『第六章 ROSE OF PAIN』
おじいさんが亡くなってから、おばあさんは臥せることが多くなった。
もともとあまり丈夫ではなかったのだろう。
おばあさんはみるみるうちに弱っていき、やがて布団から出られなくなってしまった。
床に伏せ、申し訳なさそうに頭を下げるおばあさんを見るのはとても痛ましかったけれど、それでも私は一生懸命おばあさんの世話をした。
学校も辞めて、ずっとおばあさんの側にいようと決めていた。先生も心配して時々様子を見にきてくれたし、近所の人も親切にしてくれた。決して裕福ではなかったけれど、しばらく二人で生きていくだけの貯えはあったし、いざとなれば私が働きに出れば良いと思っていた。食事を作って、掃除や洗濯をして、床ずれしないように時々おばあさんの身体を起こして――それはとても重労働だったけれど、私は少しも苦に感じなかった。
だって、大切な家族だから。
大好きなおばあさんのためだから。
床から出られないおばあさんに、里で起こった様々なことを話して聞かせた。
季節の花を寝床から見える位置に飾って、おばあさんがひとりで厠に行くこともできなくなってからは下の世話もして。
多分――私は嬉しかったんだと思う。
おばあさんのために、何かできることがとても嬉しかった。
近所の人に「美里ちゃんは偉いねぇ」と言ってもらえるのがとても誇らしかった。
それはとんでもなく欺瞞に満ちた、利己的なものだったと思うけど、その頃の私はそんなことに気付きもせず、ただ、ただ、おばあさんのために自分の全てを捧げていた。
ある日、おばあさんがぼーっと庭を眺めていた。
声を掛けても返事はない。不審に思っておばあさんの前に立つと、おばあさんは小首を傾げながら「……どちらさまでしたっけ?」と言った。
正直なところ、その日がくることは予測していた。
最近、とみにぼーっとすることが多くなったし、食事とか色々なことを忘れっぽくなっているとは思っていた。
でも改めて現実を突きつけられると、流石にショックを隠し切れなかった。咄嗟に家を飛び出し、おじいさんの工房に篭ってしばらく泣いた。
これからのこととか、おばあさんがどうなってしまうのかとか、色々考えることが多すぎてどうすればいいか解らなくて、不安で不安で堪らなくって。
それでも、家族だから。
たったひとりの、大切な家族だから。
その後もおばあさんの世話を続けた。
おばあさんはどんどん色んなものを忘れていって、夜になるとおじいさんを探して家を抜け出したりもした。
食事を零したりするのはいつものことだけど、癇癪を起こしたおばあさんに何度か食器をぶつけられたりもした。
相変わらず私のことは解らないようだった。
それでも――
たったひとりの――
「だから疎ましかったの?」
とても楽しそうに笑いながら、『彼女』はそう問い掛ける。
私の心を、記憶を、美味しそうに齧りながら、白い歯を覗かせる。
「ち、ちが――」
否定の言葉も形にならない。
虹の瞳に射抜かれて、心も身体も侭ならない。
「だから見捨てたの?」
「ちが――」
「それとも……男たちに犯されるのがそんなに気持ちよかったの?」
「――!? なんで……それ、を……」
「知ってるよ? わかるよ? だって大切な友達のことだもん。なーんだって知ってるよ?」
にたにたと、にやにやと笑いながら、
虹の瞳が、私の傷を覗き込む。
「フラン……あなた……」
「パチュリーから聞いたんでしょ? そうよ。わたしはなーんでも知ってるの。おじいさんを助けようと羽根を見せたのはまずかったよねー。里には妖精を恨んでる者がたーくさんいるってのに。そいつらに捕まって三日も監禁されたんだっけ? あはは、地下室かー。わたしとおんなじだねっ」
「な、あ――」
「いいなぁ。わたしもやってみたいなー。だーってアノ時のミサトってばすんごく気持ちよさそーなんだもん。目はとろんとしてるし、よだれまでたらしちゃってさー。もっとも……わたしはあんなひんそーな連中の相手すんのはごめんだけど?」
あはは、と朗らかにフランが笑う。
嘲るように、見下すように。
その顔はどこかレミリア様に似ていて、だけど決定的に違っていて。
これは――誰だ?
「なにいってるのよ? わたしはわたし。他の誰でもないわ」
当たり前のように心を読んで、フランが花のような笑みを浮かべる。
それはあまりにも艶やかで、艶やかすぎて、それが故に禍々しい。
食虫植物のように、甘い香りを放ちながら、地獄へと誘っているような――
「男どもに犯されながら、こう考えていたんでしょ? 『このまま家に帰れなければ、おばあさんの面倒を見なくて済む』って。だよねー、しかたないよねー、年寄りの世話なんて面倒だもんねー。あはは、ミサトってばあったまいいー。ある意味、完全犯罪じゃないの? だってミサトがいなければ、おばあさんが生きていけるはずないものね?」
「ちが……わたし、は……」
「でも、ミサトの気持ちもわかるよー? ずっといっしょーけんめー世話してきたってのに、おばあさんったらミサトのこともわかんなくなって、あげくに『美里を返せ!』だっけ? そりゃ嫌になってとうぜんだよねー」
「ちが……おばあ、さん、は……」
「ずーっと一緒に暮らしてたってのに、自分の子供と孫を殺した妖精のことをずっと恨んでたんだねー。『美里を返せ!』かー。あはは、へんなのー。ミサトはミサトなのにね?」
ほんと、人間ってわけわかんないわーと言って、フランは笑う。
愉しそうに、嬉しそうに――
「ねぇ? おばあさんの死体を見つけたとき、どんなきもちだった?」
きゃはは、と口を大きく開けて笑いながら。
傷口を抉じ開けるように、舌で舐め上げるように。
「おねが……も、やめ……」
気がつけば泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。
フランが言ったことは全部事実だ。
私は妖精の悪戯によって一生消えない傷を負わされた男たちに――片目を失った者、左足が動かなくなった者、そして子供を亡くした者たち――地下室へと閉じ込められ、三日三晩犯された。
男たちの血走った目が怖ろしくて、碌に抵抗もできなかった。衣服を剥ぎ取られ、剥き出しになった羽根を千切られそうになって、はじめて男たちの妖精に対する憎しみを思い知らされた。
心のどこかで――仕方ないと思った。
私も妖精なのだから、罰を受けるのは当然だと。
おばあさんの看護に疲れていた。私のことを認識できなくなっただけじゃなく、おばあさんの心は遠い過去へと飛んだままになってしまって、自分の孫や息子夫婦を探して野山を徘徊するようになった。その度に探して連れ戻そうとして……だけどおばあさんは私に触れられることを拒んで、叩かれて、泣かれて、泥を投げつけられて。
もう、どうすればいいかわからなかった。
いっそ、死んでくれればとすら思っていた。
だから――これは罰だ。
大切な家族を、そんな風に思ってしまう私は、決して許されてはいけないと思った。
男たちを受け入れながら、暗い地下室の天井を見上げる。
このまま私が帰らなければ、おばあさんはすぐに死んでしまうだろう。
食事も排泄も侭ならないおばあさん。ひょっとしたらまた山に入って、もういない誰かを探しているのかもしれない。
そうなれば、誰も迎えに行く者がいなければ、おばあさんがどうなるかなんて考えるまでもなかった。
気がつけば笑っていた。
犯されながら笑っていた。
男たちは私の気が触れたかと気味悪そうにしていたが、私は込み上げてくる笑みを抑えきれなかった。
だって私は悪くない。
悪いことなんて何もしていない。
私は里の人間に悪戯なんかしていないし、おばあさんの息子や孫を殺したわけでもない。
悪いのは男たちであって、森の妖精であって、だから――
「でも、死にたくなったんでしょ?」
私の頬を撫でながら、『彼女』はそう言う。
「いえに帰って、死んでいるおばあさんをみつけて……死にたくなったんでしょう?」
にやにやと哂いながら、ぺろりと私の頬を、涙を舐め上げる。
全部『彼女』の言うとおりだ。
思い描いたとおり、苦しそうに畳に爪を立てて死んでいるおばあさんを見つけ――急に何もかもどうでもよくなってしまった。
私に生きる資格なんてない。
家族にこんな死に様をさせる私に、生きていて良い道理はない。
だから里を抜け出した。
自分で死ぬ勇気は、どうしても出せなかった。
私を殺してくれる存在を求め、夜の森を彷徨って、気付けば目の前に紅い館が――
「んで、美鈴に拾われたってわけかー。ほーんとおせっかいよねぇ、あいつ」
その綺麗な眉を歪めながら、『彼女』はそう語る。
私の恩人を、そうやって吐き捨てるように。
「でも、感謝しなきゃいけないわね。おかげでわたしはミサトと会えたんだもの。うふふ、はじめてじゃない? あいつが役にたったのって。あー、ほんと良いきもち。歌でも歌いたい気分よ。ねぇ、ミサト。このままいっしょに踊らない?」
「フラン……あなた……」
解らない。
一体、何がどうなっているのか。
私の心を読める――それは良い。別に構わない。思い出したくもない傷だけど、それでも事実なのだから否定はしない。
だけど、私の知っているフランは、他人をこんな風に弄ぶようなことは……
「パチュリーに聞いたでしょ? わたしはあなた。聞き分けの良い優しい子……それはあなたが生まれてすぐに身に付けた仮面でしょう? 妖精であるあなたが人の世界に溶け込むためにはそうするしかなかったんでしょう? 意図的にせよ、無意識にせよ、あなたはそうやって生きてきた。わたしもおなじ。そして……必要がなくなったから、やめたの」
「やめた……って」
「もういいの。もうやめたの。言ったでしょ? 世界ははじめから壊れてるって。だからこんな世界はもういらないの」
「なに、いって……」
「ミサトはかわいそーだけど、そんなのぜんぜん珍しくないの。知ってるんだよ? わたし。そんなのよくあるはなしだって。ううん、もっと酷いはなしだっていっぱいあるわ。わたし勉強したもん。結界が邪魔でノイズまみれだったけど、いっしょーけんめい集めたんだから。頭痛がひどくてあたまわれそーだったけど、わたしがんばったんだよ? どうすればいいかっていっしょーけんめい考えて……そして決めたの。こんな世界、壊しちゃおうって」
無邪気に、無垢に、楽しそうに、
笑って、哂って、嘲って――
「フラ――」
「だから、さ。ミサトにもてつだって欲しいの。わたしには自我がないから、欲求もないの。だからミサトのこころが必要なの」
「――!?」
フランが私に口付けをする。
咄嗟に閉じようとした口を舌で抉じ開けられ、フランの舌が口中を弄る。
ちくりとした痛み。口の中に広がる鉄の味。舌を噛まれたのだと気付くよりも早く、フランの顔がすっと離れる。
「な、何を――?」
フランの口元から、一筋の赤が流れる。
自らの唇を噛み切ったフランの口から、赤い雫が滴り落ちる。
「えへへー。はじめてのちゅーだー。ふふっ、やっぱ照れくさいね? こういうのって」
意図が読めず、問い詰めようとした瞬間、私の身体がぐらりと揺れる。
身体が熱い。耳鳴りが激しい。目が、首が、舌が、全身が、びりびりと痺れている。
「血を交えたの。ミサトにも、わたしのことわかってほしくて。だいじょうぶだよ。わたしがついてるから。ミサトは壊れたりしない。そんなこと――わたしが許さない」
耳鳴りが激しくなる。視界が真っ赤に染まっていく。全身の血がぐつぐつと煮えたぎり、目が限界まで見開かれ、喉を掻き毟りたくなる衝動に襲われる。渇く。喉が渇く。水が欲しい。コップ一杯でいいから水が欲しい。違う。水じゃない。もっとこう、濃密で、芳醇で、生命そのもののような……ざわざわと、ざわざわと心の裡が荒れ狂う。
そしてそれは――唐突にきた。
それは一人の少女の死。
父親に虐待され、救いの手も間に合わずに衰弱死した少女のあまりにも短い一生。
それは一人の少年の死。
クラスで虐められ、教師にも見放され、自ら死を選んだ少年のあまりにも儚い一生。
それは一人の男の死。
多額の借金を負わされ、家族もろとも心中を図った男のあまりにも哀れな一生。
それは一人の女の死。
性質の悪い宗教に引っ掛かり、財産も何もかも全て奪われた女のあまりにも惨めな一生。
それは一人の老人の死。
誰にも看取られることなく朽ち果てるしかなかった老人の、あまりにも淋しい一生。
そんな彼らの、何人も、何十人も、何百人ものの生涯を一瞬にして体験する。
殺される痛み。犯される屈辱。そんなものを絶え間なく、延々と流し込まれ続ける。
こんなもの、受け止めることなんてできるわけがない。脳が焼き切れ、眼球は枯れ果て、陸に上げられた魚のようにのたうち、身体中の穴という穴から体液をぶちまけて――
「くるしい?」
答えられるわけがない。
今の私は戦士。やぶ蚊の飛び交うジャングルで、銃を片手に彷徨っている。
左足の銃創には蛆が湧いていて、痒くて痒くてたまらない。我慢できず掻き毟ろうと身を屈めた瞬間、敵に撃ち殺された。お腹を打ち抜かれ、腹圧で内蔵が零れる。敵もまたどこかの誰かに撃ち殺されたようで、私はとどめも刺してもらえず、息絶えるまでに随分と時間が掛かった。
「だいじょうぶ?」
大丈夫なわけないだろう?
今の私は政治家。私の政策に不満を持つ人々が、家族と共に私を拉致した。
妻と娘はすでに死体となって私の前に転がっている。だけど私は怒りを感じるよりも先に、必死で命乞いをしていた。無駄だった。あっさりと撃ち殺された。目の前が真っ白になって、すでに死体となっている妻の身体へと倒れこんだ。頭を撃たれて助かった。あっさりと意識が途絶えてくれた。
「そのうち慣れるよ。わたしもそうだったもん」
そうかもしれない。段々死ぬことにも慣れてきた。
今の私は娼婦。生活のための僅かな金を得ようと股を開いているうちに、最悪の客に当たってしまった。
男はサディストで、変態で、そして殺人鬼だった。腹を切り裂かれ、首を絞められながら、それでも死なない私を執拗に犯していた。そろそろ心臓が止まる。早くこの苦痛から逃れたい。死が待ち遠しい――。
「そろそろ、かな?」
終わりもまた、唐突だった。
急に視界が戻り、現実の痛みに襲われる。
あちこちぶつけたのだろう、手足に痣ができていた。
死に慣れすぎていた私には、その程度のこと、どうってことなかった。
「気分はどう?」
最悪、よ。
「あはは。どう? 世界なんてほろぼすべきだと思うでしょ?」
そんなの、できるわけ、ないじゃない。
「できるよ? かんたんだよ? わたしの手の中にはね、『目』があるの。それをきゅって、にぎればいいの。世界だろうが何だろうがどっかーんよ」
なによ、それ。
「ふふっ、ミサトとわたしは繋がってるんだから、もう知ってるでしょ? わたしは世界ともちょくせつ繋がってる。わたしにははじめっから世界を壊せる力をあたえられていたの。だけどわたしには世界を壊す『理由』がないの。わたしには何かを憎むという衝動がないのよ。だからミサトが必要だったの。世界を憎む『理由』を持っているあなたが。だって――」
――わたしは、そのためにうまれてきたんだから。
踊るように、歌うように、『彼女』は告げる。
血を交えることで『彼女』の記憶を、知識を共有した私は、それが真実だと知っている。
自我のない『彼女』は、他の誰かに寄り添うことで、その誰かの衝動を自分のものにしようとした。
言うなれば『彼女』はガソリンの切れたエンジン。類まれなる性能を持ちながら、自身を燃焼させる燃料を持っておらず、ただ朽ちるのを待つだけだった哀れな機械。
いや……引き金が引かれるのを待っていた弾丸と言うべきか。
弾丸には意志はない。使用者の殺意によって放たれるまでじっと待つしかない。
だけど弾丸は己の存在理由を、生まれてきた意味を、果たしたいとずっと願っていたのだ。
だから、でも――
自らの撒き散らした吐瀉物に塗れ、私はよろよろと立ち上がる。
立ち上がって、『彼女』の目を見据え、そんなことは許されないと、そう言おうとして。
なのに『彼女』は、
「もう、やめようよ」
にまにまと、にたにたと。
蔑むように、嘲るように。
下から睨めあげ、それでいて見下すようにして、
とても楽しそうに笑いながら『彼女』は言った。
一度も日の光を浴びたことのないような白い肌。
口元から覗く長い牙。
そして――一瞬ごとに色を変える虹の瞳。
俯く。その瞳に気圧されて視線を逸らす。足元には柔らかな絨毯。赤い、紅い、沈み込むような、飲み込まれそうな。ずぶずぶと、ぐずぐずと、足元から崩れていくような、足首から崩れていくような錯覚に陥り、ぐらりと身体が傾く。
すっ、と。
いつの間にか移動していた『彼女』が私を支えた。
私の背中を支えながら、虹の瞳が覗きこむ。
吐息が掛かる。あやすように、殺めるように、首筋を撫でる甘い毒。
腐り落ちる果実のような、脳髄まで蕩かす破滅の香りに、私の心もぐらりと揺れる。
「いいじゃない。もう、どうだって」
ちかちかと瞬く虹の瞳。
その瞳が万華鏡のように、一瞬ごとに色を変えていく。
赤から紅へ、青から蒼へ、
黄から金へ、橙から緋へ、
緑から翠へ、藍から紺へ、
そして紫から、神々しいまでの深紫へと。
円環の虹が、私の心をを捕まえる。
それは絶対的で圧倒的な――支配者の瞳。
私は答えない。
その瞳に見据えられた瞬間、すでに私は停止している。
目を逸らすことも、呼吸することもできないまま、ただ心を奪われていく。
「きっと、わたしたちはまちがえちゃったんだよ」
そう、私たちは間違えた。
どこかで、何かを、決定的に間違えてしまった。
何処で間違ってしまったのか、何処で見失ってしまったのか。
自分の名前が思い出せない。自分の意義も見出せない。
私は来るべきじゃなかったし、私は逃げ出してはならなかった。
全てを受け入れなければならなかったし、全てを拒まなければならなかった。
それができないのなら、そうすることもできないのなら、
私なんか――生まれてこなければよかったんだ。
生きることは辛かったです。
他人の視線が怖かったんです。
それでも、こんな私でも、いつか幸せになれると、心のどこかで信じていたんです。
そんなの、ただの甘えなのに。
私なんか、幸せになれるはずないのに――
俯いた私を見て、『彼女』が口元を吊り上げる。
猫のように目を細め、嬉しそうに、楽しそうに『彼女』が哂う。
何がそんなに楽しいんだろう。
何がそんなに嬉しいんだろう。
私は、私たちは、間違えてしまったのに。
どうしようもなく、同情の余地もなく、全部私たちが悪いのに。
「ちがうよ。わるいのは世界のほうだよ」
なのに『彼女』は否定する。
否定することしかできない『彼女』は、当たり前のように否定する。
全てを否定し、全てを拒絶し、何百年もの間、自分の存在すら否定し続けた『彼女』は、まるでそれが自らに課せられた運命であるかのように否定する。
「ぜんぶ、世界のせいなんだよ」
そこに憎しみはない。悲しみもない。
あるのは楽しそうに、本当に愉しそうに哂う悪魔の貌。
禁断の果実を勧める蛇のような酷薄な笑み。その微笑みに堪らない嫌悪を抱きながらも、『彼女』の言葉が福音のように私の裡へと鳴り響く。
まるでそれが唯一の救いであるかのように、それこそを望んでいたとでもいうように、甘く、優しく、私という存在をどろどろに溶かしていく。
ふいに、『彼女』の指が私の顎をなぞった。
ただそれだけで、弾けたように身体が仰け反る。
背筋を貫く稲妻のような快楽。膝から崩れ落ちる私の身体。
だけど『彼女』の左手は許さない。
私を支えながら、私が犬のように喘ぐ様を、にたにたと愉しそうに眺めている。
「だから、さ」
虹の瞳が輝きを増す。甘い香りも濃さを増す。
抗えない、背けない、私には何もすることができない。
瞳に捕らわれ、吐息で縛られ、指先で操られて。
「ぜんぶ、こわしちゃおうよ」
身体が動かない。
目も耳も壊れている。今が何処で、此処が何時なのかも忘却の彼方。
心臓は停止し、血管は凝固し、頭の中で何百という私の死が飽くことなく繰り返されている。
それは雑音。わんわんと、がんがんと。
男の声で、女の声で、耳慣れた言葉で、異国の言語で、映像で、文字で、音楽で、匂いで、温度で、経験で、記憶で、知識で、情報で身体で悲鳴を愛惜を懇願を歓喜を絶望を怒号を激情を憐憫を愛情を悲憤を決別を祝福を劣情を驚愕を焦燥を名誉を勇気を嫉妬を感謝を厭世を快楽を憎悪を羨望を義憤を仁義を離別を排斥を意欲を失望を哀切を礼儀を姦淫を支配を優越を軽蔑を生を死を智を痴を善を悪を愛を哀を全を個をそして――狂気を。
ありとあらゆる感情を同時に叩き込まれ、私の脳が壊れていく。
これが――『彼女』の世界。
どこまでも続く砂漠に立って、照りつける太陽を見上げている少女の姿。
足元に広がる砂の海。その一粒一粒が人々の心。
照りつける太陽が、『彼女』を生み出した人々の願いが、少女に向かって――己の性能を示せ、と叫んでいる。
それは無間の地獄。業火に焼かれ、全身を切り刻まれるよりも苦しい永遠の責め苦。
血を与えられ、共有して初めて解る『彼女』の痛み。
寝ている時も、起きている時も、常に『彼女』を苛んできたもの。
何年も、何十年も、何百年もそうやって、
死ぬことも許されず、ただ、ただ、その身を焼かれ続けて――
そして『彼女』もまた、私の痛みを知っている。
私の痛みを、苦しみを『彼女』もまた共有している。
私たちは共犯者。
彼女が弾丸なら、私は引き金。
私が弱さを嘆くなら、彼女は強さを貫こう。
彼女が淋しいと嘆くなら、私も共に地獄へ逝こう。
だから、
震える指で、
『彼女』の頬を
そっと撫でながら、
私は小さく――頷いた。
§
虹の羽根を揺らし、フランが征く。
全ての燭台が消え、黒く沈む廊下を、一片の迷いなく。
周囲に人影はない。深夜であろうと誰かしら賑やかに働いているはずの館内は、まるで墓場のように静まり返っている。
灯りのない廊下。だがフランの血を分け与えられた私には、夜の闇だろうと昼間のように見通せた。宙を舞う埃の軌跡や、空気の微細な流れすらも視覚として捉えることができる。
これが吸血鬼の視界。
耳鳴りは続いているし、頭の中には今も死の記録が流し込まれていたが、心を奪われたからだろうか、その全てが遠く霞がかかったように感じている。廊下の窓に映る自分の顔は人形のように無表情で、それを気味悪いと思うことすらできず、ただフランの後を付いていくだけ。
何処へ向かっているのか。
それすら疑問に感じない。ただ黙々と足を動かして――
そして――その扉の前に立った。
聖者の死が描かれたステンドグラスと、黒塗りの祭壇。
抉られたような疵痕を残す天蓋と、隙間から覗く半弦の月。
机も椅子も、何もかもが薙ぎ倒された室内。捲れあがった床板。一面の赤。
そして――磔にされた少女と跪いた悪魔の姿。
脳裏に浮かぶ、あの日見た光景。
ぶるりと震える。あの時の恐怖が蘇る。
「心配しないで。ミサトにはぜったい手を出させないから」
フランは笑みを浮かべ、そのまま扉を吹き飛ばした。
片手を突き出しただけというのに、ハンマーで殴られたかのように転がっていく鉄の扉。
扉の形が歪んでいる。
たった一撃で、鉄の扉が紙屑のように丸まっている。
「ここで待ってて。すぐに終わらせるから」
フランが室内に足を踏み入れた。
赤い絨毯。柱のない広い空間。ぽつぽつと灯る蝋燭の炎。
そして奥には黒い祭壇。月明かりの差し込むステンドグラスと豪奢な玉座。
そして――
「遅かったじゃない。待ちくたびれたわよ?」
尊大に足を組み、
肘掛に乗せた右腕に顎を乗せ、
嬉しそうに、愉しそうに、緋の瞳を輝かせながら、
紅い悪魔が――そこにいた。
おじいさんが亡くなってから、おばあさんは臥せることが多くなった。
もともとあまり丈夫ではなかったのだろう。
おばあさんはみるみるうちに弱っていき、やがて布団から出られなくなってしまった。
床に伏せ、申し訳なさそうに頭を下げるおばあさんを見るのはとても痛ましかったけれど、それでも私は一生懸命おばあさんの世話をした。
学校も辞めて、ずっとおばあさんの側にいようと決めていた。先生も心配して時々様子を見にきてくれたし、近所の人も親切にしてくれた。決して裕福ではなかったけれど、しばらく二人で生きていくだけの貯えはあったし、いざとなれば私が働きに出れば良いと思っていた。食事を作って、掃除や洗濯をして、床ずれしないように時々おばあさんの身体を起こして――それはとても重労働だったけれど、私は少しも苦に感じなかった。
だって、大切な家族だから。
大好きなおばあさんのためだから。
床から出られないおばあさんに、里で起こった様々なことを話して聞かせた。
季節の花を寝床から見える位置に飾って、おばあさんがひとりで厠に行くこともできなくなってからは下の世話もして。
多分――私は嬉しかったんだと思う。
おばあさんのために、何かできることがとても嬉しかった。
近所の人に「美里ちゃんは偉いねぇ」と言ってもらえるのがとても誇らしかった。
それはとんでもなく欺瞞に満ちた、利己的なものだったと思うけど、その頃の私はそんなことに気付きもせず、ただ、ただ、おばあさんのために自分の全てを捧げていた。
ある日、おばあさんがぼーっと庭を眺めていた。
声を掛けても返事はない。不審に思っておばあさんの前に立つと、おばあさんは小首を傾げながら「……どちらさまでしたっけ?」と言った。
正直なところ、その日がくることは予測していた。
最近、とみにぼーっとすることが多くなったし、食事とか色々なことを忘れっぽくなっているとは思っていた。
でも改めて現実を突きつけられると、流石にショックを隠し切れなかった。咄嗟に家を飛び出し、おじいさんの工房に篭ってしばらく泣いた。
これからのこととか、おばあさんがどうなってしまうのかとか、色々考えることが多すぎてどうすればいいか解らなくて、不安で不安で堪らなくって。
それでも、家族だから。
たったひとりの、大切な家族だから。
その後もおばあさんの世話を続けた。
おばあさんはどんどん色んなものを忘れていって、夜になるとおじいさんを探して家を抜け出したりもした。
食事を零したりするのはいつものことだけど、癇癪を起こしたおばあさんに何度か食器をぶつけられたりもした。
相変わらず私のことは解らないようだった。
それでも――
たったひとりの――
「だから疎ましかったの?」
とても楽しそうに笑いながら、『彼女』はそう問い掛ける。
私の心を、記憶を、美味しそうに齧りながら、白い歯を覗かせる。
「ち、ちが――」
否定の言葉も形にならない。
虹の瞳に射抜かれて、心も身体も侭ならない。
「だから見捨てたの?」
「ちが――」
「それとも……男たちに犯されるのがそんなに気持ちよかったの?」
「――!? なんで……それ、を……」
「知ってるよ? わかるよ? だって大切な友達のことだもん。なーんだって知ってるよ?」
にたにたと、にやにやと笑いながら、
虹の瞳が、私の傷を覗き込む。
「フラン……あなた……」
「パチュリーから聞いたんでしょ? そうよ。わたしはなーんでも知ってるの。おじいさんを助けようと羽根を見せたのはまずかったよねー。里には妖精を恨んでる者がたーくさんいるってのに。そいつらに捕まって三日も監禁されたんだっけ? あはは、地下室かー。わたしとおんなじだねっ」
「な、あ――」
「いいなぁ。わたしもやってみたいなー。だーってアノ時のミサトってばすんごく気持ちよさそーなんだもん。目はとろんとしてるし、よだれまでたらしちゃってさー。もっとも……わたしはあんなひんそーな連中の相手すんのはごめんだけど?」
あはは、と朗らかにフランが笑う。
嘲るように、見下すように。
その顔はどこかレミリア様に似ていて、だけど決定的に違っていて。
これは――誰だ?
「なにいってるのよ? わたしはわたし。他の誰でもないわ」
当たり前のように心を読んで、フランが花のような笑みを浮かべる。
それはあまりにも艶やかで、艶やかすぎて、それが故に禍々しい。
食虫植物のように、甘い香りを放ちながら、地獄へと誘っているような――
「男どもに犯されながら、こう考えていたんでしょ? 『このまま家に帰れなければ、おばあさんの面倒を見なくて済む』って。だよねー、しかたないよねー、年寄りの世話なんて面倒だもんねー。あはは、ミサトってばあったまいいー。ある意味、完全犯罪じゃないの? だってミサトがいなければ、おばあさんが生きていけるはずないものね?」
「ちが……わたし、は……」
「でも、ミサトの気持ちもわかるよー? ずっといっしょーけんめー世話してきたってのに、おばあさんったらミサトのこともわかんなくなって、あげくに『美里を返せ!』だっけ? そりゃ嫌になってとうぜんだよねー」
「ちが……おばあ、さん、は……」
「ずーっと一緒に暮らしてたってのに、自分の子供と孫を殺した妖精のことをずっと恨んでたんだねー。『美里を返せ!』かー。あはは、へんなのー。ミサトはミサトなのにね?」
ほんと、人間ってわけわかんないわーと言って、フランは笑う。
愉しそうに、嬉しそうに――
「ねぇ? おばあさんの死体を見つけたとき、どんなきもちだった?」
きゃはは、と口を大きく開けて笑いながら。
傷口を抉じ開けるように、舌で舐め上げるように。
「おねが……も、やめ……」
気がつけば泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。
フランが言ったことは全部事実だ。
私は妖精の悪戯によって一生消えない傷を負わされた男たちに――片目を失った者、左足が動かなくなった者、そして子供を亡くした者たち――地下室へと閉じ込められ、三日三晩犯された。
男たちの血走った目が怖ろしくて、碌に抵抗もできなかった。衣服を剥ぎ取られ、剥き出しになった羽根を千切られそうになって、はじめて男たちの妖精に対する憎しみを思い知らされた。
心のどこかで――仕方ないと思った。
私も妖精なのだから、罰を受けるのは当然だと。
おばあさんの看護に疲れていた。私のことを認識できなくなっただけじゃなく、おばあさんの心は遠い過去へと飛んだままになってしまって、自分の孫や息子夫婦を探して野山を徘徊するようになった。その度に探して連れ戻そうとして……だけどおばあさんは私に触れられることを拒んで、叩かれて、泣かれて、泥を投げつけられて。
もう、どうすればいいかわからなかった。
いっそ、死んでくれればとすら思っていた。
だから――これは罰だ。
大切な家族を、そんな風に思ってしまう私は、決して許されてはいけないと思った。
男たちを受け入れながら、暗い地下室の天井を見上げる。
このまま私が帰らなければ、おばあさんはすぐに死んでしまうだろう。
食事も排泄も侭ならないおばあさん。ひょっとしたらまた山に入って、もういない誰かを探しているのかもしれない。
そうなれば、誰も迎えに行く者がいなければ、おばあさんがどうなるかなんて考えるまでもなかった。
気がつけば笑っていた。
犯されながら笑っていた。
男たちは私の気が触れたかと気味悪そうにしていたが、私は込み上げてくる笑みを抑えきれなかった。
だって私は悪くない。
悪いことなんて何もしていない。
私は里の人間に悪戯なんかしていないし、おばあさんの息子や孫を殺したわけでもない。
悪いのは男たちであって、森の妖精であって、だから――
「でも、死にたくなったんでしょ?」
私の頬を撫でながら、『彼女』はそう言う。
「いえに帰って、死んでいるおばあさんをみつけて……死にたくなったんでしょう?」
にやにやと哂いながら、ぺろりと私の頬を、涙を舐め上げる。
全部『彼女』の言うとおりだ。
思い描いたとおり、苦しそうに畳に爪を立てて死んでいるおばあさんを見つけ――急に何もかもどうでもよくなってしまった。
私に生きる資格なんてない。
家族にこんな死に様をさせる私に、生きていて良い道理はない。
だから里を抜け出した。
自分で死ぬ勇気は、どうしても出せなかった。
私を殺してくれる存在を求め、夜の森を彷徨って、気付けば目の前に紅い館が――
「んで、美鈴に拾われたってわけかー。ほーんとおせっかいよねぇ、あいつ」
その綺麗な眉を歪めながら、『彼女』はそう語る。
私の恩人を、そうやって吐き捨てるように。
「でも、感謝しなきゃいけないわね。おかげでわたしはミサトと会えたんだもの。うふふ、はじめてじゃない? あいつが役にたったのって。あー、ほんと良いきもち。歌でも歌いたい気分よ。ねぇ、ミサト。このままいっしょに踊らない?」
「フラン……あなた……」
解らない。
一体、何がどうなっているのか。
私の心を読める――それは良い。別に構わない。思い出したくもない傷だけど、それでも事実なのだから否定はしない。
だけど、私の知っているフランは、他人をこんな風に弄ぶようなことは……
「パチュリーに聞いたでしょ? わたしはあなた。聞き分けの良い優しい子……それはあなたが生まれてすぐに身に付けた仮面でしょう? 妖精であるあなたが人の世界に溶け込むためにはそうするしかなかったんでしょう? 意図的にせよ、無意識にせよ、あなたはそうやって生きてきた。わたしもおなじ。そして……必要がなくなったから、やめたの」
「やめた……って」
「もういいの。もうやめたの。言ったでしょ? 世界ははじめから壊れてるって。だからこんな世界はもういらないの」
「なに、いって……」
「ミサトはかわいそーだけど、そんなのぜんぜん珍しくないの。知ってるんだよ? わたし。そんなのよくあるはなしだって。ううん、もっと酷いはなしだっていっぱいあるわ。わたし勉強したもん。結界が邪魔でノイズまみれだったけど、いっしょーけんめい集めたんだから。頭痛がひどくてあたまわれそーだったけど、わたしがんばったんだよ? どうすればいいかっていっしょーけんめい考えて……そして決めたの。こんな世界、壊しちゃおうって」
無邪気に、無垢に、楽しそうに、
笑って、哂って、嘲って――
「フラ――」
「だから、さ。ミサトにもてつだって欲しいの。わたしには自我がないから、欲求もないの。だからミサトのこころが必要なの」
「――!?」
フランが私に口付けをする。
咄嗟に閉じようとした口を舌で抉じ開けられ、フランの舌が口中を弄る。
ちくりとした痛み。口の中に広がる鉄の味。舌を噛まれたのだと気付くよりも早く、フランの顔がすっと離れる。
「な、何を――?」
フランの口元から、一筋の赤が流れる。
自らの唇を噛み切ったフランの口から、赤い雫が滴り落ちる。
「えへへー。はじめてのちゅーだー。ふふっ、やっぱ照れくさいね? こういうのって」
意図が読めず、問い詰めようとした瞬間、私の身体がぐらりと揺れる。
身体が熱い。耳鳴りが激しい。目が、首が、舌が、全身が、びりびりと痺れている。
「血を交えたの。ミサトにも、わたしのことわかってほしくて。だいじょうぶだよ。わたしがついてるから。ミサトは壊れたりしない。そんなこと――わたしが許さない」
耳鳴りが激しくなる。視界が真っ赤に染まっていく。全身の血がぐつぐつと煮えたぎり、目が限界まで見開かれ、喉を掻き毟りたくなる衝動に襲われる。渇く。喉が渇く。水が欲しい。コップ一杯でいいから水が欲しい。違う。水じゃない。もっとこう、濃密で、芳醇で、生命そのもののような……ざわざわと、ざわざわと心の裡が荒れ狂う。
そしてそれは――唐突にきた。
それは一人の少女の死。
父親に虐待され、救いの手も間に合わずに衰弱死した少女のあまりにも短い一生。
それは一人の少年の死。
クラスで虐められ、教師にも見放され、自ら死を選んだ少年のあまりにも儚い一生。
それは一人の男の死。
多額の借金を負わされ、家族もろとも心中を図った男のあまりにも哀れな一生。
それは一人の女の死。
性質の悪い宗教に引っ掛かり、財産も何もかも全て奪われた女のあまりにも惨めな一生。
それは一人の老人の死。
誰にも看取られることなく朽ち果てるしかなかった老人の、あまりにも淋しい一生。
そんな彼らの、何人も、何十人も、何百人ものの生涯を一瞬にして体験する。
殺される痛み。犯される屈辱。そんなものを絶え間なく、延々と流し込まれ続ける。
こんなもの、受け止めることなんてできるわけがない。脳が焼き切れ、眼球は枯れ果て、陸に上げられた魚のようにのたうち、身体中の穴という穴から体液をぶちまけて――
「くるしい?」
答えられるわけがない。
今の私は戦士。やぶ蚊の飛び交うジャングルで、銃を片手に彷徨っている。
左足の銃創には蛆が湧いていて、痒くて痒くてたまらない。我慢できず掻き毟ろうと身を屈めた瞬間、敵に撃ち殺された。お腹を打ち抜かれ、腹圧で内蔵が零れる。敵もまたどこかの誰かに撃ち殺されたようで、私はとどめも刺してもらえず、息絶えるまでに随分と時間が掛かった。
「だいじょうぶ?」
大丈夫なわけないだろう?
今の私は政治家。私の政策に不満を持つ人々が、家族と共に私を拉致した。
妻と娘はすでに死体となって私の前に転がっている。だけど私は怒りを感じるよりも先に、必死で命乞いをしていた。無駄だった。あっさりと撃ち殺された。目の前が真っ白になって、すでに死体となっている妻の身体へと倒れこんだ。頭を撃たれて助かった。あっさりと意識が途絶えてくれた。
「そのうち慣れるよ。わたしもそうだったもん」
そうかもしれない。段々死ぬことにも慣れてきた。
今の私は娼婦。生活のための僅かな金を得ようと股を開いているうちに、最悪の客に当たってしまった。
男はサディストで、変態で、そして殺人鬼だった。腹を切り裂かれ、首を絞められながら、それでも死なない私を執拗に犯していた。そろそろ心臓が止まる。早くこの苦痛から逃れたい。死が待ち遠しい――。
「そろそろ、かな?」
終わりもまた、唐突だった。
急に視界が戻り、現実の痛みに襲われる。
あちこちぶつけたのだろう、手足に痣ができていた。
死に慣れすぎていた私には、その程度のこと、どうってことなかった。
「気分はどう?」
最悪、よ。
「あはは。どう? 世界なんてほろぼすべきだと思うでしょ?」
そんなの、できるわけ、ないじゃない。
「できるよ? かんたんだよ? わたしの手の中にはね、『目』があるの。それをきゅって、にぎればいいの。世界だろうが何だろうがどっかーんよ」
なによ、それ。
「ふふっ、ミサトとわたしは繋がってるんだから、もう知ってるでしょ? わたしは世界ともちょくせつ繋がってる。わたしにははじめっから世界を壊せる力をあたえられていたの。だけどわたしには世界を壊す『理由』がないの。わたしには何かを憎むという衝動がないのよ。だからミサトが必要だったの。世界を憎む『理由』を持っているあなたが。だって――」
――わたしは、そのためにうまれてきたんだから。
踊るように、歌うように、『彼女』は告げる。
血を交えることで『彼女』の記憶を、知識を共有した私は、それが真実だと知っている。
自我のない『彼女』は、他の誰かに寄り添うことで、その誰かの衝動を自分のものにしようとした。
言うなれば『彼女』はガソリンの切れたエンジン。類まれなる性能を持ちながら、自身を燃焼させる燃料を持っておらず、ただ朽ちるのを待つだけだった哀れな機械。
いや……引き金が引かれるのを待っていた弾丸と言うべきか。
弾丸には意志はない。使用者の殺意によって放たれるまでじっと待つしかない。
だけど弾丸は己の存在理由を、生まれてきた意味を、果たしたいとずっと願っていたのだ。
だから、でも――
自らの撒き散らした吐瀉物に塗れ、私はよろよろと立ち上がる。
立ち上がって、『彼女』の目を見据え、そんなことは許されないと、そう言おうとして。
なのに『彼女』は、
「もう、やめようよ」
にまにまと、にたにたと。
蔑むように、嘲るように。
下から睨めあげ、それでいて見下すようにして、
とても楽しそうに笑いながら『彼女』は言った。
一度も日の光を浴びたことのないような白い肌。
口元から覗く長い牙。
そして――一瞬ごとに色を変える虹の瞳。
俯く。その瞳に気圧されて視線を逸らす。足元には柔らかな絨毯。赤い、紅い、沈み込むような、飲み込まれそうな。ずぶずぶと、ぐずぐずと、足元から崩れていくような、足首から崩れていくような錯覚に陥り、ぐらりと身体が傾く。
すっ、と。
いつの間にか移動していた『彼女』が私を支えた。
私の背中を支えながら、虹の瞳が覗きこむ。
吐息が掛かる。あやすように、殺めるように、首筋を撫でる甘い毒。
腐り落ちる果実のような、脳髄まで蕩かす破滅の香りに、私の心もぐらりと揺れる。
「いいじゃない。もう、どうだって」
ちかちかと瞬く虹の瞳。
その瞳が万華鏡のように、一瞬ごとに色を変えていく。
赤から紅へ、青から蒼へ、
黄から金へ、橙から緋へ、
緑から翠へ、藍から紺へ、
そして紫から、神々しいまでの深紫へと。
円環の虹が、私の心をを捕まえる。
それは絶対的で圧倒的な――支配者の瞳。
私は答えない。
その瞳に見据えられた瞬間、すでに私は停止している。
目を逸らすことも、呼吸することもできないまま、ただ心を奪われていく。
「きっと、わたしたちはまちがえちゃったんだよ」
そう、私たちは間違えた。
どこかで、何かを、決定的に間違えてしまった。
何処で間違ってしまったのか、何処で見失ってしまったのか。
自分の名前が思い出せない。自分の意義も見出せない。
私は来るべきじゃなかったし、私は逃げ出してはならなかった。
全てを受け入れなければならなかったし、全てを拒まなければならなかった。
それができないのなら、そうすることもできないのなら、
私なんか――生まれてこなければよかったんだ。
生きることは辛かったです。
他人の視線が怖かったんです。
それでも、こんな私でも、いつか幸せになれると、心のどこかで信じていたんです。
そんなの、ただの甘えなのに。
私なんか、幸せになれるはずないのに――
俯いた私を見て、『彼女』が口元を吊り上げる。
猫のように目を細め、嬉しそうに、楽しそうに『彼女』が哂う。
何がそんなに楽しいんだろう。
何がそんなに嬉しいんだろう。
私は、私たちは、間違えてしまったのに。
どうしようもなく、同情の余地もなく、全部私たちが悪いのに。
「ちがうよ。わるいのは世界のほうだよ」
なのに『彼女』は否定する。
否定することしかできない『彼女』は、当たり前のように否定する。
全てを否定し、全てを拒絶し、何百年もの間、自分の存在すら否定し続けた『彼女』は、まるでそれが自らに課せられた運命であるかのように否定する。
「ぜんぶ、世界のせいなんだよ」
そこに憎しみはない。悲しみもない。
あるのは楽しそうに、本当に愉しそうに哂う悪魔の貌。
禁断の果実を勧める蛇のような酷薄な笑み。その微笑みに堪らない嫌悪を抱きながらも、『彼女』の言葉が福音のように私の裡へと鳴り響く。
まるでそれが唯一の救いであるかのように、それこそを望んでいたとでもいうように、甘く、優しく、私という存在をどろどろに溶かしていく。
ふいに、『彼女』の指が私の顎をなぞった。
ただそれだけで、弾けたように身体が仰け反る。
背筋を貫く稲妻のような快楽。膝から崩れ落ちる私の身体。
だけど『彼女』の左手は許さない。
私を支えながら、私が犬のように喘ぐ様を、にたにたと愉しそうに眺めている。
「だから、さ」
虹の瞳が輝きを増す。甘い香りも濃さを増す。
抗えない、背けない、私には何もすることができない。
瞳に捕らわれ、吐息で縛られ、指先で操られて。
「ぜんぶ、こわしちゃおうよ」
身体が動かない。
目も耳も壊れている。今が何処で、此処が何時なのかも忘却の彼方。
心臓は停止し、血管は凝固し、頭の中で何百という私の死が飽くことなく繰り返されている。
それは雑音。わんわんと、がんがんと。
男の声で、女の声で、耳慣れた言葉で、異国の言語で、映像で、文字で、音楽で、匂いで、温度で、経験で、記憶で、知識で、情報で身体で悲鳴を愛惜を懇願を歓喜を絶望を怒号を激情を憐憫を愛情を悲憤を決別を祝福を劣情を驚愕を焦燥を名誉を勇気を嫉妬を感謝を厭世を快楽を憎悪を羨望を義憤を仁義を離別を排斥を意欲を失望を哀切を礼儀を姦淫を支配を優越を軽蔑を生を死を智を痴を善を悪を愛を哀を全を個をそして――狂気を。
ありとあらゆる感情を同時に叩き込まれ、私の脳が壊れていく。
これが――『彼女』の世界。
どこまでも続く砂漠に立って、照りつける太陽を見上げている少女の姿。
足元に広がる砂の海。その一粒一粒が人々の心。
照りつける太陽が、『彼女』を生み出した人々の願いが、少女に向かって――己の性能を示せ、と叫んでいる。
それは無間の地獄。業火に焼かれ、全身を切り刻まれるよりも苦しい永遠の責め苦。
血を与えられ、共有して初めて解る『彼女』の痛み。
寝ている時も、起きている時も、常に『彼女』を苛んできたもの。
何年も、何十年も、何百年もそうやって、
死ぬことも許されず、ただ、ただ、その身を焼かれ続けて――
そして『彼女』もまた、私の痛みを知っている。
私の痛みを、苦しみを『彼女』もまた共有している。
私たちは共犯者。
彼女が弾丸なら、私は引き金。
私が弱さを嘆くなら、彼女は強さを貫こう。
彼女が淋しいと嘆くなら、私も共に地獄へ逝こう。
だから、
震える指で、
『彼女』の頬を
そっと撫でながら、
私は小さく――頷いた。
§
虹の羽根を揺らし、フランが征く。
全ての燭台が消え、黒く沈む廊下を、一片の迷いなく。
周囲に人影はない。深夜であろうと誰かしら賑やかに働いているはずの館内は、まるで墓場のように静まり返っている。
灯りのない廊下。だがフランの血を分け与えられた私には、夜の闇だろうと昼間のように見通せた。宙を舞う埃の軌跡や、空気の微細な流れすらも視覚として捉えることができる。
これが吸血鬼の視界。
耳鳴りは続いているし、頭の中には今も死の記録が流し込まれていたが、心を奪われたからだろうか、その全てが遠く霞がかかったように感じている。廊下の窓に映る自分の顔は人形のように無表情で、それを気味悪いと思うことすらできず、ただフランの後を付いていくだけ。
何処へ向かっているのか。
それすら疑問に感じない。ただ黙々と足を動かして――
そして――その扉の前に立った。
聖者の死が描かれたステンドグラスと、黒塗りの祭壇。
抉られたような疵痕を残す天蓋と、隙間から覗く半弦の月。
机も椅子も、何もかもが薙ぎ倒された室内。捲れあがった床板。一面の赤。
そして――磔にされた少女と跪いた悪魔の姿。
脳裏に浮かぶ、あの日見た光景。
ぶるりと震える。あの時の恐怖が蘇る。
「心配しないで。ミサトにはぜったい手を出させないから」
フランは笑みを浮かべ、そのまま扉を吹き飛ばした。
片手を突き出しただけというのに、ハンマーで殴られたかのように転がっていく鉄の扉。
扉の形が歪んでいる。
たった一撃で、鉄の扉が紙屑のように丸まっている。
「ここで待ってて。すぐに終わらせるから」
フランが室内に足を踏み入れた。
赤い絨毯。柱のない広い空間。ぽつぽつと灯る蝋燭の炎。
そして奥には黒い祭壇。月明かりの差し込むステンドグラスと豪奢な玉座。
そして――
「遅かったじゃない。待ちくたびれたわよ?」
尊大に足を組み、
肘掛に乗せた右腕に顎を乗せ、
嬉しそうに、愉しそうに、緋の瞳を輝かせながら、
紅い悪魔が――そこにいた。