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WEEK END 第二章

2011/03/16 23:44:24
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WEEK END 第二章

床間たろひ
 第二章『RUSTY NAIL』






 幸せでした。
 温かい布団と小さな囲炉裏。
 春先の、まだ冷たい朝にこうして微睡みながら、朝餉の用意をするおばあさんの背中を眺めるのが好きでした。
 優しい声で、そろそろ起きなさいって言ってくれるのが嬉しくて、いつまでも布団の中でぐずぐずしていました。

 幸せでした。
 轟々と炎を噴き上げるかまどの前で、滝のような汗を零しながら、それでも真剣な眼差しでふいごを吹くおじいさんの背中を眺めるのが好きでした。
 おじいさんの作るガラス細工はとても見事で、人間ばかりか妖怪まで買いに来ることがありました。
 おじいさんは相手が誰であろうとその気難しい表情を崩すことはなく、そのくせお客さんが満足そうな顔で帰ったのを見届けると、少しだけ嬉しそうにしていました。
 
 幸せでした。
 寺子屋に通う仲間たちといっしょに、野山を駆け回るのが好きでした。
 蝶々を追いかけたり、草笛を吹いたり、花輪を作ったり。
 男の子は乱暴だからちょっと苦手だったけど、時々ぶっきらぼうに投げてくれる野いちごやあけびは、とても甘くて美味しかったです。

 幸せでした。
 とても、とても、幸せでした。
 誰もが笑って、困った時は助け合って。
 時には喧嘩をするけど、すぐに仲直りして。

 そんな日々が、いつまでも続くのだと、

 疑うことすらありませんでした――


  §


 夢を見た。
 とても懐かしくて――そして悲しい夢。
 うっすら目を開けると、一粒だけ涙が零れ落ちる。
 それは夢の名残。過ぎ去りし日々への未練。
 夢から醒めた瞬間に、いや夢の中ですら、それはもう終わったことなのだと、そう認識してしまえることが――何よりも悲しかった。

 窓から差し込む柔らかな光。
 秋の、少しだけぼんやりとした日の光。光から逃れるように目を逸らし、長い溜息を吐く。心にこびりついたものを吐き出し、少しでも軽くしようとして。
 だけど、漏れるのは吐息だけ。
 こびりついたものは溜息の数だけ、その質量を増していく。
 重たい心が沈んでいく。
 沈んだ心が静んでいく。
 寝起きのぼんやりとした視界が、次第に明らかになっていき――
「――あ、れ?」
 一瞬、どこにいるのか解らなかった。
 柔らかい布団に、白いシーツ。そして天井の木目。どれも知っているのに、はじめて見るような、既視感の反対の……えーと、未視感っていうんだっけ。そんな感じ。
 起き上がろうとすると、首筋にぴしりと痛みが走る。
 思わず顔を顰めながら、改めて周囲を見渡した。
「私の部屋……だよね?」
 赤い絨毯にシックなベッド。小振りなサイドテーブルに品のあるデッキチェア。流石に今は使用していないとはいえ、立派な暖炉まで付いている。昨日咲夜さんに案内してもらった客間そのままだ。
「……って、咲夜さん?」
 ふいに記憶が蘇る。
 私を哀れむように見下ろす蒼い瞳。
 磔にされた少女と、祭壇に蹲る悪魔の背中。
 ぶるりと、今更のように身体を震わせる。
 肺を焼く熱気、漏れ出す赤光、そして――噎せ返るような血の臭い。
 あれは本当に現実だったのだろうか。
 思い返しても、まるで実感が湧かない。でも、夢というには余りにも克明すぎて。

 あの恐怖を――覚えている。

 あの痛みを――覚えている。

 私は本当に――生きている?

「そういえば私、あそこで気絶して……」
 どうやって部屋まで戻ってきたのだろう。
 覚えていない。何も覚えていない。
 何も覚えていないが、自分の足で戻ったとはどうしても思えない。
「咲夜さん……なのかな?」
 気絶した私を、咲夜さんが部屋まで運んでくれたのだろうか。
 そうとしか思えない。けど……それも何か違うような。
 思考が纏まらない。記憶すらも曖昧だ。
 それでも何とか思い出そうと、目を閉じて唸っていると、

「私がどうかしたの?」

 その聞き慣れた声に、どくんと心臓が跳ねる。
 慌てて振り返ると、開いた扉の前には咲夜さんが立っていた。
 片手で危なげなくトレイを支え、きょとんとした顔でこちらを見ている。
「あ、いえ、その……別に……」
「そう」
 咲夜さんは特に気にした様子もなく、サイドテーブルへとトレイを置く。
 トレイにはスープの盛られた皿と銀のスプーン。波ひとつ立てぬままそれらを並べると、咲夜さんは小さく微笑んだ。
 それはいつもどおりの――涼しげな笑み。
「そろそろ起きる頃だと思ってね? あんまり食欲ないでしょうけど、スープくらいは飲んでおきなさいな」
 湯気を放つ温かなスープ。
 鶏がらベースと思われるそれは、とても美味しそうな匂いを漂わせている。
「あ、ありがとうございます……」
 とても美味しそうな、金色のスープ。
 だけど今の私には、それが酷く空虚な――作り物にしか見えなかった。
 私が何も言わずスープを見つめていると、咲夜さんはもう一度小さく微笑んでから「お大事に」と一言だけ告げ、そのまま背を向ける。
 それは昨日まで密かに憧れていた、理知的で、優しくて、完璧な――背中。

「ま、待ってください!」

 咄嗟に呼び止めていた。
 呼び止めた瞬間、さっと顔が青ざめる。何を聞けばいいのか、そもそも聞いて良いことなのか、ひょっとしたら私は特大の地雷を踏み付けようとしてるんじゃないか――みたいなことがぐるぐると頭の中を駆け巡り、まるで溺れているような心地になる。
 いつもの私なら有耶無耶にしていただろう。
 下手に波風を立てることなく、適当に笑って、適当に周りに合わせて……それが私のスタイルだったはずだ。
 今ならまだ誤魔化せる。
 全部忘れて、卑屈に笑って、そうすればきっと、今までどおりに――
「その……昨日のことなんですが……」
 なのに、私は踏み込んでいた。
 後悔すると解っていながら、それでもなお踏み込んだ。
 怖いことはちゃんと確かめないと。
 怖いままでは――ずっと眠れないから。
 
 咲夜さんは足を止める。
 背を向けたまま、そのまま振り向きもせず、

「――忘れなさい」

 きっぱりと。
 冷たく、刃で断つように。
 
 いつもなら、そこで終わっていただろう。
 言われたとおり、言われるままに、自分を殺して、心を殺して。
 だけど私は壊れている。あの時――あの紅い瞳を見た時から、きっと私は壊れている。
「……教えてください。昨日のアレは何ですか?」
 背中を見つめ、斬り込むように言葉を放つ。
「昨日のアレが……お嬢様なんですね?」
 失礼な物言いだと自覚している。
 でも私には、そうとしか表現できなかった。
 アレは、いやアレらは――私の理解を超えている。

「そう。あれがレミリア様とフランドール様……私たちが仕えるべき二人の主よ」
 
 咲夜さんは振り返らない。
 背を向けたまま、髪一つ揺らすことなく。
「主は……レミリア様だけじゃなかったんですか?」
「フランドール様は妹君よ。どちらも共に――私たちが護るべきものだわ」
 背を向けた咲夜さんの言葉に、私は言葉を失う。
 レミリア様に妹がいるなんて知らなかった。
 噂に上がる吸血鬼はレミリア様だけで、フランドールなんて名前は聞いたこともなかった。
 だけど、それじゃ――
「姉妹で……殺し合いをしてたんですか?」
 踏み込みすぎだ。弁えろと、心のどこかで叫んでいる。
 でも今の私は止まらない。止められる――はずもない。
「槍で磔にして頭を握り潰して……おかしいですよっ! 二人は姉妹なんでしょう? そんなの絶対おかしいです!」
 だから――全部ぶちまけた。後のことなんか考えもしなかった。想いが空回りしてまともに発音できたかすら怪しいが、それでも言わずにはいられなかった。
「だって……姉妹じゃないですか……」
 気がつけば泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。
 あの少女はあの程度では死なない。彼女たちは吸血鬼――死という概念に囚われるような、そんな脆弱な存在ではない。
 解っていたけど、それでも、いやそれだからこそ、そんな在り方を許せなかった。
 
 咲夜さんは動かない。
 氷像のように、生命も、感情も感じさせないまま、

「貴女の常識で二人を測らないで……それは主に対する侮辱だわ」

 静かな怒りを込めて、そう告げた。
 咲夜さんは今度こそ、扉に向かって足を踏み出す。
 私にはもう、それを止める手立てはない。今更のように涙を拭うが、溢れてくる涙はしばらく止まりそうになかった。
 きっと――これで終わり。
 私はこの館における居場所をなくし、また新たな場所を探さなくてはならないだろう。
 それが解っていて止まらなかった私は、きっととんでもない馬鹿だと思う。
 だけどあそこで止まっていたら、私は私を許せなかった。
 だから正しくはないけど、間違いでもなかった――そう、思いたい。
 咲夜さんがノブに手を伸ばす。扉の前で足を止める。
 その瞬間、ふと思い出したように。
「ああ、そうそう」
 立ち止まって、
 背を向けたまま、
 何でもないような声で、

「お嬢様がお呼びよ。落ち着いたら私の部屋へいらっしゃい。粗相のないよう、身だしなみには気をつけてね?」

 そう告げると――今度こそ振り返ることなく部屋から出ていった。

 その姿が消え去った後も、
 私はぽかんと口を開けたまま、

「――へ?」

 そんな、間抜けな声を上げることしかできなかった。 


  §


「こ、これで宜しいでしょうか?」
「あら、タイが曲がっているわね? ほら上を向いて」
「あ、や、自分でやりますからっ!」
「いいから。ほら、じっとして」
 胸元に寄り掛かるようにして、咲夜さんが私のネクタイを直している。つむじが目の前で、銀の髪が鼻先を掠めて、甘い香りが鼻腔を擽って。頭越しに覗く白いうなじ。そのラインの優美さに、柔らかそうな後れ毛に私の理性が限界を超え、いっそこのまま抱きしめようかと考えているうちに――
「はい、終わり」
 無情にも、咲夜さんがすっと身を離した。
「あ、ありがとうございます……」
 名残惜しさに、つい語尾も擦れてしまう。
「さて、そろそろ行きましょうか? お嬢様も待ちくたびれているだろうし」
「は、はい」
 咲夜さんの背中を追って、私も足を踏み出す。
 赤い廊下を。
 昨日の、あの扉へと通じる道を。
「あ、あの……咲夜さん?」
「なに?」
「その……私、大丈夫でしょうか?」
「さっきの件なら気にしなくていいわ。どちらにせよ、決めるのはお嬢様よ」
「はぁ……」
 気が重い。あれだけ盛大に主への不信を露にしといて、今更顔合わせとは。
 今の私にお嬢様と会う資格があるのだろうか。そりゃ咲夜さんにしか言ってないし、レミリア様はそれを知らないわけだし、黙っていれば問題ないんだろうけど。
 けれど……それでいいのだろうか。
 それは、主に対する裏切りなんじゃないだろうか。
「あ、あの、咲夜さ――」
「着いたわ、ここよ」
 気がつけば扉の前。
 それは昨日とは違う部屋。
 まだ心の準備ができていない。一日、いや一時間でもいいから時間が欲しい。だというのにおろおろする私を尻目に、あっさりと咲夜さんは扉をノックした。
 こんこん、と。
 ノックの音が無情に響く。
「お嬢様、例の者をお連れ致しました」
 条件反射のように、ぴんと背筋を伸ばす。
 呼吸すら止め、直立したまま待つこと数十秒……扉の奥からは何の返事もない。
「……お嬢様?」
 咲夜さんが再度ノックするが、やっぱり返事はなかった。
 留守だろうか。だとしたら正直ありがたい。
 できればもう少し、その、覚悟というか、心を落ち着ける時間が欲しかった。
「あ、あの、咲夜さん? よければその、また日を改めて……」
「…………」
 私の提案を無視して、咲夜さんはもう一度ノックをする。
 こんこん。返事がない。
 もう一度。
 こんこん。返事がない。
 もう一回。
 こんこん。
 ………………。
 …………。

 ぴしり、と――何かが切れる音がした。

「え、あの、咲夜さん!?」
 こめかみに青筋を浮かべた咲夜さんが、扉を突き飛ばすように押し開ける。
 風圧でへし折れるんじゃないかって勢いで開かれた扉はおもいっきり壁に激突し、振動でびりびりと部屋中が震えた。赤い絨毯。白い壁紙。豪奢なシャンデリア。これでもかと貴族趣味に彩られた広い室内。奥にはおとぎ話の中でしか見たことないような豪華な天蓋付きベッドがででんっと鎮座し、その薄紅色のカーテンの隙間から――だらりと右手を垂らし、重力に喧嘩を売ってんじゃないかというふうに身体をはみ出させ、大きく口を開けたまま、でろーんとよだれを垂らして幸せそうに眠っている――女の子の姿があった。
「お嬢様っ!」
「ふぁ、ふぁいっ!」
 雷鳴のような咲夜さんの声に、女の子が飛び起きる――かと思えばその不安定な体勢が災いしたのか、ベッドから転げ落ちて後頭部をしこたま床に打ちつけていた。シーツに包まれたまんま両手で頭を抱えて唸っている姿は、どこからどうみてもお饅頭である。
「うー、何よ咲夜。いきなり大声出して……」
「面通しするから呼んで来いって言ったのお嬢様じゃないですかっ!」
「……あ」
 女の子はぺたんと座りこんだまんま、目と口を大きく開ける。
 癖のある蒼い髪。吸い込まれそうな赤い瞳。口元から覗く長い牙。
 まだ幼い――少し気の強そうな女の子。
「べ、別に忘れてたわけじゃないわ! ちょっと待ちくたびれて寝ちゃっただけよっ!」
「最初が肝心……『舐められないようカリスマ全開で行くからよろしく』って、言ってましたよね?」
「……う」
「おまけに『咲夜がしゃんとしないから私まで舐められるのよ。タメ口禁止。軽口禁止。三歩下がって主の影踏まず、常に敬い礼節を尽くせ』とも言ってましたよね?」
「だ、だって……」
「だってじゃありません!」
 咲夜さんの一喝に、女の子は再び頭を抱えて蹲る。
 その姿は何というか、母親に怒られる子供そのもので、私は呆然と見守るしかなかった。
 ちょっとだけ、涙目になっている女の子。
 でもその横顔は、昨日の悪魔のもので――
 その背には、禍々しい黒の羽が伸びていて――
「はいはい。ったくもーわかったわよ。私がわるぅございました」
 女の子はぽりぽりと頭を掻きながら立ち上がった。
 その弾みでしゃらりと絹音を鳴らし、纏っていたシーツが地に落ちる。

 女の子は――下に何も着ていなかった。

「お嬢様! お召し物はどうしたんですかっ!?」
「んー? だって暑いじゃん。ったく……もう秋だってのに、なんでこんな暑いのよ?」
「すぐに着替えを――」
「いいの。自分の右手に裸を見られたからって、恥ずかしいとは思わないでしょ?」 
「ですが……」
「ね。そういうこと」
 女の子は裸のまま、誇らしげに胸を張る。
 肋骨の浮いた薄い胸。細く引き締まった手足。背中から伸びる黒い羽。
 なんというか、とても綺麗な動物みたいな、美しい姿。
 何も恐れず、何にも縛られない自由な生き様。その在り方に――少しだけ憧れる。
「で、そっちの固まってるのが今度の新人?」
 その瞳がこちらを向いた。
 目が合う。紅い瞳に射抜かれる。
 咄嗟のことに口ごもっていると、咲夜さんが助け舟を出してくれた。
「あ、はい。昨日付けで館に勤めることになった――」
「そこまで。後は直接、私が『視』るわ」
 咲夜さんの言葉を制し、女の子は再びこちらを向いた。「ふぅん」と悪戯っぽく微笑み、足元から舐め上げるような視線を向ける。見上げているのに見下ろされているような不思議な感覚。その視線が固定され、私の瞳を覗き込む。
「あ、あの……?」
「黙って」
 にやにやと笑う、その面影が昨日の悪魔と重なる。
 抗えない、動けない、目を逸らせない。
 瞳の奥の、そのまた奥を探るような紅い視線。
 
 レミリア・スカーレット――その名に恥じない緋の視線。

「成る程、ね」
 彼女は私の瞳を見据えたまま、にたりと笑った。
 そのまま、視線を私に向けたまま、私の周りを回りだす。
 くるくると、綿毛のように軽やかに。
 くつくつと、凶った笑みを浮かべたまま。
「弱いね。笑っちゃうくらい弱い。よくもまぁそんな様で今まで生きてこられたものね。貴女には恥という概念がないのかしら? 身の程知らずの恥知らず――ふふっ、本当にそうならある意味『最強』なんだけど、貴女にはその覚悟すらないでしょ? 己の弱さを許容する代わりに強くなることすら拒絶する。そんな生き方って……楽しい?」
 その、あまりの言葉に声を失う。
 レミリア様はにやにやと、にたにたと笑ったまま。
 足を止め、爪先立ちになり、私の瞳を覗き込みながら。
「弱さは罪じゃない。弱さは罰よ。今の自分に拘泥することで未来の自分を殺している。強さ、輝き、誇り――それらにどれほど焦がれようと、弱さ故に今の自分を捨て切れない。これはもう呪いね。貴女、前世で相当悪いことしたんじゃない? それとも……ひょっとして苛められるのが好きなのかしら? 私には理解できないけど、そういう性癖を持った者もいるそうだしね? もしそうなら……貴女に対する認識を改めなければいけないけれど」
 くすくすと、くつくつと。
 嘲るように、仇なすように。
 私は――声も出せない。
 そこにあるのは明確な悪意。どこまでも貶めようとする侮蔑の念。
 どうしてそこまで言われなきゃいけない? なんでそこまで知った風な口を利かれなきゃいけない? そんな暴力的で衝動的な怒りがふつふつと込み上げてくると同時に――頭の芯は逆に冷静になっていった。

 もしかして――私を試している? 

 意図は読めないが、レミリア様は私を怒らせようとしている。口の端を嘲るように歪めながらも瞳は全然笑っていない。僅かな変化も見逃すまいと、その瞳を細めている。
 息を飲む。心を静める。言葉を――選ぶ。
「……おっしゃるとおり、私は弱いです。恥知らずと罵られようと、返す言葉もございません。ですが……私にも意地があります。今は確かに弱いかもしれませんが……いつか強くなりたいと、そう思っております」
 だから、
 できるだけ力を込めて、

 紅い瞳を――見返した。

「ふ、ん」
 レミリア様は笑みを消し、とん、と軽やかに一歩下がった。
 下がってそのまま、私の全身をしげしげと眺める。その瞳から侮蔑の色は消え、それでも値踏みするような、踏みつけるような、王者の視線そのもので。
「強く、なりたいと?」
「……はい」
「本気?」
「ええ」
 レミリア様は腕を組み、改めて私の瞳を覗き込んだ。
 訝しげに、眉を顰めて。
 紅玉の瞳に、私の姿が映っている。

 人形のように、表情の消えた――私の顔が。

「ふ、ふふ……はは、あははははははっ!」
 突然レミリア様が笑い出した。
 苦しそうに背中を丸め、もう堪えきれないという風に。
 笑い声は段々と大きくなり、ついには腹を抱え、部屋を揺るがすように。
「え、あの……?」
 気でも狂ったかのようなレミリア様の様相に、思わず手を伸ばす。
 だけどその手を避けるようにすっと身を引くと、もう一度私の顔を覗きこんだ。
「ははっ、なるほどねぇ。あんた、もう逢ってたんだ? そりゃ私の『目』も効かないわけよね。道理で昨日からどきどきすると思った……そっか、あんたが今度の『敵』ってわけだ!」
「――え?」
「今度はそういう趣向ってわけか。ったく、運命というものは本当に意地が悪い。最低で最悪。下劣で悪辣。意地悪で捻くれて自分勝手で――だがそれ故に面白い」
 そういって、レミリア様は再び大声で笑い始めた。
 どうすればいいか解らない。
 救いを求めるように振り返るが、咲夜さんは軽く肩を竦めるだけ。
 何も解らず、何もできないまま立ち尽くしていると、
「貴女――名前は?」
 ようやく落ち着いたのか、レミリア様は顔を上げ、改めて私に問い掛けた。
 それは無邪気に、本当に楽しそうに笑う――悪魔の貌。
「坂井原……美里と申します」
「ミサト、ね……ふん、本当に皮肉だこと」
 意味が解らず戸惑っていると、レミリア様は急に顔を引き締めた。
 足を開き、腰に手を当て、ぴんと背中を伸ばす。
「レミリア・スカーレットが問う! 汝、我に忠誠を誓うか?」
「へ? あ、え?」
「汝、我の命に従うか?」
「は、はい?」
「汝の血、汝の肉、汝の魂。その全てを我に捧げるかっ!」
「は、はいっ!」
 勢いに負けて思わず返事を返す。
 その意味に気付いて青ざめるよりも早く、レミリア様は言葉を紡いだ。
「よかろう。では命を下す。汝は今この時より、我が妹フランドール・スカーレットにのみ仕えよっ! それ以外の者に従う必要はなく、例え我の言葉であろうとも耳を貸す必要はない。フランドールのためだけに生き、フランドールのためだけに死ね」
「――へ?」
「詳しいことは咲夜に聞け。私は寝る」
「え、あの、ちょっと……」
「喧しい! さっさと行けっ!」
「は、はいっ!」
 叩き出されるように部屋から飛び出る。
 何が何だか解らないまま振り返ると、咲夜さんが涼しい顔で扉を閉めるところだった。
「えと……咲夜さん?」
「お嬢様の気まぐれにも困ったものね?」
「いや、その、何がなんだか……」
「とはいえ主の言葉は絶対よ? 貴女は私の言葉にも耳を貸す必要はない。今この時から、貴女は妹様だけの専属メイドってわけ。昇進おめでとう」
「…………」
 状況が掴めない。
 フランドール様が昨日の、あの少女だというのは解る。
 勢いに負けて思わず頷いてしまったが――あの少女に仕えろと?
「この時間じゃまだ眠っていらっしゃるだろうし……そうね。夜まで休むといいわ。今夜は徹夜でしょうし、ね」
「え、あの、えっと」
 さっきまで寝てたんですが。
 全然すっぱり眠くないのですが。
 それ以前に状況がさっぱり掴めなくて、眠るどころじゃないんですがっ!?
「じゃ、これ」
「……なんです、これ?」
「地下室の鍵よ。入り口は西館の一番奥にある階段を降りたところ。ああ、階段は滑りやすいから気をつけてね?」
 咲夜さんから渡された金の鍵を握り締め、恨みがましく睨んでみた。
 ウインクで返された。
 駄目だ、役者が違う……。
「勤務時間は二十二時から翌朝六時まで。それ以外は貴女の自由よ。清掃などの雑務は他の者に任せればいいわ。ああそうそう、地下に行く前に厨房で妹様の食事を受け取っていって。妹様は小食だからそれで足りると思うけど、足りないようならいつでも言付ければいいわ。最優先で用意させるから。勿論、貴女の分もね?」
「いや、あの、そういうことじゃなく……」
「そうそう。貴女には妹様の専属メイドとなったことで、他の者に対する絶対的命令権を与えられることになるわ。つまり私と同格ってわけ。何かあれば他の者に命じて、好きなだけこき使っていいわよ? そうだ。美鈴に一発芸でもやらせてみたら? 妹様も喜ぶと思うし」
「いえ、あの、その……」
「決まった休日はないけど、そこは妹様と交渉してね? 妹様が許可を出せばいつだって好きなだけ休んでくれて構わないわ。ああ、それとお給料の件だけど」
「いや、その、咲夜さんっ!?」
 思わず叫ぶと、咲夜さんは笑みを消し――真剣な眼差しで私を見つめた。
 真っ直ぐに、衒いもなく。
「貴女の仕事は妹様を慰めること。話し相手になったり、一緒にトランプしたり……多くは望まないわ。だから妹様と――遊んであげて?」
 祈るような、縋るような、蒼い瞳。
 その瞳を前に、胸の内で荒れ狂っていた千の言葉が封殺される。
 そんなのズルい。そんなの反則だ。
 そんな瞳を向けられては――抗えない。
「妹様って……昨日のあの子ですよね?」
 それでも、容易には頷けない。
 紅い瞳。私の存在を歯牙にも掛けず、闇の中に消え去った虹の翼。
 そんなものと、どうやって仲良くしろというのか。
 そんなの――私には重過ぎる。
「……昨日のアレは特別よ。『週末』だったし、ね」

 ――週末? 昨日は確か、水曜だったはず。

「何にせよ、貴女が思っているような危険はないわ。昨日のは……そう、寝惚けていたようなものよ。ちゃんと挨拶して、妹様が貴女を『認識』できれば問題ないわ」

 ――寝惚けていた? 認識?

 なんだそれ。
 寝惚けて姉と殺しあったというのか?
 馬鹿にするな、あれはそんなものじゃない。そんな可愛いらしいものじゃ決してない。
 あれは世界の終わりだ。本物の地獄だ。どうしようもない絶望で手の打ちようがない悪夢だ。騙されるな、流されるな。これは罠で私は贄だ。吸血鬼――そう、それを忘れてはならない。きっと私はただの餌。甘い言葉で釣るまでもなく、魅了の術を掛けるまでもなく、いつでも簡単に手に入る非常食に過ぎない。だから騙されるな、騙されるな、騙されるなっ!
「私は……」
「ミサト」
 私の声が遮られる。
 蒼の瞳が私を見つめる。

「お嬢様には私がいる。だけど妹様には誰もいないの」

 だから、お願い――そう言って、咲夜さんは頭を下げた。
 この私に、
 こんな私に――

「……顔をあげてください」

 本当に馬鹿。
 どうしようもない馬鹿。頭が悪すぎて頭が痛い。
 きっと私は早死にする。明日には死んでいる。絶対だ、賭けてもいい。
「解りました。妹様のことはお任せください」
「ミサト……」
 どこまでもお人よし。
 何度痛い目を見ても――懲りてない。
「ありがと、ね」
 だけど、こんな風に微笑んでもらえるのなら、
 こんな私が、少しでも誰かの役に立つのなら、

 きっとこの命も――無駄じゃない。


  §


「ここで……いいんだよね?」
 足元から滲み出る黒い闇。ひんやりとした空気の漏れ出すそこは、まるで怪物の口の中。地下室に降りる階段を前に――私は為す術もなく立ち竦んでいた。
 思わず唾を飲む。
 黒々としたその穴は、子供の頃、あの森で感じた闇以上に私を拒んでいる。
 深く、深く、先を見通すこともできない濃密な闇。ただそこに立っているだけでじっとりと染み込んでくるような、足元からじわじわと蝕まれていくような感覚に全身の毛が逆立つ。
 やめようかなと――今更ながらに思う。
 今ならまだ間に合う。お嬢様の命に逆らって今後やっていけるかどうかは疑問だが、それでもまさか殺されるようなことはないだろう。咲夜さんに泣いて頼めば、きっと他の人に代わってくれるに違いない。そうしよう。うん、今すぐそうしよう。そうと決まればさっさと戻って、咲夜さんを探して――
「って、私ってばまた……」
 いつの間にか、足を踏み出していた。
 闇の中へ。石造りの階段へ。
 溜息を吐く。今度という今度こそ自分の馬鹿さ加減に愛想を尽かす。
「私ってば、本当に前世で何か悪いことしてたんじゃないでしょうねぇ?」
 これは罰だって指摘も的を射ていた。きっと生まれ変わる前は、我侭ばっかり言って人に迷惑掛けまくっていたに違いない。きっとそう、絶対そう。くそぅ、今度生まれ変わったらもっと真面目になってもっとたくさん勉強して、医者とか学校の先生とか世のため人のためになる職業に就いてやる。そして我侭なんか一切言わず、不平も言わず、人々のために身を粉にして働くのだ。そうとも、何度も同じ過ちばっか繰り返してたまるもんか!
 決意も新たに階段を降りる。
 燭台を手に、一段一段、確かめるように。
 石の壁に手を付きながら、ゆっくりと、慎重に。
 石壁の冷たい感触がぎりぎりで恐怖を抑え込む。踊り場ごとに呼吸を整え、何度も何度も階段を曲がって、一体自分が下っているのか上っているのか、それすら解らなくなった頃に――ようやく長い廊下へと出た。
 赤い絨毯が敷かれ、左右の壁にずらりと燭台が並ぶ様は、まるで太古の神殿のよう。
 恐れと畏れのない交ぜになった複雑な感情が、じわりと背筋をなぞっていく。
 そして突き当たりに――その扉はあった。
 扉に刻まれた精緻な文様。その幾何学的な形が、どうしてもあの夜を連想させる。
「ていうか……同じ模様、だよね?」
 ああ、もう。考えたくないのに怖い想像が止まらない。
 この先にあの子がいる。
 あの、とてもこわい目をした女の子が。
 目の前には金色のノブ。手を伸ばそうとして、伸ばせなくて。怯えて、でも逃げ出すこともできなくて。汗が止まらない。空気はこんなに冷えているのに背中の汗が止まらない。動かない。手も足も凍えたように動かない。だから目を閉じて、息も止めて、覚悟を――決めて。
「侭よっ……!」
 意を決して手を伸ばす。右手でノブを包む。回す。滑る。汗で滑って回せない。汗で、焦って、両手で掴んで、それでも回らなくて、汗が止まらなくて、滑って、しっかり握れなくて、扉を開けられなくて――
 
 鍵が掛かっているのを思い出したのは、それからしばらく経ってからのことだった。
 
 ちょっとだけ赤面し、ポケットから鍵を取り出す。
 右手が自分のものじゃないみたい。上手く鍵穴に差し込むことができない。
 それでも、なんとか鍵を差し込む。鍵を回し、改めてノブに手を掛け、深呼吸し、もう一度深呼吸して、それでも足りなくてもう三回深呼吸して、
 
 扉を――開く。
 
 ぎゅっと目を閉じた。
 もしも扉を開けたその先にまたあんな光景が広がっていたら、今度こそ私の心臓は破裂するだろう。
 怖くて怖くて堪らなくて、目を閉じたまま足を踏み入れる。
「し、失礼します!」
 怖さを誤魔化そうと大声を出し、目を閉じたまま頭を下げた。
 頭を下げて数十秒。まるで判決を待つ死刑囚の気分。
 そのまま、時間が止まったように。
 いつまでも、いつまでも、固まったまま――
 
 ………………って、あれ?
 
 返事がない。
 思わず顔を上げる。
 石造りの冷たい壁。
 蝋燭の炎が頼りなく揺れる暗い室内。
 まるで……なんて表現が馬鹿らしくなるくらい、牢獄としか呼べないような寒々しい部屋。
 その中央には不釣合いなほど豪華なベッドがあって、
 それはレミリア様の部屋にあったものと寸分違わず同じで、
 
 その中心に、
 足を投げ出し、表情を消し、じっとこちらを見つめている、

 赤い少女が――そこにいた。
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