『第五章 SADISTIC DESIRE』
「せまっくるしいところねぇ。飾り気もないし……持ち主に似て面白みがないわ」
部屋に入るなり、レミリア様はそう言った。
じろじろと部屋を見渡し、不機嫌そうに顔を顰めている。ここはアンタの館で、ここはアンタのところの客間だという言葉が喉の奥まで出かけたが、ぎりぎりのところで飲み込んだ。流石にもう何を言っても無駄だと、骨の髄まで思い知らされている。
階段で私を待ち構えていた彼女は、「お疲れのところ悪いけど、ちょっと顔貸してくれない?」と全然悪いと思っていない口ぶりでそう言った。彼女の部屋に行くのかと思ったが、何の気紛れか「あなたの部屋で構わないわ。さっさと案内しなさい」とこの上なく上から目線でそう言ってくださった。先程までの浮かれ気分は綺麗さっぱり吹き飛んで、ひたすら疲労だけが圧し掛かってくる。
「それで……どういったご用件でしょうか?」
「せっかちねぇ。主を迎えるのにお茶ひとつ出さないってわけ? そんなことではこれから先が思いやられるわね」
にやにやと笑いながら、そんなことを仰るレミリア様。
落ち着け、私。
耐えろ、私。
「……失礼しました。少々お待ちください」
一礼して退室し、厨房へと向かう。これ以上文句を言われてはたまらないので、料理長にお願いして最高級のお茶を用意してもらった。
香り付けとして飲む直前に血を数滴垂らすのがポイントと料理長は言っていたが、そこはまぁ勘弁してもらおう。
痛いの嫌だし。
「お待たせしました」
「遅いわよ。このノロマ」
……開口一番これだ。
お嬢様の癖にだらしなくベッドに寝っころがり、頬杖をついたまま不機嫌そうに文句を垂れていらっしゃる。
我慢しろ、私。これも仕事だ。
「……粗茶ですが」
「ふぅん。どれ……わ、なにこれ? 酸味ばっか強くてお茶の旨味が全部死んでるじゃないの。あーあー不味い不味い。ったく、お茶ひとつ満足に淹れられないのかしら?」
寝っころがったまんまカップに口を付けるという、マナーもなにもあったもんじゃない格好の癖になんでそこまで偉そうにできるんだか。
改めて咲夜さんは凄いと思う。
よくもまぁこんな人の下で、平気でいられるもんだ。
不味い不味いと言いつつもカップから口を離さないレミリア様を眺め、改めて何の用なのだろうかと考える。
暇潰しがてら私を苛めにきただけという気もするのだが……
「そのとおり。あんたを苛めにきたのよ」
「って、私また顔に出ちゃってました!?」
「ふふん。一目瞭然ね」
なんということだろう……これは本気でフェイシャルトレーニングを積むべきかもしれない。
ある意味才能のような気もするが、考えていることが筒抜けな才能なんて嬉しくもなんともない。
まさか私がレミリア様のことを、チビの癖に生意気だとか、格好つけたところで風車のように空回りとか考えていると知れたら、それこそ本当に生命がない。
「お望みどおり殺してあげましょうか?」
「だからなんで解るんですかっ!?」
年の功よ、なんてさらりと仰られる。
外見は一桁台の癖に。
「あんたねぇ……私のこと幾つだと思ってるのよ?」
「って心を読むのを前提に会話を繋げるの止めましょうよ……えーと、お幾つなんですか?」
「レディに年を聞くなんて失礼ね? 育ちが知れるわ」
……なんか本気でムカムカしてきた。
何しにきたんだ、この人。
「だからあんたを苛めにきたんだってば」
「はいはい。解りました。で、私はどうすれば宜しいんでしょうか?」
「最初からそう言えばいいのよ。ほんと気が利かないわねぇ」
疲れるなぁ……。
なんかもう何を言っても無駄な気がしたので黙って頭を下げる。
「さて……まぁ、あんたに用事なんてひとつしかないんだけどね?」
「フラン……っと、フランドール様のことですか?」
「ああ、もうフランって呼んでいるんだ? 早かったわね。もう少し掛かると思ってた」
「……どういう、ことでしょうか?」
「運命は加速している。川の流れが狭くなれば、その流れも早くなるが道理。選択肢を増やし、可能性の振幅を広げようとも、収束する流れは止められないし本流も外れない。むしろ奔流というべきかしらね? どうせ私たちには押し流されることしかできないもの」
何を……言ってるんだろう。
意味が解らない。
解らないけどこれは……私とフランのことだろうか?
「解りやすくギャルゲーに例えると、もうフランルートに入ってるんだから、今更変更は効かないってことよ?」
「いやこの上なく解りやすいですけど! 幻想郷的にその表現はどうなんでしょうか!?」
解る私も私だけど。
解っちゃいけないような気がするのは気のせいだろうか。
「知ってるわよ? 貴女ってば色んなところでフラグ立てまくってるらしいじゃない? 美鈴や咲夜くらいならともかく小悪魔やパチェまで……ったく、あっちこっちフラフラと」
「意味が解りませんし、解りたくもありません」
フラグとかゆーな。
人を顔なし主人公みたいにゆーな。
「まぁ、フラグって言い方がアレなら『縁』と呼び変えてもいいわ。なんにせよ貴女の辿るべき道はすでに決定している。あの日、私が命じた時点でね? 貴女にはもう他の可能性は残っていないし、なればこそ私はこんなつまらない物語をいつまでもダラダラ読ませられるより、さっさとエンディングを見たいってわけよ。他人がイチャついてる姿なんて……読者としては面白くもなんともないでしょ?」
傲慢な、揶揄するような物言いではあるが、その瞳は笑っていなかった。
目を細め、まるで『敵』を睨むように――
「これからどうなるのか……私にはもう『視』えている。ならばもう、余計な横槍は挟ませないわ。こんな下らない物語はさっさと終わらせるべきなのよ。とはいえ私は自分の運命に干渉できない。私にできるのは枝を切り落とすことだけ。不要な選択肢を削り、運命を加速させるだけ。だから……」
――さっさと掛かってこい、と。
紅い瞳が、挑戦的に揺れている。
「貴女は……何なんです?」
「吸血鬼よ? 五百年もの間、同じところをぐるぐる回ってる哀れな歯車。そして――あの子もね?」
にやにやと、にたにたと。
楽しそうに、本当に愉しそうに。
気がつけば、ベッドの上にレミリア様の姿がない。
目を離したつもりもないのに、いつの間にかベッドの上には影すらなかった。
背後で扉の開く音がする。
振り向けば、今まさに部屋から出て行こうとするレミリア様の姿。
スカートを揺らし、
黒い翼をはためかせて、
「なんにせよ、あと数日のうちに決着はつくわ。それでは」
――『週末』に逢いましょう。
扉が閉まる。
私はひとり、取り残される――
§
その夜、フランが熱を出した。
「だーいじょーぶだよー。こんなん、どーってことないってー」
「な、何言ってるのよ!? 酷い熱じゃない!」
いつもなら扉を開けた瞬間飛びついてくるはずのフランが、今夜に限ってベッドから出てこようとしなかった。ベッドの上で身を起こし、にへらっと笑うだけ。
よく見れば、その顔がやけに赤い。
慌てて額に手を当てると、火傷しそうなくらい熱を発していた。
いや、火傷するなんて表現では生温い。身体が――まるで燃えているかのように。
「ちょっと待ってて! 今、氷持ってくるから!」
慌てて額から手を離し、扉へ向かおうとする私を、白い手が捕まえる。
振り返ると、うつ伏せになったフランが私の袖を掴んでいた。
「……だいじょーぶだってば。それよりさ、なにかおはなししてよ?」
笑って。
荒い息のまま、それでも笑って。
心配させないように、何でもないことのように。
「そんなこと言ってる場合じゃ……」
「いいの。こんなのいつものことだし……そばにいてくれるだけでいいから」
「そんな……」
相変わらず息は荒いし、吐息は火のように熱い。
どう考えてもこのままじゃマズいと思う。
私じゃどうしようもないし、早く誰か呼んでこないと――
「氷を持ってくるだけ。すぐ戻ってくるから、ね?」
諭すように言ってみたが、フランは小さく首を振る。
振って、袖を握ったまま、左手の小指をかざす。
それは約束。誓い。そして――祈り。
「……そばにいて、くれるよね?」
「フラン……」
胡乱な視線は、意識の混濁すら示している。
焼けた身体は、隣にいるだけで熱を伝えてくる。
息が荒い。吐息が熱い。袖を握り締める手にもまるで力を感じられない。
医学の心得がない私でも、それがどれだけ危険な状態か容易に判別が付く。躊躇している暇なんてない。すぐにでも人を呼ばないと本当に生命に関わるだろう。
それでも、その手を振り解くことなんて――私にはできなかった。
「わかった……そばにいるよ。だから眠って、ね?」
手を握る。
小さな手を、両手で包み込む。
その熱を、苦しみを、少しでも取り除けるように、安心させるように。
「あり……がと」
弱々しく頷きながら、
それでも嬉しそうに笑って――フランは目を閉じた。
§
フランが眠っている。
眠っているのに、私の袖を離そうとしない。
「フラン……」
手を当てる。少しでも熱を下げる手助けになればと、フランの額に手を当てる。
でも、それでは追いつかないくらいにフランの身体が熱い。全身汗だくで、拭っても拭っても汗が吹き出てくる。息は荒く、時折苦しげに身を捩り、うなされているのか、口からは苦しげな呻きが漏れている。
本当に――このままでいいのだろうか。
今すぐ人を呼んで、治療をしないといけないんじゃないだろうか。
そう考えるといても立ってもいられない。今すぐ駆け出して、誰かに助けを求めたい。
だけど、フランの手はしっかりと私の袖を握ったまま。
苦しそうに喘ぎ、時折顔を顰めながら、それでも袖を握ったまま。
「フラン……」
声を掛けることしかできない自分が恨めしい。
できるなら、代わりにその苦しみを引き受けてやりたかった。
「う、あ」
フランの口から苦しげな吐息が漏れる。
悪い夢でも見ているのだろうか。目をきつく閉じ、軋みそうなほど歯を食いしばってフランは何かを必死に耐えている。身を捩り、滝のような汗を流し、それでも何かを堪えている様は、ただ見ていることしかできない私にとって拷問にも等しかった。
「――あ、は、あ……あああああああああああああ!!」
「フラン……フラン!?」
苦悶の叫びをあげるフランに必死で呼びかける。
フランは返事をしない。ただ、苦しそうに身を捩るだけ。
耐えられない。こんなの耐えられっこない。
今すぐ人を呼んでこようと身を起こしかけた時、
「……ミ、サト?」
私を呼ぶ、小さな声。
蚊の鳴くような、細い声。
「そこに……いる?」
目を閉じ、息を荒げたまま、それでもぎゅっと力を篭めて。
私の袖に縋りつくように。
私に救いを求めるように。
限界だった。
もう、一秒だって耐えられなかった。
「待ってて! すぐ戻ってくるから!」
強引に手を振りほどく。立ち上がってドアへと向かう。
背中に悲痛な叫びが突き刺さる。罪悪感に胸が押し潰される。
それでも、私じゃ駄目だから。
このまま見ているだけなんて――私の心が耐えられないから。
私は逃げるように、階段を駆け上がった。
§
「成る程、ね」
酷く冷静な顔でそう呟くと、彼女は、ちりん、と呼び鈴を鳴らした。
途端に風が渦巻き、一陣のつむじ風と共に黒い司書服に身を固めた少女が現れる。
「お呼びですか、パチュリー様?」
彼女は赤毛の司書へと一瞥を投げかける。
「五番と八番を調合して。比率は一対二。それと……チョウセンアサガオの種は残っていたかしら?」
「あー、品切れですねぇ。こないだ実験に使っちゃいましたし」
「そう。ならベラドンナでいいわ。花弁だけを弱火で煮詰めておいて。仕上げはこちらでするから、頃合を見て呼んで頂戴」
「鎮静剤なら私でも作れますよ?」
「相手はあの子よ? 加減を間違えればとんでもないことになるわ」
「了解しました。では後ほど」
「手早く、正確にね?」
司書さんは大きく頷くと、すぐに飛んでいってしまった。
私は口を挟むこともできず、二人の遣り取りを見守るだけ。
当初、咲夜さんのところに行こうと思っていた。
咲夜さんならきっとなんとかしてくれる――そう思っての行動だったが、この時間であれば咲夜さんはお嬢様に付いているはずだと気付いてからは自然と足が重くなった。
突然の発熱――それはレミリア様の仕業ではないか?
今朝の、あの意味深な物言いは、これを見越してのことではないだろうか。
一度そう考えてしまうと、迂闊に咲夜さんを頼るのも憚られる。そうこう迷っているうちに、足は自然とこちらへと向かっていた。
全ての智を収めた大図書館――そこの主、パチュリー・ノーレッジの下へと。
こんな時間に迷惑かとも思ったが、おそるおそる扉をノックすると、待ち構えていたように司書さんが顔を出した。用件を告げるより早く、司書さんはパチュリー様のもとへと案内してくれた。本も読まず、椅子に腰掛けていた彼女は、私がフランのことを説明する前に――「成る程ね」と呟いた。
まるで初めから、予測していたように。
まるで――全てが定められていたかのように。
「あ、あの……申し訳ありません。こんな時間に無理を言ってしまって……」
「いいのよ。そろそろこうなると思っていたし……元々、私は夜型だしね。それよりお茶でもいかが? 少しは気が休まるわよ」
テーブルには、最初から二つのカップが並んでいた。
血のように紅いお茶。用意が良すぎて、なんだか気味が悪い。
「その……本当にありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いわ。正直なところ、あの子にはどんな薬も効かないし」
「そ、そうなんですか!?」
「吸血鬼だしね。毒も効かない代わりに薬も効かないわ。まぁ、呪術的処置も加えてあるし、気休め程度にはなるでしょう」
「そ、そうですか……」
気落ちする私を、相変わらず感情の読めない瞳で眺めながら、彼女はぽつりと呟いた。
「……心配?」
「あ、当たり前です! その、あんな苦しそうにしてるの……もう、見てられなくて……」
「ふぅん」
相変わらずの無表情ではあるが、その瞳には興味の色が浮いている。
私の顔を――とても興味深そうに覗いている。
「あの……何か?」
「別に。そうね、薬ができるまで時間あるし……それまで話でもしましょうか?」
「話?」
「あと三十分ってとこかしら。それまでの、まぁ、暇つぶしね」
「はぁ」
正直なところ、そんな気分じゃない。
一刻も早くフランのところに戻りたい。
だが……薬ができるまで、何もできないというのもまた事実だった。
「何の……お話でしょうか?」
「そうね、何でもいいんだけど……ふむ。あの子の様子はどう? ああ、今の状態じゃなく、普段どんな感じかって意味で」
「……そうですね。いい子だと思います。無邪気で、いつもにこにこ笑って、それでいて他人を思いやることもできる……とても優しい子です」
「ふむふむ。普通の女の子みたいに?」
「ええ」
「昔の自分を見ているみたいに?」
「……どうでしょう? 私はあんなにいい子じゃなかったと思います。わがままを言って、いつもおじいさんを困らせていましたし」
月の明るい夜、縁側に座ったおじいさんの顔を思い出す。
みんなと一緒に泳ぎたいと、わがままを言ったあの時も――おじいさんは困っているような、悲しんでいるような、そんな複雑な表情を浮かべていた。大好きな人にそんな顔をさせてしまう私は……きっといい子じゃなかったと思う。
「あの子と貴女は違うと?」
「ええ。私なんかより、あの子はずっと優しい子ですよ」
「成る程、そういうものかしらね」
そう言って、彼女は小さく頷く。
相変わらず表情が読めない。感情も読み取れない。
「それじゃ次に……あの子とは、普段どんな話をしてるのかしら?」
「えっと……他愛もない話です。里のこととか、外のこととか……ああ、こないだは本を貸してくださってありがとうございました。お礼が遅れて申し訳ありません」
「ん? ああ、いいのよ。特殊な魔導書でもない限り、言ってくれればいつでも貸し出すわ。本は飾りじゃない、読まれてこそ本よ。それが誰であろうともね?」
「助かります。あの子も喜んでいました」
「あら、そうなの?」
「ええ。まだ全部は読めていないんですが、どの話も夢中で聞いていましたよ?」
「ふぅん――成る程」
まただ。
また、彼女の顔から表情が消える。
本の話をした時に僅かに覗いた嬉しそうな表情は消え、完全に感情を隠してしまう。
そして、やっと気付いた。
彼女が頷くたび――その表情が、より不鮮明に、ぼやけていくことに。
「パ、パチュリー様……?」
「何?」
返事があった。
それが意外に感じられるほどに、彼女の顔から表情が消えている。
「あ、いえ……その……あ、あの子は大丈夫でしょうか?」
「発熱のこと?」
「は、はい」
「心配ないわ。ただの知恵熱よ」
「知恵、熱……ですか?」
「そう。ただの、ね? 知恵熱って、普段滅多に頭を使わない者が偶に頭を使いすぎて発熱するものだと思っているでしょう?」
「え? あ、はい」
「実はそれって何の医学的根拠もないのよ。医学的な見地から見た知恵熱とは――乳離れをしたばかりの乳児が、頻繁に原因不明の発熱に悩まされることを指すのよ。自我を持ち始めた子供が、生まれて初めて知恵を使い始めた証だと、ね。まぁ、これも俗説。本当は母親から母乳という形で受け取っていた様々な免疫物質を、乳離れをしたことにより一時的に失ってしまうことによる感染症の一種なの。自力で免疫を構築できるようになるまでの……言ってしまえば一番無防備な状態だからこそ罹る複合的な症状ってわけ。だから頭を使いすぎたからといって、それと発熱することには何の因果関係もないのよ」
「そ、そうなんですか?」
「でも――あの子は違う。本来ならノイズとして認識すらされない情報群を全て過不足なく受け止めてしまうことにより、脳が限界まで処理速度を上げようとした結果によるもの。文字通り、俗説通りの知恵熱ね。吸血鬼は脳なんて単純で科学的なものを必要としない――これはレミィがよく口にする冗句だけど、ある面では真実を指しているわ。通常、脳が得られる情報は五感を通したものでしかないけれど、感覚器を通した時点で情報としては劣化しているの。劣化した情報では正しい認識を得られるはずもないでしょう? だけど――吸血鬼は違う。世界そのものを、感覚器を通すことなくダイレクトに認識している。さて、あの子たちにはこの世界がどういう風に見えているのかしらね?」
「…………」
興味深い話、ではある。
でもそれがどういう意味を持つのか解らない。
「まぁ、そんなところで吸血鬼と私たちでは世界の見え方が異なるというのは理解して貰えたと思うけど……大丈夫かしら?」
「はぁ……まぁ、その、なんとなく……」
「結構。ではそれを踏まえて質問するけど、貴女は記憶ってどういうものだと認識してる?」
「記憶ですか? 認識と言われましても……」
正直、話の半分も理解できない。
訳のわからない薀蓄を並べ、急に認識がどうとか言われても繋がりがさっぱり掴めない。
ただ、フランを苦しめているもの――それが何なのかということには興味があった。
「思い出とか……そういうものじゃないでしょうか?」
とりあえず思い浮かんだものを、素直に答えてみる。
それがこの場における受け答えとして正しいか……どうせ私には判別がつかないのだから。
彼女は、相変わらず表情を変えない。
あれだけ饒舌に語っておいて、眉一つ動かさない。
なんだか私は――出来の悪い人形劇の舞台に立っているような錯覚に陥る。目の前の彼女は腹話術を講じる人形で、向かい合う私もまた糸の切れた操り人形であるような……。
「思い出――それもまた、記憶の一面ではあるわね。記憶は記録。そして突き詰めればどちらもただの情報に過ぎないもの。人は一度その情報を脳内に納めることで、情報へと繋がる鍵を手に入れる。必要な情報をいつでも取り出せるための鍵をね?」
「は、はぁ……」
「例えば書物。人はその本の内容を一言一句覚える必要なんてないわ。どの本に、どんな情報が載っていたか――それさえ知っていれば、必要な時にもう一度その書物を読み返せばいいだけでしょう? そうすることで正確に情報を再現できる。自身で全てを保持する必要なんてないのよ。扉を開く鍵さえ持っていればいいの」
「それはまぁ……そうですね」
「だけど――あの子たちは情報を保持する必要すらない。だって……情報は私たちの周りを取り囲む水や空気にすら保存されているんだもの。世界は空で繋がっている。いつだって、何処だって、リアルタイムに完全な情報を手に入れることができる。でも……脳には忘却という機能があるけど、脳を必要としない彼女たちは情報の取捨選択を自力で行わなければならない。こんなの自分で自分の心臓を動かせと言っているようなものよ。食事をする時も、遊んでいる時も、話をしている時も、眠っている時も……一分一秒とて休むことは許されない。当然よね? 心臓を動かすことを止めたら死ぬだけだもの」
「そ、それが病気の理由なんですか!?」
思わず身を乗り出した私を片手で制し、彼女は淡々と言葉を繋げる。
「レミィなんかはもう手馴れたものだから、不要な情報は無意識だろうと廃棄することができる、いえ初めから情報取得に制限を設けているけれど……あの子にはまだ難しいでしょうね。だって――生まれてから一週間も経ってないんだもの」
「――え?」
「初日に見たんじゃない? あの子が殺されるところ。雛形である貴女と一緒じゃない時はあの子の時間も止まっているから……そうね、そろそろ一週間ってとこかしらね。瞳は今、何色だった?」
解らない。
彼女が何を言っているのか解らない。
確かにフランと初めて会った時――槍で射抜かれ、頭蓋を粉砕されて――あの子は殺されたけれど――実の姉の手で――そんなことくらいで死ぬような存在では――それとも、その認識が間違っているのだろうか? あの子はあの時殺されて――壁に磔にされて――それから生まれ変わって――瞳がちかちかと瞬いて――私と出会って――赤から青に――一緒にお菓子を食べて――青から黄色に――色んな話をして――黄色から橙色に、そして緑に――私を友達だと言ってくれて――――――
「あの子が地下に篭っているのは、情報の渦から自分の身を守るためよ。この館を幻想郷に移したのもそのため。幻想郷、紅魔館、地下室――これらは個別に異なる属性の結界が張られている。三重結界に守られているからこそ、あの子は安定していた。いえ、安定というのもおかしな話か。だって……あの子には本来、自我なんて存在しないんだもの」
「自我が――存在しない?」
だって……
あの子は笑って……色んな話をして……
「いい子だったでしょ? 昔の自分に似ていて」
弾かれたように顔を上げる。
目の前には、何も映さない紫の瞳。
私の視線を受けても、まるで揺れることのない完全な混沌。
「理解したようね? そう、あの子には基盤となる自我がない。かつて情報の渦に飲み込まれ、何千、何万、いえ何十億という人々の意識、経験、情動を識ってしまったあの子は、自分というものを見失ってしまった。いえ、最初から与えてもらえなかった。だからこそ、雛形と定めた人格を模倣するの。世界と直接繋がっているあの子は、世界の記録を読み取れる。まして個を持った存在が目の前にいれば、一切の比喩なくその記憶を、経験を、感情を、全て余すところなく読み取ることが出来る。無論、雛形となった貴女はそれに気付かない。気付くことすらできない。言ったでしょう? 吸血鬼の認識能力は私たちとは異なるって。自分のことは――自分が一番解らないものよ?」
「で、でも、そんなこと……」
「私は生まれて百年程度の新参魔女だから詳しく知らないけれど……あの子たちは何百年もそうやって過ごしてきたそうよ。情報の負荷に耐え切れなくなったあの子をレミィが殺して、殺して殺して殺して……記憶を、感情を、人格を零に戻して、そこからまた積み上げてきた。正直なところ、そうまでして現世にしがみつく理由が解らないけどね? 何も目的がないのに、存在するだけだなんて――意味がないもの」
彼女は饒舌に、なのに何の感情も浮かべないままそう語る。
理解できない。いや、したくもない。そんな戯言、私は絶対信じない。
だって、そんなの――
「それと、もうひとつ」
嫌だ、もう聞きたくない。これ以上何も考えたくない。
早くフランのところに帰りたい。声を聞きたい。体温を感じたい。
生きているのだと、自分の意思で生きているのだと――そう確信したい。
「あの子の能力のことだけど……聞いているかしら?」
私は、ふるふると首を振る。
知らない。そんなもの知りたくもない。
「あの子の能力は――ありとあらゆるものを壊す力。それこそあの子が望むなら世界だって壊せるわ。あの子たちは世界と直接繋がっている。レミィが世界の記憶を読み取って自在に編纂できるように、あの子もまた世界の核に触れることができる。そこに理論や理屈なんて必要ないわ。だって、はじめからそうあるべく彼女たちは創られたのだから」
「つく、られた――?」
「彼女たちは吸血鬼……でも、おかしいとは思わない? 他を圧する強大な力を持ちながら、日の光を浴びると灰になる、流れる水を渡れない、にんにくも駄目だし、十字架も駄目……都合良過ぎると思わない? あつらえたように弱点まみれだと思わない? これじゃまるで人間に倒されるためにあるようなものじゃないの。力と恐怖で人々に忌み嫌われる癖に、弱点を無数に持つことによって人に倒される余地を残す……こんなのまるで物語の悪役じゃない。だけどそれが当然なのよ。だって……そうあるように人々に求められたのだから」
「もとめ、られた――?」
「それが幻想――人々の編み出した都合の良い架空存在。吸血鬼だけじゃないわ。妖怪や妖獣、悪魔や神だって似たようなものよ。もっとも……実体化して自我を持った時点で、本来望まれた形とは異なってしまうんだけどね。レミィなんか日の光を日傘程度で防げるし、十字架だって全然平気。にんにくは臭いから嫌いって言ってたけど……ともあれ、人の願いが形になったものが彼女たちなのだから、当然人々が無意識に望むものも彼女たちを構成する要素に含まれてしまう。彼女たちに与えられたもの……一つは『思い描いたとおりの未来を顕現させること』であり、そしてもう一つが『世界を滅ぼすこと』よ。未来、もしくは運命を操りたいという願望は説明するまでもないでしょうけど、世界を壊してしまいたいという願望もまた人であれば必ず持っているものよ。生きている者で、死を考えたことのない人間なんていないでしょう? そしてその死は自身の死のみならず、全てを道連れにすることを求めている。赤信号、みんなで渡れば怖くないってね。貴女だって……世界を滅ぼしたいと思ったことが一度くらいあるんじゃない?」
「わ、私は――」
滅ぼしたいと、思ったことはない。
でも……滅べばいいのにと、願ったことはある。
ならばそれは同じなのか。
能動的か、受動的かの違いはあっても、結果としては同じだというのか。
そんなこと……だけど……でも……。
「あの子は貴女を雛形にしている。だからもし、貴女が世界の終わりを望むなら」
――その願いは叶うわよ?
そう言って紫の混沌は――にたりと笑った。
私は答えない。
答えることができない。
そのような妄言を信じるわけには、認めるわけにはいかない。もっともらしく述べたところで、その言葉を裏付けるものなど何もない。
それに……そうだ。フランは私と出会う前のことを、切れ切れではあるが語ってくれた。
もし本当に殺される度に全てがリセットされるなら、そんなこと覚えているわけないじゃないか。生まれたての赤子のように笑うフランの顔――それは本当に無垢で、無邪気で、清らかだけれど、それはフランの地であって、だけど、でも――
「そんなこと……信じられません」
俯いたまま、そう言った。
顔は上げない。あの紫の目を見ると飲み込まれてしまう。
顔を伏せ、自分の心のみを拠り所にし、彼女の言葉を否定する。
「ふむ……やっぱり騙されてはくれないか」
「――え?」
顔を上げると、彼女が口元に幽かな笑みを浮かべている。
「言ったでしょう? 薬が出来上がるまでの暇つぶしだって。適当に与太を並べてみたけれど、流石に飛躍が過ぎたかしら? まぁ、時間制限もあったことだし、そこは勘弁してもらいたいけどね?」
「え、え?」
「さて、そろそろ頃合かしら。ちょっと待ってて、仕上げをしてくるから。そうね……五分で済むから、適当に時間を潰しておいて頂戴」
そう言うと、
彼女はふらりと立ち上がって、図書館の奥へと消え去る。
取り残された私は、
呆然とその背中を見送ることしかできなかった――
§
階段を降りる。
頂いた薬はガラスの小瓶に入っていたので、落としたりしたら大変だ。両手で握り、一歩ずつ足元を確かめながら、慎重に階段を降りる。
お腹が重たい。彼女の言葉がどっかりとお腹に残っている。最後の最後で私は拳の振り下ろす先を見失ってしまった。望みどおり、彼女の言葉は彼女自身によって否定されたけど、でも、だからこそ、すっきりしない。
どこまでが嘘なのか。
どこからが嘘なのか。
この薬は本当に信用できるのか。彼女のところに行ったのは間違いではなかったか。そもそも、あの子の元を離れてはいけなかったんじゃないか――考えても考えても答えは出ない。
「フラン……」
あの子は吸血鬼で、自我を持っていなくて。
私を模倣してて、世界を壊す力を持っていて。
情報の渦から身を守るために地下に篭って、殺される度に新しく生まれ変わって。
瞳の色が変わって、生まれてから一週間も経ってなくて、そしてもうすぐ『週末』で。
否定されたことによって、尚も深まる疑念。
ひょっとしてあれは――真実だったのではないか、と。
「馬鹿馬鹿しい……」
多分、引きずられているのだろう。フランの、突然の発熱という状況に。
普段ならきっと鼻にも掛けず、適当に聞き流していたはずだ。あまり頭の良い方ではないという自覚があるから、絶対に引っ掛からないと断言はできないけれど、それも信じるか信じないかで言ったら半々だろう。
あの場で、そう言ったように。
そんな戯言は信じないと、そう言い切ったように。
そう、だからこそ逆説的に――今の私は信じる方向に傾いていた。彼女の言葉全てとは言わない。だが紛れもない『真実』があの言葉には含まれていたと、今の私は確信している。
無論、だからどうしたというものではないが。
たとえそうだとしても、私はフランの友達でありたいと思っているのだから。
階段が終わる。
長い廊下が続いている。
壁際に並ぶ燭台。その弱々しい炎が、先の先まで続いている。
「――え?」
いや、それは続いていなかった。
ある地点より先で、ふっつりと途切れている。
誘導灯のように続いていた光が、ふっつりと、途中から。
気付いた瞬間、私は駆け出していた。小瓶を握り締め、必死で足を動かす。毛の長い絨毯が足音すら殺してしまう。足を動かして、無音の世界をひたすらに。燭台の炎に誘われるように奥へ、奥へ、奥へ――。
「なに、これ――?」
廊下の突き当たり。その周辺の蝋燭が全て消えている。魔力によって永遠の光を約束された炎が一つ残らず消えている。そして――闇よりも昏く、夜よりも深く、だからこそ周囲の闇にすら溶け込むこともできない異物が――その扉が、其処にあった。
禍々しい紋章が、びっしりと刻まれた扉。
魔を封じる結界、そんな不吉な印象を与える扉。
そしてこれまで――毎晩のようにくぐっていた扉。
周囲の灯りが消えているというだけで、これほど禍々しくなるのかと。
こんなものに私は毎晩触れていたのかと、そう――思ってしまうような扉だった。
躊躇う。ノブに手を伸ばすのを躊躇ってしまう。初日の、初めてこの部屋を訪れた時のものとは全く違う種類の理由で手が止まる。
あの時は緊張と恐怖――自己の内面から生じたものが私の手を止めていた。
でも今は、この扉から滲み出るものが私の手を止めている。
この扉は――私を拒絶している。
「フラン……なの?」
それでも、辛うじて右手を伸ばした。
ノブに手を掛け、右に回す。
回らない。ノブは固定されているように回らない。
「私……鍵なんて掛けてないよね……?」
敢えて口にしたのは、認めたくないから。
ポケットから鍵を取り出す。鍵を差し込む。鍵を回す。
かちり、と鍵の掛かる音がする。もう一度、鍵を回す。かちりと鍵の外れる音がする。
鍵を回すと鍵が掛かるということは、最初から鍵など掛かっていなかったということで、そんな当たり前のことをわざわざ言葉で確かめないと思考することさえ侭ならず――
「ねぇ……?」
扉にもたれる。
禍々しい扉に、縋るようにもたれかかって。
「開けてよ……フラン……」
小さく、か細く、蚊の鳴くような声で。
許しを請うように、救いを求めるように。
「お願い……だから……」
返事は期待していなかった。
なのに――返事があった。
――嘘吐き。
扉の向こうから、なのに耳元で囁かれているように明瞭に。
――約束したのに。
それは聞き慣れた、少し舌ったらずな声で。
――指きり、したのに。
なのに初めて聞くような、静かな怒りを必死に堪えているような声で。
――側にいてくれるって……言ったのに!
「違う! フラン、私は――」
扉に身を寄せる。少しでも距離を縮めようと、肩からぶつかって声を振り絞る。
フランを助けたいと。
これ以上苦しませたくないと、そう思って部屋を出たのだ。
その判断は間違っていたとは思えない。あの時の私にはフランを救う術がなかったし、あのまま手をこまねいて見ているわけにはいかないと思ったのだ。
「薬を持ってきたの! だからお願い、扉を開けて!」
扉を叩く。拳が壊れても構わないつもりで何度も扉を叩く。
だけど鉄の扉は身じろぎもせず、
拳も、声も、全て跳ね返して、
――いらない。
扉は、冷たく閉ざされたまま、
――ミサトなんか、もういらない。
私たちの心も遮った。
§
背中が冷たい。
扉にもたれかかった背中から、全身の熱が奪われていく。
廊下にしゃがみこんで、膝を抱えたまま、ただ、ただ奪われていく。
すりむけた拳からは血が滲んでいる。じんじんと痺れるように傷が痛む。
周囲の灯りは消えたままで、廊下の先にぽつぽつと光る燭台の炎が酷く遠くに感じる。
闇の中、膝を抱えている私。
惨めで無様。まるで捨てられた犬のよう。
捨てられたことにも気がつかず、雨の日も風の日もずっと主人を待っている――そんな頭の悪い犬みたいで、思わず笑ってしまいそうになる。
「まるで、じゃなくてまんまじゃないの」
主人に捨てられた。
いらないって言われた。
だからそれで終わり。とぼとぼと、尻尾を巻いて逃げ出すだけ。
今更役立たずの烙印を押されようと、そんなの初めから自覚していたし、別の仕事ならまだ生きる道もあるだろう。あの働かない妖精たちと一緒に館の清掃をするのもいい。何をやっても上手くいかない私はそこでもやっぱり上手くやれないだろうけど、それでもひたすら手を動かせばいい。仕事なんてそんなもの。人に認められるためでも、友達を作るためでもない。生きていくためだ。働かないとご飯が食べられないからだ。だから死にたくないなら、働くしかない。だけど――
「死んじゃってもいいかなぁ」
どうせ役に立たないし。
生きていてもあんまり良いことないし。
熱が奪われていく。
生きていくために必要な、大事な力が抜けていく。
重く、冷たい鉄の扉が、私の力を奪っていく。
「ねぇ、フラン」
蹲ったまま、膝を抱えたまま、
それでも、そうなのだとしても、
「私たち……友達だったよね?」
祈りのような、浅ましい声。
そして扉は――やっぱり何も答えてくれなかった。
§
夢を見ていた。
空を埋め尽くすほどの蜻蛉が、縦横無尽に飛んでいる。
夏はとっくに終わったのに、奇妙なほどに蒸し暑い――それは、そんな秋の日だった。
何か予感があったわけではない。寺子屋の授業が終わって家に帰る途中、ふと、おじいさんの工房に寄ってみようと思ったのだ。
別にとりたてて珍しいことじゃないし、週に一度はそうしていた。
竈の燃え盛る炎を見るのが好きだった。
おじいさんの大きな背中を見るのが好きだった。
どろどろに溶けたガラスが、徐々に形を持っていくのが好きだった。
ただそれだけの、何も特別じゃない理由で工房を訪れ――倒れているおじいさんを見つけた。
おじいさんは竈の前に蹲り、苦しそうに胸を押さえている。
近頃とみに心臓が弱くなったと零していたおじいさんの言葉を思い出す。
驚いて、駆け寄って。
声を掛けて、揺さぶって。
返事もできず苦しそうに蹲るおじいさんを見て、すぐに医者に連れて行かなければと思った。
工房は里の外れにあり、病院は里の中心にある。迷っている暇も、泣いている暇もない。急いで運ばないといけない。
おじいさんを抱えようとして、でもできなくて。
非力な私ではおじいさんの大きな身体は持ち上がらなくて。
泣きそうになりながら、どんなに力を篭めてもどうしようもなくって。
だから私は駆け出した。
一刻も早く医者を呼んでこようと駆け出した。
駆け出して、すぐに転んだ。立ち上がって駆け出して、すぐにまた転んで、膝も、肘も、擦り傷だらけになって、それでも必死で、おじいさんを助けたくて――
間に合わない――そう悟るまで、そんなに時間は掛からなかった。
どんなに足を動かしても、身体はちっとも進まない。
気持ちばかり先走って、足元すらおぼつかない。
何度も転んで、傷だらけになって、それでも遅々として進まなくて――
「あっ!?」
また、足がもつれる。身体が宙に浮く。
一瞬後にくるはずの衝撃に思わず目を閉じて――
でも……衝撃はなかった。
背中から、服を突き破って伸びた羽根が、私の身体を浮かせていた。
戸惑う。これまで飛んだことなど一度もない。飛ぼうと思ったことすらない。なのに身体は自然に、それが当たり前であるように私の身体を浮かせている。
周囲には空を埋め尽くす蜻蛉の群れ。
私は飛び方なんか知らない。
だから私の周りを自由に飛び回っている蜻蛉たちを真似た。
頭の中で蜻蛉をイメージし、羽根を絞って、身体の力を抜いて――
私は飛んだ。
腕を動かす延長で背中の羽根を動かす。正面からぶつかる風に目を細める。速い。歩くよりも、走るよりも、何倍も速い。行く手を塞ぐ木々も、家も、人も、全て飛び越えて――気が付けば私は医者の家に辿り着いていた。
いきなり降り立った私に医者は目を丸くしていたが、それでも事情を説明すると快く付いてきてくれた。私の羽根は飛ぶのに重さとかはあまり関係ないようで、医者を抱えても何とか飛ぶことができた。初老で小柄とはいえ男の人ひとり抱えるわけだから、羽根よりも腕の方が痛かったけれど、そんなこと言ってられなかった。来た時よりもなお速く、私は工房に向かって飛び続けて――
それでも――間に合わなかった。
私たちが工房で見たものは、苦しそうな表情のまま、何かを求めるように腕を伸ばしている、おじいさんだった『もの』だった。
まだ触れると温かいのに、これからはどんどん冷たくなるだけの、そんなものだった。
取り乱す私を医者は優しく慰めてくれた。
そんなもの、何の気休めにもならなかった。
おじいさんの身体が悪いことは知っていたんだし、いつも一人にしないよう気をつけるべきだったとか、私がもっと速く飛んでいれば間に合ったかもしれないのにとか、そういうものが次々と湧いてきて、私はそれから一月もの間、ひたすら自分を責め続けた。
おばあさんは私を責めたりしなかったけど、それでもおじいさんを亡くしてからはめっきりと老け込んでしまった。
だけどこれは夢。
どれほど悲しくても、それはすでに通り過ぎた場所。
でも、だからこそ解る。
あの時の、おじいさんを救いたいという気持ちは本物だったけれど……きっと私は逃げ出したのだ。
苦しんでいるおじいさんの姿を、これ以上見ていられなかったのだ。
そして、今もまた――
目を覚ます。
周囲はやっぱり真っ暗で、鉄の扉は相変わらず無言のまま。
顔を上げる。膝を抱えたままだった身体はぎしぎしと関節が軋んでいる。泣き腫らした瞼は気を抜くと再び閉じてしまいそうになる。
「フラン……」
返事がないのは解っている。
それでも私は呼びかけていた。
もう、何度目になるか解らないくらい、愚かにも同じことを繰り返して。
立ち上がる気力もない。
このまま朽ちてしまいたい。
それでも、壊れたラジオのように、もう一度あの子の名前を呼ぼうとして――
「――え?」
いきなり、扉が開いた。
扉に身体を預けていた私は、体勢を崩して部屋の中に転がり込む。
扉の前には誰もいない。あれだけ強固に閉じられていた扉が、何の抵抗もなく自然に開いたということに戸惑いながら――
そして――フランと目が合った。
ひっくり返って、逆さまになった視界の中で、フランがやんわりとほころんでいる。
ベッドに腰掛け、自然な、不自然なほどに自然な、そんな笑みを浮かべている。
「フ、フラン!?」
飛び起きる。身体を起こし、犬のように這ったままフランの元へと向かう。
色んなことが頭の中に溢れかえって、何一つまともに形を成さない。
何も言えず、ただ足元に跪いて見上げている私へと、フランはにっこりと微笑んだ。
「ずっと、いてくれたんだね?」
弾む声で。
とても、嬉しそうに。
「わたし、信じてたよ? ミサトはわたしを裏切らないって」
手を伸ばし、
跪いた私の頬を、そっと撫でながら。
「不安だった。こわかった。色んなものがわたしの中で暴れまわって壊れちゃいそうだった。でもね、わたしがんばったよ? ミサトがそこにいてくれるってわかってたから、どんなことでも耐えられた。とびら越しにミサトの体温をかんじて、ミサトのこえを聞いて。ふふっ、ぜんぶミサトのおかげだよ? 本当にありがとう」
ちかちかと瞬く瞳。
赤から青へ、青から黄色へ、黄色から橙色へ、橙色から緑へ、緑から藍へ。
それはどこか不吉で、何かが欠けたままの――丸い虹。
「――フ、フラン?」
「わたし、わかったんだ。ミサトがぜんぶ教えてくれたんだよ? あはは、なーんかすっごくすっきりした! そうだよ、そうなんだよね。痛いこととか、苦しいこととか、なんでなくならないんだろう、どうしてみんな喧嘩ばっかりするんだろうってずっと思ってたけど、そんなの当たり前のことだったんだ。だって、」
――世界ははじめから壊れてるんだもん。
そう言って、フランは笑った。
晴れやかに、屈託なく、心の底から楽しそうに。
それはとても無邪気で、穢れなく、
だけどどこか歪んで、壊れているような、そんな笑いで。
フランが立ち上がる。
ベッドの上でくるくる回る。
回りながら、跳ねながら、出鱈目に、リズムもなく、それでもなお軽やかに。
滑るように、唄うように、あやすように、絡めるように。
楽しそうに、とても楽しそうに。
くるくる、くるくる、くるくると――
「フ、フラン……」
狂ったように跳ね回るフランを見上げ、私は呆然と呟く。
それは私の知っているフランではない。虹の翼を揺らして踊る彼女を眺めながら、私は為すすべもなくへたりこむことしかできない。
虹の瞳が私を見つける。
その口元から白い牙を覗かせる。
「ねぇ、ミサト? わたし一つ聞いてみたいことがあるんだけど」
甘く、蕩かすような声で、
顔を近づけ、私の瞳を見つめたまま、
にやにやと、にたにたと、凶った笑みを浮かべて、
「そんなに……おばあさんのことが憎かったの?」
そう言って――『彼女』は哂った。
「せまっくるしいところねぇ。飾り気もないし……持ち主に似て面白みがないわ」
部屋に入るなり、レミリア様はそう言った。
じろじろと部屋を見渡し、不機嫌そうに顔を顰めている。ここはアンタの館で、ここはアンタのところの客間だという言葉が喉の奥まで出かけたが、ぎりぎりのところで飲み込んだ。流石にもう何を言っても無駄だと、骨の髄まで思い知らされている。
階段で私を待ち構えていた彼女は、「お疲れのところ悪いけど、ちょっと顔貸してくれない?」と全然悪いと思っていない口ぶりでそう言った。彼女の部屋に行くのかと思ったが、何の気紛れか「あなたの部屋で構わないわ。さっさと案内しなさい」とこの上なく上から目線でそう言ってくださった。先程までの浮かれ気分は綺麗さっぱり吹き飛んで、ひたすら疲労だけが圧し掛かってくる。
「それで……どういったご用件でしょうか?」
「せっかちねぇ。主を迎えるのにお茶ひとつ出さないってわけ? そんなことではこれから先が思いやられるわね」
にやにやと笑いながら、そんなことを仰るレミリア様。
落ち着け、私。
耐えろ、私。
「……失礼しました。少々お待ちください」
一礼して退室し、厨房へと向かう。これ以上文句を言われてはたまらないので、料理長にお願いして最高級のお茶を用意してもらった。
香り付けとして飲む直前に血を数滴垂らすのがポイントと料理長は言っていたが、そこはまぁ勘弁してもらおう。
痛いの嫌だし。
「お待たせしました」
「遅いわよ。このノロマ」
……開口一番これだ。
お嬢様の癖にだらしなくベッドに寝っころがり、頬杖をついたまま不機嫌そうに文句を垂れていらっしゃる。
我慢しろ、私。これも仕事だ。
「……粗茶ですが」
「ふぅん。どれ……わ、なにこれ? 酸味ばっか強くてお茶の旨味が全部死んでるじゃないの。あーあー不味い不味い。ったく、お茶ひとつ満足に淹れられないのかしら?」
寝っころがったまんまカップに口を付けるという、マナーもなにもあったもんじゃない格好の癖になんでそこまで偉そうにできるんだか。
改めて咲夜さんは凄いと思う。
よくもまぁこんな人の下で、平気でいられるもんだ。
不味い不味いと言いつつもカップから口を離さないレミリア様を眺め、改めて何の用なのだろうかと考える。
暇潰しがてら私を苛めにきただけという気もするのだが……
「そのとおり。あんたを苛めにきたのよ」
「って、私また顔に出ちゃってました!?」
「ふふん。一目瞭然ね」
なんということだろう……これは本気でフェイシャルトレーニングを積むべきかもしれない。
ある意味才能のような気もするが、考えていることが筒抜けな才能なんて嬉しくもなんともない。
まさか私がレミリア様のことを、チビの癖に生意気だとか、格好つけたところで風車のように空回りとか考えていると知れたら、それこそ本当に生命がない。
「お望みどおり殺してあげましょうか?」
「だからなんで解るんですかっ!?」
年の功よ、なんてさらりと仰られる。
外見は一桁台の癖に。
「あんたねぇ……私のこと幾つだと思ってるのよ?」
「って心を読むのを前提に会話を繋げるの止めましょうよ……えーと、お幾つなんですか?」
「レディに年を聞くなんて失礼ね? 育ちが知れるわ」
……なんか本気でムカムカしてきた。
何しにきたんだ、この人。
「だからあんたを苛めにきたんだってば」
「はいはい。解りました。で、私はどうすれば宜しいんでしょうか?」
「最初からそう言えばいいのよ。ほんと気が利かないわねぇ」
疲れるなぁ……。
なんかもう何を言っても無駄な気がしたので黙って頭を下げる。
「さて……まぁ、あんたに用事なんてひとつしかないんだけどね?」
「フラン……っと、フランドール様のことですか?」
「ああ、もうフランって呼んでいるんだ? 早かったわね。もう少し掛かると思ってた」
「……どういう、ことでしょうか?」
「運命は加速している。川の流れが狭くなれば、その流れも早くなるが道理。選択肢を増やし、可能性の振幅を広げようとも、収束する流れは止められないし本流も外れない。むしろ奔流というべきかしらね? どうせ私たちには押し流されることしかできないもの」
何を……言ってるんだろう。
意味が解らない。
解らないけどこれは……私とフランのことだろうか?
「解りやすくギャルゲーに例えると、もうフランルートに入ってるんだから、今更変更は効かないってことよ?」
「いやこの上なく解りやすいですけど! 幻想郷的にその表現はどうなんでしょうか!?」
解る私も私だけど。
解っちゃいけないような気がするのは気のせいだろうか。
「知ってるわよ? 貴女ってば色んなところでフラグ立てまくってるらしいじゃない? 美鈴や咲夜くらいならともかく小悪魔やパチェまで……ったく、あっちこっちフラフラと」
「意味が解りませんし、解りたくもありません」
フラグとかゆーな。
人を顔なし主人公みたいにゆーな。
「まぁ、フラグって言い方がアレなら『縁』と呼び変えてもいいわ。なんにせよ貴女の辿るべき道はすでに決定している。あの日、私が命じた時点でね? 貴女にはもう他の可能性は残っていないし、なればこそ私はこんなつまらない物語をいつまでもダラダラ読ませられるより、さっさとエンディングを見たいってわけよ。他人がイチャついてる姿なんて……読者としては面白くもなんともないでしょ?」
傲慢な、揶揄するような物言いではあるが、その瞳は笑っていなかった。
目を細め、まるで『敵』を睨むように――
「これからどうなるのか……私にはもう『視』えている。ならばもう、余計な横槍は挟ませないわ。こんな下らない物語はさっさと終わらせるべきなのよ。とはいえ私は自分の運命に干渉できない。私にできるのは枝を切り落とすことだけ。不要な選択肢を削り、運命を加速させるだけ。だから……」
――さっさと掛かってこい、と。
紅い瞳が、挑戦的に揺れている。
「貴女は……何なんです?」
「吸血鬼よ? 五百年もの間、同じところをぐるぐる回ってる哀れな歯車。そして――あの子もね?」
にやにやと、にたにたと。
楽しそうに、本当に愉しそうに。
気がつけば、ベッドの上にレミリア様の姿がない。
目を離したつもりもないのに、いつの間にかベッドの上には影すらなかった。
背後で扉の開く音がする。
振り向けば、今まさに部屋から出て行こうとするレミリア様の姿。
スカートを揺らし、
黒い翼をはためかせて、
「なんにせよ、あと数日のうちに決着はつくわ。それでは」
――『週末』に逢いましょう。
扉が閉まる。
私はひとり、取り残される――
§
その夜、フランが熱を出した。
「だーいじょーぶだよー。こんなん、どーってことないってー」
「な、何言ってるのよ!? 酷い熱じゃない!」
いつもなら扉を開けた瞬間飛びついてくるはずのフランが、今夜に限ってベッドから出てこようとしなかった。ベッドの上で身を起こし、にへらっと笑うだけ。
よく見れば、その顔がやけに赤い。
慌てて額に手を当てると、火傷しそうなくらい熱を発していた。
いや、火傷するなんて表現では生温い。身体が――まるで燃えているかのように。
「ちょっと待ってて! 今、氷持ってくるから!」
慌てて額から手を離し、扉へ向かおうとする私を、白い手が捕まえる。
振り返ると、うつ伏せになったフランが私の袖を掴んでいた。
「……だいじょーぶだってば。それよりさ、なにかおはなししてよ?」
笑って。
荒い息のまま、それでも笑って。
心配させないように、何でもないことのように。
「そんなこと言ってる場合じゃ……」
「いいの。こんなのいつものことだし……そばにいてくれるだけでいいから」
「そんな……」
相変わらず息は荒いし、吐息は火のように熱い。
どう考えてもこのままじゃマズいと思う。
私じゃどうしようもないし、早く誰か呼んでこないと――
「氷を持ってくるだけ。すぐ戻ってくるから、ね?」
諭すように言ってみたが、フランは小さく首を振る。
振って、袖を握ったまま、左手の小指をかざす。
それは約束。誓い。そして――祈り。
「……そばにいて、くれるよね?」
「フラン……」
胡乱な視線は、意識の混濁すら示している。
焼けた身体は、隣にいるだけで熱を伝えてくる。
息が荒い。吐息が熱い。袖を握り締める手にもまるで力を感じられない。
医学の心得がない私でも、それがどれだけ危険な状態か容易に判別が付く。躊躇している暇なんてない。すぐにでも人を呼ばないと本当に生命に関わるだろう。
それでも、その手を振り解くことなんて――私にはできなかった。
「わかった……そばにいるよ。だから眠って、ね?」
手を握る。
小さな手を、両手で包み込む。
その熱を、苦しみを、少しでも取り除けるように、安心させるように。
「あり……がと」
弱々しく頷きながら、
それでも嬉しそうに笑って――フランは目を閉じた。
§
フランが眠っている。
眠っているのに、私の袖を離そうとしない。
「フラン……」
手を当てる。少しでも熱を下げる手助けになればと、フランの額に手を当てる。
でも、それでは追いつかないくらいにフランの身体が熱い。全身汗だくで、拭っても拭っても汗が吹き出てくる。息は荒く、時折苦しげに身を捩り、うなされているのか、口からは苦しげな呻きが漏れている。
本当に――このままでいいのだろうか。
今すぐ人を呼んで、治療をしないといけないんじゃないだろうか。
そう考えるといても立ってもいられない。今すぐ駆け出して、誰かに助けを求めたい。
だけど、フランの手はしっかりと私の袖を握ったまま。
苦しそうに喘ぎ、時折顔を顰めながら、それでも袖を握ったまま。
「フラン……」
声を掛けることしかできない自分が恨めしい。
できるなら、代わりにその苦しみを引き受けてやりたかった。
「う、あ」
フランの口から苦しげな吐息が漏れる。
悪い夢でも見ているのだろうか。目をきつく閉じ、軋みそうなほど歯を食いしばってフランは何かを必死に耐えている。身を捩り、滝のような汗を流し、それでも何かを堪えている様は、ただ見ていることしかできない私にとって拷問にも等しかった。
「――あ、は、あ……あああああああああああああ!!」
「フラン……フラン!?」
苦悶の叫びをあげるフランに必死で呼びかける。
フランは返事をしない。ただ、苦しそうに身を捩るだけ。
耐えられない。こんなの耐えられっこない。
今すぐ人を呼んでこようと身を起こしかけた時、
「……ミ、サト?」
私を呼ぶ、小さな声。
蚊の鳴くような、細い声。
「そこに……いる?」
目を閉じ、息を荒げたまま、それでもぎゅっと力を篭めて。
私の袖に縋りつくように。
私に救いを求めるように。
限界だった。
もう、一秒だって耐えられなかった。
「待ってて! すぐ戻ってくるから!」
強引に手を振りほどく。立ち上がってドアへと向かう。
背中に悲痛な叫びが突き刺さる。罪悪感に胸が押し潰される。
それでも、私じゃ駄目だから。
このまま見ているだけなんて――私の心が耐えられないから。
私は逃げるように、階段を駆け上がった。
§
「成る程、ね」
酷く冷静な顔でそう呟くと、彼女は、ちりん、と呼び鈴を鳴らした。
途端に風が渦巻き、一陣のつむじ風と共に黒い司書服に身を固めた少女が現れる。
「お呼びですか、パチュリー様?」
彼女は赤毛の司書へと一瞥を投げかける。
「五番と八番を調合して。比率は一対二。それと……チョウセンアサガオの種は残っていたかしら?」
「あー、品切れですねぇ。こないだ実験に使っちゃいましたし」
「そう。ならベラドンナでいいわ。花弁だけを弱火で煮詰めておいて。仕上げはこちらでするから、頃合を見て呼んで頂戴」
「鎮静剤なら私でも作れますよ?」
「相手はあの子よ? 加減を間違えればとんでもないことになるわ」
「了解しました。では後ほど」
「手早く、正確にね?」
司書さんは大きく頷くと、すぐに飛んでいってしまった。
私は口を挟むこともできず、二人の遣り取りを見守るだけ。
当初、咲夜さんのところに行こうと思っていた。
咲夜さんならきっとなんとかしてくれる――そう思っての行動だったが、この時間であれば咲夜さんはお嬢様に付いているはずだと気付いてからは自然と足が重くなった。
突然の発熱――それはレミリア様の仕業ではないか?
今朝の、あの意味深な物言いは、これを見越してのことではないだろうか。
一度そう考えてしまうと、迂闊に咲夜さんを頼るのも憚られる。そうこう迷っているうちに、足は自然とこちらへと向かっていた。
全ての智を収めた大図書館――そこの主、パチュリー・ノーレッジの下へと。
こんな時間に迷惑かとも思ったが、おそるおそる扉をノックすると、待ち構えていたように司書さんが顔を出した。用件を告げるより早く、司書さんはパチュリー様のもとへと案内してくれた。本も読まず、椅子に腰掛けていた彼女は、私がフランのことを説明する前に――「成る程ね」と呟いた。
まるで初めから、予測していたように。
まるで――全てが定められていたかのように。
「あ、あの……申し訳ありません。こんな時間に無理を言ってしまって……」
「いいのよ。そろそろこうなると思っていたし……元々、私は夜型だしね。それよりお茶でもいかが? 少しは気が休まるわよ」
テーブルには、最初から二つのカップが並んでいた。
血のように紅いお茶。用意が良すぎて、なんだか気味が悪い。
「その……本当にありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いわ。正直なところ、あの子にはどんな薬も効かないし」
「そ、そうなんですか!?」
「吸血鬼だしね。毒も効かない代わりに薬も効かないわ。まぁ、呪術的処置も加えてあるし、気休め程度にはなるでしょう」
「そ、そうですか……」
気落ちする私を、相変わらず感情の読めない瞳で眺めながら、彼女はぽつりと呟いた。
「……心配?」
「あ、当たり前です! その、あんな苦しそうにしてるの……もう、見てられなくて……」
「ふぅん」
相変わらずの無表情ではあるが、その瞳には興味の色が浮いている。
私の顔を――とても興味深そうに覗いている。
「あの……何か?」
「別に。そうね、薬ができるまで時間あるし……それまで話でもしましょうか?」
「話?」
「あと三十分ってとこかしら。それまでの、まぁ、暇つぶしね」
「はぁ」
正直なところ、そんな気分じゃない。
一刻も早くフランのところに戻りたい。
だが……薬ができるまで、何もできないというのもまた事実だった。
「何の……お話でしょうか?」
「そうね、何でもいいんだけど……ふむ。あの子の様子はどう? ああ、今の状態じゃなく、普段どんな感じかって意味で」
「……そうですね。いい子だと思います。無邪気で、いつもにこにこ笑って、それでいて他人を思いやることもできる……とても優しい子です」
「ふむふむ。普通の女の子みたいに?」
「ええ」
「昔の自分を見ているみたいに?」
「……どうでしょう? 私はあんなにいい子じゃなかったと思います。わがままを言って、いつもおじいさんを困らせていましたし」
月の明るい夜、縁側に座ったおじいさんの顔を思い出す。
みんなと一緒に泳ぎたいと、わがままを言ったあの時も――おじいさんは困っているような、悲しんでいるような、そんな複雑な表情を浮かべていた。大好きな人にそんな顔をさせてしまう私は……きっといい子じゃなかったと思う。
「あの子と貴女は違うと?」
「ええ。私なんかより、あの子はずっと優しい子ですよ」
「成る程、そういうものかしらね」
そう言って、彼女は小さく頷く。
相変わらず表情が読めない。感情も読み取れない。
「それじゃ次に……あの子とは、普段どんな話をしてるのかしら?」
「えっと……他愛もない話です。里のこととか、外のこととか……ああ、こないだは本を貸してくださってありがとうございました。お礼が遅れて申し訳ありません」
「ん? ああ、いいのよ。特殊な魔導書でもない限り、言ってくれればいつでも貸し出すわ。本は飾りじゃない、読まれてこそ本よ。それが誰であろうともね?」
「助かります。あの子も喜んでいました」
「あら、そうなの?」
「ええ。まだ全部は読めていないんですが、どの話も夢中で聞いていましたよ?」
「ふぅん――成る程」
まただ。
また、彼女の顔から表情が消える。
本の話をした時に僅かに覗いた嬉しそうな表情は消え、完全に感情を隠してしまう。
そして、やっと気付いた。
彼女が頷くたび――その表情が、より不鮮明に、ぼやけていくことに。
「パ、パチュリー様……?」
「何?」
返事があった。
それが意外に感じられるほどに、彼女の顔から表情が消えている。
「あ、いえ……その……あ、あの子は大丈夫でしょうか?」
「発熱のこと?」
「は、はい」
「心配ないわ。ただの知恵熱よ」
「知恵、熱……ですか?」
「そう。ただの、ね? 知恵熱って、普段滅多に頭を使わない者が偶に頭を使いすぎて発熱するものだと思っているでしょう?」
「え? あ、はい」
「実はそれって何の医学的根拠もないのよ。医学的な見地から見た知恵熱とは――乳離れをしたばかりの乳児が、頻繁に原因不明の発熱に悩まされることを指すのよ。自我を持ち始めた子供が、生まれて初めて知恵を使い始めた証だと、ね。まぁ、これも俗説。本当は母親から母乳という形で受け取っていた様々な免疫物質を、乳離れをしたことにより一時的に失ってしまうことによる感染症の一種なの。自力で免疫を構築できるようになるまでの……言ってしまえば一番無防備な状態だからこそ罹る複合的な症状ってわけ。だから頭を使いすぎたからといって、それと発熱することには何の因果関係もないのよ」
「そ、そうなんですか?」
「でも――あの子は違う。本来ならノイズとして認識すらされない情報群を全て過不足なく受け止めてしまうことにより、脳が限界まで処理速度を上げようとした結果によるもの。文字通り、俗説通りの知恵熱ね。吸血鬼は脳なんて単純で科学的なものを必要としない――これはレミィがよく口にする冗句だけど、ある面では真実を指しているわ。通常、脳が得られる情報は五感を通したものでしかないけれど、感覚器を通した時点で情報としては劣化しているの。劣化した情報では正しい認識を得られるはずもないでしょう? だけど――吸血鬼は違う。世界そのものを、感覚器を通すことなくダイレクトに認識している。さて、あの子たちにはこの世界がどういう風に見えているのかしらね?」
「…………」
興味深い話、ではある。
でもそれがどういう意味を持つのか解らない。
「まぁ、そんなところで吸血鬼と私たちでは世界の見え方が異なるというのは理解して貰えたと思うけど……大丈夫かしら?」
「はぁ……まぁ、その、なんとなく……」
「結構。ではそれを踏まえて質問するけど、貴女は記憶ってどういうものだと認識してる?」
「記憶ですか? 認識と言われましても……」
正直、話の半分も理解できない。
訳のわからない薀蓄を並べ、急に認識がどうとか言われても繋がりがさっぱり掴めない。
ただ、フランを苦しめているもの――それが何なのかということには興味があった。
「思い出とか……そういうものじゃないでしょうか?」
とりあえず思い浮かんだものを、素直に答えてみる。
それがこの場における受け答えとして正しいか……どうせ私には判別がつかないのだから。
彼女は、相変わらず表情を変えない。
あれだけ饒舌に語っておいて、眉一つ動かさない。
なんだか私は――出来の悪い人形劇の舞台に立っているような錯覚に陥る。目の前の彼女は腹話術を講じる人形で、向かい合う私もまた糸の切れた操り人形であるような……。
「思い出――それもまた、記憶の一面ではあるわね。記憶は記録。そして突き詰めればどちらもただの情報に過ぎないもの。人は一度その情報を脳内に納めることで、情報へと繋がる鍵を手に入れる。必要な情報をいつでも取り出せるための鍵をね?」
「は、はぁ……」
「例えば書物。人はその本の内容を一言一句覚える必要なんてないわ。どの本に、どんな情報が載っていたか――それさえ知っていれば、必要な時にもう一度その書物を読み返せばいいだけでしょう? そうすることで正確に情報を再現できる。自身で全てを保持する必要なんてないのよ。扉を開く鍵さえ持っていればいいの」
「それはまぁ……そうですね」
「だけど――あの子たちは情報を保持する必要すらない。だって……情報は私たちの周りを取り囲む水や空気にすら保存されているんだもの。世界は空で繋がっている。いつだって、何処だって、リアルタイムに完全な情報を手に入れることができる。でも……脳には忘却という機能があるけど、脳を必要としない彼女たちは情報の取捨選択を自力で行わなければならない。こんなの自分で自分の心臓を動かせと言っているようなものよ。食事をする時も、遊んでいる時も、話をしている時も、眠っている時も……一分一秒とて休むことは許されない。当然よね? 心臓を動かすことを止めたら死ぬだけだもの」
「そ、それが病気の理由なんですか!?」
思わず身を乗り出した私を片手で制し、彼女は淡々と言葉を繋げる。
「レミィなんかはもう手馴れたものだから、不要な情報は無意識だろうと廃棄することができる、いえ初めから情報取得に制限を設けているけれど……あの子にはまだ難しいでしょうね。だって――生まれてから一週間も経ってないんだもの」
「――え?」
「初日に見たんじゃない? あの子が殺されるところ。雛形である貴女と一緒じゃない時はあの子の時間も止まっているから……そうね、そろそろ一週間ってとこかしらね。瞳は今、何色だった?」
解らない。
彼女が何を言っているのか解らない。
確かにフランと初めて会った時――槍で射抜かれ、頭蓋を粉砕されて――あの子は殺されたけれど――実の姉の手で――そんなことくらいで死ぬような存在では――それとも、その認識が間違っているのだろうか? あの子はあの時殺されて――壁に磔にされて――それから生まれ変わって――瞳がちかちかと瞬いて――私と出会って――赤から青に――一緒にお菓子を食べて――青から黄色に――色んな話をして――黄色から橙色に、そして緑に――私を友達だと言ってくれて――――――
「あの子が地下に篭っているのは、情報の渦から自分の身を守るためよ。この館を幻想郷に移したのもそのため。幻想郷、紅魔館、地下室――これらは個別に異なる属性の結界が張られている。三重結界に守られているからこそ、あの子は安定していた。いえ、安定というのもおかしな話か。だって……あの子には本来、自我なんて存在しないんだもの」
「自我が――存在しない?」
だって……
あの子は笑って……色んな話をして……
「いい子だったでしょ? 昔の自分に似ていて」
弾かれたように顔を上げる。
目の前には、何も映さない紫の瞳。
私の視線を受けても、まるで揺れることのない完全な混沌。
「理解したようね? そう、あの子には基盤となる自我がない。かつて情報の渦に飲み込まれ、何千、何万、いえ何十億という人々の意識、経験、情動を識ってしまったあの子は、自分というものを見失ってしまった。いえ、最初から与えてもらえなかった。だからこそ、雛形と定めた人格を模倣するの。世界と直接繋がっているあの子は、世界の記録を読み取れる。まして個を持った存在が目の前にいれば、一切の比喩なくその記憶を、経験を、感情を、全て余すところなく読み取ることが出来る。無論、雛形となった貴女はそれに気付かない。気付くことすらできない。言ったでしょう? 吸血鬼の認識能力は私たちとは異なるって。自分のことは――自分が一番解らないものよ?」
「で、でも、そんなこと……」
「私は生まれて百年程度の新参魔女だから詳しく知らないけれど……あの子たちは何百年もそうやって過ごしてきたそうよ。情報の負荷に耐え切れなくなったあの子をレミィが殺して、殺して殺して殺して……記憶を、感情を、人格を零に戻して、そこからまた積み上げてきた。正直なところ、そうまでして現世にしがみつく理由が解らないけどね? 何も目的がないのに、存在するだけだなんて――意味がないもの」
彼女は饒舌に、なのに何の感情も浮かべないままそう語る。
理解できない。いや、したくもない。そんな戯言、私は絶対信じない。
だって、そんなの――
「それと、もうひとつ」
嫌だ、もう聞きたくない。これ以上何も考えたくない。
早くフランのところに帰りたい。声を聞きたい。体温を感じたい。
生きているのだと、自分の意思で生きているのだと――そう確信したい。
「あの子の能力のことだけど……聞いているかしら?」
私は、ふるふると首を振る。
知らない。そんなもの知りたくもない。
「あの子の能力は――ありとあらゆるものを壊す力。それこそあの子が望むなら世界だって壊せるわ。あの子たちは世界と直接繋がっている。レミィが世界の記憶を読み取って自在に編纂できるように、あの子もまた世界の核に触れることができる。そこに理論や理屈なんて必要ないわ。だって、はじめからそうあるべく彼女たちは創られたのだから」
「つく、られた――?」
「彼女たちは吸血鬼……でも、おかしいとは思わない? 他を圧する強大な力を持ちながら、日の光を浴びると灰になる、流れる水を渡れない、にんにくも駄目だし、十字架も駄目……都合良過ぎると思わない? あつらえたように弱点まみれだと思わない? これじゃまるで人間に倒されるためにあるようなものじゃないの。力と恐怖で人々に忌み嫌われる癖に、弱点を無数に持つことによって人に倒される余地を残す……こんなのまるで物語の悪役じゃない。だけどそれが当然なのよ。だって……そうあるように人々に求められたのだから」
「もとめ、られた――?」
「それが幻想――人々の編み出した都合の良い架空存在。吸血鬼だけじゃないわ。妖怪や妖獣、悪魔や神だって似たようなものよ。もっとも……実体化して自我を持った時点で、本来望まれた形とは異なってしまうんだけどね。レミィなんか日の光を日傘程度で防げるし、十字架だって全然平気。にんにくは臭いから嫌いって言ってたけど……ともあれ、人の願いが形になったものが彼女たちなのだから、当然人々が無意識に望むものも彼女たちを構成する要素に含まれてしまう。彼女たちに与えられたもの……一つは『思い描いたとおりの未来を顕現させること』であり、そしてもう一つが『世界を滅ぼすこと』よ。未来、もしくは運命を操りたいという願望は説明するまでもないでしょうけど、世界を壊してしまいたいという願望もまた人であれば必ず持っているものよ。生きている者で、死を考えたことのない人間なんていないでしょう? そしてその死は自身の死のみならず、全てを道連れにすることを求めている。赤信号、みんなで渡れば怖くないってね。貴女だって……世界を滅ぼしたいと思ったことが一度くらいあるんじゃない?」
「わ、私は――」
滅ぼしたいと、思ったことはない。
でも……滅べばいいのにと、願ったことはある。
ならばそれは同じなのか。
能動的か、受動的かの違いはあっても、結果としては同じだというのか。
そんなこと……だけど……でも……。
「あの子は貴女を雛形にしている。だからもし、貴女が世界の終わりを望むなら」
――その願いは叶うわよ?
そう言って紫の混沌は――にたりと笑った。
私は答えない。
答えることができない。
そのような妄言を信じるわけには、認めるわけにはいかない。もっともらしく述べたところで、その言葉を裏付けるものなど何もない。
それに……そうだ。フランは私と出会う前のことを、切れ切れではあるが語ってくれた。
もし本当に殺される度に全てがリセットされるなら、そんなこと覚えているわけないじゃないか。生まれたての赤子のように笑うフランの顔――それは本当に無垢で、無邪気で、清らかだけれど、それはフランの地であって、だけど、でも――
「そんなこと……信じられません」
俯いたまま、そう言った。
顔は上げない。あの紫の目を見ると飲み込まれてしまう。
顔を伏せ、自分の心のみを拠り所にし、彼女の言葉を否定する。
「ふむ……やっぱり騙されてはくれないか」
「――え?」
顔を上げると、彼女が口元に幽かな笑みを浮かべている。
「言ったでしょう? 薬が出来上がるまでの暇つぶしだって。適当に与太を並べてみたけれど、流石に飛躍が過ぎたかしら? まぁ、時間制限もあったことだし、そこは勘弁してもらいたいけどね?」
「え、え?」
「さて、そろそろ頃合かしら。ちょっと待ってて、仕上げをしてくるから。そうね……五分で済むから、適当に時間を潰しておいて頂戴」
そう言うと、
彼女はふらりと立ち上がって、図書館の奥へと消え去る。
取り残された私は、
呆然とその背中を見送ることしかできなかった――
§
階段を降りる。
頂いた薬はガラスの小瓶に入っていたので、落としたりしたら大変だ。両手で握り、一歩ずつ足元を確かめながら、慎重に階段を降りる。
お腹が重たい。彼女の言葉がどっかりとお腹に残っている。最後の最後で私は拳の振り下ろす先を見失ってしまった。望みどおり、彼女の言葉は彼女自身によって否定されたけど、でも、だからこそ、すっきりしない。
どこまでが嘘なのか。
どこからが嘘なのか。
この薬は本当に信用できるのか。彼女のところに行ったのは間違いではなかったか。そもそも、あの子の元を離れてはいけなかったんじゃないか――考えても考えても答えは出ない。
「フラン……」
あの子は吸血鬼で、自我を持っていなくて。
私を模倣してて、世界を壊す力を持っていて。
情報の渦から身を守るために地下に篭って、殺される度に新しく生まれ変わって。
瞳の色が変わって、生まれてから一週間も経ってなくて、そしてもうすぐ『週末』で。
否定されたことによって、尚も深まる疑念。
ひょっとしてあれは――真実だったのではないか、と。
「馬鹿馬鹿しい……」
多分、引きずられているのだろう。フランの、突然の発熱という状況に。
普段ならきっと鼻にも掛けず、適当に聞き流していたはずだ。あまり頭の良い方ではないという自覚があるから、絶対に引っ掛からないと断言はできないけれど、それも信じるか信じないかで言ったら半々だろう。
あの場で、そう言ったように。
そんな戯言は信じないと、そう言い切ったように。
そう、だからこそ逆説的に――今の私は信じる方向に傾いていた。彼女の言葉全てとは言わない。だが紛れもない『真実』があの言葉には含まれていたと、今の私は確信している。
無論、だからどうしたというものではないが。
たとえそうだとしても、私はフランの友達でありたいと思っているのだから。
階段が終わる。
長い廊下が続いている。
壁際に並ぶ燭台。その弱々しい炎が、先の先まで続いている。
「――え?」
いや、それは続いていなかった。
ある地点より先で、ふっつりと途切れている。
誘導灯のように続いていた光が、ふっつりと、途中から。
気付いた瞬間、私は駆け出していた。小瓶を握り締め、必死で足を動かす。毛の長い絨毯が足音すら殺してしまう。足を動かして、無音の世界をひたすらに。燭台の炎に誘われるように奥へ、奥へ、奥へ――。
「なに、これ――?」
廊下の突き当たり。その周辺の蝋燭が全て消えている。魔力によって永遠の光を約束された炎が一つ残らず消えている。そして――闇よりも昏く、夜よりも深く、だからこそ周囲の闇にすら溶け込むこともできない異物が――その扉が、其処にあった。
禍々しい紋章が、びっしりと刻まれた扉。
魔を封じる結界、そんな不吉な印象を与える扉。
そしてこれまで――毎晩のようにくぐっていた扉。
周囲の灯りが消えているというだけで、これほど禍々しくなるのかと。
こんなものに私は毎晩触れていたのかと、そう――思ってしまうような扉だった。
躊躇う。ノブに手を伸ばすのを躊躇ってしまう。初日の、初めてこの部屋を訪れた時のものとは全く違う種類の理由で手が止まる。
あの時は緊張と恐怖――自己の内面から生じたものが私の手を止めていた。
でも今は、この扉から滲み出るものが私の手を止めている。
この扉は――私を拒絶している。
「フラン……なの?」
それでも、辛うじて右手を伸ばした。
ノブに手を掛け、右に回す。
回らない。ノブは固定されているように回らない。
「私……鍵なんて掛けてないよね……?」
敢えて口にしたのは、認めたくないから。
ポケットから鍵を取り出す。鍵を差し込む。鍵を回す。
かちり、と鍵の掛かる音がする。もう一度、鍵を回す。かちりと鍵の外れる音がする。
鍵を回すと鍵が掛かるということは、最初から鍵など掛かっていなかったということで、そんな当たり前のことをわざわざ言葉で確かめないと思考することさえ侭ならず――
「ねぇ……?」
扉にもたれる。
禍々しい扉に、縋るようにもたれかかって。
「開けてよ……フラン……」
小さく、か細く、蚊の鳴くような声で。
許しを請うように、救いを求めるように。
「お願い……だから……」
返事は期待していなかった。
なのに――返事があった。
――嘘吐き。
扉の向こうから、なのに耳元で囁かれているように明瞭に。
――約束したのに。
それは聞き慣れた、少し舌ったらずな声で。
――指きり、したのに。
なのに初めて聞くような、静かな怒りを必死に堪えているような声で。
――側にいてくれるって……言ったのに!
「違う! フラン、私は――」
扉に身を寄せる。少しでも距離を縮めようと、肩からぶつかって声を振り絞る。
フランを助けたいと。
これ以上苦しませたくないと、そう思って部屋を出たのだ。
その判断は間違っていたとは思えない。あの時の私にはフランを救う術がなかったし、あのまま手をこまねいて見ているわけにはいかないと思ったのだ。
「薬を持ってきたの! だからお願い、扉を開けて!」
扉を叩く。拳が壊れても構わないつもりで何度も扉を叩く。
だけど鉄の扉は身じろぎもせず、
拳も、声も、全て跳ね返して、
――いらない。
扉は、冷たく閉ざされたまま、
――ミサトなんか、もういらない。
私たちの心も遮った。
§
背中が冷たい。
扉にもたれかかった背中から、全身の熱が奪われていく。
廊下にしゃがみこんで、膝を抱えたまま、ただ、ただ奪われていく。
すりむけた拳からは血が滲んでいる。じんじんと痺れるように傷が痛む。
周囲の灯りは消えたままで、廊下の先にぽつぽつと光る燭台の炎が酷く遠くに感じる。
闇の中、膝を抱えている私。
惨めで無様。まるで捨てられた犬のよう。
捨てられたことにも気がつかず、雨の日も風の日もずっと主人を待っている――そんな頭の悪い犬みたいで、思わず笑ってしまいそうになる。
「まるで、じゃなくてまんまじゃないの」
主人に捨てられた。
いらないって言われた。
だからそれで終わり。とぼとぼと、尻尾を巻いて逃げ出すだけ。
今更役立たずの烙印を押されようと、そんなの初めから自覚していたし、別の仕事ならまだ生きる道もあるだろう。あの働かない妖精たちと一緒に館の清掃をするのもいい。何をやっても上手くいかない私はそこでもやっぱり上手くやれないだろうけど、それでもひたすら手を動かせばいい。仕事なんてそんなもの。人に認められるためでも、友達を作るためでもない。生きていくためだ。働かないとご飯が食べられないからだ。だから死にたくないなら、働くしかない。だけど――
「死んじゃってもいいかなぁ」
どうせ役に立たないし。
生きていてもあんまり良いことないし。
熱が奪われていく。
生きていくために必要な、大事な力が抜けていく。
重く、冷たい鉄の扉が、私の力を奪っていく。
「ねぇ、フラン」
蹲ったまま、膝を抱えたまま、
それでも、そうなのだとしても、
「私たち……友達だったよね?」
祈りのような、浅ましい声。
そして扉は――やっぱり何も答えてくれなかった。
§
夢を見ていた。
空を埋め尽くすほどの蜻蛉が、縦横無尽に飛んでいる。
夏はとっくに終わったのに、奇妙なほどに蒸し暑い――それは、そんな秋の日だった。
何か予感があったわけではない。寺子屋の授業が終わって家に帰る途中、ふと、おじいさんの工房に寄ってみようと思ったのだ。
別にとりたてて珍しいことじゃないし、週に一度はそうしていた。
竈の燃え盛る炎を見るのが好きだった。
おじいさんの大きな背中を見るのが好きだった。
どろどろに溶けたガラスが、徐々に形を持っていくのが好きだった。
ただそれだけの、何も特別じゃない理由で工房を訪れ――倒れているおじいさんを見つけた。
おじいさんは竈の前に蹲り、苦しそうに胸を押さえている。
近頃とみに心臓が弱くなったと零していたおじいさんの言葉を思い出す。
驚いて、駆け寄って。
声を掛けて、揺さぶって。
返事もできず苦しそうに蹲るおじいさんを見て、すぐに医者に連れて行かなければと思った。
工房は里の外れにあり、病院は里の中心にある。迷っている暇も、泣いている暇もない。急いで運ばないといけない。
おじいさんを抱えようとして、でもできなくて。
非力な私ではおじいさんの大きな身体は持ち上がらなくて。
泣きそうになりながら、どんなに力を篭めてもどうしようもなくって。
だから私は駆け出した。
一刻も早く医者を呼んでこようと駆け出した。
駆け出して、すぐに転んだ。立ち上がって駆け出して、すぐにまた転んで、膝も、肘も、擦り傷だらけになって、それでも必死で、おじいさんを助けたくて――
間に合わない――そう悟るまで、そんなに時間は掛からなかった。
どんなに足を動かしても、身体はちっとも進まない。
気持ちばかり先走って、足元すらおぼつかない。
何度も転んで、傷だらけになって、それでも遅々として進まなくて――
「あっ!?」
また、足がもつれる。身体が宙に浮く。
一瞬後にくるはずの衝撃に思わず目を閉じて――
でも……衝撃はなかった。
背中から、服を突き破って伸びた羽根が、私の身体を浮かせていた。
戸惑う。これまで飛んだことなど一度もない。飛ぼうと思ったことすらない。なのに身体は自然に、それが当たり前であるように私の身体を浮かせている。
周囲には空を埋め尽くす蜻蛉の群れ。
私は飛び方なんか知らない。
だから私の周りを自由に飛び回っている蜻蛉たちを真似た。
頭の中で蜻蛉をイメージし、羽根を絞って、身体の力を抜いて――
私は飛んだ。
腕を動かす延長で背中の羽根を動かす。正面からぶつかる風に目を細める。速い。歩くよりも、走るよりも、何倍も速い。行く手を塞ぐ木々も、家も、人も、全て飛び越えて――気が付けば私は医者の家に辿り着いていた。
いきなり降り立った私に医者は目を丸くしていたが、それでも事情を説明すると快く付いてきてくれた。私の羽根は飛ぶのに重さとかはあまり関係ないようで、医者を抱えても何とか飛ぶことができた。初老で小柄とはいえ男の人ひとり抱えるわけだから、羽根よりも腕の方が痛かったけれど、そんなこと言ってられなかった。来た時よりもなお速く、私は工房に向かって飛び続けて――
それでも――間に合わなかった。
私たちが工房で見たものは、苦しそうな表情のまま、何かを求めるように腕を伸ばしている、おじいさんだった『もの』だった。
まだ触れると温かいのに、これからはどんどん冷たくなるだけの、そんなものだった。
取り乱す私を医者は優しく慰めてくれた。
そんなもの、何の気休めにもならなかった。
おじいさんの身体が悪いことは知っていたんだし、いつも一人にしないよう気をつけるべきだったとか、私がもっと速く飛んでいれば間に合ったかもしれないのにとか、そういうものが次々と湧いてきて、私はそれから一月もの間、ひたすら自分を責め続けた。
おばあさんは私を責めたりしなかったけど、それでもおじいさんを亡くしてからはめっきりと老け込んでしまった。
だけどこれは夢。
どれほど悲しくても、それはすでに通り過ぎた場所。
でも、だからこそ解る。
あの時の、おじいさんを救いたいという気持ちは本物だったけれど……きっと私は逃げ出したのだ。
苦しんでいるおじいさんの姿を、これ以上見ていられなかったのだ。
そして、今もまた――
目を覚ます。
周囲はやっぱり真っ暗で、鉄の扉は相変わらず無言のまま。
顔を上げる。膝を抱えたままだった身体はぎしぎしと関節が軋んでいる。泣き腫らした瞼は気を抜くと再び閉じてしまいそうになる。
「フラン……」
返事がないのは解っている。
それでも私は呼びかけていた。
もう、何度目になるか解らないくらい、愚かにも同じことを繰り返して。
立ち上がる気力もない。
このまま朽ちてしまいたい。
それでも、壊れたラジオのように、もう一度あの子の名前を呼ぼうとして――
「――え?」
いきなり、扉が開いた。
扉に身体を預けていた私は、体勢を崩して部屋の中に転がり込む。
扉の前には誰もいない。あれだけ強固に閉じられていた扉が、何の抵抗もなく自然に開いたということに戸惑いながら――
そして――フランと目が合った。
ひっくり返って、逆さまになった視界の中で、フランがやんわりとほころんでいる。
ベッドに腰掛け、自然な、不自然なほどに自然な、そんな笑みを浮かべている。
「フ、フラン!?」
飛び起きる。身体を起こし、犬のように這ったままフランの元へと向かう。
色んなことが頭の中に溢れかえって、何一つまともに形を成さない。
何も言えず、ただ足元に跪いて見上げている私へと、フランはにっこりと微笑んだ。
「ずっと、いてくれたんだね?」
弾む声で。
とても、嬉しそうに。
「わたし、信じてたよ? ミサトはわたしを裏切らないって」
手を伸ばし、
跪いた私の頬を、そっと撫でながら。
「不安だった。こわかった。色んなものがわたしの中で暴れまわって壊れちゃいそうだった。でもね、わたしがんばったよ? ミサトがそこにいてくれるってわかってたから、どんなことでも耐えられた。とびら越しにミサトの体温をかんじて、ミサトのこえを聞いて。ふふっ、ぜんぶミサトのおかげだよ? 本当にありがとう」
ちかちかと瞬く瞳。
赤から青へ、青から黄色へ、黄色から橙色へ、橙色から緑へ、緑から藍へ。
それはどこか不吉で、何かが欠けたままの――丸い虹。
「――フ、フラン?」
「わたし、わかったんだ。ミサトがぜんぶ教えてくれたんだよ? あはは、なーんかすっごくすっきりした! そうだよ、そうなんだよね。痛いこととか、苦しいこととか、なんでなくならないんだろう、どうしてみんな喧嘩ばっかりするんだろうってずっと思ってたけど、そんなの当たり前のことだったんだ。だって、」
――世界ははじめから壊れてるんだもん。
そう言って、フランは笑った。
晴れやかに、屈託なく、心の底から楽しそうに。
それはとても無邪気で、穢れなく、
だけどどこか歪んで、壊れているような、そんな笑いで。
フランが立ち上がる。
ベッドの上でくるくる回る。
回りながら、跳ねながら、出鱈目に、リズムもなく、それでもなお軽やかに。
滑るように、唄うように、あやすように、絡めるように。
楽しそうに、とても楽しそうに。
くるくる、くるくる、くるくると――
「フ、フラン……」
狂ったように跳ね回るフランを見上げ、私は呆然と呟く。
それは私の知っているフランではない。虹の翼を揺らして踊る彼女を眺めながら、私は為すすべもなくへたりこむことしかできない。
虹の瞳が私を見つける。
その口元から白い牙を覗かせる。
「ねぇ、ミサト? わたし一つ聞いてみたいことがあるんだけど」
甘く、蕩かすような声で、
顔を近づけ、私の瞳を見つめたまま、
にやにやと、にたにたと、凶った笑みを浮かべて、
「そんなに……おばあさんのことが憎かったの?」
そう言って――『彼女』は哂った。