濡れたままの白と黒の魔女装束が少女らしい華奢なシルエットを体現しているのは、今に始まったことではない。
「なに……よ」
視界が暗い。暗い。日が沈むときは、いつも気付けば夜の帳と取って変わられている。
でも、そんな、紅から黒への変貌すらもパチュリーにとって見れば新鮮すぎて、立ち上がった魔理沙を止める事は叶わなかった。
「ほんの一瞬でさえ、時なんて何も気に止めない奴がいるんだ」
魔理沙が何か語りかけてくる。雨音が煩わしい。思考が纏まらない。
「それがどうかしたの」
意味を理解しようとしないまま。
雨音が鬱陶しい。思考が纏まらない。
「わかんないやつだな。パチュリーがどうしたいか私はわからないけど、空をみていろよ――彗星『ブレイジングスター』」
――ん、カードを切ったの――か
次の瞬間認識と同時にパチュリーの視界は白い炎に閉ざされ、それは夜空を破る焔の星となった。
蒼が龍となって、次第に勢いを増す豪雨の中を掻っ捌いてゆく。
「な、魔理沙!」
思わず手を伸ばすパチュリーの掠れる声が、雨音に掻き消され、やがて生ぬるい水に叩かれる感覚が気持ち悪くなり、彼女は草原にへたりこんだ。
もう魔理沙の姿は、かすかな光の粒にしか見えない。
夜盲症の気のあるパチュリーは深遠の彼方で佇み、頭を抱え、
「はあ……おとなしく、雨が止むのを待ってれば良いじゃないの……」
深淵の少女は、自分の呟きが嗚咽に似ている事を知っている。
胸に抱きしめられた本は慟哭に軋みを上げた。
持ち主を夜空へ引きずり込まんと、喘いで。
なんだ。フラれたのか、と。
パチュリーは済し崩しにここまでなだれ込んだ事を後悔し、考える。
考える。パチュリー=ノーレッジに残った霧雨魔理沙の記憶。
魔理沙の戦いはいつもそうだ。
『隙を見て全力を叩きこむ』
言葉にしてしまえばこれほど簡単な事はないが、制御するにも莫迦らしい力の下には、相応の努力があったわけだから。
だからパチュリーは分かっている。これは最も器用で、同時に不器用で、それは彼女に残された唯一の戦い方なんだと。
人間に残された唯一――
人間か。人間。吸血鬼直属の咲夜も、あの霊夢も、人としては死んでいるのかもしれない。
でもこれは戦いなのだろうか。
そう改めてもう一度確信する。
戦い、なんだろう。
気付けば背中をナイフで滅多刺しにされて敗北した事。
圧倒的な霊力を魔力は認知すら出来ずに圧し負けた事。
戦闘という概念に置いて理論上、パチュリーは既に人間の覚えられる全てをとうの昔に超越してきた筈。
「人間が、どうして」
彼女は傍の草を引っつかみ、おもむろに苦々しく握り潰した。
たかが雑草の一つ、この程度の命などいくらでも摘み取れる。そしてこの程度で気が晴れるなら、
どうして、魔理沙に真正面から打ち負かされた事実は拭い去れないのだろう。
パチュリーは人間らしい人間を、はじめて見た気がした。霧雨魔理沙はつくづく莫迦だったから。
魔法使いの癖に何も知らないし、
人間の癖にパチュリーの知らないことを知っている。
莫迦みたいだった。
それが許せなかった。
それがやがて、執心へと変わっていったのは、
いつからだったろう。
§
霧雨魔理沙は次の思考を巡らせる。
もう、こんなものは雨でもなんでもなく、水の塊を丸ごと落としたような嵐だ。
紅魔湖上空の、想像以上の荒れ具合に戸惑う魔理沙。
痛みにも似た熾烈さに、まず、あの動かぬ図書館の安否が気がかりになる。
ただパチュリーには見せたいものが一つあって、だから前を向きなおす。
少し面白いチャンス――そう捉えれば、この雨も、訳は無い。
降水量に反比例する魔としての力の鼓動。弱い。水に晒されると光子は正常な軌道を描かない。
真っ直ぐではないのだ。
光自身である魔理沙は紫電をまといながら、蝋燭のように緩やかに、しかし強く、箒のざらついた、馴染んだ感触を確かめる――
ぐらつく視界、黒い空に見出す合わない標準、それでも箒の先は、視線だけは第二の超現象のために直線を示している。
多少の水分は……ブレイジングスターの圧倒的な熱量で蒸発させることも出来ただろう。
体中から煙を上げる。
「――あー冷たい冷たいー」
魔理沙の集中力が途切れる。スペルカードの消耗の速さは尋常ではない。
「さむいなー!」
吹き付ける烈風が暴風へと変わる――「何だよ、これ!」不安色に染まる少女の瞳に映る光のない世界。
帽子の鍔は嵐を防ぐ手段になりえない。
「っと、ブレイジングスターももうギリギリか……ついてこいよ、何でもいい!」
青ざめた魔理沙のスペルカードが、箒が生み出す暴発的エネルギーの軌跡が空を切り裂いた。雷光のように、星も疎らな宵の空に亀裂を閃かせてゆく。
おぼろげな冷めた魔力は、赤と青の五芒星を、水の中に顕現させてゆく。散り散りに、豪雨の手との鍔迫り合いを繰り返す。
それは魔理沙の、ひたむきさの輝き。まだ真っ直ぐでいようとする閃光。
しかし――足りない!
湖中の雨の中では、昼下がりの実験に学んだように、空間の歪みこそ最高の敵。
星の群れ達は発現するやいなや、時には一瞬でかき消され、時には八つ裂きに砕け散り、いずれにしろ熱量を失ってしまう。
「なんでもいいから、」魔理沙の求む道標は一つだったのに。
「光さえありゃ、どうにかなるのに」
パチュリーに出来る事なら自分が出来ない謂れはない筈。だが、
「まさか……」
思い起こす。思い起こす。思い起こすそれはパチュリー=ノーレッジの怨念、暴走、自然の摂理をも手繰る人工物の中の歪な異端。
嘘だと思っていたのに、後も先も見えないこの夜空はもうパチュリーという魔女の精神の手中である。
それが、意思を持つかのように表情を喚起に歪めるこの嵐の正体。
「……やっぱりこれ、ただの雨じゃない……このやり方じゃあダメか、でも、分かった」
ようやく分かった。
陽光であるロイヤルフレアによって吹き飛ばされたこの雨は単なる水ではない。
独立した魔術を含んだスペルカードの残党。
有り体に言えば、流れ弾の一種なのだ。
そして弾幕であるならば、魔理沙にとっては避けるか吹き飛ばすかの二択の手中。
§
一つひときわ大きな飛沫。
それは岸辺のパチュリー=ノーレッジの小さな頬を打った。
その衝撃や不意打ちの事で驚いたが、一瞬で忘れてしまう程度には……分かりきった答えだった。
やれやれ。
「咲夜じゃないのなら、先に言ってほしかった」
パチュリーの鼓動は弱くなり速くなり、針を刻む音すら水音の中へ消失して、
彼女そのものが喪失されゆく冷たさ。
その蝕みは魔理沙なんかは簡単に屠る事の出来る脅威だった。
なるほど上空ではまだおぞましい魔力がとぐろを巻いていて、その切っ先が果たしていずこへ向けられているのかは明白。
(私の力、が……知らないうちに魔理沙を追い込んでる)
スペルカードの術式が崩れ去ったのを皮切りに何かが起こった事はようく覚えている。
奇しくも。
湖そのものが生命を持って、あるべき場所へと還ってきている。
パチュリーのスペルカードは生命を与えるものではなく、むしろそれを手駒にして命を屠るためにあるのに。
「うー……」
不満、だった。
結果的に魔理沙を止められなかった事は、自分の責任と思うわけでもない。
ただ矢のように目の前を過ぎ往くだけの人間の事を気に留めるわけにもいかない。
幻想郷での人の一生など、ほんとうに、
この雨のように容易く消費されていくんだ。
人間と人間外では根本的に、命の価値が違うだけのこと……
それを総括するのが人間――博麗霊夢なのが気に食わないが。
(魔理沙だって知らない内に、自分が窮地に立たされてる事すら知らない内に、そうやって滅びるだけ)
「それが早く訪れるか遅く迎えられるか、の違いだけ」
もう一度見上げる空は、黒。
その中に微かに、人間らしからぬ理解不能な光を見出してしまう辺り、
矢張りパチュリーは、魔力という名を冠した雨水に、葡萄酒の味を覚えてしまったらしい。
酩酊したかのように目が回る。
なにか、大事な何かを手放してしまうような喪失感。
目が回る目が回る目が回る――
「ごめん……まりさ」
含んだ独り言が透き通る。
呼応する何かの雄叫び。
薄れ往く聴覚の麻痺する感覚の中で。
どうして紅魔館の警鐘の咆哮が、今更遥か空間を飛び越えパチュリーの耳を打つのか。
何故その声は耳障りなんだろうか。
その響きは錯覚。
そう、錯覚の中なんだ。どうにも幻覚が体を支配しすぎるのは、散々雨の刺激を受けてしまったからだと説明はつけよう。
ぐらぐら茹だるパチュリーの右胸が強く痛み、
――レミィの歪んだ冷たさが頬を打つ。
咲夜の高貴な下劣さが横を通り過ぎる。
妹様も小悪魔も美鈴もメイド達も、自分の事をどれほど疎ましく遠巻きにしているかも分からない事を思い出す。
何が必要とされているか、なんて考える意義はない。
ただ、細々とした小悪魔は常に目の前にいて、矢張り何かしら気を遣った言葉の一つや二つ持っているから。
どいつもこいつも面向かって話した記憶なんかない事を思い出す――
増して人間相手にする事も無駄の極みなのに。
人間なんていつも目の前を矢のように通り過ぎて、残像すら残さない。
ただそれだけの存在だと教わったのに、
深淵の図書館の隅にいつも光がぽつんと見えて、
霧雨魔理沙だけがいつもいつも目の前にいて、
それ以外が考えられない。
それがもう二度と、道標にならない事は知っていても。
§
となると、だ。霧雨魔理沙は焦りを募らせるよりも、まだやる事のために精神を強く保つ事が優先だと知った。
この空に光を映すための布石は、一つ。
相手の背を奪い奇襲を仕掛けるレーザー発生原、
動きを阻害するための星屑の群れ、
撹乱と格闘戦を主とする複雑な放電、
敵を絡めとる網目状に配置された弾幕、
そのどれもこれもが、魔理沙の頭の中でちぎっては排除されてゆく。
今となっては必要がない。
これほどの魔力の渦が巻いている状況で、太刀打ちできる力は、少なくとも人間である魔理沙には一つしかない。
「そ、っか。いいだろうパチュリー」
閃光の符――
マスタースパークと銘打たれたそれは、持てる力を最強の焔に変える動力構築機構だ。
ロイヤルフレアと同じく、ただ撃てば良い。
この世で最も美しくはなく、そして華々しい、ただそれだけの最強最大の弾幕。
「『比較』してみせるぜ、私とそっち、どっちが強いのか」
凍りついたような手の平を箒から剥がし、魔理沙は箒の柄の上へと器用に飛び、立つ。
その幻想は目前だ。
「あーでももう、寒い……これで最後にさせてもらうぜ」
黒の帽子の鍔を折り直すと、水滴を物ともせずに、強く眼を見開く魔理沙。
目の前を阻害する全ての蛇を淘汰するために、スペルカードを番えた。
しかしブレイジングスターほどの力をも阻害できる威力を持つ敵が相手……単純な力で相殺するには、やや卑怯な手段を用いらせて頂く事が手っ取り早い、と。
「持ってるカード全部消費してやるよ、すっからかんになるけど!」
彼女は今まで鍛えられた中でも最も鋭い二本の剣を携えた。左手に焔の八卦、右手に二つの閃光の符、だ。
重ねられた力の動力源は既に焔を帯び、周囲の嵐を脅かす。
それらは「消えろ」と、魔理沙へ乞うたのだ。暴風を傍らへなびかせ、紫電を生み出し、氷の刃を率いて。
手を伸ばしてくるのだ。
「悪いな雨さん、運が悪かったみたいだ」
魔理沙の両腕が、暴動へ応えるように強く結び付けられる。
豪雨は最後の警鐘を鳴らしたはずなのに。
二つの魔の力が互いに怒号を起こし、まだ見ぬ想いを全力疾走させる。
「最大弩級」
瞬間、両腕の切っ先は天空を覆いかざす。
天候とは真逆の、曇りの無い黄金の瞳はさながら太陽を模すかのように。
そして声を閃かす。
魔砲ファイナルマスタースパーク。
唯一つ、水の中でも鈍らないのは、少女の必殺の一手だけ。
§
さてそれは、ひいては雨脚を途絶えさせるほどの炸裂だった。
鈴の音のように、穏やかに放たれた爆雷音。
追って引き伸ばされる、天空へ昇華する龍の炎。
紅魔館の周りだけに留まらず、山を超えるかのように昼夜を彷徨わす、道標の光。
「んっ――」
陽光は、湖の岸辺のパチュリーの眼を突き刺し、ふいに不機嫌に顔をうずめさせる。
「まぶし……」
やりすぎ、だ。
彼女は毒を吐く。この光の力、どこから、あの小さな身体のどこから発揮しているのか想像もつかなかった。
マスタースパーク。最大閃光と謳われた光と炎の魔法。
荒ぶるそれは、過去に見たものよりも遥かに愚かしく、無粋で幼稚。
唯只管に。
その炎に耐え切れず、渦を巻き、水の幕は崩れ去り、崩壊した。
それ一つが生命を持っていたのに。鼓動を失い、透明な暗雲は落とされたのだ。
どよめく嵐の空は嘘のように。
悪意までもが消滅してゆく。
雨脚は、パチュリーの頬を軽く叩いて、
緩やかにそのなりを沈めてゆく。
草叢が演奏を途絶えさす。
木々のざわめきが揺らぐ。
天蓋の蒼さが際立ち、夜風が最後の雫を覆い流す頃、パチュリーの目の前に尊大に広がる湖が、夜空と陽光を照らす鏡となって、静かに元のまま、存在していた。
人間外を映す穏やかな空気。
雨の代わりに静寂が支配し、先まで雨脚を散々耳に入れ続けたパチュリーは、静けさに逆に耳を痛くした。
こんな事をして何になる。
何を見せたくて、この魔法の空に立ち向かった。
恐らく彼女は赦されやしない。
小説の綺麗事のようには、生暖かい結末が待っているとは言いがたい。
そう、踏んでいたのに。
まだ魔理沙の声が、心の内で反響する。
空を見ていろよ――まったく馬鹿正直だと、パチュリーは自身を疎ましがる。
空か。
まともに上を向いてみるなんて、何年振りだっただろう。
遥か紅魔館の上空を仰げば、その太陽に匹敵した閃光を囲うかのように、広大な……光の環が広がっていた。
驚くほど精密な曲率を描くそれは、かつて本で知った記憶だった。
記録としては知っている。光が水分を通過するに際して、光を構成する色素が分解して複数色の光を作る現象だ。
特殊な突入角や条件があえば遭遇する事が可能な珍しい現象、
複数の色を持つ光の龍。
空に架かる橋。名はL'Arc en Ciel――虹。
記録としては知っている。
それなのに、知っているはずのそれが、酷く違和感としてパチュリーの喉元へ残る。
何故。
「……はじめて、見たから……」
それはどんな鉱石よりも顕実で、
どんな絵画よりも耽美で、
手を伸ばそうとも決して触れられないかのような……幻。
幻なのだ。
そこに存在しえないかのように儚く、
パチュリーにしてみれば記憶の彼方の亡霊。
『僅かな命程度で全てを知らずに没し』
井の中の蛙大海を知らず。
それは人間。滅するために生きるだけの命。
『ただ空の偉大さを知り朽ち逝く』
されど、空の深さを知る。
愚かな者は最後の足掻きとして、何か尊大な者へと手を翳す。
なんと下衆なのか。
虹が、なんだというんだ。
やがて光も掻き消え。
空に再三、静寂が訪れる。
それが人間の生き様の一つ一つを示すようで、不思議と滑稽だった。
目を離せばあざ笑われ、見つめ続けても毒される……
そんな境界線に立たされたようだった。
光の消えた先には、生命の鼓動を微かに感じる。
感じるからなんだというのか知らないが。
その方向を、虚空の方向を、
魔法少女二人を結ぶ世界の規律を、見つめずに、いられなかった。
パチュリーはまったくの無表情を浮かべ、月夜に見合う青白い体躯を、そっと草原から手放した。
もう一度魔理沙へと問いただすためだ。
彼女は虹の美しさを見せたかったのか、
それとも自分の後姿を見せたかったのか。
そして、水の中の魔法の実験の成果を聞くため。
未だ乾かぬ服の重さなど、矢張り気にならない。
§
経るべき物を失った全ての存在へ。
パチュリーはもう一つの現実をみつけるために辟易している。
彼女の永遠の綱はひとつだった。どれほどの山を乗り越えてでも、
千の地を斃して、
万の都を越えて、
億の空を翔けて、
兆の帳を束ねて、
京の記を連ねて、
垓の知を率いて、
杼の焔が生まれ、
穣の海が乾上り、
溝の夜が消滅し、
澗の死を垣間見て、
正の骸が地を跋扈し、
載の葬列を迎えようと、
極の魔に媚びて、
恒河沙の贄を経て、
阿僧祇の血を以って、
那由他の不和を携えて、
不可思議の既知を滅して、
無量大数の、自分を殺して。
魔理沙がパチュリーの前から、いなくなろうと。
その目で見る事。
確かめる事。
知る事。
恐らくパチュリー=ノーレッジにとっての魔女としての一生の手綱。
それは、人間の生りの姿をしていて、無限を統べる十六夜咲夜への一種の復讐だったのかもしれない。
裏など返せばいくらでも見つかるような解せない笑みを貼り付けたままに側近として立つメイドと、それを従える裏の無い酷薄さを持ったレミリア=スカーレットの永遠の統制。
それら『二つ』への渇望。
パチュリーの心の内で、自己犠牲という名の利己が、かくも甘美に響き渡る。
単なるエゴかもしれないが。
魔理沙のような人間には、かすかに感謝はしていた。
いつしか観念も、価値観も変わってしまうのは人も妖も変わらないことだったから。
永遠の時なんて存在しないけど、
永遠の中の、ほんの一瞬の今だけは、
永遠を誓う。
心が移っても世界が反転しても。
今日考えた『人間』という言葉の分だけ思い起こして、
果たして私の答えは変わった?
いいえ、何も。