穂積名堂 Web Novel -既刊公開用-

WEEK END 第一章

2011/03/15 00:28:03
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WEEK END 第一章

床間たろひ
 月曜日は憂鬱。それは終わりの終わり。静謐からの離別。容赦なき外界の干渉。
 火曜日は不安。それはろくでもないお茶会への誘い。溜息。ほんの僅かな期待。
 水曜日は歓喜。それは薔薇色の人生。華やかな夜会と、祝福を受けた子供たち。
 木曜日は疑惑。それは答えのない問い。度し難き潔癖症。救いようもない愚か者。
 金曜日は恐怖。それは失うことへの怖れ。世界を蝕む猛毒。止まれない暴走列車。
 土曜日は狂気。それは終わりの始まり。そして全ての者たちに素晴らしき終末を。

 だから――日曜なんて、もういらない。


















 彼女――フランドール・スカーレットとは何者だったのか。

 今日はそれを語ってみようと思う。
 私は彼女のことを知っている。いや、知りすぎていると言ってもよい。
 何しろ……彼女と私は二つで一つだったのだから。
 私が表で彼女が裏だとか、或いはその逆だとか、そんなありふれた話ではなく、
 彼女は私で私は彼女だったのだ。文字通り、言葉通りの意味で。
 無論、私は吸血鬼などではないし、あんな怖い姉を持っているわけでもない。ただの、どこにでもいる極めて平凡な存在だ。あのような強さは持っていないし、代わりに何ができるってわけでもない。それでも……彼女と私はどこまでも同一だった。

 同一になるしかないほど――彼女は何も持っていなかったのだ。

 無垢で無邪気……幼子を表現する時、そのような言葉を用いることがある。
 だがそれも今となれば、彼女――フランドール・スカーレットにしか用いることのできない表現だったと私は思う。彼女は穢れを持っていない。持つことすらできない。邪気とも無縁。そのようなもの最初から抱くことすらできない――そんな存在だったのだ。

 だから彼女は、私を求めた。
 求めざるを得なかった。

 無論、それ自体に罪はなく、子供が親を真似るように、或いは当たり前のことだったのかもしれないけれど。そしてそれが――私である必然などは欠片もなかったけれど。
 それでも私が彼女に必要とされたことは、必然ではなくとも運命ではあったと思う。
 あの時のことは後悔しているし、自分の運命を呪いさえしたけれど、今となっては……
 いや、止めよう。
 正直なところ、うまく言葉にする自信がない。
 言葉にすれば、それはきっと嘘になってしまうだろう。

 だから私は語ろうと思う。
 何が正しくて、何が間違っていたのか――当事者である私ではどうやったって客観的判断を下せない。だから起こったこと、知っていることをありのまま語ろうと思う。
 たった半月程度の、あの館で過ごした日々を。
 たった七日間だけの、彼女と過ごした日々を。
 たぶん私は忘れない。
 きっと彼女も忘れない。
 痛くて、苦しくて、絶望して、
 でもきっと、それだけじゃなかったと。
 まやかしではなく、確かにそれはあったのだと、そう信じたいから。

 彼女の物語を――語ろうと思う。









 第一章『SCARS』



「メイド希望、ね。まぁ、うちはいつだって人手不足だから、申し出そのものはありがたいけれど……って、聞いてる?」
 ひょいっと。
 ぼーっとしていたら、いきなり顔を覗きこまれた。
「き、聞いてます聞いてますだいじょうぶですはいっ!」
 ふいに息が掛かるほどの至近距離で覗き込まれ、私の心臓が爆発する。
 ヤバい、思わず見惚れてしまった。声は裏返るし、どっと汗が吹き出る。
 恥ずかしい、情けない、のっけからみっともないところを見せてしまった。
 だけど……仕方ないことだと思う。
 絹糸のような銀の髪、吸い込まれそうな青い瞳。細身の、ナイフのような印象を与える完璧なプロポーション。稀代の芸術家が精魂篭めて彫り上げた氷像のような、それでいて無機物ではありえない瑞々しさまで備え、手にしたクリップボードへと何かを書きこむ姿までどこか神がかっている。綺麗な人と知っていたが、まさかこれほどのものだったとは……
 
 十六夜咲夜――紅魔館にその人ありと謳われたメイド長。

 人の身でありながら数多の怪を圧し、噂では時すらも支配するという。
 それもまた、むべなるかな。
 その瞳の前では――時の神すら跪くだろう。

「ところで貴女、お名前は?」
「は、はい! 坂井原 美里と申します!」
「ミサト、か……ふむ、良い名前ね?」
 少しハスキーな、良く通る声。
 そんな声で名前を呼ばれて、恥ずかしいやら誇らしいやら複雑な気持ちになる。声に含まれた親しげな響きが、ますます私を勘違いさせていく。顔が熱い。湯気どころか溶岩まで噴き出しそうだ。
「……熱でもあるの?」
「いえいえいえっ! そんなことありませんっ!」
 両手をぶんぶか振って、慌てて誤魔化す。
 そんな私を呆れるような目で見つめ、咲夜さんは軽く肩を竦めた。
「……ま、いいわ。猫の手も借りたいのはやまやまだけど、本当に猫じゃ困るのよ。さて、貴女は何ができるのかしらね?」
 ナイフのような眼差しに、少しだけ冷静さを取り戻す。
 私にできること……何だろう、何があるだろう。
「えと、料理と掃除と洗濯と……家事なら一通りできますが……」
 とりあえず、思いついたことを口にしてみた。
 嘘は吐いていない、というか私にはそれしかできない。
 これで良かったのかと上目遣いで伺うと――ばさりと何かが落ちる音がした。
 顔を上げると、咲夜さんが目を丸くしている。
 手にしたクリップボードを落とし、まるで空飛ぶ猫のミイラでも見たかのように口をぽかんと開けて。
「え、ど、どうかしましたか?」
「それ……本当?」
「え?」
「料理とか掃除とか洗濯とか」
「あ、はい。家事は私の担当でしたので」
「料理が好きと言いつつ食べるだけとか、掃除が好きと言いつつ周囲を軒並み魔法で吹き飛ばすとか、洗濯が好きと言いつつ服を着たまんま湖に飛び込んだりしない?」
「……はい?」
 なにいってんのこのひと……なんて不遜な思いが湧いてきたが、ぎりぎりで自重する。
 きっとハイソな冗句ってやつだろう。私のような庶民では、笑えばいいのか突っ込めばいいのか、それすら判別できないレベルの。
「家事が得意とか言って、趣味は放火だったりしないでしょうね?」
「いえ、そんなことは……ありませんですけど……」
 質問の意味が解らず、思わず語尾も尻すぼみとなる。
 冗句の割には咲夜さんの目が真剣だし、むしろ本気で動揺しているようにも見える。メイドなんだから家事技能が必要だと思っていたが、そうじゃなかったんだろうか。それとももしかしてメイドというものを私が勘違いしているとか? 里にも大きな屋敷に仕えるお手伝いさんとか家政婦さんなんかはいたけれど、考えてみればメイドさんの知り合いなんてひとりもいない。格好が洋風なだけでただのお手伝いさんだと思っていたが、違っていたのだろうか。
 だけど咲夜さんはそんな私の葛藤にも関わらず、
「そう……そうよね。考えすぎだったわ。ふふっ……疲れているのかしら、私……」
 と言って、どこか遠くを眺める。その顔は思わず駆け寄りたくなるほど痛々しい。
 どうしたものかと迷っていると、咲夜さんは自力で立ち直ったのか、落としたクリップボードを拾い上げて、引き締まった顔をこちらに向けた。先程までの真っ白に燃え尽たボクサーのような雰囲気は、もう微塵も感じさせない。
「さて……紅魔館としては貴女のような人材は大歓迎よ。むしろ貴女のような人材こそを求めていたといっても過言ではないわ。とはいえ……ここはレミリア・スカーレットが治める貴族の館。当然、そこに勤める者もそれなりの品格を求められる。そこで……貴女を試させてもらうわ。いいわね?」
「は、はい!」
 思わす背筋を正す。
 そうだ。ここは里でも畏れられている貴族の館。あいにく当主であるレミリア様のご尊顔を拝したことはないが、その噂だけは何度も聞き及んでいる。夜の王。永遠に幼い紅い月。紅い悪魔……その瞳に囚われた者は魂すら奪われ、自ら胸襟を開くという。

 吸血鬼――なのだ。この館の主は。

 目の前に立つ銀髪のメイド長。
 それを従えているというだけで主の格もわかるというもの。
 なればこそただの小間使いとはいえ、相応しい格が求められるのも当然だろう。
 とはいえ……私は自分に自信がない。人より勝っているものなんて身長くらいだし、そしてそれすらも同世代の子に比べて可愛げが足りないと密かなコンプレックスになっていた。あれこれ考えるうちに不安で胸がぱんぱんになり、指一本動かせなくなる。
 そんな私をみて、咲夜さんはくすりと笑った。
「そんなに構えなくてもいいわよ。ここに通された時点で、容姿を含めた一次審査はクリアしているんだから。まぁ、私もお嬢様も外見だけで判断するほど愚かではないけど、その者の生き様は必ず外見に表れるものだしね。だから今から行う試験は貴女の適正を測るってだけ。答えられないからって不採用にするわけじゃないわ。気楽に答えてくれればいいのよ?」
「は、はぁ……」
 逆にプレッシャーかかりました。
 容姿はクリアしているなんて言われても、いまひとつピンとこない。そりゃ自分の顔は嫌いじゃないけど、どうにも地味で華がないというのは嫌ってほど理解していたから。
 そんな私の不安をよそに咲夜さんは胸の前で腕を組むと、ぴんと人差し指を立てる。
 その所作がまた痺れるくらいに格好いい。華があるとはこういう人のことを言うのだろう。
「紅魔館は敵が多い……当然よね、力を示せば反発も出るもの。ならばこそ時には更なる力を示す必要もあるわ。そして一介のメイドといえど、主の威光を守るために命を賭して戦わねばならない時もある。さて……そんな時、貴女は何ができるかしら?」
「……」
 力、か。
 そんなものがあれば、もっと違った道を選べたのだろうか。
 自分すら守れないのに、他人を守るなんてできるはずもない。
 だけど――
「……解りません。でも、できることをやろうと思います」
 そんな自分が嫌だったから。
 何かが変わると思ったから、この館を訪れたのだ。

 だから自分にできることを――精一杯やろうと思う。

「――そう。そうね、期待しているわ」
 少しだけ、咲夜さんが微笑んだ気がした。
 それは私なんかにはもったいない、友達に向けるような優しい笑み。
「忠誠とは積み重ねるもの……だから今の貴女はそれでいい。むしろ一度も会ったこともない主に対して、その肩書きだけで従うような輩は二重の意味で主を冒涜しているわ。安心なさい。うちのお嬢様は命を懸けるに値する方よ。貴女もいずれ……解る時が来るでしょう」
 誇らしげに主について語るその眼差しに、私の心も弾む。
 それはまだ見ぬ主に対する憧れ。そしてこのメイド長と轡を並べるという誇らしさ。
 夢中で頷く。そんな私を暖かく見守る蒼い瞳。

 ここにきてよかった――改めて、そう思う。

「では次に……貴女の知性を計らせてもらうわ。さっきも言ったとおり、この館にただの猫は必要ないの。いいわね?」
 ぎくり、とした。
 浮かれていた心がしゅるしゅると萎んでいく。
 知性……そんなもの容姿以上に自信がない。
 持っている知識なんて寺子屋で学んだものくらいだし、うちの家計じゃそれ以上の教育を受ける余裕なんてなかった。寺子屋の先生は厳しい方で、宿題を忘れるともの凄い頭突きをされるから当時は必死に勉強したけれど……最近は色々あって本を開く余裕すらなかった。
 まずい、ひっじょーにまずい。
 面接だけだと思っていたので何も勉強していない。
「では……いくわよ?」
 そんな私の焦燥をよそに、咲夜さんは真剣な眼差しを向ける。
 私の動揺を見透かしながらも、それを押し殺す強い視線。
 その視線を前に、言い訳など出来るはずもない。
「は、はい」
 ぐびり、と喉が鳴る。
 そういえばこの館には世界中の叡智を集めた巨大な図書館があり、幻想郷に住む知識人たちにとって垂涎の的と聞く。そんな場所の就職試験がただの問題であるはずもない。先生の話が面白かったので日本史や世界史、物理化学や生物なんかは自力で色々勉強したけれど、所詮は独学の、寺子屋レベルのものだ。下手をすれば問題の意味すら解らない可能性だってあった。
 覚悟も定まらず、おろおろしているうちに、重々しく咲夜さんの口が開く。
 お願い、待って! という声を飲み込むのが精一杯で、頭の中は真っ白になっていき――

「三+四は?」

 今度こそ、本当に頭が真っ白になった。

「えと……いま、なんて?」
「答えられないの?」
「あ、いえ、その……な、七です」
「八+九は?」
「じゅ、十七です」
「十二+八は?」
「二十」
「二十五+十三は?」
「……三十八」
「やるわね。二桁の足し算を指も使わず計算できるなんて」
「は、はぁ」

 もしかして……ばかにされてる?

 私の戸惑いにも関わらず、咲夜さんはどこか満足そうだ。
 何かの言葉遊びかとも思ったが、普通に正解だったのだろうか?

「次にいくわよ。ああ、必要ならそこのメモと鉛筆を使ってもいいわ。貴女、字は書ける?」
「は、はぁ、字くらいは書けますが……」
「では……三×三は?」
「九」
「四×五は?」
「二十」
「次は難しいわよ? 七×九は?」
「……六十三」
「凄い……ねぇ、もしかして貴女、九九を全部言える?」
「ええ、まぁ……ひととおり言えますが……」
 そう言うと、咲夜さんは本気で感心しているような目で私を見た。「……私だって覚えてないのに」なんて呟きが聞こえてきたが、聞かなかったことにしよう、そうしよう。
「そういえば字も書けるって言ってたわね。自分の名前を漢字で書ける?」
「ええ、まぁ、それくらいは……」
「素晴らしい……文句なしね。紅魔館は貴女を歓迎するわ。これから宜しくね?」
「はい……ありがとうございます……」
 そう言って、咲夜さんは花のような笑顔で私を迎えてくれた。
 
 でも、何だろう。この言いようのない不安は。

 私、これからどうなっちゃうんだろう――


  §


「成る程……」
 咲夜さんの言葉が理解できた。
 頭ではなく、魂で理解できた。
「は・ら・へっ・たーーーーーーーーーーー!!」
「んぁー? なんぞこれ?」
「うぎっ! うぎぎぎぎっ!」
「あーおいっそらー♪ そーよぐっかぜー♪」
「ねーねー、わたしのぱんつしらないー?」
 お嬢様は就寝中とのことで、顔合わせは後回し。
 とりあえず他のメイドたちと一緒に、館の清掃を行うよう命じられたのだが……ご覧の通りの、そう、正に惨状としか形容しようがない有様だ。
「ねぇ、ちょっと。みんな働いてよ!」
 思わず怒鳴ってしまったが、私の言葉に耳を貸す者などいない。どいつもこいつも好き勝手し放題のはっちゃけ絶頂に騒ぎまくっている。
 館で働くメイドは、ほとんどが妖精だ。
 わいわいきゃわきゃわと喧しいことこの上ない。
 おまけに猫の方がマシじゃないかってくらい、なーんの役にも立たなかった。
 いや仮にも先輩方に対し、すんごく失礼なこと考えてるなーとは思うのだが、それにしたって限度というものがある。がじがじとカーテンを齧る者。絨毯ででんぐり返しする者。調子外れな歌を歌う者に、手にしたモップでちゃんばらする者。ふざけるにしたって法則性というものがまるでない。おもらししてびーびー泣いている子をトイレに連れて行き、背後から襲い掛かってきた子を払い落とし、孤軍奮闘、東奔西走しているうちに気付けば半日が過ぎていた。
 勿論、掃除なんかぜーんぜん進んじゃいない。
 最初、咲夜さんに紹介された時――モップを構え、真剣な眼差しを向けている彼女たちを見た時は、みんな子供のように小さいけれど流石は紅魔館のメイドたち。幼い顔つきの中にも誇りを感じさせる何かがあるなぁと素直に感心したものだ。
 ところが咲夜さんがいなくなった途端……この有様である。
 溜息を吐いてうなだれた瞬間、どすんと背中に重みが掛かった。
 振り返ると、ひとりの妖精が私の背中にへばりついている。
「ねーねーみっちー。なんか食べるものなーいー?」
「みっちー……って私のことですか!?」
 美里=みっちー。
 安直だ。里にいた頃、みっちゃんと呼ばれ、下品な替え歌で男の子たちに苛められたことを思い出す。男の子たちは泣いている私を取り囲み、輪になって歌っていた。
 もちろんその男の子たちは、先生からのキツーい一発をお見舞いされてたけど。
「ねー、みっちーってばー」
「はいはい、私だって何も持ってませんよー。ほらほら、もうすぐお昼ですし、それまでお仕事お仕事」
 うー、と不満そうに唸る妖精メイドそのいち。
 癇癪を起こしたようにぶんぶんモップを振り回したかと思えば、すぐに飽きて他の妖精のところへ飛んでいく。
「……つ、疲れる」
 結局、誰も掃除なんかしやしない。
 賑やかに騒ぐ、九九なんか言えそうにない妖精たちの声を聞きながら、

「これ……私ひとりでやらなきゃいけないの?」

 長い廊下を眺め、私は小さく溜息を吐いた――


  §


「そりゃお疲れでしたねぇ」
 美鈴さんは豪快に汁そばを啜りながら、にこにこと笑った。
「笑い事じゃないですよ。あれでよくこんな広い館の維持ができますね?」
 私も汁そばを啜りながら、もう一度溜息を零す。あぶらぎっとぎとのトンコツ風味。確かに美味しいんだけれど、疲れた胃にはちょっと厳しい。心労と相まって胃もたれしそうだ。
「うーん、にんにくでも入れればもっと美味しくなるんだけどなぁ。ま、流石にお嬢様に怒られちゃうか」
 私の愚痴を聞き流し、美鈴さんは箸でつまんだ麺を残念そうに見つめている。
 不満そうな顔をしているが、この顔に騙されてはいけない。ぶつぶつ文句を言いながらも、これで替え玉は六回目。しかもまだ余力を残しているのがありありと解る。一体、その細いウエストのどこに収まっているのだろう……。
 美鈴さんは紅い髪をさらりと流した健康的な美人さんで、洋風の館であるにも関わらず一人だけ大陸風の装束を纏っていた。大胆なスリットの入った裾から肉感的な太ももを惜しみなく晒していて、その滑らかな脚線美に失礼だと思いつつもついつい視線を送ってしまう。

 私を、咲夜さんに紹介してくれたのがこの人だ。

 里で何度か見かけたことはあったが、話をしたことは一度もない。
 だというのに昨日、なんとなく館へと足を向けた私に声を掛けてくれただけでなく、行く当てもなく途方に暮れていた私に、館への就職を薦めてくれたのだ。おまけに今日はもう遅いからといって、会ったばかりの私を自分の部屋に泊めてくれたりもした。
 そういう大恩あるお方ではあるのだが、その気さくな物腰に甘え、ついつい私も数年来の友人のように話しかけてしまう。それを許す、何というか心地よい間合いを自然に身に着けている人だった。
「咲夜さんも苦労してるわよ。あの子たちってば怒鳴っても蹴飛ばしても、気が乗らないと働かないしねぇ。でも……いい子たちでしょ?」
「そりゃ悪い子とは思いませんけど……メイドとしては問題じゃないですか?」
「んー、あそこは特に妖精らしい子を集めてるしねぇ……とはいえ、大体あんなもんよ? お嬢様曰く――不自由を笑って享受してこそ貴族ってね? 貴女もそのうち解るわよ」
「そんなもんですかねぇ」
 レンゲに掬ったスープと一緒に、不満も飲み込む。

 正直――妖精は苦手だ。

 子供のように小柄な体。蜻蛉や蝶のような薄い羽。
 自然現象そのものの化身であり、無邪気で、無垢で、勝手気ままに生きている。
 悪戯好きで悪意もないまま人を陥れ、それを見てはけらけら笑う。それは風で洗濯物が飛ばされてしまうように、あるいは突然の雨で濡れ鼠になってしまうように、そういうものだと受け止めるしかないのだけれど。
「ま、初日だしね? 慣れるまではそんなもんよ。ほら、沈んでないで元気出しなさいって」
 そういって、美鈴さんはぱたぱたと手を振った。
 気を使って――くれているのだろう。
 この仕事を薦めたという責任もあるだろうが、美鈴さんはそういう人なのだ。
 昨日はじめて会ったばかりというのに、食堂で私を見かけた途端、満面の笑顔で駆け寄ってきてくれた。慣れない場所で、ひとりで食事するのを心細く思っていた私が、その笑顔にどれだけ救われたことか。
「美鈴さんって……妖怪なんですよね?」
「ん、そうよ?」
「いや、なんか、そう見えないなぁって」
「あはは。よく言われるわ。ま、どっちにしろ私は私。なんだっていいじゃない」
 からからと笑う美鈴さんの顔を眺めながら、

 私の心が、ちくりと痛んだ。

「あれ? どうかしたの?」
「あ、いえ。なんでも……」
 一瞬だけ過ぎった影を、軽く頭を振って振り落とす。
 美鈴さんは不審そうに私の顔を覗きこんでいたが、やがて何事もなかったように食事を再開した。
 聞くべきではないと判断したのだろう。
 本当――気の回しすぎだ。
 
 少しだけ気まずい沈黙。
 そばを啜る音も自然と慎重になる。
 周囲はがやがやと騒がしいのに、私たちの周囲だけ隔絶されているみたい。
 失敗したな、と反省する。
 自分の心に差した影を、この人にも押し付けてしまった。申し訳ないと思ったけれど、それを詫びたところで「何が?」ととぼけて笑うだけだろう。
 ここは全く別の話題で誤魔化すべきなんだろうけど、私では上手い話題を提供できそうにない。さて、どうしたものかと考えていると、
「あら、一緒だったの?」
 ふいに、横合いから声を掛けられた。
「あ、咲夜さん」
「お疲れ様です」
 私と美鈴さんは顔を上げ、トレイを抱えている咲夜さんへと会釈した。
 見れば、咲夜さんが手にしたトレイにも白い湯気をあげる汁そばが乗っている。
 私たちと同じ、あぶらぎっとぎとのとんこつ風味。
 …………この人も汁そば食べるのか。
 なんか……イメージと違う……
「どうしたの? 変な顔して?」
「あ、いえ。別に。何でも」
 そう、と小首を傾げながら、咲夜さんは私の隣に座った。
 ここの食堂は横長の素っ気ないテーブルに簡素な椅子がついているだけの、いかにも従業員用といった感じで、メイド長には相応しくない気もしたが、咲夜さんはまるで気にする様子もない。
 銀の髪がふわりと靡くと、柑橘系の爽やかな香りが鼻腔を擽った。
 こんな場所だというのに、彼女が存在するだけで空気すら華やいだ気がする。
「……私の顔、何かついてる?」
「え、あ、いえいえいえっ!」
 思わず凝視してしまった。
 ほんと、目の毒。
 気がつけば横顔を目で追っている。
「仕事はどう? 少しは慣れた?」 
「あー……そうですね。正直まだ戸惑っています」
「うちは六人一組だから、空いてるのあそこしかなかったのよねぇ。結構大変でしょ? あの子たちの相手」
「え、あ……ま、まぁ、それなりに……」
 実際にはそれなりどころじゃないけど、なんとなくそれを言うのは告げ口みたいで憚られた。
 しかしそうじゃないかとは思っていたが、やっぱり問題児の群れだったか。
 そりゃそうか……あの子たち、結局なにもしてないわけだし。
「妖精の扱いには、ちょっとコツがいるからね。貴女もそのうち解るわよ?」
「コツ……ですか?」
 猫舌なのか、箸で摘んだ麺にふーふーと息を吹きかけていた咲夜さんは、十分に冷ますことができたのを確認してから口に運ぶ。そしてそのまま食事に没頭してしまった。コツとやらを教えてくれる気はないらしい。自分で考えろということなのだろう。
 私が首を傾げていると、美鈴さんが補足をしてくれた。
「妖精ってのは、本来とても働き者なのよ。フェアリー、コボルト、ゴブリン、レッドキャップ……悪戯が過ぎて悪者扱いされることもあるけど、元々は人の仕事を手伝ってくれる気のいい連中なの。悪戯をするのは正当な対価を払わなかった時だけ。まぁ、いつの間にか悪戯する方が面白いってなったみたいだけどね?」
 そう言って、からから笑う美鈴さん。
 咲夜さんの言葉と美鈴さんの言葉。その二つを噛み締めながら午前中のことを思い返す。
 対価――食べ物をあげなかったから、言うことを聞いてくれなかったのだろうか。
 今度からお菓子でも用意しておけばいいのかな?
「ちがうちがう」
 美鈴さんは笑いながらぱたぱたと手を振った。
 って、あれ? 私、声を出してなかったのに。
 もしかして……心を読まれている?
「それも違うってば。ってゆーか顔に出過ぎ。そんなの誰だって解るわよ。ね、咲夜さん?」
「そうね。私だって解るわ」
 静かに微笑む咲夜さんと、にまにま笑う美鈴さん。
 流石は紅魔館のツートップ。私なんかじゃ太刀打ちできるはずもない。
「か、からかわないでくださいよ……それより違うって」
「どうせ、食べ物かなんかで釣ろうと思ったんでしょ? そりゃ確かに何回かは有効だと思うけど……すぐに飽きるわよ? あの子たち」
「対価とは物質的なものだけではないわ。妖精が人の手伝いをするのは、その人と一緒に働きたいと思ったから。そう思ったのはその人間に興味を持ったからよ。こいつと一緒にいるのは面白いってね。だからまぁ――頑張りなさい?」
「は、はぁ……」
 よく、わからなかった。
 励ましてくれているのは解る。頑張れと背中を押してくれている。
 だけど……何を頑張ればいいんだろう。
 どうすれば、妖精たちに興味を持ってもらえるんだろう。
 どうすれば彼女たちに、手伝ってあげたいと思わせることができるのだろう。
 こんな――私が。
「ほらほらー、まーた何か難しいこと考えてるでしょ? もっと気楽にやんなさいって」
「そうね。どっかの門番みたいに何も考えないのも困るけど」
 酷いですよーと言って涙ぐむ美鈴さんを、咲夜さんが笑いながら嗜めている。
 そんなのどかな光景すら、どこか遠く感じてしまう。
 気楽にやれ――そう言われても余計に悪い方向へと考えが進んでいく。
 ぐるぐると、思考の檻に囚われていく。

「……すいません。私には妖精の求めるものって……解りそうにないです」

 だから、せめて正直に。
 解らないなら解らないまま、素直にそれを認めた。

 咲夜さんと美鈴さんは、きょとんとした顔で私を見つめている。
 何となくいたたまれなくなって、そっと顔を伏せた。
 丼のスープに私の顔が映っている。ゆらゆらと、私の顔が揺れている。
「そんなことないと思うけどなぁ」
 私を元気付けようとする、美鈴さんのおどけた声。
 気を使ってくれているのが解る、とても、とても、優しい声。
 でも、お願い。
 それ以上、言わないで。
「だって」
 耳を塞ぎたい。
 口を塞いでしまいたい。

「貴女も――妖精でしょ?」

 
  §


 緑色の長い髪。色素の薄い肌。そして――蜻蛉のような薄い羽。
 脱衣所の姿見に映る裸身を眺め、私は小さく溜息を吐いた。
 男好きのする身体――前にそう言われたことを思い出す。
 子供のような姿のまま、成長することもなく性を感じさせない妖精たちの身体に比べ、なんだか自分が酷く穢れているような気がする。
 今は夜。
 夜勤組へと業務を引き継いだから、後は朝まで自由時間。
 なんとなく夕食を食べる気になれず、私はひとりだけ先にお風呂を頂いていた。
 午後の清掃も、結局私ひとりでやったようなもの。怒る気にもなれず、私はひとり黙々と働いた。妖精たちはそんな私を無視して、好き勝手に騒いでいた。何度かちょっかいを掛けてきたが、そのことごとくを無視するうちに次第に誰も相手にしなくなった。
「はぁ……」
 また、溜息が零れる。
 大人げないと、自分でも思う。
 鏡を見ると、泣きそうな顔をしている自分がいた。
「……へんなかお」
 目を逸らし、足を引きずるようにして浴場へ向かう。横開きの扉を開けるとそこはメイド専用の大浴場となっており、今はみんな食事中なのだろうか、誰の姿もなかった。
 少し、ほっとする。
 今の顔は誰にも見られたくなかったから。
 横一列に鏡の並んだ壁と、その前に置かれた丸桶をひっくり返したような椅子。泳げそうなくらい大きな浴槽に、巨大な松が描かれた壁面。食堂もそうだが、貴族の館という割にどこか庶民的な造りである。
 手近な椅子に座って蛇口を捻ると、ちゃんとお湯が出てきた。
 こういうものがあると知ってはいたが、実際に目にすると紅魔館の文化がどれだけ進んでいるか、改めて思い知らされる。
「いい匂い……」
 蛇口の横には小さな棚があり、そこに石鹸が置いてあった。
 ハーブか何かを混ぜているのだろう。泡立ちよく、品の良い香りが鼻腔を擽る。タオルに擦り付けて身体を洗い、ついでに髪も一緒に洗う。里にいた頃は、石鹸なんて高級品はお金持ちしか持っていなかったので、なんだか少し申し訳ない気がする。
「あ……これ、咲夜さんの匂いだ」
 昼に嗅いだ、柑橘系の香り。
 咲夜さんも、ここのお風呂を使っているのだろうか。
「よっと」
 身体を流し、髪をすすいで立ち上がる。
 お湯に浸けないよう髪を括って、おそるおそる湯船に足を差し込んだ。かなり熱めだったが構わず両足を入れ、そのまま壁まで進む。
 浸る。
 沈むように。静むように。
 壁に背中を預け、ゆっくりと肩まで。
「ふぅ」
 大きく息を吐く。
 身体が少し、軽くなる。
 心も少し……軽くなる。
「疲れた、な」
 重さがお湯に溶けていく。
 想いがお湯で解けていく。
 考えすぎ、なのだろう。
 確かに私は妖精で、なのに妖精の気持ちが解らない。
 あのような無邪気さとも縁がないし、あのように天真爛漫にもなれない。
 普通の人間と――変わらない。
「普通、か」
 ずっと里で、人間として育てられてきた。
 おじいさんの言いつけで髪は黒く染めていたし、羽はいつも服の中に仕舞っていた。ずっと自分は人間だと思っていたし、普通に成長して、普通に結婚して、普通に子供を作って、そして――普通に死ぬのだと、そう思っていた。
 そうでないと知ったのは、いつの頃だったか。
 ふいに記憶が遡る。
 嫌なことを思い出しそうになり、慌てて湯の中に頭を沈める。
 目を閉じ、耳を塞ぎ、胎児のように身体を丸めて。
 膝を抱え、呼吸も止め、じっと嵐が過ぎるのを待って。
「ふはっ!」
 苦しくなって顔を上げた。
 はぁはぁという荒い息。犬のように舌を出し、ゆっくりと呼吸を静める。
 こんなことで記憶を拭い去れるはずもない。
 それでも……少しは楽になった、気がした。

「うん、大丈夫」

 お嬢様の機嫌が宜しくないとのことで、顔合わせは明日へと延期。
 とはいえこんないじけた顔のままでは、雇ってもらえないかもしれない。
 たとえ作り笑いだろうと、笑みを浮かべることくらい出来るようにしなければ――

「私は、きっと、大丈夫」

 そう口にして、もう一度深く湯船に浸かった。

 
 §


「眠れない……」
 真っ暗な室内に、時計の音が響いている。
 かちこち、かちこち。
 どきどき、どきどき。
 横向けに寝ているせいか、枕に押し当てた左耳は心臓の鼓動を、天井に向けた右耳は時計の秒針を、かちこち、どきどき拾ってくる。音そのものより、それらの微妙なズレが気になってなかなか寝付けなかった。
 ここは紅魔館の客間――そのひとつ。
 本来、他の子たちと相部屋になるはずだったが、部屋に備え付けられたベッドはどれも妖精用の小さなものだったので、私じゃどんなに身体を縮めても収まりきらなかったのだ。
「早急に用意させるけど、しばらくはこっちで我慢してね?」
 申し訳なさそうに咲夜さんはそう言っていたけど、正直こっちの方がありがたい。
 まだ……あの子たちと馴染めないままだったから。
「喉、渇いたな」
 少しのぼせてしまったのかもしれない。
 あれから誰も来ないのをいいことに二時間以上浸かっていた。長風呂は好きだけど、流石に長すぎたのかもしれない。他の子たちの入ってくる気配を感じて慌てて上がったけれど、そうでなければもっと浸かっていたかもしれなかった。
「どうしよっか、な」
 水でも飲みに行こうかと思ったが、夜は出歩かない方がいいと美鈴さんに言われていた。
 昼と違ってお嬢様が目覚める時間には、ただの妖精ではなく、それなりの力を持った妖怪メイドが警護につくからだ。勿論、同僚に手を出すような無作法な輩はいないけど、気性の荒いものが暇つぶしに喧嘩を売ることもあるという。そういうイベントはお嬢様にとっても良い娯楽となるので、黙認せざるを得ないとかなんとか。
 喧嘩とか、そういう乱暴なことは嫌いだ。
 傷つけることも、傷つけられることも、どこが楽しいのか解らない。
「いいや、寝ちゃお……」
 シーツを頭から被る。
 目を閉じ、膝を曲げて身体を丸める。
 横向きに丸まって寝るのは甘えん坊という話を聞いたことがあるが、否定できないし、する気もない。何でもいいからさっさと寝ないと、明日も早いんだし……
 かちこち、かちこち。
 どきどき、どきどき。
「……うるさいなぁ、もう」
 シーツを跳ね除けて身を起こす。
 時計の音が五月蝿い。心臓の音が煩わしい。
 胸に手を当てると、まるで走った後みたいに心臓が激しく脈打っている。
「なんなのよ、これ……」
 そう口にするものの、私には理由が解っていた。
 お風呂でのぼせたとか仕事で疲れたとか、そんなことじゃなく、
 何かが起きる、
 或いは起きている、そんな――気がした。

 このままじゃ眠れない。
 喉が異様なまでに渇いていて、呼吸すら侭ならない。
 コップ一杯の水。きっとそれだけでぐっすりと眠れるはず。
 朝まで、
 夢なんか見ずに――
「大丈夫、だよね?」
 無意味な問い掛けだと解っていたが、それでも口にせずにはいられなかった。
 喉が渇いたなんて嘘。何が怖いのか、何が不安なのか、それを確かめないと眠れない。このまま朝までなんて絶対無理。不安の元を確かめなければ一睡だってできそうにない。
「よっ、と」
 声を出し、平気な振りをして立ち上がる。
 洗面所に行って、コップ一杯の水を飲むだけ。それで何もなければ、それ以上何もしない。
 たとえ眠れなくても、朝まで布団の中で震えていよう。
 ずっと暗いところにいたせいで、灯りがなくても周囲の様子が判る。だけどそのせいで闇の濃淡もはっきりと判ってしまう。テーブルの下とか壁の隅っこに何かよくないものが潜んでいるような気がする。
 ぶんぶんと頭を振って、忍び込んでくる恐怖を振り落とした。
 これからここで暮らしていくんだし、夜が怖いなんて言ってられない。
 他に行くところなんてないんだから、早く慣れないと……。
 ドアを開ける。
 ぎぃっと重い音がする。
 その音に身を縮こませながら、廊下へと足を踏み出した――


  §


「――ふぅ」
 落ち着いた。
 コップ一杯の水。たったそれだけであんなにも心を捕らえていた恐怖が、綺麗に消え去ってしまった。あまりにもお手軽すぎて、自分の単純さが情けなくもある。
 怖いことなんてなかった。
 誰とも会わなかったし、何も起きなかった。
 ちゃんとあちこちに蝋燭が灯っていたし、薄暗い廊下はちょっと怖かったけれど、慣れてしまえばどうということもない。本当、あんなに怖がっていた自分が馬鹿みたいだ。
「これなら夜の森の方が、よっぽど怖かったわね?」
 ちょっと強がって、そんなことを口にしてみる。
 小さい頃お祭りに出掛け、夜の森に迷い込んでしまったことがあった。
 生温い風、濃密な土の香り、鳥か虫かも判らない不気味な声。木の根に足を取られて何度も転んだし、このまま誰にも見つけてもらえず死んでしまうのかと思うと涙が止まらなかった。
 それに比べれば、人の手が入ったこんな場所――怖いはずもない。
 あの闇は、私を拒絶していた。
 この館は、私を無視している。
 だから平気。そんなものは怖くない。
 さて、早く寝よう。さっさと部屋に戻って、朝まで夢も見ずに眠ろう。
 備え付けのコップを棚に戻し、
 蝋燭の炎に別れを告げ、
 部屋に戻ろうと角を曲がった先に――『それ』がいた。

 ――死んだ、と思った。

 ゆらゆらと、鬼火のように揺れる二つの光。
 煌々と、爛々と、揺れながら、少しずつ近づいてくる。
 それは瞳。爛と輝く双眸の輝き。
 闇よりも恐ろしい光があるなんて思いもしなかった。
 身体が硬直し、逃げ出すことはおろか、悲鳴をあげることも、目を逸らすこともできない。
 それは炎のような赤であり、眩いばかりの金であり、果てのない黒であり、それらの入り混じった不思議な輝きで――その瞳に射竦められた瞬間、私の心は死んでいた。

 それは金髪の小柄な少女で、
 人形のように表情がないことも、
 背中から伸びた七色の不思議な羽も、

 その瞳の前では――何の意味もなかった。

 少女は私を見ていない。
 その瞳に、私のような存在が映ることはない。
 ふらふらと、一度としてこちらに目を向けることなく、私の横を通り過ぎる。
 通り過ぎる瞬間、羽の先端が私の肘に軽く触れた。
 思わず後ろに飛び退いたが、少女はまるで関心を示すことなく廊下の先へと歩いていく。

 完全に、無視される。
 場に、取り残される。

「――か、は」
 その羽が廊下の奥へと消え去って、ようやく呼吸すら忘れていたことを思い出した。
 咽る。咽まくって肺が軋む。背中や首筋から汗が噴き出し、身体が溶けてしまいそう。膝が震え、全身が総毛立ち、とてもじゃないが立っていられない。
「――なに、今の?」
 人間じゃ、ない。
 妖精でも、ない。
 異形の翼とか、白すぎる肌とか、そういう些細なことじゃなく。

 存在の――ステージが違う。
 
 ひょっとして、今のが『レミリア様』だろうか。
 なんとなくイメージしていた吸血鬼像とは違っていたけれど、何というか……そういう、格みたいなものは感じられた。
 確かに、あれは特別だ。
 目が合った瞬間、心と身体が囚われる程の、

 絶対的で、圧倒的な――支配者の瞳。

「あ……私、挨拶もしてない……」
 今更ながらそんなズレた思いが湧き上がってきた。
 呼吸すら忘れていたのだから当たり前なんだけど、なんだか急に不安になってくる。
 曲がりなりにも私は従者。知らなかったとはいえ、主への礼を怠るなど、本来なら許されないだろう。今からでも追いかけて挨拶すべきだろうか。
「……いいや。明日で」
 お嬢様の機嫌が宜しくないと、咲夜さんも言っていた。
 今度改めて、非礼を詫びよう。
「寝よ寝よ」
 少しだけ、眠気が湧いてくる。
 今の出会いは非常に心臓に悪いものだったが、おかげで闇への恐怖も消えてくれた。再び喉の渇きを覚えたが、我慢できないというほどでもない。
 早く部屋に戻ろう。
 待っている人もいない部屋だけど、それでも安らぎは与えてくれるのだから。
 振り返って、
 背中を向けて、
 足を踏み出して、

「……って、いやいやいや」

 なんでわたし、あの娘をおいかけてるの?

 頭の中はこの上なく理性的。ヤバいって芯から理解してる。
 なのに――足が止まらない。
 熱に浮かされたようにふらふらと、あの娘の背中を追い掛けている。
 廊下の奥へ。
 闇の深い方へと。
 赤い絨毯、白磁の柱、煌びやかなシャンデリア――それら全てが闇に侵された廊下を、ひたひたと、ひたひたと。
 廊下の窓。決して外の光を中へと入れないように、外側から打ち付けられた窓。そこに映った自分の顔を見てぞっとする。
 表情がなく、虚ろで、まるで人形のような――
「なに、これ――?」
 そこに映る姿が自分のものとは思えない。頭の中はぐちゃぐちゃなのに、まるで意識と肉体が切り離されたかのように足が勝手に進んでいく。
 かちこち、かちこち。
 どきどき、どきどき。
 何処かで時計の音がする。心臓が火のついたように暴れている。
 闇は濃くなる一方なのに、私の目は冴えていく。
 柱の陰、壁の染み、絨毯についた折れ癖すらも手に取るように解る。耳鳴りがする。きんきんと、ぶんぶんと、蜂の羽音のように喧しく、けたたましく、なんだこれなんだこれなんだこれ――――
 赤い廊下。
 足首まで沈んでしまいそうなほど高級な絨毯。
 昼間通った時は、まるで夕焼けに染まる草原のようだと心弾んだが、今は違う。
 まるで血の海。足裏から伝わる感触は、散らばった臓物のそれ。
 そんな場所を、わたしは、ひとりで。
 ここが館の中だということを忘れそうなほど、遠くどこまでも続く道。

 そして突き当たりに――その扉があった。

 頭の中が痺れている。
 耳鳴りが酷くて思考が纏まらない。
 爪先から髪の先まで何一つ思い通りにならず、開いたままの瞼も、しわがれた喉も、全てが渇きを訴えている。駄目だ、この場所は駄目だ。理由なんてない、でも身体がそれを知っている。それは赤――原初の色、感情、炎、生命――視界を埋め尽くす鮮烈な赤のイメージ。それは禁忌であり、警告であるにも関わらず、私は案山子のように立ち尽くしたまま――

 ――ズン、と。

 重い響きに、思わず顔を上げる。
 灯り一つない廊下で、扉一枚隔てた向こうで、世界の壊れる音がする。
 逃げ出したかった。逃げ出そうと思った。
 逃げ出そうとした。指一本動かせなかった。

 ――やめろ、心臓が叫んでいる。

 ――やめろ、肺腑が喘いでいる。

 ――やめろ、細胞が逃亡を促している。

 だというのに左手が伸びていく。内臓が捻じ切られるように痛み、胃液が喉元まで込み上げているというのに、それでも左手がノブへと吸い寄せられていく。

 あの瞳――あの、紅い瞳に見つめられた瞬間、多分私は壊れていた。
 奇怪な文様がびっしりと刻まれた扉。それは現世と幽界を隔てる結界なのか、それともおそろしい怪物を封じ込めた牢獄なのか。開けなくても解る。此処に立った瞬間、嫌でも理解させられる。きっとここが分岐点。生と死の狭間。虚と実の境界。ここから先は法もなく理もなく、善も悪も道徳も倫理も何もかもみな消し飛んで不条理が吹き荒れる地獄のような世界。理性ではなく本能が、精神ではなく肉体が逃げろと叫び続けている。
 なのに――扉を押し開く手が止まらない。
 冷たいノブを握り締め、ゆっくりと扉を押し開く。
 ぎしりと軋みながら、少しずつ、少しずつ、扉が開いていく。
 僅かに開いた隙間から零れ出たものは、肺を焼く熱気と、瞳を焦がす赤光と、噎せ返るような血の匂い。呼吸は禁じられ、精神も凍結したまま、世界の果てを、時の終わりを、薄皮を剥ぐように少しずつ明らかにしていく。紅い、とても紅い何かが心と身体を浸食していく。
 扉が開く。そこには――

 聖者の死が描かれたステンドグラスと、黒塗りの祭壇。
 抉られたような疵痕を残す天蓋と、隙間から覗く半弦の月。
 机も椅子も、何もかもが薙ぎ倒された室内。捲れあがった床板。一面の赤。

 そして――磔にされた少女と、祭壇に跪く悪魔の姿。

 罅割れたステンドグラスの下、そこに描かれた聖者と同じく磔にされた少女は、口からとめどなく血を零し、赤い服を更に赤く染めて。
 禍々しい翼を広げ蹲った悪魔は、右腕を根元から獣にでも喰われたかのようにもぎとられ、足元の血溜りには半円を描く月が映っていて。
 少女の心臓には、紅い槍が深々と突き立ち、 
 悪魔の左手がその柄を、強く、とても強く握っていた。

 声が出ない。
 逃げ出すことも、目を逸らすことも。
 道化のように、呆けたように――ただその光景を眺めるだけ。

 そして私は気がついた。

 少女の背に、七色に輝く異形の翼があることを。
 祭壇に蹲った悪魔の肩が、僅かに震えていることを。

 そして私は気がついた。

 悪魔が――肩を震わせ、静かに泣いていることを。

 きゅんっと、音を立てて悪魔の右腕が再生する。周囲を漂う紅い霧が傷口へと集まり、意思を持つかのように少しずつ形を成していく。時を巻き戻すかのように骨が、肉が、皮が、びくびくと、じゅくじゅくと再生されていく。蛇のようにのたうつ筋肉、蔦のように絡み合う血管。そのあまりのおぞましさに喉元まで胃液が込み上げる。何という不合理。何という不条理。常識の枠を超えた――悪魔の御業。
 再生を終えた悪魔は、確かめるように拳を握る。
 開いて、握る。
 開いて握る。
 何度も何度も開いて握る。
 ばきり、と一際高い音を立てて強く握ると、悪魔はその感触に満足したかのようにおもむろに立ち上がり、磔になった少女へと再生したばかりの腕を伸ばした。
 悪魔の右手が少女を掴む。
 頭蓋を握り潰そうと、力を篭める。
 
「眠りなさい、フランドール。貴女は……夢の中でしか生きられないのだから」

 悪魔が少女を殺す。
 今度こそ、確実に、殺す。

 それを悟った瞬間――私は駆け出していた。
 何か考えがあったわけではない。ただその先を見たくなかっただけ。少女を守るためでなく、自身の正気を守るために私は駆け出していた。
 足を踏み出せたのは、崩れようとする身体を支える反射行動。それでもようやく動いた足を頼りに、私は必死で少女へと手を伸ばす。足音を飲み込む赤い絨毯。靴底から伝わる血肉の感触。全てが悪い夢のようで酷く現実感を欠いたまま、更なる一歩を踏み出そうとした瞬間――がつん、と首筋に衝撃を感じた。
 殴られたと気付くより早く、意識が闇に塗り潰されていく。
 倒れこむ私が見たものは、夜目にも眩い銀の髪とガラスのように白い貌。
 目が合う。
 懸命に声を振り絞る。

「さ、咲夜さ――?」

 彼女は答えない。
 蒼い瞳で、倒れゆく私を凝っと見ている。
 意志の感じられない無機質な瞳。その奥に、僅かな感情が浮かぶ。
 それはまるで哀れむような、詫びるような、

 だけど――そんなもの、欲しくなかった。

 視線を逸らす。
 倒れたまま、動かない身体を引きずって、その視線から一ミリでも逃れようと虫のように足掻く。
 限界がくる。今度こそ本当に意識が落ちる。深い、とても深い闇が視界を覆い尽くす。
 嫌だ、暗いところは嫌だ。痛いことも嫌だ。苦しいのも、苦いのも、気持ち悪いのも嫌だ。
 私を地下室へと引きずり込む幾つもの腕。心を、身体を、切り刻んで、ぐちゃぐちゃにして……あんなところに戻るのは、もう、嫌だ。

 だけど、もう限界。
 意識が闇に飲みこまれる寸前、最後の力を振り絞って顔を上げる。
 そこには――

 聖者の死が描かれたステンドグラスと、黒塗りの祭壇。
 抉られたような傷跡を残す天蓋と、その隙間から覗く半弦の月。
 机も、椅子も、何もかもが薙ぎ倒された室内。捲れあがった床板。一面の赤。

 そして――磔にされた少女と、泣いている悪魔の姿。

 悪魔の爪が少女のこめかみに添えられる。ぎちりと骨の軋む音がする。
 ぽん、と軽い音を立てて頭蓋が砕けるのと、私の意識が途絶えたのは完全に同時。
 だけど私は、それを見た。
 悪魔が少女を握り潰す、その瞬間、




 少女は――確かに笑っていた。
コメント



1.無評価Lynsey削除
This "free sharing" of inmtrfaoion seems too good to be true. Like communism.